Hatena::ブログ(Diary)

東京から飛んで学校図書館を考える

2017-06-30

SPL2016公開

 今年度の本学司書課程紀要学術リポジトリこちらに公開しました。手前味噌ですが、充実の内容になったと思います。特に、巻頭の二つの特集(公開講演会記録)は、必読ですわ。日本語訳もありますからねっ。
 アメリカからいらしていただいた、キャロルダンカンCarol Duncan)先生の「A "New Museum" and a "New Library" a Century Ago: The Career of John Cotton Dana, Radical Democrat」は、アメリカ文化史研究としても読み応えがあると思います。あの格調高い講演、聴いていただいた方もいらっしゃると思いますが、今、思い出しても、ちょっと準備は大変だったけれど、やってよかった!と心の底から思った公開講演会でした。
 続く、スペインバルセロナからいらしてくださったジョアン・ポルテル・リフ(Joan Portell Rifà)先生の「La literatura i les biblioteques per a nens i nenes a Espanya: Una petita introducció a la història i a les noves tendències de la lectura」は、アニマシオンを通してスペインの読書に関わる活動に関心をもっている方が少なくないと思いますが、その背景を理解するのにとてもいい内容だと思います。正直に言って、日本のアニマシオンの運動って、スペインの状況からあまりにもかけ離れているよ。日本版アニマシオンとしてもう別物なのじゃないかとすら私個人は思っておる。オリジナルと違うから駄目だということもなかろうが、、、
 その他、アメリカその他、世界に広がるオンラインでの図書館情報学教育について、数本の論考あり。あっ、今年、IFLAが開催されるポーランドの図書館の見学記もあります。ぜひご覧ください。

