Monologの偽藝

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2005-05-02 バタイユ「内的体験」

内的体験―無神学大全 (平凡社ライブラリー)

内的体験―無神学大全 (平凡社ライブラリー)

バタイユ―消尽 (現代思想の冒険者たち)

バタイユ―消尽 (現代思想の冒険者たち)

今日ようやくバタイユの「内的体験」を読みおわった。正直、もっと面白い本かと思っていたのに中身は非常にわかりにくい抽象的な本で、詩的表現が多く、理解することは非常に困難でした。そもそも「内的体験」とは自分が知っている論理に落ちないものを、えんえんと繰り返し考え、体験することである、とのことらしいから、論理(=言葉)で表現する世界ではないってことなんでしょうけど…。もっとわかりやすくてもよいかと思います。やはり、現代思想の冒険者シリーズ11湯浅博雄著の「バタイユ」が最高です。結局この本を読んでいたからかろうじて部分部分わかったという感じで、この本以上に理解が深まった気はしませんでした。うーむ。

以下感想バタイユの思想の核であろう「消尽」という概念、他に「供犠」「非知」「エロティシズム」「聖なるもの」「内的体験」などの概念とともに、面白すぎてこれ以上知的興奮をかきたてられる思想書があるだろうか、と思わせるほどの本(どっちかというと湯浅の本をさす)でした。ラカンフーコーなどに大きな影響を与えていることは明らかで、現代の心理学差別問題を解く大きな手がかりを与えてくれていることは間違いないです。今までの哲学とは異なりむしろ合理的でない、神秘主義的なものを(バタイユ的にはそうはいってないだろうけど)合理的な世界へと導いたことはニーチェ以来の快挙でしょう。しかし、バタイユラカンフーコーと僕の好きな思想家はなぜかみんなフランス人だなぁ。

まず、バタイユの面白いと思ったところは(自分流の解釈なので間違っているだろうけど)、我々は合理的な考え(合理的という言葉は適切ではないかも。合理的と以前思われていた合理性。我々がバタイユを知る以前に知っていた価値観へと還元可能な合理性)へと還元することのできないものは、異質なものと判断して、無視をしてきたこと、と喝破するところ。例えば、マナの世界(ファンタジーUFO雪男など)や、ブランド信仰宗教フェティシズム、異常性欲、寄付ボランティア音楽文学など我々が合理性をもって説明できないものを、説明してこなかった、もしくは我々が知っていた論理性に還元できる的の外れた説明ばかりして、本来説明すべきことが無視されてきた、という事実をまず説明してくれたことでしょう。人間は未知のものに出会ったときは自分の知っている概念へと還元しようとし、還元できないものは非合理的なものとして無視をしてきた、ということになる。例えば、お金に還元したり、エコノミーに還元したり、本能的欲求に還元したり、など。自分が知っているものを同質なものと呼んでいて、自分の知っているものへと還元できないものを異質なものとバタイユは呼んでいる。例えば、ゲイという概念がなかったころ、ゲイはなんに還元されていたのだろう?異常な遺伝子だとか、ゆがんだ家庭環境だとか、なんらかの既知の原因に無理に還元しようとしたのではなかろうか。犯罪者の行動原因も我々が理解できる原因へと無理に還元していないだろうか。

次に、じゃあどうやって非合理的だと思われていたものを説明するのか?(非合理的なものを説明してしまうとそれは合理的になってしまうので、説明がややこしいですけど…。)つまり、我々が今まで還元してきた概念、例えば、経済、本能的欲求など、以外の概念を新たに導入すればよい、ってことになる。もしかしたら、逆にその新しい概念でもって、今まで我々がしっていた基本原理を説明できてしまうかもしれない。少なくとも無理に説明してきたことがもっと明快に説明できるようになってしまうかもしれない、そんなすばらしい考えが、「消尽」「内的体験」です。まず、「供犠」という概念からこれを説明していくことになるわけですが、この聞きなれない「供犠」というのは、読んで字のごとく、生贄を捧げることです。でも、いわゆる生贄を捧げる、という行為は、今年も豊作になるように、などと、我々の知る経済の向上、未来への期待をこめて行われる(未開人の)合理的な行動、と還元できてしまうわけですが、バタイユは、その合理的な行動へと還元される以前は、未来への期待をこめることなく、生贄を捧げていたと、唱える。家畜などの動物は本来、動物自然の中で生き生きと生きてきたのに、人間の都合で、食物生産の道具へと化してしまった。「供犠」とは、その道具化されてしまった動物を、本来の動物性へと戻してあげる行為だったのではないか、と説くようです。僕の解釈するところでは、動物が道具化されている、ということは、人間の都合によって構造化(分節化)された動物を、カオス(非構造)に戻す、ことではないかと思う。「供犠」のような消費-再生産のサイクルを外れ、通常のエコノミーを逸脱した非生産的な、純粋な消費をバタイユは「消尽(濫費)」とか「純粋な贈与」と呼んだ。この説明できない次元を説明しようと反芻することが「内的体験」であり、説明できないものを体験、体感することになるわけだから、それは、言葉では説明のできない、まさに「体験」になるわけです。日本人なら「わび」「さび」なんて概念があるから、わかりやすいかも。これらを嗜好する合理的説明を外国人に与えるのは非常に難しそうです。けど、概念として、創出するその過程がまさに「内的体験」なのでしょう。最近だと「萌え」なんてのもありますが。バタイユの説明だと「瞑想」とかで説明されていましたが、「萌え」で考えるほうがわかりやすいかも。「萌え」がでる前は「ロリコン」に還元されていたんじゃないんでしょうかね。「萌え」という言葉がなくとも、その概念をつかむ、その行為こそ、「内的体験」といえましょう。僕の解釈では、「消尽」とは、つまり、我々の既知の構造化された概念を破棄し、カオスにもどして、その本来我々が内的体験によって知覚する概念に再構成しなおすプロセスではないか、と。

