2009-12-23
3つの原理
昨日が冬至で今日は年賀状書き。でも、今年のうちにやっておくことがまだ残っているので、冬休み気分にはなれそうもない。
ローレンス・トーブの「3つの原理」を読む。
- 作者: ローレンス・トーブ,神田昌典,金子宣子
- 出版社/メーカー: ダイヤモンド社
- 発売日: 2007/12/14
- メディア: 単行本
- 購入: 3人 クリック: 155回
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内田樹先生が激賞していたビッグ・ピクチャーが語れる未来学者の本。日本のマスコミに浸かって生活していると、「人間世界はこの先どんどん悪くなっていくばかりなのだろう」という気分になってしまうが、そういう考えを揺すぶられる。宗教市場や超人類というところまでいくと「うーん」という感じになるが、この本の未来シナリオ(2050年くらいまで書いてある)を5%くらいは信じてみたくなる。
とはいえ、たぶんこの本を日本人が書いていたら途中で止めていたと思う。中国、コリア(韓国+北朝鮮)、日本が「儒教圏」として近未来にECのようなブロックを形成する、なんていう発想は日本人にはできない。そういう意表を突く発想がところどころに顔を出すので、何となく最後まで読んでしまった、というのが本当のところか。でも読後感は悪くない。
「たしかにビッグ・ピクチャーは流行遅れかもしれない。だが、歴史はばらばらで意味がなく、未来は予測不能という見方は、あまりにも極端にすぎる。日常の歴史的出来事も、表面的には無秩序に起こっているかにみえるものの、歴史の基本となる広大な潮流、言い換えれば「深層構造」には、意味も方向性もパターンも存在する。したがって、歴史の深層構造を心得ていれば、未来のさまざまな出来事も予測することができるのだ」
「本書が示そうとしているのは、人類全体の歴史と将来も、同じ3つの座標を持つということだ。人類が誕生した日に定められた人類の年齢、性、そしてカーストの発展段階という3つの座標である。誰かの年齢、性別、カーストを知れば、その人物に関する多くのことを理解し、予想できることができるように、人類の現在の年齢、性別、カーストの発展段階を知ることができれば、人類に関する多くのことを理解し予想することができるのだ」
「カースト・モデル」というのは、「時代を支配する社会階層は何か」というモデルで、人類は「精神・宗教の時代1」「戦士の時代」「商人の時代」「労働者の時代」「精神・宗教の時代2」と発展するというのが、トーブの考えである。
「「カースト・モデル」は「人類は進歩しているのか」という問いに明確な「イエス」を出している。人類は着実に進化し進歩しているのだ。たしかに、3つの非精神的。非宗教的時代の間に、現実との接点は次第に失われてきた。それでも、各々の時代は、その前の時代よりも確実に改善されている。どの時代も、人間に進化の階段を上らせ、より高く、より成熟させて、その精神的意識を向上させているのである」
「世界はすでに「精神・宗教の時代2」の革命・発展段階に入っている。これは現在の「労働者の時代」の頂点段階と重なり合っているが、この革命・発展段階が進むにつれ、私たちは「労働者の時代」を離れ、その労働と仕事中心の世界観を手放すことになる。世界は宗教性と精神性を重視するようになるのだ」
「精神カーストの革命・発展段階が終わるのは、2030年あるいは2040年頃だろうが、その頃までには大部分の労働者がこの新たなカーストに加わり、新旧二つのカーストは北半球全体で統合し、そのシステムも「精神化」されているだろう」
「グローバルな影響の一つは、世界経済のなかの製造業が安定し、成長が止まる。もう一方の影響は、宗教市場の急速な発展だ。宗教ベルトブロック、とりわけ南アジア連邦と汎セム連邦は、宗教市場の支配勢力となり、一方、北側の大国は、基本的に製造業の市場に依存する状態を続ける。宗教市場の成長と共に、宗教ベルトブロックの勢力が拡大し、逆に北側ブロックの勢力は、製造業市場の安定化とともに縮小する。このため、宗教ベルトブロックは、世界の覇権をめぐって、儒教圏、欧州、北極圏の北側三大ブロックに挑戦するほどの強大な力をつける。こうして儒教圏ブロックの覇権は長くは続かず、21世紀の半ばまでには幕切れを迎えるだろう」
2009-12-06
