英語教育の明日はどっちだ! TMRowing at best Twitter

2012-12-31 「心配するな、オレも不安だ」

2012年最後のエントリー。

週末は博多で日ローのオフミに参加していました。

インターネット黎明期にオンラインで繋がった本業の関係者が、顔を合わせる場としてスタートして早15年。何の柵もなく、ただRowingで繋がっているところが、長続きしている要因ですかね。久々に日付が変わるくらいまで呑んでいました。FBでも写真にタグが付いて出回っていましたね。

年が明けると、第2週ですぐに勤務校の推薦入試。

そして、その週末は慶應義塾大の大津由紀雄先生の「中締め講義」に討論者で参加です。

2013年1月12日土曜日 北館ホール

「大津言語教育論を聞き、そして、斬る」

10:00-12:00 第一部 大津言語教育論の認知科学的基礎(ここは入門編)

13:00-15:00 第二部 大津言語教育論のいま

15:30-16:30 第三部 大津言語教育論を斬る

16:30-18:00 第四部 大津言語教育論のこれから

第三部は指定討論者(柳瀬陽介さん、松井孝志さん、亘理陽一さん)による批判、第四部はシンポジウムを考えています。

http://3.bp.blogspot.com/-a20U-BPMIAc/ULyVm930F4I/AAAAAAAAAn4/QdPvLfy4TNg/s1600/13-01-12%E4%B8%AD%E7%B7%A0%E3%82%81%E8%AC%9B%E7%BE%A9%E8%A8%80%E8%AA%9E%E6%95%99%E8%82%B2%E7%B7%A8%E3%83%9D%E3%82%B9%E3%82%BF%E3%83%BC.jpg

年末は今日でお終いですが、年始は、この討論者としての準備に明け暮れる感じですかね。

今読み直している本は、

  • 大津由紀雄 『探検!ことばの世界』 (ひつじ書房、2004年)
  • 大津由紀雄・窪薗晴夫 『ことばの力をはぐくむ』 (慶應義塾大学出版会、2008年)
  • 大津由紀雄 編著 『危機に立つ日本の英語教育』 (慶應義塾大学出版会、2009年)
  • 大津由紀雄 編 『ことばの宇宙への旅立ち 2』 (ひつじ書房、2009年)
  • 田尻英三・大津由紀雄 編 『言語政策を問う!』 (ひつじ書房、2010年)
  • 大津由紀雄 編 『ことばワークショップ 言語を再発見する』 (開拓社、2011年)

あたりでしょうか。まだ、「学級文庫」にもいくつかあったと思うのですが、「政策論」的な切り口での議論にはそれほど魅力を感じないので、やはり「ことば」の表玄関から堂々と入っていきたいなという気がしています。

他には、

  • 鶴見俊輔 『言葉はひろがる たくさんのふしぎ傑作集』 (福音館、1991年)

といった、「ことば」の入門書や、

  • 鈴木忠夫 『英語教育---素人と玄人』 (清水書院、1983年)
  • 鈴木忠夫 『学校英語はなぜ悩迷するか』 (リーベル出版、2000年)

といった英語教育界の内情を知り尽くした方の声に耳を傾け、

  • ビレーム・マテジウス 『マテジウスの英語入門 対照言語学の方法』 (千野栄一・山本富啓訳、三省堂、1986年)

での卓越した観察力を前に脱帽する日々を過ごしておりました。マテジウスの後はまた林語堂とか、奥伝、いやOgdenとかに戻りそうだけれども…。

で、ここ二三日で読んでいるのが、

  • 佐伯胖 『コンピュータと教育』 (岩波新書、1986年)

の「第5章 わかることの原点にかえる」 (pp.117-173)。この本を読み返していくと、いつもここで立ち止まっていることに気づかされます。再読の価値が高いというか、事実上、一番頻繁に繰り返して読んでいる章になると思います。

p.140からの「シンボルの根源的表象性」の考察で、思い出したことがいくつかあり、Alan Maleyが著者として関わっていた1980年代の教材で、写真、絵などの効果的活用を考える

  • The Mind’s Eye: Using Pictures Creatively in Language Learning, Cambridge University Press

を探したのだけれど、Teacher’s Bookしか見つからず。その解説をパラパラと眺めて、しばらくジタバタする予定。

今年もいろんな人との出会いがあり、今までなら出向かないところへも顔を出したりしてみました。

本業が不振な年であった一方で、正業の英語教育はいろいろ動きの多い一年でした。

  • ELEC協議会での夏期研修会
  • 某県高校での、ライティング指導のワークショップ
  • 福岡県私学教育振興会主催の教員研修

では「ライティング」指導、「書くこと」の指導に関わる内容で、講師を務め、学習指導要領では消滅する運命となった「ライティング」指導の灯を志ある英語教師の手に繋ぐくらいのことはできたのだろうと思っています。

秋には恒例の「山口県英語教育フォーラム」を開催。今年で第五回を数えました。来年もまた、秋に開催したいと思っています。

年末には、有嶋宏一先生に会いに「達セミ」にも参加し、谷口先生とも再会を果たしました。

著書としても、

  • 『学習英文法を見直したい』 (研究社)

に関われたことに感謝します。この前年の「慶應シンポ」に呼ばれたことがことの発端でしたが、自分の教師としての視座を確かめることができました。

その一方で、書籍の紹介で特集が組まれた『英語教育』の一月号を読む中で、今風の英語教育でのhot issueや理論的・精神的基盤となる専門書籍と、私の興味関心の在処とはほとんど重なりがないことを実感した年末でもありました。

『飛ぶ教室』(光村図書) の秋号に当たる第31号にも、似たような特集を見つけました。

  • 44人の私の一冊

いわゆる児童文学の「この1冊」を著名人が紹介・推薦するもの。

44名に均等に1頁が与えられていますが、長さはそれぞれ。

私のつけた犬耳は、

  • 角野栄子 「見えない世界からの贈り物」、p.21
  • 川島誠 「たちの悪い上段・ひきつった笑い」、p.22

と奇しくも表裏の頁になりました。角野さんが紹介するのは『ひとまねこざる』。川島さんの紹介するのは『クール・ミリオン』です。引用はしませんので、できれば、是非、お手にとってお読み下さい。

その代わりに、同号の特集以外の連載から、印象的だった部分を引いて、本年最後のエントリーを締めたいと思います。

たしかに遠くから見れば、「子どもの読者を大いに意識して書かれた本」の森は見える。こんもりと豊かに木々が茂っている。けれど近づいていくにしたがって、いったいどのあたりからその森なのかはわからなくなる。さらに森の中を歩いてゆくと、さまざまな種類の木々が立っていることがわかってくる。大きく枝葉を繁らせている木もあれば、残念ながら枯れかけている木もある。でも、どの木こそがこの森の木らしい木なのかは、ぜんぜんわからない。なぜなら豊かな森とはそういうものだからだ。 (「本を読む 第6回 笑いながらバクハツする知性」 岩瀬成子、p.121)

本日のBGM: 無計画とゆう壮大な計画 (TOMOVSKY)

2012-12-28 誤用修め、あるいは「順応って何だ?」

tolerance of ambiguity などというコトバがある。翻訳すると「曖昧耐性」とでもなるのだろうが、英語教育でもよく聞かれる用語・概念のようである。

最近気になるのは、その「曖昧耐性」というコトバを、

  • 読解や聴解で、意味・内容の理解が不十分、不正確である時に、その自分の理解の不十分さ、不正確さを許容できる学習者としての資質

とでもいうような意味合いで使う人がいることである。いくら、SLAの知見に後押しされ、間違った自動化モデルから脱却しなければ、と躍起になっている人たちでも、

  • 曖昧な理解のままであっても、言語運用で目的が達せられたら、それでいいのだ。

というような乱暴なことをいう人もいないだろうと思うので、本来は、learner anxietyとかtypes of learningとか、大雑把に言えば、Ellisの『緑本』 (2008年) のPart 5 (pp. 639-723) でいうところの、”individual learner differences”で扱われているようなことがらに関して用いるのが適切な用語ではないかという気がしている。

手元の用語辞典

  • 『英語教育用語辞典』 (大修館書店、1999年)

では、「曖昧さ耐性/曖昧さ寛容度」という邦訳をあて、

自分のこれまでの価値観や知識体系と異なる考え方や主張などに出会った時に、それらに対して個人が示す寛容さの度合。複雑で曖昧な状況に冷静に対処できる人は曖昧さ耐性が強いとみなされる。第二言語/外国語学習は2つの言語体系と2つの文化、および価値観などが複雑に絡み合う曖昧さの極めて高い現象であるために、曖昧さ耐性の強い学習者は、第二言語学習のいくつかの側面において有利であると考えられている。(p. 309)

と説明してくれているのだが、この定義で、みんな本当に分かっているのだろうか?

最近の本で、この用語をkey issueと見なして、indexで取り上げたり、本論で詳述しているものはあるのだろうか?