エロティシズム、禁止と侵犯、聖なるものの出現について。以下、フーコーとまじってしまっているかもしれないけど…。性欲は動物的であり、その暴力性を忌避するために、「最初の拒否」としての、性を抑制する力が働き、「拒否の拒否」、つまり禁止されたものに対する侵犯の欲求が生まれる。これをバタイユは「エロティシズム」と呼ぶ。まぁ、禁止されているから、やりたくなるっていう単純な話ですが、このエロティシズムから、「聖なるもの」が出現するわけです。フーコーとかぶるのですが、最初の禁止、ということがひとつの世界の構造化のあり方であって、同時に、対となる構造が出現する。陰陽道っぽいですが、ある一枚の紙に、紙を分割するような適当な線を縦にひくと、右と左に分割される。その左側が、禁止されたものの構造であり、右側が禁止を侵犯する構造になる。禁止の意味が強くなる、ということは、その線を複雑な形にする、ということになる。つまり、それは同時に右の構造も強化することになる。禁止が侵犯を強化し、侵犯が強化されると、同時に禁止も強化される。このようにして、お互い補強しあうことにより、本来なかった構造が出現することになる。これを「聖なるもの」とバタイユは呼ぶ。

さて、最後に自分が思うことについて。「消尽」と「エロティシズム」と「フェティシズム」の関連について。「結婚」と「不倫離婚」について。性は子孫を繁栄させるための行為、という合理的な説明に還元するとき、フェティシズムとは何なのだろう?どうして、大の大人が、下着に興奮を覚えたり、足をなめたり、目隠ししたり、ゆかたの帯をひっぱってくるくる〜なんてやっているんでしょう?上の「聖なるもの」出現にあたっては、まず、子孫を繁栄させるための行為としての性がある。性が暴力的だから禁止され、禁止と侵犯の中で性が強化される、というわけですが、そのプロセスの中で、子孫を繁栄させる行為のエコノミーから逸脱をしている行為も禁止される。つまり、フェティシズムはエコノミーから逸脱する行為、すなわち消尽であるといえそう。帯をひっぱってくるくる〜とやって喜ぶのは、女性子供を生むための道具から開放し、同時に新たな意味をそこに創出する行為なのではないかと。「結婚」は、子孫繁栄のための行為を推進させるための、禁止と侵犯のサイクルの中で強化されたシステムなのではないかと思う。「結婚」という構造が本来の意味での子孫繁栄を強化する構造だとすると、「不倫離婚」は禁止された構造であり、「結婚」と「不倫離婚」がお互いの構造を強化している、ということになる。禁止されている不倫離婚を心に留めつつ、結婚生活を送る、このいったりきたりの反復の中に、内的体験がおこり、結婚に、新たな価値観が生じる、つまり消尽が起こるのではないでしょうか。こうして、「結婚」と「不倫離婚」は互いに強化しあい、新たな意味を創造する強力システムとして働いてきたのではないかと思います。最近、不倫離婚が当たり前になりつつある、結婚することに意味がみいだせない、なんて話をよく聞きます。これは結婚という構造をただ破壊し、カオスにするだけのことで、不毛なことだと思いますが、結婚不倫離婚という禁止と侵犯が生み出してきた内的体験を超える何かが、新しい価値観のもとに創造されるのなら、結婚も、不倫も、離婚もなくなってカオスになるかもしれませんね。でも、やっぱり、数十年たっても人間は結婚不倫離婚の話をしてそうだけど。(結婚不倫離婚意味がなくなるっていうことは、そういう話すらしなくなるってことだから。)

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