21世紀最初の天才数学者
数学 |
民主党政権の科学技術政策の行方について、特に先月始まった仕分け以来の科学コミュニティ(もちろん自分や身の周りも含めて)の喧々囂々はすごいものがある。(たとえば、http://mitsuhiro.exblog.jp/12991996/)
こういうことは同時代の意見として記録する意味は(自分に対してもネット社会に対しても)あると思うので、喧々囂々の第一波がどうやら過ぎたこの時期に、当座の自分の意見なり、対応の心構えをまとめてみたい。
・日本社会のシステムがここまで危機的状況にあるという認識はまず基本的に必要。
・国からの研究資金(科学研究費等)のサポートの見通しは現状では不透明だし、数年にわたってあちこちで変なことが起こる可能性はあるが、それはシステムを大きく変えるために必要な揺さぶりだと受け止めることはできるし、また研究者は個人的にはやや楽観するのが生きのびるコツだろう。
・マスコミ、特に新聞・テレビから得る情報量を減らして(商業主義的バイアスがかかりすぎている)、古典的なものを含めて社会科学に関する本を読む時間を増やす。科学者が社会に関わろうとするときに、自分の仕事の説明責任の方にどうしても頭がいくが、そもそも科学や科学者を含む国家や世界がどういう方向をめざすべきかという世界観を自分の中に育てることには注意が向きにくい。でも、50年後、100年後のあるべき姿を想定することなしに、「やや楽観的」という態度を持ち続けることは難しい。
マーシャ・ガッセンの「完全なる証明」を読む。
ポアンカレ予想を証明した(21世紀最初の天才数学者)グレゴリー・ペレルマンの伝記である。
ペレルマンに興味を持ったのは、NHKの「100年の謎はなぜ解けたのか」がきっかけで、その後翻訳が出たオシアとスピーロによる2冊のポアンカレ予想の解説書もなかなか楽しく読んだ。
その時点でのペレルマンの印象は「かなり変わった天才数学者」というまあ一般的なイメージの範疇のものだった。その人生は、グロタンディークやナッシュのように多分大変興味深いのだろうが、それは個人的なものであり、まさかその人生の背後に、ロシアの特産物とも言えるドストエフスキー的な絶対的で過剰な闇がどーんと広がっているだろうとは全く想像しなかった。本書はその闇を見事に描き出している。
多くの理系人間にとって、ドストエフスキーの小説世界は(あの亀山郁夫の新訳が出た今でさえ)最も縁遠いもののリストに入るだろう。それは個人的にとてももったいないことだと思う。「カラマーゾフの兄弟」などの長編小説群で執拗に過剰に展開されるモラルの極北のようなドストエフスキーの世界は、ヒトの「こころ」の最も奥に広がっている何かを経験させてくれる。
この本は、そのドストエフスキー的何かと同じ質のものを、理系人間にもわりと楽に共感できる形で味あわせてくれる。その意味で貴重だ。
「これをもって円は完成した。ペレルマンの頭脳は、コルモゴロフが描いた世界に魅了された。コルモゴロフが描いて見せたのは、不正や陰口がなく、女性をはじめ気を散らすようなものは存在せず、数学と美しい音楽と、公正な見返りのある世界だった。その世界をペレルマンは信じた」
「ペレルマンは、ルクシンと母親がロープで仕切ってくれた数学という空想世界の中で成長した。彼は一人暮らしをしたことがなかった。いつだってルクシンか母親のどちらかが一緒にいてくれたからだ。オリンピックの合宿も、アメリカへの講演旅行でさえそうだった。ルクシンと母親とは、不条理な現実世界や、通訳や仲介者たちとペレルマンとのあいだに入り、緩衝材としての役割を果たしてくれた。ペレルマンが、現実の世界は彼の求める水準に達していないことに気づくまでに、何十年という時間がかかった理由のひとつはそこにある。そして、それに気づくや否や、彼は自分が真実だと思うもの―数学とルクシンと母親―の世界に引きこもった。だが、やがては数学までもが、イマジネーションよりも人間世界に見方をして、彼を失望させることになる。あとには取り残されたのは、二人の男だけだった」
「「彼が幾何学の道に入ったとき」とグロモフは言った。「彼は最強の幾何学者だったよ。この世界から姿を消す前の彼は、間違いなく世界一だった」
「それはどういうことですか?」
「彼は最高の仕事をしたということさ」