ドリュネイ、潮田編 (2009年) の

  • Motivation, Language Identity and the L2 Self, Multilingual Matters

には、indexに該当するコトバは見つけられなかった。

「曖昧耐性」というのは、individual learner differencesとかL2 self (ought-toとかidealとかも含めて) などといった切り口で学習者の心理や態度について、または学習そのものにおいて学習者の内面でいったい何が作用しているのかといった、目に見えないものを考えようとか、語ろうという時には有効な概念かも知れないが、日々、高校現場、教室で教えている実感に照らした時に、その「複雑に絡み合う曖昧さ」の実態は、それこそ曖昧でよくわからない。

百歩譲って、「学んでいる教材の理解度の不十分さ・不正確さ」に関して、このtoleranceという言葉を適用することを許容するとしよう。だとしても、学ぶ者として、気になるのは、「自分の今現在の理解が曖昧なのだとしたら、その曖昧さが『良い曖昧さ』と『良くない曖昧さ』に分かれる境目は何か?『良くない曖昧さ』を自分が抱えていた場合に、それはどうすれば『良い曖昧さ』に近づくのか?グラデーションの軸を移動するような変化ではなく、質的に変化するのか?」ということである。

「『自分の中の曖昧さ』が、いつ、どのように、より鮮明な、正確な理解へと近づくのか」をどのように観察することが可能だろうか。

英検にしろ、センター試験にしろ、多肢選択の問題で、

1. 曖昧さを排した、きちんとした理解に基づく解答

2. 80%の理解、即ち、20%分の曖昧さを許容した解答

3. 60%の理解、即ち、40%分の曖昧さを許容した解答

4. 40%の理解、即ち、60%分の曖昧さを許容した解答

(以下略)

というような選択肢で設問を作ったりしないように思うのだけれど。それとも、設問が10題あったら、それぞれの設問は、理解の曖昧度によって項目分けされているのだろうか。例えば、同じ「40%の曖昧さを許容する」、といっても、全体を100としたときにどの40%なのかを、どう判断するのか?上半身・下半身、上肢・ 下肢、内臓・骨格などなど、「部分」を取り出すって、口で言うほど簡単じゃないように思うのです。

私がいつも目くじらを立てている事柄に、"selective attention" がある。

過去ログ「『英英の弱り目、和訳の効き目』再録」参照→ http://d.hatena.ne.jp/tmrowing/20110210

「一字一句に均等に注意を払っているのではだめ、重要な情報を選択するのです」などといわれるものの、教師 (あるいは試験作成者) が「選択」してくれた「注意点」を探し当てる作業に習熟しても、いつになったら、「学習者自身が自分で選択」できるのかがよく分からない。それを考える と、「『そこは気にしなくていいんだよ』、と教師がtolerateしてくれるかどうかに優先順位がある」うちは、学ぶ側としては、安心してその「自分の中の曖昧さ」を許容していられないと思うんですよね。

過去ログでも、

http://d.hatena.ne.jp/tmrowing/20090516

で引用した、文章中の語の認知の例は、英語教育関係者にもよく知られていると思う。「一文字一文字を読まなくとも、前後の文脈、意味の整合性を頼りに漠然と語を認識できる」のは確かだろう。それにしたところで、そもそも、"Cambridge University" を知らない者には、(?) Cmabrigde Uinervtisy は読みようがないのですよ。誤読をする、しないのレベルではなく、「読めない」のだから。

「曖昧耐性」が、個々の技能や活動、課題の達成に関して用いられる場合は、主としてリーディングとリスニングに関わるようなのだが、これは技能がスピーキングやライティングといった、表現系のものになっても当てはまる概念なのだろうか?その場合には、「曖昧さ」とは、表現に関して言及するのだろうか、それとも何らかのメンタルなプロセスを指すのだろうか?

私にはよく分からない。

もし、そのような説明が難しいのであれば、そもそも「曖昧耐性」という概念を、個々の技能に適用したり、ある言語材料の理解度に適用したりすること自体に無理があった、ということではないのだろうか?

ということで、今書いてきたような私の言語学習 (習得?) や指導の根本に関する理解は、学術的な物差しに照らし合わせて見た場合、どのくらいの曖昧さにあって、その曖昧さは許容される範囲にあるのだろうか?

さて、

年内の正業の実作も、今日の課外講座がラスト。

高2のクラスには、

  • 多読教材でこれまでに読んだものの再読
  • 主教材、副教材でこれまでに扱ったものの再読
  • 「表現ノート」のネタ集めと、素材文の精読

を指示して終了。

良いお年を。

先日のブログで写真とタイトルだけ紹介してあった、

  • 谷川俊太郎 『子どもたちの遺言』 (佼成出版社、2009年)

から、気になった一節を引く。

わたしはもうすぐ四歳です

赤ん坊のころ覚えていたことを

忘れそうです

赤ん坊のころ知らなかったことを

覚えたかわりに (「もう まだ?」)

自分が無限の青空に吸い取られて

からっぽになっていく

何かに誰かにしがみつきたいのだけれど

分からない  どこに手をかければいいのか

子どものころとは違うさびしさ

置いてけぼりの頼りなさ

でもかすかな楽しさもひそんでいる

これは新しい自分かも知れない (「もどかしい自分」)

お母さん ありがとう

私を生んでくれて

口に出すのは照れくさいから

一度っきりしか言わないけれど

でも誰だろう  何だろう

私に私をくれたのは?

限りない世界に向かって私は呟く

私  ありがとう  (「ありがとう」)

先日、講演会を聞いた、森は海の恋人の畠山重篤さんはこんなことを言っていたのを思い出す。

  • 世の中を変えるためには、詩人が必要だ。

本日のBGM: SKIP (TOMOVSKY)

D

2012年12月29日追記:

FBでのやりとりから考えたことを記しておきます。

確かに、M. E. Ehrman は、Ego boundaries and tolerance of ambiguity in second language learning (Affect in language learning, edited by Jane Arnold, Cambridge University Press, 1999年所収) の中で、TAを3段階で定義して、Intake, Tolerance Ambiguity Proper, Accommodationというように持論を述べています (pp. 74-76, What do we mean by ‘tolerance of ambiguity’?) が、ピアジェの心理学の概念を借りてきたりしています。その後、この論文はドリュネイを含め、言語教育や言語習得研究関連で多数引用されています。日本の研究者でも、そのような考察を踏まえて、独自の研究を載せている方たちがいるわけですが (例えば、http://ci.nii.ac.jp/naid/110008607622 )、「そもそも」のところが気になった訳です。TA と言いながら、それがもし「都合のいい曖昧さの解釈」であったならば、その後の議論も研究もないだろうという感じがしたからです。

私の場合は、気になった論文を読んでいるだけですので、第二言語学習者心理などが専門の方々の間で、何が共有された知見なのかを知りたいとも思います。この日のエントリーで私もドリュネイ・潮田 (2009年) に言及しましたが、その著者インデックスの名前には、Rod EllisもMichael LongもPeter Robinsonも出てきません。それぞれ分野の第一人者と称される方たちが、持論を展開するけれども、そこで言及、考察するのが、自分の論文、弟子筋、師匠筋の論文に偏っていたりするのでは何か、こう、釈然としないのですね。それは、日本の学会でも同じように感じたりしますけれど。

追記の最後も、上述の谷川俊太郎から引いておきます。

わたしは幸せです

でもわたしが幸せなだけでは

世界は良くならないと思うのです

違いますか?

(「幸せ」)

2012-12-25 「教科書には書いてあるけど…」

巷ではクリスマス。

正業は、年内最後の冬季課外講座の週を迎えました。

今日の講座は高1。

教科書プリントの構成を、きちんと理解し、「セクションを行ったり来たりしながら、できるようになるまで」取り組むことの意義を説く。所詮、道場での稽古なのだから、異議があっても、まずは道場主から言われたことをやることです。

英I Lesson1_1.pdf 直

語の記憶・定着には「音」、私が学生時代に習った言葉でもっともらしく言えば “acoustic image” を掴まえることが肝要。その意味では、いくらCDを繰り返し耳で聞いたところで、表象として取り込める「フック」 (英語だとhook) とか表象を表象として支える「額」のようなものが、まず学び手の内側に準備できていないとダメだと思う。そのフックや額を用意したり、作ったりするのも授業の大事な役割であり、英語教師の一番の仕事。これまで誰もしなかった指導法や説明方法を開発することなどにさして意味はない。

発音と綴り字の原理原則も、「フォニクス (phonics)」で注目され、近畿エリアの某自治体などは小学校から取り入れると息巻いているけれど、文字を読めるようにする、綴り字を音に換える原理原則の学びやすさと比べた時に、聞いた音を文字に置き換えることは格段に難しいということを、もっと世間一般の方たちに理解してもらうことが必要。

「暗号解読表」のようなものをただもらって、公式を覚えるだけでは不十分。原理原則への気づき、理解は普段からの自分の「観察力」の裏付けがあってこそ、生きてくるもの。

何のために『短単』から始めたのか、なぜその次に『P単』へと進んだのか、易しい素材から始めて、分かるまでやることです。小賢しいギミックは要らないし、範囲を決めた小テストなど、本来必要ないのです。(過去ログの「清水かつぞー」先生のことばを参照→  http://d.hatena.ne.jp/tmrowing/20091214 )

普段の授業で繰り返し繰り返し言っている「目の前の適切に使われている英語を生き直す」という言葉も、「語句の仕込み」の段階からどのように関わってくるのかを私がデモンストレーション。でも、いくら良いお手本を見たところで、これまでの2学期間で各自が取り組んで来た、歩んできたその足跡の濃さの分でしか実感することはできませんから。

残りの時間で記号付けをひたすら。

  • 何のために記号を付けているのか?

