フランスの復興? 〜ウエルベック 服従〜

ウエルベックの『服従』を読み終えた。おもしろかった。舞台はフランスで、主人公は文学教授(19世紀末の耽美主義デカダンス小説家ユイスマンスの専門家)。イスラム主義者が大統領になり、イスラム教徒しか大学教授になれないことになる。主人公は解雇され、経済的にはなに不自由ない年金生活に入る。カトリック修道院を訪ねたりもするが、ユイスマンスのようにカトリシズムへの信仰を取り戻す気にもならない。結局、イスラム教に改宗した学長に説得されて、イスラム教徒となって教職に戻る決心をする。
こう簡単に粗筋を書くと「なにが問題なのか?」という気がするが、まずフランス人はフランス革命以来の政治から宗教を排除する仕組みをとても誇りにしていて、しかも、かつてはイスラム教の国をいくつも植民地にしていたことや、郊外に暮らす貧しい移民の問題からくるイスラム教徒に対する根深い偏見と蔑視があり、さらに歴史を遡れば、ヨーロッパのキリスト教徒と北アフリカやトルコのイスラム教徒は中世を通して戦い続けたライバルであったこともあって、国がそのトップからイスラム化するということほどフランス人の神経を逆撫でする設定はないのだ。
この小説の批評をネットで見ると、あくまで皮肉か反語としか捉えられていないようだ。つまり、先進的なフランスがなぜかイスラム教などという野蛮に屈するという最悪の事態をSF的に描いた反イスラム小説、という見方だ。だがそうなのだろうか?これはむしろ逆接ではないのだろうか?私には、焦点はイスラム教への批判よりも、むしろ主人公がよく利用する出来合いの(冷凍?)食品や売春婦、長続きしない恋愛生活に象徴されるような、現在のフランス人の日常生活の行き詰まり感、しばしば自殺の考えに立ち戻らざるをえないような先のなさ、不毛感、暗さに当てられているように感じた。小説の中で、ルディジェ(大学長)がイスラム教に改宗した理由として、ヨーロッパ文明の終焉への確信を挙げるのだが、この認識こそ、この小説の真のテーマではないだろうか。
いずれにせよ、予断なしに読めば、この小説がどうして反イスラムになるのか分からない。(一夫多妻制を茶化してはいるが。)一夫多妻制の進化論的正当化や「インテリジェント・デザイン」についても、そのままの形で、本気で信じられる人も少なくはないだろう。
むしろ、東洋の一傍観者という立場からすれば、軽いイスラム化(そのようなものが可能であるとしてだが)はフランスをより愛すべき国にしうるのではないかとすら感じられるのだ。 コルドバ!アンダルシア!
国民戦線とともに強面で虚勢を張り続けるよりも、むしろイスラム化したほうが、フランスにローマ帝国を凌ぐほどの可能性が開けるのではないか?……それがウエルベックによる冗談めかした、しかし半分は真面目な問いかけなのではないだろうか。
それはちょうど、日本が中国の完全な属国となり、あらゆるレベルの学校で中国共産党による思想教育を受け入れるときに開かれる、歴史上最大の東アジア大帝国の可能性に匹敵する。それは日本にとって言わば第二の人生で、それまでの人生とはほとんど関係のないものだ。
日本は何も後悔しないだろう……?