さらに話を聞くうちに、グロモフがペレルマンを「世界一」というのは、最強の幾何学者という意味ではなく、あらゆる数学者の中で最強だという意味であることがわかってきた。グロモフはペレルマンをニュートンにたとえたが、すぐにそれを訂正してこう言った。
「いや、ニュートンはずいぶん悪いやつだったが、ペレルマンはずっといいやつだ。彼にも欠点はあるが、そんなものは玉に瑕さ。彼には道義というものがあって、それを守り通している。それがまわりのみんなを驚かせるのさ。よく言われるように、彼の行動が奇妙に見えるのは、彼が社会規範にとらわれずに、誠実に行動してしまうからなんだ。この社会では、ああいう振る舞いは好まれない。たとえ、あれこそが規範とされるべき行動だったとしてもね。彼の一番奇妙なところは、道徳的に正しい振る舞いをすることなのさ。彼の従う理想は、科学が暗黙のうちに受け入れている理想だよ」
そして、この本でガッセンが答えたいと書いている第一の疑問が「なぜペレルマンは、ポアンカレ予想の証明を達成できることができたのか?つまり、その頭脳のいったいどこが、彼とこの問題に挑んだ他の数学者たちとをわけたのだろうか?」ということであったことを考える時、ポアンカレ予想の証明の「異質さ」が逆照射されてくるのを感じる。数学ファンにはそれもまたたまらない。
「ペレルマンの証明の論理をみていくと、何か奇妙な気持ちになるし、皮肉なものも感じる。彼がこの予想の証明を成し遂げることができたのは、あらゆる可能性を見通して把握するという、底知れぬその頭脳の威力を全開にしたおかげだった。最終的に彼は、曲率が成長し、対象が自ら形を変えていくときに起こりうることはすべて把握したと言うことができた。また彼は、トポロジカルな変化のいくつかは、現実には決して起こらないのだから捨ててもよいとも言った。想像上の四次元空間について語りながら、彼の口ぶりは「自然界」で起こること、そして起こらないことを論じているかのようだ。つまるところ、彼は人生においてやろうとしてきたことをやり遂げたのだろう。自然界に起こりうることをすべて把握し、その領域からはみ出すものは―カストラートの声や、車や、その他なんであれ不愉快で特異なものは―すべて消去することを」
「それはまさしく、数学クラブ時代の仲間たちが「ペレルマンの杖」と呼んだ魔法だった。彼はまず問題をまるごと取り込み、それを徐々に煮詰めていく。すると最後に残るエッセンスは、誰も思いもしなかったほどシンプルだったことがわかるのだ」
2009-12-05
世界のジェネレーターは見えない
朝、バスを待っていると、北大路の街路樹が8割がた葉を落とし、道の向こうにある和菓子屋さんが小豆を炊いている煙が見えるようになった。来た冬を感じる、同時に暖かくもある光景だ。
ナシーム・ニコラス・タレブの「ブラック・スワン」を読む。
- 作者: ナシーム・ニコラス・タレブ,望月衛
- 出版社/メーカー: ダイヤモンド社
- 発売日: 2009/06/19
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- 作者: ナシーム・ニコラス・タレブ,望月衛
- 出版社/メーカー: ダイヤモンド社
- 発売日: 2009/06/19
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生協書籍部のいつもの巡回コースに、この本が上巻下巻そろえて2x3くらいの感じで平積みにされているのに気づいて2ヶ月あまり。勝間和代やクルーグマンが並んでいる経済書コーナーだ。気にはなっていて、しかもいろいろなところから激賞の声も聞こえていたのだが、ぱらぱらと読んだり、目次を眺める分には特にぴんとこない。こないのだが平積みが3ヶ月目になったあたりでついに辛抱しきれなくなって読み始めた。
やはり、いきなりは来ない。1章を「のそのそ」と読んでも来ない。しばらくそのまま。今度は目次で面白そうなところから読み始めてみる。でも、どうやらそういう読み方を許す本でもないらしい。
ところが、先週末、偶然が重なって読みたい本が手元に無くなり、これを手にとったところ、3章くらいから完全にはまりこんで、一気に読んでしまった。あ、これは確かに快作だ。
タレブは、自分を懐疑主義的実証主義者と位置づけている。現役のデリバティブ・トレーダーにして不確実性科学の研究者。