文構造を掴むためというのはもちろんだけれど、前後のセクションとの繋がりを辿ることで、文章全体の纏まりを「視る」足場、櫓づくりのためです。記号化は分節化。文字としての英語を扱っているのだから、語として表記されている時点で、それは既に表音文字とも言える記号。その記号を、単なる羅列として読み進めるのではなく、スラッシュを引いてただ切り離すのでもなく、輪郭線を引き、分節に区切ることによって、分節と分節との繋がりと、分節の中、さらには文としての纏まりを「可視化」することが第一義。二義的には、記号化によって抽象化・一般化など、長く複雑な構造を持つ文を圧縮し、単純・簡略にすることが可能。その結果、処理のための負荷が軽減し、構造全体の軽量化が可能となり、保持に貢献する。というのが、まあ、「後出しじゃんけん」での説明になるのだろうね。

教科書プリントの裏面には、日本語のフレーズ訳が印刷されているので、そのフレーズ間の「→」の部分に、日本語で合いの手を入れながら、英語の頭の働かせ方にならって、直線的にゴールまで。

意味が確認できたら、日→英ができるかどうかに挑戦。限定詞・冠詞の使い分け、名詞の単数複数、動詞・助動詞の時制の正しい選択と、番付表の形合わせ、など「実地訓練」を経て、自分では何が出来て、何が出来ていないのかを振り返り、以前のセクションに立ち戻り、そして「ターゲット」を目指していたはずの、「現在地」に再度戻ってくることですね。

明日は高2です。

Acrosticをどうするか思案中。伝記的な文章で、「ついて作文」にばかり習熟してもねえ…。

今年の夏から、方々で「ナラティブ耐性」の話しをしてきました。高2、高3の授業で「ライティング」を科目として扱う際、テクストタイプごとの話形・定型がなかなか理解してもらえません。「誰に向かってどのような文章を何のために書くのか?」という「自分がこれから書く文章のイメージ」が希薄なのは、「それまでに自分が読んできた文章」の類型が偏っているから、または「読み手としての自分の立場」が「試験を受ける人」など極めて幅の狭いものであることに起因しているのではないか、という仮説を持っています。

「文章の実例」のイメージが希薄なのは、人生経験の少ない高校生だけでなく、とかく「教材化された英文」と濃密な時間を過ごしがちな英語教師にも当てはまるように感じています。

さあ、一日の仕事を終え、これから夕餉です。

この一週間で手に取った、目にした「文章」「雑誌」「書籍」の写真を紹介しておきます。追々、ブログで取り上げるものもあることでしょう。そう考えると、二重の意味で「書くために読」んでいるのですね。

このうち、

  • 中沢啓治『はだしのゲン わたしの遺書』(朝日学生新聞社、2012年)

は、まだ全部を読み終えないうちに、悲しいお別れとなってしまいました。合掌。

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上段左:谷川俊太郎・詩 田淵章三・写真『子どもたちの遺言』(佼成出版社、2009年)

上段右: 下川浩『コトバの力・伝え会いの力』(えむ出版企画、2009年)

下段左:田尻英三・大津由紀雄編『言語政策を問う!』(ひつじ書房、2010年)

下段中: 松浦弥太郎『暮しの手帖日記』(暮しの手帖社、2012年)

下段右: 内田樹『街場の文体論』(ミシマ社、2012年)

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左: 姫野昌子監修、山口久代、竹沢美樹、崔 美貴著『コロケーションが身につく日本語表現練習帳』(研究社、2012年)

右: 『飛ぶ教室 第31号』(2012年秋号、光村図書、2012年)

本日の晩酌: 早瀬浦・特別純米・絞りたて生・五百万石55%精米 (福井県)

本日のBGM: runway (小坂忠)

tmrowingtmrowing 2012/12/26 06:08 一部加筆修正。
書籍・雑誌の写真のキャプションを追記。

2012-12-24 一週間の詩

久々の更新。丸々一週間空いたのも最近では一寸なかったかなと思いますが、本を読んでいました。

  • 石原吉郎 『望郷と海』 (みすず書房、2012年)

は、引き続き、少しずつ、少しずつ。

一気呵成に読めない本、というか、そうしてはいけない本というものがあると思うのです。

TGIFはFTIMでGHTGなどを。

動画が見つからなかったので、2009年のライブ音源で。

http://www.youtube.com/watch?v=-pOf2N_n4N0

かつて「各駅停車」という名のバンドというか、ユニットがあって、主観的な形容を許してもらえば、「良質の青春群像」を届けてくれていたのでした。リーダーというかボーカルは五十嵐祐輔さん。こういう感じの楽曲を「各駅停車」で聞きたかったんですよね、とないものねだり。その五十嵐さんも今は、家業の春日部張り子の張り子氏として活躍中とか。山田稔明さんの「呟き」で登場されていたと思う。

寒い体育館での終業式も終わり、2学期は終了。

あとは年末4日間の冬季課外講座を残すのみ。個別試験で「ライティング」が要求される人を除いて、高3のライティングの授業は基本的にもうないので、後は、このブログの過去ログを読み返して、重点をおさらいして下さい。

例えば、授業でも語法についてはその都度指摘して来ましたが、「同意表現」に関して、decide とmake a decisionの差異などを詳しく扱う時間があまり取れませんでした。こちらの過去ログのコメント欄をよく読めば、類例を整理するヒントが見つかると思います。

http://d.hatena.ne.jp/tmrowing/comment?date=20050716#c

このブログは基本が「授業日誌としてのナラティブ」ですから、主として高1から高3まで、日々の授業で扱ってきた大事な事柄が、あちらこちらに見つかるはずです。私が読み返して、自分で授業をしていたからこそ後で読み返して気がつくことが多々あるのですから、授業を受けていたからこそ気がつくこともまた多いはずだと信じています。

先月の福岡県私学教育振興会主催の研修会のアンケートが届きました。

満足度というかお役立ち指数は、5段階で平均4.33でした。受講された皆さん、有り難うございます。

今週気になったこのブログの検索ワード。

いや、いつもの嫌がらせの検索じゃなくて、ホントに調べているんだと思います。

  • 「朱牟田夏雄」+「実力」。

嗚呼、時の流れよ。無知も、その後の行動次第では無恥ではなくなるものです。絶版の『翻訳の常識』は無理でも、『英文をいかに読むか』はまだ現役で流通していますから、まずは読んでみることではないでしょうか。読み通したら分かります。あ、でも「読み通せたら」かな?

この第二編は「演習」編となっています。

最初の作家はClarence Day。この過去ログでもこの作家を引いています (http://d.hatena.ne.jp/tmrowing/20120715 …) が 、「読む」演習のために、誰のどこを引いてくるかが力量の違いでしょう。脱帽です。そもそも、これを読んでいるから、私も自分のブログでDayを引いている訳です。

『英文をいかに読むか』の元になっているのは、50年代当時の週刊英字紙、Student Timesの連載なんですよ。あと、English Companionとか、『高校英語研究』とか。(1950年代終わり頃の、『高校英語研究』は、2年前のELEC協議会の夏の研修会で貸し出しをしてみたのだけれど、興味を示してくれたのは、私よりも経験豊富で目利き腕利きのM先生だけでした。)

当時の向学心溢れる高校生は、こういうのを読んでいたのですね。で、今は粗製濫造、玉は稀、石転がる時代。

先程の「演習」編。Dayの一節の解説がいいじゃないですか。

  • これは終の方の固有名詞だけ変えて、解釈問題としてでなくかつてかつて東大に出題された。ここではむろん解釈問題として 扱ってみよう。

というスタンスが、「設問になっていないところは本当に読めていますか?」と問いかけてくるかのようです。だからこそ私は今でも手元に置いているのです。

高校生や受験生の読解力が落ちたと嘆く英語教師は多いようですが、「設問を先に読み、該当箇所を素早く探して正誤判定」とか「段落の最初と最後を繋いで素 早く著者の主張を鷲掴み」などの粗雑な読みをやめさせて「ここ、ちゃんと読めましたか?」と膝突き合わせで一緒に読んであげて欲しいと思います。

新刊となった、松村昌紀『タスクを活用した英語授業のデザイン』 (大修館書店、2012年) 読了。

これまでの先行研究を手際よくまとめたコンパクトな一冊と言えるでしょうか。私が『学習英文法を見直したい』でも使っている『森の比喩』 (装丁の色とデザインもそのつもりで再読して頂ければ幸せます) と、ライティング実践で繰り返し主張している「言いたかったけれど、上手く言えなかった表現とどのように出会わせるのか、そして、その出会った表現はいつ、自分のものになるのか」ということに対して、何か突破口が得られるかな、とは思ったのですが、そこは無いものねだりでした。終盤の、引用というか例示の中で、ニコンなど日本のカメラメーカーとか、アップル社を引き合いに出しているところと、あとがきで内田樹の『街場の教育論』の引用が出てきたところとが、今ひとつきちんと繋がっていないように思えた。

若い先生方は是非、

Michael Swan. 2012. Thinking about Language Teaching: Selected Articles 1982-2011, Oxford

も併せて読んでみて下さい。英語教育の重鎮が、Pragmaticsや、CLT、そしてSLAなどの関連諸領域の発達・進化をどう見てきて、そして今、どのように振り返り、当時の彼自身の考えを再検討・再評価・自己批判しているか、面白いですよ。

金曜日からは、フィギュアスケート全日本選手権も開幕。

男子はSPで大きく貯金を蓄えて羽生選手が初優勝。高橋大輔選手が2位。SPので遅れを挽回して、などという形容が陳腐に思える、充ち満ちたものが迸り、弾けるほどのフリーの演技でした。そして表彰台の最後の壇には無良選手。世界選手権の代表も獲得です。

今回は某局の独占中継ですから、女子では、ジュニアの台頭、躍進にスポットライトを当て、「青田買い」「先物取引」ではないけれども、煽るような取り上げ方もチラホラ。昨年は庄司選手の事前インタビューで、中高の先輩でもある自局のアナウンサーを使っていませんでしたっけ?

FBでも書きましたが、個人的に、この日のハイライトは2つ。

一つは、長久保コーチの門下生、本郷理華選手。手足が長いのはプロポーションの良さですが、「のびやか」な使い方で、美しい「滑り」の期待できる選手です。

もう一つは、西野友毬選手のSPの曲目。

  • 黄金のワルツ

かつて太田由希奈選手が得意だった曲。涙が出そうでした。

日曜日は、友に会いに博多まで。

雪が心配でしたが、なんとかなりました。

もともとは、1月の鹿児島のガリレオの日程と、大津先生の中締め講義とが重なっていて、鹿児島に行けないので、その前に達人セミナーで発表する有嶋宏一先生と会って、積もる話しを、と思って動いたのですが、せっかくですから、午前のプログラムの道面和枝先生の講座から受講。

PPPとひとくくりにするのは簡単ですが、「意味」に焦点を当て、設定を少しずつ変えて、負荷を上げながら、繰り返し繰り返し「形式」に馴染ませる、という中学校段階の授業モデルとして秀逸な内容でした。「視写」を重視する、というのは国語教育から英語教育へと取り込まれていて、私のスタンスと近いものが感じられたので、お昼の席で、道面先生といろいろと情報交換。有り難うございました。

参加者の実数は少なかったのですが、割合では博多に限らず達セミ自体が初参加という方が多く、昼の部で同じ鍋をつつき、笑いに笑った一時を経て、午後は一層うちとけた空間となりました。

プレゼンや参加者とのインタラクションの英語の的確さは勿論ですが、歌有り、笑い有り、笑い有り、と有嶋先生らしさが、あちこちに溢れる発表でした。最後の活動では、

  • イカソーメン

を。有嶋先生も私を前にしてちょっとやりにくそうでしたが、私にしてもなんだか不思議な感じがしました。

「会いに行って良かった」と素直にそう思います。谷口先生とは、私がまだ東京にいた頃、FTCの打ち上げでご一緒して以来だから、本当に久しぶりにお会いしました。「(孫もいて) もう爺ですから」という口ぶりとは裏腹の、相変わらずのバイタリティー。

夜の部は、谷口・有嶋・松井にK社のSさんという男4人で駅中 (駅地下?) で。達セミ、ガリレオ、フォーラム、とそれぞれ、歴史や規模、立場は異なれども、英語教育で人の集まり、繋がりを作る場、発信する場を作る者としての「意気」のようなものを感じられたのは良かったです。

広島へと旅発つお二人を見送り、私は一人ホテルへ。

女子フリーの演技。

村上選手は会心の出来。表情は勿論、輪郭線が生き生きしていました。分かりやすい選手です。

反対に明らかに自分の演技に満足していなかったのは浅田選手。ルッツやフリップではなく、ループでのパンクでした。3+を間に合わせることも大事ですが、リズムとか流れも含めて、世界選手権までに、ジャンプの精度を磨くことが必要になってくるのでしょう。

女子最終グループに入っただけでなく、最終滑走となったのは、本郷理華選手。曲目はちょっとハンデかな、とも思いましたが、情感溢れる素晴らしい演技でした。世界ジュニアの代表には選ばれましたから、この演目もさらに磨いて自分のモノにして欲しいと願っています。私がフォローしているある方は、こんな「呟き」をしていました。頷きます。

一夜明けて、博多は雪交じりの天気。

天神にスケートリンクがあるということなので、覗きに行ったのですが、余りに小さく、しかも小さな子どもの手を引いてフェンス際をゆっくりと滑る (進む) 人が多かったので、危険を感じ、撤退してきました。ちょっと残念。洋服や靴などを物色して、撤収。

一軒、面白いなぁと思っていた店の場所を確認できたので良かったことにしましょう。何も買わずに、長々と話しだけして済みませんでした。(だって、店内で流れる音楽がポーグスだったりするから…。)

靴修理のお願いでまた「寄港」すると思いますので、買い物はその時にでも。

駅ビルでカステラと陣太鼓を買って新幹線で帰山。

のぞみだとあっという間。

明日からの課外講座は90分1コマですから、高い集中力で乗り切って下さい。

いえ、私は大丈夫ですから。

本日のBGM: Perfection As A Hipster (God Help The Girl featuring Neil Hannon)

2012-12-17 「始まりの本」

日曜日は衆院選投票日。

本業後、シャワーを浴び、近所の投票所まで自転車で。ちょっと並んで、投票を済ませる。

一旦家に戻り、車で駅まで新幹線の切符を買いに。

年末の本業仲間が集う忘年会へ出るため。帰省シーズンと重なるので、早めに指定席をとっておいた。

この忘年会。私がまだ東京勤務の頃には本業の聖地「琵琶湖」に集結していたのだが、こちらに来てからは初めての参加となる。古参のメンバーは結婚し、子どもも生まれたり、大きくなったり。時の流れを感じる。

Scotland Martに寄って、オーナー夫妻にご挨拶。先日のSpiceでのイベントの話しなども。シェトランドウールのベストだけ購入。いつものCD屋さんに寄って散財して帰ってきました。

選挙の結果、とりわけ投票率には、大きく落胆。「システムを変えるための議決権」を一般市民がもっていない以上、そのための代表を選ぶ「選挙」が決定的な意味を持つはず。

テレビ東京で、池上さんのcatastrophicな、いや、catharticな司会を途中まで見て、仕事部屋に戻りヘッドフォンを着け、爆音でチバユウスケ。

池上さんは私が寝てから後が凄かったらしいですね。

明けて、月曜日の実作は進学クラスのみ。

高1は、「副詞節」の復習。主節・従節のマッチング→例文リストでread & look up→ノートの作り直し。タテのものをヨコにして、そのヨコにしたものをまたタテにしてもダメですよ。自分のものにすることです。

高3のライティングは、学校で購読している『朝日ウイークリー』の大井恭子先生の連載から学ぶ幸せ。残り時間で、中村勘三郎さんのobituaryの生き直し。合掌。

最後の7限は高2。引き続き、簡略化されたとはいえ、レイチェル自身が書いたこととばと向き合う時間。small talkの代わりに、”shadow” と “shade” の違いの辞書引き作業から。

2次元と3次元の違いだけでなく、「光」をプラスと見るかマイナスと見るか、で出てくる「感じ」を掴むこと。補足説明したのは、

shadowは影ができて、本来見えるべきものが見えない、という割引とか差し引きの感じ。本当は「光」があった方がいいのに、という含み、背景。shadeは「光の直接的な影響」をマイナス評価して、そこから守られている、安心感、快適さ、 “protected” とか”pleasant” といった語感を含んでいる。

今、レイチェルのことばに耳を傾けている以上、多読で自然に気づくまで待っていられませんから。

第2段落で、the roadsが出てきた時に、前段落での風景描写から転じて、「人」の臭いを感じていたかどうかがとっても大切。famousという形容詞で、その臭いに色とか音が付いた感じがするでしょ?最初は訳語で、次は “known by many people” とでもいった簡単な言い換えで、処理していても良いと思います。でも、やっぱり、頭の中に思い浮かべているlandscapeの中に、人工物が出てきた時点で伏線が張られているのだから、その語を見た瞬間、もっと言えば耳で聞いた瞬間に反応できることを目指して下さい。

構造の把握には文法上のルールが分かっているだけではダメだという格好の例があったので、板書で図解。構造を書くのではなく、「情景描写」の方ですよ。andでペアとなっている名詞句と、-ingでの後置修飾をどう処理するか、には公式など無く、意味の整合性を自分で判断して決めるのです。

  • Countless birds came there to feed on the berries and on the seed heads of the dried weeds rising above the snow.

ここでのcountlessはtoo many to countとパラフレーズしただけでは不十分で、前段で示されたprosperousな、豊かさのイメージを表現していることを踏まえて読み直し。

なかなか進みませんが、進めば良いってものではありませんから。

帰宅後は、黒い表紙に青い文字の印象的な、

  • 石原吉郎 『望郷と海』 (みすず書房、2012年)

を少しだけ読み進める。今、「石原」と言ったら、多くの人が連想する人は全く違う人なのだろうけれど、私が読みたい方の「石原」はこの人。

腰帯の小さい方の字にはこうある。

  • 新たな問いを発見するための新シリーズ。これから何度でも読み直したい現代の古典。

本日のBGM: 道標 (Snake on the beach)

2012-12-15 recognition revitalized

tmrowing2012-12-15

某所で呟いたり、FBで自分の仲間内で発していた言葉を反芻。

今週、生徒に話した時に板書したものの再現。単純に容積の比喩なので、限界はありますが、考える足がかりとして。

写真で、一番上が、受験対策 (センターであれ、志望大学であれ) で得られる試験対策力としての英語力の模式図。L= listening, R= reading, W= writing。Rの要求割合が異常なまでに高いが、土台が狭く、タワー型で、その「辺」を取っ払って中身を均してプールのような容器を満たす、と考えるならば、容積は実は物凄く小さい。

それを示したのが真ん中の図。

骨太モデルが一番下。受験の過去問対策で到達できるRの高みには及ばないけれども、LもWも受験対策で到達できるレベルはクリアーしていて、試験以外にも対応が可能となる。

私の授業で目指しているのは、この一番下のモデルに近いのです。

というような内容でした。

現場教師には現場で生きるものとしての矜持があるはずですから、それぞれが自分の信念を持って、授業、実作に励めばよいのだと思います。

ただ、お願いだから、同じ文法の問題集を何遍も解いて覚えることをインプットとかインテイクとか、もっともらしい用語で呼ばないで欲しいのです。お願いだから、答えの決まっている和文英訳の問題に答えることをアウトプットと言わないで下さい。