複雑系やべき乗則というカテゴリーに入れてしまいそうになるのだが、読み進めていくうちに、こいつはその向こうのことを語ろうとしているんだと気づくと身震いがする。そういう本だ。
表紙の見返しにこうある。
「ブラック・スワンとは、まずありえない事象のことであり、次の3つの特徴を持つ。予測できないこと、非常に強い衝撃を与えること、そして、いったん起こってしまうと、いかにもそれらしい説明がでっち上げられ、実際よりも偶然には見えなくなったり、あらかじめ分かっていたように思えたりすることだ。googleの驚くべき成功も9・11も黒い白鳥である」
キーワードは果ての国(黒い白鳥がいる国、つまり「現実」)と月並みの国(厳密なモデル、あるいはガウス分布で物事が起こるプラトン世界)の対比だ。
「数学が何らかの形で偶然を捉えると仮定し、現実の世界をほんの少し定式化してみようと思うのなら、ベル型カーブで表現できる弱いランダム性を使ってはだめだ。拡張可能な強いランダム性を仮定しないといけない。定式化できる部分だって、だいたいはガウス的ではなく、マンデルブロ的なのである」
「はっきりさせておくと、プラトン的とは、天下りで型にはまっていて、凝り固まっていてご都合主義で、陳腐化した考え方だ。非プラトン的とは、たたき上げで開かれていて、懐疑的で実証的な考え方だ」
「ポワンカレ自身は、ガウスの流儀をあまり信じていなかった。ガウスの流儀やそのほか同じようなやり方で不確実性をモデル化するのを見かけたら、彼は胸が悪くなったんじゃないかと思う。ガウス分布は、最初は、天体観測での誤差を扱うための分布だったことと、ポワンカレが考えた天体の運動のモデルは、もっと深遠な不確実性の感覚でいっぱいだったことを考えてみればいい。
ポワンカレは友達の一人に宛てた手紙でこう書いている。とある「著名な物理学者」に文句を言われたという。物理学者がガウスのベル型カーブをよく使うのは、数学的にそうしないといけないと数学者が信じていると思い込んでいるからだそうだ。で、数学者がそれを使うのは、経験的にそうなっていると物理学者が発見したと思い込んでいるからだった」
もうひとつのキーワードは、カール・ポパー的な実証主義&懐疑主義である。
「バカ正直な実証主義を避けるいい方法がある。私が言っているのは、裏づけになる事実をいくら集めても証拠になるとは限らないということだ。白い白鳥をいくら見ても黒い白鳥がいないことの証拠にはならない。でも、例外はある。命題が間違っていればそうとわかる。でも。命題が正しいかどうかは分かるとは限らない。黒い白鳥を見たら、すべての白鳥が白いというのは間違いだという証明になるのだ。−反例を積み重ねる事で私達は真理に近づける。裏づけを積み重ねてもダメだ!観察された事実から一般的な法則を築くと間違いやすい。通年とは逆に、私達の知識は裏づけとなる観察結果を積み重ねても増えていかない。疑い続けたほうがいいものもあるし、間違いないと考えてもいいものもあるが、観察してえられるものは一方に偏っている。そんなに難しい話ではない」
「そう考えてくると、「因果」という概念はとても弱いものであることがわかる。科学者もときどき因果めいたことを言ってしまっているし、歴史家はほとんどいつもこの言葉の使い方を間違っている。たとえどれだけ不安になろうと、私達は慣れ親しんだ「なぜなら」という考えの曖昧さを認めないといけない。私達は説明をほしがる動物で、ものごとには全て特定可能な原因があると思い、一番わかりやすい説明を唯一の説明だと思って、それに飛びつく。でも、目に見えないなぜならなんて、ないかもしれない。むしろまったく逆で、説明なんてなんにも、ありうる説明の範囲なんてものさえなかったりする」
「あなたに悪い癖を刷り込むのは大学の先生だけではない。第6章で書いたように、新聞は紙面を因果関係で埋め尽くして読者を講釈で楽しませないといけない。でも、誠実でありたかったら、「なぜなら」なんて、めったなことでは口にしてはいけない。歴史を振り返ってみた場合ではなく、実験から「なぜなら」が分かった場合だけにしておこう。−私は原因なんてものはないと言っているわけではない。ここでも議論を歴史から学ばない言い訳にしてはいけない。私が言っているのはただ、話はそんなに単純じゃないよということだ。「なぜなら」を疑ってかかり、注意して扱おう。物言わぬ証拠がありそうな状況なら特にそうだ」