そういうのは十把一絡げで「仕込み」位でいいでしょうに。

そんな指導を繰り返し繰り返し、精度を高めた結果、受験で「実績」を上げられる生徒を擁する学校の「成果」を、今度は「英語教育」の「用語」で、後出しじゃんけん宜しく語ることによって「擁護」し始めたりすると、更におかしなことになります。

受験での成果を求めるなら求めるで、私は批判や非難などしません。

第二言語習得に照らして、もっともな指導法・教授法・学習法になっているかどうかを気にする良心的な中高現場の教師もいるでしょうが、そうでない人もまたチラ「ホラ」。今風の用語で虚飾を図るのはよした方がいい。「もどき」であることを自覚しているならいいのですけれど、困るのは、無理やり「理論ぶる」ことです。

つい最近、「曖昧耐性」が大事だという高校現場の先生の記事を目にしました。

FonFsという十把一絡げの括りにも多分に乱暴なところはあると思うのですが、日本の多くの高校で見られる言語材料の積み上げ式の一斉教授のシラバスにもかかわらず、個々の学習者の「曖昧耐性」が肝心などと言ったって、何の説得力もないと思うのです。

私はELEC協議会で育ちましたから、パタンプラクティス一つとってみたって、「オーラルアプローチ」が盛んだった頃の教師-生徒でのやりとりにも劣るような、お粗末な「置き換え練習」に何故今、逆行するのか、という思いもあります。少なくとも、日本の「英語教育界」がCLTへと動いていく中で、新潟大の米山先生らが説いていたように、「意味の選択は学習者に委ねる、free substitutionの形式でのパターンプラクティス」くらいまでは、80年代の前半の「英語教育」で足場を作っていたはずだと思うのです。個々の学習者の頭の中、心の中に浮かんだ意味を、何らかのゴールを達成するために他者とやりとりする中で、形式と意味との摺り合わせが、うまくいったり、間違えたり、また、以前は出来たと思っていたことが、セッティングが複雑になるとできなかったり、と「三歩進んで二歩下がる」ような状況が必然だからこそ、教室内外で 「英語をやる」ことが必要で、教師や、習熟度のより高い学習者による「介入的支援」が効果を発揮し、英語が「身につく」のだと思っています。


高1の授業ではこんな話もしました。

私が大学に入ったのは1982年。当時、師事していた教官の中には年齢が60に届こうかという方も多かった。私が18歳で相手は約60歳。ということは、その先生方が18歳の時って、1940年なんですよ。第二次大戦真っ只中ですよ。そんな時代に学んでいたのに、私から見ると「怪物」のような英語力を皆備えているわけです。「昔は使えない英語の学習方法だった」とか「従来の英語教育は役に立たない」とか、「10年英語を学んだのに、グッドモーニングしか言えない」なんて言っている人は、自分が「何を、どれだけ、どのように」やってきたのか冷静に評価し直した方がいい。CDでの音声教材が不可欠だとか、インターネットを利用すべしだとか、ICTの予算をだとか、コーパスの構築整備をだとか、第二言語習得理論に則った教授法だとかそんなことはお構いなく、1940年代でさえ、ちゃんと英語をやってた人はちゃんと英語力を身につけているんです。今のあなたたちの取り組みは、その遙か以前の江戸末期のジョン万次郎と比べても、工夫がないかも知れませんよ。自分の学びに責任を持ちましょう。

英語教育についてよく分かっていない「素人」の方たちのルサンチマンを越えて、限られた変数と環境の中で「成果」「実績」を挙げた人の勇ましい掛け声に乗っかるのでもなくて、地道に学ぼうという人たちに「なるほど」と思わせられない英語教育界ではダメでしょう。

たとえば、

鈴木忠夫『英語教育---素人と玄人』 (清水書院、1983年)

などの地に足のついた良書がもっと多くの英語教師に読まれることを望みます。

最近は、英語教育界そのものが、猪突猛進、でよくわからない「ゴール」を目指して旗を振っているようにも思えます。その流れの中で先鋭化でき、対応できる学校、教師、生徒はいいのでしょうが、そうでない人たちは、教える側も、教わる (学ぶ) 側も、「ルサンチマン」を抱えてしまい、その人たちの中から、「トンデモ本」に飛びついてしまう人が増えている、というような不安があります。杞憂であってほしいと願うばかりです。

高2の授業で、自動詞・他動詞の話をしていた矢先に、職場に届いた某ウイークリーの「語法」の連載で、またまたとんでもない「自動詞・他動詞の識別法」を目にしてげんなり。

私の友人知人には英語教育関係者も多いと思うのですが、月刊誌『英語教育』(大修館書店)などでは、まず、正面切って取り上げられないような指導法や教材が、市場で流通しているだけではなくて、多くの学習者が手にしている現状を、大学で「教科教育法」を教えている先生方とか、将来本当に中高現場の教師になろう、という学生・院生は把握しているのでしょうか?地道に学ぶのではなく、何か「最小の労力で最大の効率を」というメンタリティが、こういう過度に単純化した、ギミック満載の「トンデモ」指導法の入る隙間をどんどん広げているような気がしてなりません。

自動詞と他動詞との識別法をいくら日本語訳を駆使して考えていても、英語での自・他の棲み分けと共生の理屈、原理原則など掴めるものではありません。

例えば「反対する」という意味合いの表現で、なぜopposeは前置詞が不要で目的語を取り、objectは前置詞 toを伴って、目的語を取るか、というのは覚えるしかないわけです。私も、高校生への指導の工夫とか、使い方への助言で、

  • opposeはfightなどの仲間、objectはcomplainの仲間

と教えたりはします。けれども、そうしたところで、そもそもfightが他動詞で、complainが自動詞 だと知らない学習者には、あまりご利益はないわけですから、地道に、軸足を決めて、陣地を広げて、居場所を確保して、見通しを得る、というような学習を教室では目指しているわけです。

無駄話だけではなく、英語の授業もやっていますよ。

高2の実作では、レイチェル・カーソンのことばを簡略化した文章と、「…について」との両方を読む授業。品詞分解とか、構造解析とか、そんなことを目的に読んでいる訳ではないのですよ。

対訳と裏表でワークシート。音声CDをかけながら、音の切れ目と意味の繋がりの確認。次へと繋がるような音調での特徴を観察。それぞれの文が主題にどう貢献しているか、具体例の分析。キーワードでのプラスイメージ、マイナスイメージの把握、などなど。

スラスラ分かるところは速く。慣れてきたらさらに加速。でも、「むむっ」とか「あれっ」と自分で気づいたなら、徐行運転で。一時停止を無視して勝手に進んでしまったようなところとか、せっかく筆者が伏線を張って、地図を描いて手渡ししてくれているのに、自分の入りやすい、曲がりやすい道に行って、迷ってしまったようなところが、教師の出番。

表現の中で、harmonyという語が出てきたので、

このharmonyという一語が「効き目」を発揮することで、「何と何の調和なのか」という観点で、その前後でのAとBという内容をしっかりと掴むことが出来るのであって、そこまでを素早く読み飛ばして、キーワードだけを拾っているのではない。

という解説。『ワードパワー英英和』から始まる定義の検討へ。

  • a pleasing combination of musical notes

を確認。

続いて、“chorus” とはどう違うか?と問うて、「心地よい音楽的な音の結びつき」と「声の重なり」との差異を確認。さらに『グラセン和英』で、「不協和音」を引かせて、そこで得られた “discord” をさらに、英英辞典で確認。

harmonyの定義では、上述の "pleasing" や、

  • notes of music combined together in a pleasant way (LDOCE)
  • musical notes that are sung or played at the same time, making a pleasant sound (MED)

での“pleasant” のようなプラス評価の形容詞で定義がなされていることが確認できるのだから、その対義概念と考えられる“discord” では、「ちょっとpleasant とは言えないcombination of ちょっと音楽的とは言えないnotes」というような定義が想定できるはずであり、それを確かめるつもりで辞書に当たるべし、という話し。

  • an unpleasant sound made by a group of musical notes that do not go together well (LDOCE)
  • a strange sound in a piece of music, made by playing an unusual combination of notes at the same time (MED)

意味だけではなく、「ことば」をしっかりと咀嚼することが、今後の前進、飛躍には大切なのです。

「英語教育」関連で、もう一つ。

最近ではとかく「グローバル人材」との絡みで、その成果 (というか成果のあがらなさ加減) を取り沙汰されることが多いのですが、この「グローバル人材」って、どういう意味で使っているのかがよく分かりません。

自分の学校の生徒には、

「globalって、『まるっと世界をとらえた』『地球丸ごと』って感じの形容詞なんだから、日本とアメリカと欧州、とか中国と韓国と日本、とか個別の『国』を意識している点で、全然globalじゃなくなるよ。そうじゃなくて、『全部で一つ』っていう意識を持てるということは、『米国はUCバークリーで世界に通用する研究をする学者と日本の片田舎で自給自足をする人たち』というようにことさら対比するのではなく、『日本の地方都市で作った製品を全世界にネット販売するベンチャー』などと『世界への羽ばたき方』を無理やり演出するのでもなく、世界丸ごと、東西南北、都市村落、老若男女同じレベルで、『欠落した部分なく』、地続きで捉えられるということではないのですか?」

というようなことをよく言っています。

そもそも、「グローバル企業」といわれているような業種と会社のほとんどが、「日本以外のマーケットで、日本以外の企業・会社に対して、優位にcompetitiveな企業」であるに過ぎないように思います。全然、globalじゃないでしょ、それって。「他国・他者を相手に出し抜こう!」っていうだけじゃないですか。産業や商業、ビジネスモデルの比喩を、教育に当てはめても上手く行かないように思いますけどね…。

この週末は、妻が忘年会旅行で九州方面へ泊まりがけで出かけたので、娘とあんこと留守番です。

名古屋では、大津先生&斎藤先生の講演、東京では大井科研。盛会であることでしょう。

年明け1月12日の「中締め講義」では自らの役目をきちんと果たしたいと思いますので、今回はご容赦を。

最後は、「呟き」で流れてきた、名言を捩って。

  • 優秀な教師と有名な教師が一致しないケースが多いのが、教育の分野の悩ましいところです。

U先生、深謝。

本日のBGM: dejavu song (山田稔明)

2012-12-10 ”I’ve been such a fool.”

採点の後の祭りも終焉。

気がついたら、ジョン・レノンの命日に彼やビートルズの曲を全く聴いていなかった。いいことだと思う。彼の音楽は「偲ぶ」ものではないのだから。

成績処理は平常点の調整を残すのみ。

グランプリファイナルの女子は浅田真央選手の優勝。

ファンとして復活劇を喜ぶ一方で、演技構成や曲の選定、振り付けなど、本当にこれで良かったのだろうかと「?」も浮かんでくる。バンクーバーまでタラソワコーチと一緒に目指していた「重厚な芸術表現」の路線は、今これからの年齢の浅田選手にこそ、挑戦し甲斐のある課題だったのではないのか、という思いは消えない。ドルトムントでのキム・ヨナ選手のスコアと単純な比較は出来ないのだが、オープニングの2+が3+になる可能性と、3回転+3回転とが入る可能性とは天秤にはかからないのだろうなぁ…。

男子は、SPのミスを、粘りのフリーでなんとかカバーした羽生選手が銀メダル。羽生選手は2つ目の4回転がパンクしたからではないだろうが、後半のジャンプ、ステップ、スピンとNHK杯のような綻びは見せずに滑りきった。1戦ごとに伸びていく時期なのだろう。

金メダルは高橋選手に。ショートでの貯金があったからか、オープニングの4回転で転倒のミスがあっても焦らず自分の演技に集中し、2つ目の4回転をきっちりコンボで決めてきた。その代わりか、やや後半足に来たかな、という動きが見られたが、綻びを拡げなかったのは流石に高橋選手。

日本人選手として初のGPファイナル優勝なのだが、「悲願」という形容は相応しくないだろう。高橋選手は2010年の世界選手権・トリノ大会のチャンピオンなのだから、その形容は、五輪の金メダルを抱いた時に取っておきましょう。

スポーツ繋がりでもう一つのニュースを。

女子のバスケットボールWリーグがレギュラーシーズンを終えました。

私が応援している、シャンソンV-Magicは4位。惜しい試合がいくつもありました。ニュースというのは順位ではありません。私は、「呟き」からの流れで1週間遅れで知りました。

  • 中川聴乃選手がコートに立ちました。

膝の故障、手術、そしてリハビリと長いブランクの後の復帰。まだ出場時間は短いようですが、コートで中川選手が見られることをファンの一人として素直に喜びたいと思います。天皇杯、プレーオフとこの後の過酷な試合ではまだまだ対応出来ないかも知れませんが、あの颯爽とした男前なプレーがコートに帰ってくる日も遠くはないと思います。富士通の長岡萌映子選手とのマッチアップなんか、ファンとしては見てみたいんですけどね。そんな夢想家は私だけではないと思います。

さて、

「呟き」で連投しようかとも思った話題ですが、字数制限が面倒だったので、こちらで。

  • 英語学習、英語授業の成果

に関して。

学校教育は学年制で年度制をとっている以上、どんな名人、達人がどんなに上手く授業をしたところで、全ての人に同じタイミングで同じだけの「実り」を保証することは不可能だと思います。英語の授業で私が生徒に常々言っているのは、

楽に息が出来る水域や水深から始めて続けていれば、そのうちにそれなりに泳ぎ回れるようになる。ただし、『そのうち』も『それなり』もAさんとBさんとCさんでは全く違うんです。そのことを踏まえて、『そのうち』の時間短縮とか、『それなり』のレベルアップなどを画策するのは、全て『自分のこと』であって、他人との競争ではありません。ほかの人と比べて、早いとか遅いとか、深いとか浅いとか、を気に病むことから不幸は始まるのです。

私が国語教育での大村はまさんらの単元学習実践に惹かれるのは、「個々の優劣を越えたところでの教室の学び」をどう体現するか、そして「努力が報われないことで凹んだりせず、学びに浸る」とでもいうような姿勢が感じられるところです。

英語も「教科」としてみた場合には「数学」とか「理科」などと同じ枠組みで「勉強」するもの、になるのでしょうが、英語が厄介なのは、知識だけではなく、技能が求められ、しかもその技能の多くは問題演習などの「解法」だけでは決して身につかないものであること。例えば、4技能を伸ばそうとするとき、その下位技能を伸ばすにも、多くの練習では「相手」が必要になることが多いでしょう。これは、他の「教科・科目」では体育や音楽などを除けばほとんど見られないのではないかと思います。今、巷の教育界では「協同学習」「学び合い」「学びの共同体」などといった「新たな」動きが見られるようですが、「教科性」というものを考慮に入れる時、英語の学習では、そもそも多くの局面で「共同体」の存在を前提としているのですから、「英語」を求めていて、「英語」をやっていれば、そこには「共同体」が出来ているはずでしょう。

高校だと、進学校と呼ばれる類の学校には「理数科」という課程があったりします。そのような、高度な教科学習を目指すようなところでは、「解法パターンの暗記」だけでは行き詰まってしまうので、それを越える本質的な「学び」が本来は志向・希求されていると思うのですが、現実には、センター試験で得点をとるところまでは「解法パターンの暗記」で何とかなってしまう「お受験文化の申し子」が多数存在し、「進学実績」を上げているのではないでしょうか。

私が使う比喩だと、

  • センサーの精度や、反応速度の速さ、演算処理の安定、というよりは「最新の地図が入っていて、情報量が多い」ことによって、機能がより高くなっているカーナビ」に依存するドライバー

のような学習者モデルです。

私が気にしているのは、二点。ドライバーの運転技術が高まっているとは限らないことが一つ。次に、そのような最新の地図がインストールされているカーナビが購入できることが前提となっていることです。

そして、そのようなカーナビの地図をどんどん新しくしていくような取り組みで「テスト対策」まではなんとかできてしまう人たちが、「英語」の学習をどのようにこなしているのか、を考えてみることで初めて、私が東京のようなお受験文化の影響を色濃く受ける土地で教師をやっていて一番驚いた次のような「受験生」のメンタリティが理解できるのかな、と思っています。

直前期にやる「問題」がないと嫌なので、年度の新しい志望大学の過去問は解かずにとっておき、古い年度の過去問を解いたり、傾向が似ていて類題となる他大学の過去問や、先生に作ってもらった「予想問題」にそれまでは取り組む。

本当に理解に苦しみました。

例えば、10年分、過去問対策をやって、その志望大学の入試問題で要求される「英語力」が養成できたのに、なぜ、そこから先で「類題」を求めるのか?さらには受験産業の提供する「予想問題」のような「劣化コピー」を求めるのか?もし、そのようなものを求める必要性があるのだとしたら、それまでに問題演習の数はこなしたけれど目標としていた英語力がついていないということではないのか?とすれば、それはただ問題演習を「追加」することで解決するのだろうか?

そのような「?」に対する回答の一つとして、現在の私の英語教師としての立ち位置があり、実作があります。

英語学習に「ことばに対する畏れ」「敬虔さ」が必要ないとは言いませんが、英語学習を進めていく中で自分の英語力が高まった、英語が分かるようになった、英語が使えるようになったという喜びとか、豊かさを実感する「瞬間」が訪れないのでは、いつまでも「自分の学び」にはならないように思います。

最近、生徒に言っていることばで今日は締めくくりたいと思います。

  • 高校の同期から、「高校の時って、いっつも英語の勉強していたよね?」といわれたことがある。確かに、授業のノートも英語で書いていた時期があったし、休み時間とか、昼休みとかでも、英語の本を読んでいたりしたから、そう見えたのかも知れない。起きてから寝るまでのトータルの時間で考えれば、3時間くらい、休日だと6時間くらい英語に使っていたかも知れない。でも、問題演習とか「過去問」対策ってほとんどやっていない。では何をやっていたか?「英語」をやっていたんです。

本日のBGM: Call it what you will (Utopia)

D

2012-12-07 憂鬱な恋を競った街の詩人たちは今…

採点天国も大団円。

後の祭り、もいろいろ。

今回、商業科2年で出題した教科書本文と関連したオリジナルの英文は、「フランスはブルターニュのカキ養殖場の被害に宮城の牡蠣養殖家たちが稚貝を送って支援をした」というエピソードを私が英訳したもの。出題形式としては段落整序完成。文章の最初と最後を与えておけば良かったな、と反省。ただ、今回の出来具合で3学期の授業の進め方に光が見えてきたのが収穫。

進学クラス高2の「ライティング」は、「表現ノート」で提出済みの、英文ネタから個々の生徒に応じて出題。素材文の英文にフォーカスを当てての内容の要約、そのトピックやテーマを語るのに必要不可欠な語句、コロケーションが使えるかを見るための、内容に関して私が切り込んでの英問英答、内容に関する、personal involvementを問う英問英答。少人数クラスでなければ実現不可能な試験ですが、もはや「定期試験」で点数を付けるというよりは、パフォーマンスを診る「定期検診」のようなものです。

対して、高3ライティングは1学期中間の範囲でもあった「診断テスト100題」から20点分。20題を出題し、そのうち10題を選んで答えるもの。部分点は原則無し。残りは、意見文。「5-paragraph essay (5段落エッセイ)」などはやらないし、高校レベルで「アカデミックライティング」などには踏み込みません。地道な実作を確かめるまでです。授業で取り上げた金沢大の出題から、ほぼそのまま1題。ニート支援関連から、理由を一つだけ書かせる出題で1題。各40点の配点。授業でのダメ出しの後の最終書き直しを、定期試験の場で行っているだけですね。「ニート支援関連」生徒の解答例を一つ紹介。誤りも含めて全てそのままです。

it is true that NEETs’ parents have to take care of their children because NEETs shut themselves in their home and don’t have motivation for working, but that has a limitation. If they have NEET children, they have to take care of their children even after their children reach the age of adulthood. Their personal and private burden, as well as costs, will keep growing.