ポアンカレとポパーを持ち上げ、プラトン世界とガウス分布を思い切り引き落とした上で、タレブは、現役トレーダーらしく、<お勧めの行動>をリストアップしていく。
「a まず、いい偶然と悪い偶然と区別する。予測ができないことがとても有利に働きうる人間の営みと、先が見えないことで大きな害をなしてきた営みを区別する。
b 細かいことや局所的なことは見ない。黒い白鳥を厳密に予測しようなんてやめたほうがいい。全てを警戒し続けるのはまったく不可能だということを覚えておこう。
c チャンスや、チャンスみたいに見えるものには片っ端から手を出す。チャンスなんていうものはめったに来ない。思っているより稀なのだ。よい方の黒い白鳥は避けて通れない第一歩なのだ。だから黒い白鳥に自分をさらしておかないといけない。
こうして書いてきたお勧めの行動には一つ共通したところがある。非対称性だ。有利な結果のほうが、不利な結果よりもずっと多い状態に自分を置くのである」
ここまででもかなりすごいが、ラスト10分の1くらいから複雑系・べき乗則の向こうにいくあたりがやっぱり圧巻だと思う。
「これら三冊の本(複雑系の本)に書いてあるアイディアは信じられるが、ああいうアイディアを本に書いてあるような形で使おうとは思わない。ああいうやり方が、著者達が思っているみたいに厳密だなんてなおさら思わない。実際のところ、複雑系の理論から私達が学ぶべきことは、現実を厳密にモデル化したものから科学的な主張が出てきたら疑ってしかるべきだということだ。複雑系の理論で白鳥がみんな白くなったりはしない。複雑系の理論は白鳥を灰色にする。灰色にしかならない。
すでに書いたように、認識論的には、現実からものを考える経験主義者にとって、この世は文字どおり別世界だ。宇宙を支配する方程式を読むべく座して過ごすことはできない。私たちは、ただデータを見て真の過程がどんなものかを仮定し、追加で得られたデータに方程式をcalibrateするだけだ。事象が起これば、それを自分が予測したものと比べる。普通、歴史は前へ進むもので、後ろへ進むものではないことを思い知らされるのは屈辱的である。講釈の誤りを意識している人間にとっては特にそうだ。実業家と言えばものすごく大きなエゴを抱えているものだが、そんな彼らも判断と結果の違い、厳密なモデルと現実の違いで、自分の愚かさをさんざん思い知らされている。
私が言っているのは不透明ということだ。情報は不完全で、世界のジェネレーターは見えないということだ。歴史は私たちに種を明かさない。私たちは推し量るほかないのである」
そこで、私たちはマンデルブロの見知らぬ顔を見ることになる。
2009-11-07
知の巨人と知の怪物
愛読している「レジデント初期研修用資料」の「努力は報われないほうがいい」の記事を読んで考え込んでいる。
http://medt00lz.s59.xrea.com/wp/archives/558
「頑張った人が、「頑張り」に見合った承認を求めると、世代を重ねるごとに、「頑張り」のコストはどんどん上がる」というのはうなずける話なのだが、その先の話を読んでいくと、「では教育はどうすればいいのか」「いやその前に、自分が今やっていることはこれでいいのか」と疑問が次々湧いてくる。でも、確かにこのことは落ち着いてよく考えてみるべきことだ。
立花隆・佐藤優の「ぼくらの頭脳の鍛え方」を読む。
- 作者: 立花隆・佐藤優
- 出版社/メーカー: 文藝春秋
- 発売日: 2009/10/17
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知の巨人と知の怪物が作り上げた空前絶後のブックガイドというのが帯の文句だが、まさにそんな感じ。
ブックガイドの部分はこの新書のボリュームの半分で、残り半分は、知の巨人と知の怪物による手当たり次第のうんちくや洞察が次々と繰り出されてくる対談である。面白い。
「(佐藤)アメリカは、ある意味、フロンティア精神によって、ロマン主義が吸収されてしまったと見ることができるかもしれません。そのためアメリカの思想は、19世紀を経ないで、18世紀から一気に20世紀そして21世紀に進んでしまった。アメリカは、ヨーロッパとはかなり違う世界なんです」
アメリカはロマン主義を経験しなかったヨーロッパだというのはある一面をどんぴしゃで捉えていると思う。