これは、お題の、

I agree to the policy of spending 980 million yen on helping youngsters find jobs. The major reason to support my view is that [ A ].

To sum up, I strongly believe that the government should spend that amount of money on the NEET education program and support their independence.

空所の [ A ] に60語前後で理由付けを書けという出題。当然、反対意見は、

I do not think it reasonable that the policy of spending 980 million yen on helping youngsters find jobs. The major reason to support my view is that [ B ].

To sum up, I strongly disagree that the government should spend that amount of money on the NEET education program and support their independence.

この [ B ] の方を選んで理由付け。データなどを検証するのではなく、自分の頭で考えて、自分の意見を述べるものです。ただ、授業でも解説を加え、私が個人的にも書きやすいと思った、この [ B ] を選んだ生徒はいませんでした。面白いものですね。

課題が多く残されたのは高1の「副詞節シリーズ」。社会福祉ならぬ、教室福祉の必要がある生徒もいます。深刻です。出題は至ってシンプル。

  • この接続詞を用いて典型的な用例となる英文を2つ書きなさい。

という出題が20題。計40文。ネタとなる英文は、それぞれの接続詞で15から20ありますから、少なくとも40/300の棒暗記でも対応可能です。でも、主節と従節の繋がりが「きちんと」分かっていたら、呪文のように、のぺーっと文字を綴るのではなくて、自分の頭に浮かんだ意味を自分で使いこなせる「語」や「チャンク」の形にして、英語の流儀で並べていけば解決するもの。

もともと、この出題は、東京で働いていた時分に、同僚ALTとの教材研究や教科書などの編集作業時に、用例の適否を検討する際に浮かんだアイデアから生まれたものです。

  • うーん、私は、このような例文が一番適していると思うので、この用例にしているんだけれど…。じゃあさ、接続詞でonceを使う時の典型的な用例ってどんなの?誰でも、「そうそう、そう言う時に使うのが一番普通だね」、っていうものは?

というやりとりを複数の英語ネイティブと重ねると、その人の「ことばの力」のようなものの全体像が浮かび上がってきたように感じました。英語ネイティブではなく、日本人というか日本語母語話者であっても、G大でお世話になった河野一郎先生や、河野先生の先輩にして私の公立校時代の同僚でもあったH先生などは、そのような「典型例」の引き出しが大きいだけでなく、引き出される「用例」が的確であったという実感があります。

  • 英作文は英借文

などと昔から言われます。

千葉大の大井恭子先生も、以前「英文をきちんと覚えること」の意義を力説されていました。専修大の田邉祐司先生も、「千本ノック」よろしく、「チャンク」のレベルから、「文」のレベルまで、糸を紡ぐ基礎訓練の重要性を指摘されています。ライティング、英作文はごまかしや付け焼き刃が聞きませんから、大家のいうことには耳を傾ける価値があります。何をどう仕込むか、が重要なのです。問題演習で小器用に正解を出すことではなく、頭に浮かんだ意味を形にする回路を造るための仕込みです。この段階で、闇雲に「自己表現」を課してもご利益はあまりありません。まずは、「借りても安心できる」ものが手元にないことには始まらないのですから、「きちんと」「自分で」「できるまで」やることです。

私から診れば、ボロボロな高1クラスの「英作文力」ですが、先頃返却された某模擬試験では「表現力」の分野だけ、全国平均を大きく上回っているのが皮肉です。GTEC for Studentsだといきなり「100語以上」のライティングを課すけれども、その下位技能となる「書く力」を、直接書くことで診るテストとなると、受験に繋がる「模擬試験」になっちゃうのって、どうなの?

代休を活用して、採点が一区切りついたところで、先月からお世話になっている新しい床屋さんへ。

ちょっと短めにしてもらいましたが、そろそろ白いものが目立ってきましたね。

帰宅して、軽く昼食。

素点の入力を終え、午後の紅茶。ケーキは近くのkajiwaraのもので。

朝からシュトーレンを仕込んでいた妻が夕方から美容院へ。

私と娘とあんこで留守番。妻がいないと、私の言うことはあまり聞きませんね。

夜は、フィギュアスケートのグランプリファイナル。

女子SPから。

例によって、某局の構成は競技に入るまでが長いっ!

浅田選手はいくら高く、軸を細く、花がほころぶような回転をしても、ジャンプの幅がないと、ランディングでの「見栄」のところで損をするような気がした。

明日は、男子のSPもあるので、見逃せません。

ドイツはドルトムントではキム・ヨナ選手が、シーズン第一戦のNRW杯。世界選手権に照準を合わせているのだろうなぁ。日本からは村元小月 (さつき) 選手が、ロシアからはマカロワ選手が出場とのこと。CSとかどこかで放送しているのだろうか?

ともあれ、1年でもっとも幸せな季節であることは間違いありません。

外はといえば、台風並みの強風と、雷雨なんですけれど…。

来週末は、衆議院選挙。

中日新聞の12月5日付のコラムを、ポール先生のFBで知りました。

かつてはquality paperなどと呼ばれていたような記憶もある全国紙がことごとく劣化しているのとは、対照的に思えました。気になることがもう一つ、この社会部長・島田佳幸さんのコラムに中日新聞のweb上でリンクがみつからない。写真でしか読めないのは、リンクが張れないのでやむなく、写真で、ということなのだろうけれども。

自分の物語は自分で紡がなければ。

本日のBGM: Visitors (佐野元春)

D

tmrowingtmrowing 2012/12/08 08:17 一部修正の上加筆。

2012-12-06 酔狂

先週の日曜日は、市内の研修施設で行われた、畠山重篤さんの講演に妻と二人で出かけてきました。行って良かった。300名収容の会場はほぼ満席。私よりも年齢が上の方が目立っていました。

畠山さんは、牡蠣養殖家を経て、NPO法人「森は海の恋人」の理事長をされています。

このような分野、テーマは「パーマカルチャー」を学び、その生き方を実践している妻の方が、私より遙かに詳しいのですが、その妻も概ね納得して帰ってきました。

「森は海の恋人」というスローガンを作るまでのエピソードで、「プロジェクトには詩人を入れないと上手く行かない」という件に大きく頷きました。そして、そのスローガンの英訳である、”The forest is the partner of the sea” に辿り着く契機となった、皇后美智子様の助言での “long for” のエピソードなど、心に届き、人を動かす「ことば」について改めて考える時間ともなりました。

講演後はサイン会。

会場ロビーで販売している、畠山さんの著書や翻訳本などを購入してサインをもらうという流れだったようですが、私は講演前に購入していた、

  • Grandfather Oyster and Shigebo (カキの森書房、2012年)

にサインしてもらいました。講演では、「教科書に取り上げられて、みんながいいことだと教わっている取り組みを壊すことはできないでしょう?」と、「教育」の重要性を再三指摘していました。その中で、畠山さんたちの取り組みは、来年からの高校英語の教科書でも取り上げられる、とのことでしたが、

  • 現行版の教科書でも、「三友社出版」の英語IIの教科書では、取り上げられているんですよ。

とお伝えしておきました。発行部数が多くないから、ご存じないのでしょうかね。

海の話しを聞いたことも作用して、帰宅後に、回転寿司へ。

ちょっと高めの価格設定の店でしたが、ロボの握る、お米が熱い回転寿司ではなく、ちゃんと「人」が握ってくれるところというと今では選択肢が限られてきますね。

週が明け、奥歯の痛みは小康状態。

期末テストは、自分の担当科目が終了。悲喜交々。これもまた、自分の実作。自分の蒔いた種。豊かな海の恵みを受けるには、豊かな森の実りが必要。

さて、

某所でも呟いたことですが、こちらでも。

教科書会社が教科書を作って売るのは当然。そして、その教科書の教師用指導書 (TM) や関連DVDを販売するのもまあ、頷けることです。

しかし、 ものの喩えですけれども、教科書を作ってそれを販売し、その指導書や指導DVDを販売するのではなくて、その指導法をセミナーで切り売りするようなことが本当に「英語教育」の実践、普及、啓蒙と言えるのでしょうか?「商売」としては全くもって合目的的ですが、そんなことを「英語教育」だなどと称するのは、いい加減やめにしたらどうなのだろうか、と思います。

流行が変わるたびにそれを追ったり、カリスマをあちこちに見つけては彼ら、彼女らを真似たりするのではなく、目の前の生徒をみて、泥臭く、悩み所では悩み、迷い所では迷える人こそが宝でしょう。

偏差値やスコア、そして自分のキャリアも含めて上に登る (昇る) こと、高みを目指すことしか考えていない教師や、受験での実績のように限られたパイの中で、何人増減したなどということを目指す指導者だけが舞台に上がっているうちは「英語教育」は何も変わりはしないのではないかと思います。

傍目で、

  • 「自称」ならまあ、いいでしょう。「称賛」されることはないだろうし…。

と思っていたら、あらあら、という感じ。「勝算」のある戦いにしか参加しない人を「勝負師」とは思えないし、「指導者」として同列で語ってもらいたくはありません。

中教審では「有識者」が招集され、その多くは大学人。専門家なので、そういうことになるのでしょう。でも、文科省の中にいる「お役人」で、いろいろな肩書きが付く中高英語の施策を作った人たちが、数年後気がつくと、大学の先生になっていたりするわけです。地方自治体の指導主事も似たようなもので、その後、現場に戻るといっても教頭や校長での管理職。中高現場に戻って、自分が作った「施策」を、その後自分自身が率先して教室で実現してみせようという骨のある人を見たことがありません。

一度高みに登った人たちは、「降りていく」こと、「地を這う」ことを潔しとしないのでしょうか。遺族には申し訳なく思いますが、上を向くのは天国の九ちゃんに任せておけばいい。涙がこぼれようと、目の前の現実から目を背けてはダメでしょう。教室では、Here & Now、目の前の実作こそが一番大切なのですから。

音読・暗唱・自動化が好きな人もSLAの知見に学べばまた新たなものが見えるだろうし、最新のSLA命の人も、高校の底辺校・困難校の再入門に応用するとしたら何が出来るか、創造力が働けば強みになるように思います。唯一絶対のモデルを喧伝したり求めたりするメンタリティからまずは自由になることから。

私の本業の世界では、次のように言われることがあります。

  • Rowingに特定のheroは要らない。ただ、rowingは、どこまでもheroicなスポーツである。

その精神たるや正業にも宿れかし。

旗を振る人を追いかけて猛進するのは盲信に繋がりやすいので要注意。

自分の振る舞い、言動に酔ってしまうのは論外だけれど、「時代」とかよく分からないものに意識だけ高揚されて気持ちよくなっていたりすると、その酔いから覚めた時が怖いですから。

本日の晩酌: 三千盛・純米大吟醸・五年熟成・朋醸・45%精米 (岐阜県)

本日のBGM: Down Down (トクマルシューゴ)

tmrowingtmrowing 2012/12/07 06:40 一部記述加筆修正。

tmrowingtmrowing 2012/12/07 08:54 更に加筆。

2012-12-01 ♪ここには何があるのか上手く言えないまま♪

奥歯の痛みは少し治まってきて、普通に食事をする際に右だけで噛まなくてもよくなってきたので少し安堵。金曜日の昼に食べた、牛すじカレーがかなり胃腸に残っていた感じがありましたが、体調は上向き。作問は順調。採点もまあまあ。出来は?そこですね、肝心なのは。

いよいよ12月。

土曜日は、高1の課外講座。

定番の「副詞節」のシリーズ。中間以降ここまでで計20セット。まあ、ひたすら訓練ですね。知識 (明示的にせよ、非明示的にせよ) があるに越したことはないし、産出時にモニターして修正や微調整できる「力」も大事ですから。

まずは、学級文庫にある十数冊の辞書からグループで全員が理解可能な例文を抜き出し、リストを作ります。目標は15〜20の「触れば体温が感じられるような」、「側に行けば息遣いが聞こえるような」、「斬れば血が滲むような」例文。辞書の中にそれらを求めるのはなかなかに大変ですが、粗雑な教材の英文に求めるよりは数段マシです。転記のミスは勿論ですが、代名詞の指すものが漠然としすぎている文や、主節と従節の内容の繋がりが希薄な文などは指摘してやり直しも命じています。

リストが出来たら、その例文を個人でRead & Look-up。スラスラ出来るようになると対面リピートを経て、個人でホワイトボードに書かれた「節」+「接」+「節」でのマッチング完成。生徒には、ホワイトボードに転記する際には、左の列に主節、右の列に従節、とするのではなく、全部一緒にして、ただ長さだけを基準にして「短」から「長」へと配列しなさい、と言ってありますが、生徒は「語数」を目安に書いているようです。主節と従節が上下に並んでいることもままあります。それを、眺めて意味を繋げて、文にするだけの訓練です。ただし、さらに、そのマッチングを対面リピートバージョンまで進めます。一人がボードを背にして立ち、相手はボードを見て結びつけて英文を言い、それを耳で聞いてリピートする、ただそれだけ。私のやることは、それを聞いて、

  • そこー、英語の音でやれー。「ミュージック」じゃないぞ、”music” だ、「ビジット」とか「ビジー」って、英語の音じゃないからなー。 visit, busy だzoー。
  • beforeとかuntilとかas soon as の直後で切ったら、意味が相手に伝わらないだろー。接続詞はその次に来るまとまり・かたまりを導く役目なんだから、そっち側で言う。

などと、呪文にさせないような「介入的支援」です。接続詞の前後の音調の指導はなかなか大変ですね。

写真はそのうちから2つ。

once.jpg 直

by_the_time.jpg 直

接続詞で用いるonceとby the timeのホワイトボードで、主節+once+従節、主節+by the time+従節、と正しい語順でマッチングできるか、という練習に使うために書き出したもの。onceはnow (that) とセットで、by the timeはuntil とセットで授業で扱いました。

電子黒板もプロジェクターも大型モニターもありませんが、毎時間写メで撮って、その日のうちにプリントアウトします。当日の最後、または翌日には、次のセットが入りますから、このセットのホワイトボードは消えてしまいます。プリントアウトしたマッチング用は生徒が各自で練習したり、対面リピートに使ったりということを目論んでいます。生徒に言っているのは、「早口で読む練習をしているのではない。時間が短縮できるのは、滞らないで、滑らかにマッチングができるから。」ということ。ところが、いつまでも時間短縮できない者は、大体同じところで滞っているようです。ということで、その当たりの改善プランを授業でも言っています。

どの生徒も、各自でノートに接続詞ごとに例文を書いているようです。というか、まずそれがないと、リストを作れませんから当然です。ただ、リストのコピーも手元にあるのです。こちらはRead & Look-up や対面リピートにも使いますから、書き込みのないままで使うことが望ましい。となると、ホワイトボードを写したマッチングでの各自練と対面リピートで上手く行かなかったものは、何がトラブルの源なのか、を突き止めておかないと、困るはず。でも、出来ない生徒は、ノートもリストもまったく同じメモを書いていたり、凄い人は、せっかく写メをコピーしたプリントのマッチング用に鉛筆で線を引いて結びつけていたりします。

  • あなたの頭の中の「地図」を書き直さないといつまでも迷子になったり、違う目的地に行き続けますよ。

どうせやるなら、ノートには和訳も、四角化などの記号付けもしておけばいいんですよ。あとは、「L板」でもなんでも使えるんだから。で、負荷をコントロールしてリストとマッチングとを行ったり来たり。自動化には限界があるのは百も承知ですが、ほとんどの高校生は、その遙か手前にも達していないんですから、トレーニングは必要不可欠です。

準備室で他教科の先生も交えて雑談。

  • 一度解いたことがある問題だから解ける。

というところからどう脱却させるか、というような話し。

知り合いの中学生の英語を見てあげているという他教科の先生から、ある問題集の設問とその解答について質問されたのですが、「それは問題が悪い」、という結論に。私が感じるまっとうな文脈は、

  • A pinch of garlic powder [a spoonful of grated cheese] will make this soup more tasty.

というようなもので、中学生用の教材では、使える語彙に制約があるだろうから、どのようにそれを簡略化する、易化するか、というところに意を砕くでしょう、というようなことから、「教材の例文の劣化」の話しに移行。他教科の先生は、私が教えているクラスの担任でもあるので、

英語の教材は、教科書であれ、参考書であれ、真っ当なものなら、模範例文は、ターゲットの語彙や構文やスキルの典型例となるように著者グループが智慧を出し合って作ります。ところが、練習問題になると、その典型例から次第に劣化していきます。まずは、語彙の制約があり、次に構文の制約があるから。ターゲットにフォーカスを当てたいのに、そのtarget structure以外に、未習事項や、targetよりも定着度の低い構文が使われていたりすると、練習の効果が激減します。数学なら、数値を変えることで、パラレルさを担保しつつ、難易度を上げることが可能ですが、英語ではそう簡単には行かないのです。英語の場合、特に教科書からのスピンオフで作られたような問題集では、練習問題が1から5まである時に、問題が「難化」しているのではなく、そこで使われている例文が「劣化」していることが多いので、私は授業で「問題集」を使わないし、「問題演習」に時間を割かないのです。その代わり、語彙は先行で仕込み続けて行き、メインの教材の「質が担保された例文」でのトレーニングに重点を置いています。

というような説明をして、私の授業での狙いも理解してもらいました。

講座を終えて、軽く昼食を済ませて、商店街へ。

スコットランドマートに先月オーダーしてあった「紺ブレ」を受け取りに行きました。フィッティングで何枚か写真を撮って見せてもらったのですが、久々に自分のイメージ通りの服が着られそうで嬉しさのあまり声が大きかったようです。オーナーの奥様から、

  • テンション上がりましたか?いつもより声が大きいですもん!

と言われました。いやあ、着心地手触りはもちろん、色目も生地見本から予想した以上に映えていてホントに嬉しかったので。済みませんでした。写真は近々、お店のブログで紹介されるらしいです。乞うご期待!

帰宅後は、作問を少しだけ進めて、録画してあったユーミンの40周年。

申し分けないけれども、お目当ては、スタジオセッションでの「キャラメルママ」再結成。泣けてきました。

明けて日曜は、畠山重篤さんの講演を聴きに行ってきます。

本日のBGM: 霜の降りた朝 (松任谷正隆) 〜 橋の上で (真心ブラザーズ)