「(立花)人間のダークサイドに関する情報が、現代の教養教育に決定的に欠けていますね。この社会には、人を脅したり、騙したりするテクニックが沢山ある。それは年々発達しているから、警戒感をもって、自己防衛しないと、簡単に餌食になってしまう。虚偽とは何か、詭弁とは何かについて学んでおくべきですね」
これは日々の生活についても当たっているが、同じくらい科学の世界でも当たっている。どれが怪しいデータ(or 解釈)か、Discussinのどこが詭弁かに神経を働かせるのは、(疲れるが)、必須事項だ。
「(立花)公理から出発しなければならない、と考えるのは一つの立場です。そう考えた途端公理系が存在することが前提とされ、その人の考えは公理系の中に閉じ込められてしまうことになる。大切なのは、そういうことを前提とせず、公理系があるかどうかわからないけど、とりあえず、確実と思われる体験事実を積み上げていくことで世界認識を深めていこうと考えるオープンマインディドネスなのではないかな」
生物学なんでまさにこのとおりなのだが、こうすっきり言ってもらうとほっとする。でも、実体はどれが真底確実かがわからない(セミ)泥沼だったりして、たまの休日に数学の本を読んでほっとしたりしているのが個人的実感でもある。そのあたり、まったく悟りとは程遠い。
2009-10-25
メタ宗教としての仏教
思想・哲学 |
ほぼ1ヶ月ぶりに卓球に行く。休み休み1時間半やっていると汗が吹き出してくる。爽快。
河合隼雄X中沢新一の「仏教が好き!」を読む。
- 作者: 河合隼雄,中沢新一
- 出版社/メーカー: 朝日新聞社
- 発売日: 2003/08/06
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宗教に関わらず、哲学としての宗教に興味を持っている人にはかなりおすすめの一冊。たまたま図書館で河合隼雄X中沢新一というのを見つけて読んでみた。
「(中沢)ところがこの知恵の設定が解除される事態が発生してしまった。そのとき大きな国家が出現してきています。帝国の出現ですね。仏教は、帝国というものが生まれるのとほとんど同じ時期に生まれている。ここが「仏教とは何か」ということのもうひとつの本質だと僕は思います。仏教はこの帝国が生まれてくる時代に誕生して、この帝国を生み出すものが人間の知恵を崩壊させていくという危険性を察知して、知恵の回復に取り組んだ思想です。...帝国の内部に帝国を否定していく社会原理をつくりだそうとする運動としての仏教という考え方ですね」
「(中沢)帝国の内側に生きながら、そして帝国もそれを庇護するわけですが、帝国の原理を内部から解体させていく、いまふうに言うと、脱構築の原理がセットされた「宗教でない宗教」「知恵としての非宗教」が作られた。そういう宗教ならざる宗教をブッダは作ろうとしていたんではないでしょうか」
このあたりは宗教にこういう性質がありえるとは思っていなかったので、実に新鮮。
「(中沢)井筒先生が「メタ宗教」という考えについて書かれたときに、イスラムでもスーフィー、神秘主義のほうに入っていくと、ほとんどこれは仏教と同じになってくる、キリスト教だってユダヤ教だってカバラから神秘主義へ入っていくと大体同じになるとおっしゃっていることは、そのことに関わっています。媒介しているのは必ず神秘主義的な体験と言われているもので、これは瞑想です」
「(中沢)で、「瞑想とは何か」、一言で言うと、大脳新皮質の活動を停止させたときに見えてくるものがあると、そのことに尽きると思います。そのときに何か変化が起こってくる。これを井筒先生は「あらゆる宗教が突き抜けていく先がある」と表現されましたけれども、それを脳のなかでどこに探していくかというと、大脳が新しい皮質の活動を停止させたときに、古い皮質が活動し始めていきますよね。そのへんでしょうか」
確かに、「メタ宗教」と瞑想の間にはなんだかつながりがありそうだと自分の禅体験と井筒体験からそう思う。
「(中沢)ユダヤ教やキリスト教やイスラム教は、新石器的な魔術の文化を否定することによって、国家を乗り越えようとしましたが、仏教はそれとは反対に、むしろ新石器的な「野生の思考」を積極的なかたちで生かすことで、国家を乗り越えて、普遍性に立とうとしたのじゃないか、と。
この意味では、仏教は「空」による一神教とも言えます」