2017-05-16

『われらの子ども』

 もう20年以上前のことになっているが、教育学をやっぱり学びたいと考えて大学院に進学した(学部時代は国文学を専攻していたので、専攻を変えたのだ)。そのときに漠然と考えていたのは、親とは違う関係性で子どもと関わる存在になりたい、ということであった。また、関係性が出会った時点で明確にされていない関係がよいなとも思っていた。例えば、生徒と先生、といった形ではなく、ということである。社会の制度化が進んでいるので、人間関係も制度を前提にすることが一般化していて、そんなことは難しいのだろうなということはまあ、言葉にはならない理解としては当時からもっていた気がします。かつ、経済的自立というのも課題としてもっていたので、結局、教師業に就いてしまった。でも、人生で出会う、親ではない、年上の人間、が私が第一自覚している学生との関係ではあり続けています。
 いっぽうで、尊敬する鶴見俊輔先生が、『教育再定義への試み』(岩波書店, 1999)を出版したとき、教育のどこを論じているかと思ったら、母親との関係からはじまって、ご自分の経験に基づいて語ったという形式のものだったので、これが教育に関する本か、となんだか拍子抜けしたのをしばしば思い出す。タイトルに「教育」という文字を見つけて自分は何を期待してその本を手に取ったのか、ということも考えるし、親との関係が人に一生つきまとう教育の根本だということが鶴見氏が晩年に考えたことなのだなあ、ということもずっと抱えている。
 この春に観た3本の映画で、この後者、親との関係ということの大きさについて改めて考えさせられた。それは、「The Accountant」邦題ザ・コンサルタント)と、「Captain Fantastic」邦題はじまりへの旅)。そして、かの有名な、Forrest Gump(フォレスト・ガンプ)。
 『ザ・コンサルタント』は、国際線に乗るたびに観て、結局3回半くらい見てしまった。銃による殺人のシーンが山ほどあって、銃声がものすごい音量なので、本来、私の好きなタイプの映画ではないし、観るはずがないものだが、ベン・アフレックね(嫌いじゃない)と思い暇つぶしに一度観たら、あまりに印象的で、英語ですべてを聞き取って理解できないものかと繰り返し観てしまった。この主人公はアスペルガー症候群なのだが、母親と父親が育て方について意見対立をしてしまい、結局、父親に徹底的に(父親がしかるべきと思う方向に)矯正するような形で育てられる。実際には、この主人公の描写アスペルガー症候群の特徴とは言い切れない部分がいくつもあるようだけれど(英語で検索するとそういう議論が出てくる)、もちろん、アスペルガー症候群の人間が全員いっしょなわけもなかろうし、あまりそこにこだわらなくていいのではと思っている。発達生涯の子どもを、いかに育てるかという問題提起もしている映画だと思った。
 『はじまりへの旅』も、これまた相当エキセントリックな親の話で、そうなのだけれども、なんというか、アメリカ社会のよくいるハイソな親、家庭との対比がすごく興味深いのです。妹の家庭とすらまったく会話が成立しないような状況になっていて、お互いの子育てに口を出せない、出そうとしたらもう大喧嘩になるというような、そういう状況の描かれ方がコミカルなのだが、もんのすごいリアリティがある。今の日本でもそこかしこにありそうな話だ。子どもは親を選べないとはよく申しますが、改めて、そうなんですね〜。でも、エキセントリックな親だけど、不幸な家族じゃ、ないんだよね〜。そこが、俗に身をおきながら見ている側(私)からすると、ツライというかなんというか。それに、この家族、エキセントリックと言って、学がない家庭じゃない。そうじゃなくて、ハイカルチャー志向で、エキセントリックなのです。そこにも、考えさせられる。
 でもって、フォレスト・ガンプ。テレビで再放送を偶然見かけ、雷に打たれたかのような衝撃を受け、後半ずっと泣きながら観てしまった。なにがこんなに今の私に衝撃を与えたのかと思い、数日後にもう一度、はじめから観てみた。ひとつはこの時代。ジェニー(Forrest's MY GIRLですな)の墓石を見ると、July 16, 1945 - March 22, 1982とあって、戦後直後の生まれであることがわかる。戦後のベビーブーマー。この世代が青春時代に経験したことがずっと描かれているわけだけれど、歌手になろうとしてみたり、カリフォルニアに行ってヒッピーになってみたり、と彷徨うジェニーの生育歴がほんとうにつらいものであることに、今回、改めて気づいた。ヒッピー仲間たちも荒んでる(UCLAのエリート学生だがDV男なんてのも出てくる。彼の生育歴も気になる...)。しかし一番、私にとって泣けたのは、"I am not a smart man, but I know what love is."というシーンと、"Is he smart or..."というシーン。彼が、みんなにsmartではない、というレッテルを張られ続けたことにいかに傷ついてきたかがわかる。ジェニーに求婚して断られる流れで、また子どもが生まれていたことを聞かされたとき、彼の口をついて出てくるのが、"smart"かどうかということなんだよね。ただ、彼が、母親の愛情に関しては、疑うことが無かったというのが救いなのでしょうね。。
 
 まあ、そういう映画を観て、アメリカの現代、そして戦後の社会や教育について軽くですけれど考えていたら、ものすごい本が届いてしまった。それが『われらの子ども:米国における機会格差の拡大』(創元社, 2017)Our Kids: The American Dream in Crisis)であります。前フリが長くてすみません。
 この本は、以前もこのブログでご紹介した柴内康文先生の新しい翻訳書で、原著者はパットナム(Robert D. Putnam)です。このパットナム先生は1941年生まれで、フィクション(映画)といっしょにして語ってよいかわかりませんが、フォレスト・ガンプたちとまあ、同世代?で、フォレスト・ガンプの中で、アラバマ大学への初のアフロアメリカンの学生の入学ベトナム戦争ワシントンD.C.での反戦集会(1960年代)、ウォーターゲート事件1972年)なんかが描かれているが、つらいできごとばかりに見えて、カウンターカルチャーもエネルギッシュで、どこかに楽観的で昇り調子の雰囲気が漂う(あくまでも私の見方ですが)。そのような、1940年代前半生まれくらいの人たちの青春の時代を経て、1970年代以降、アメリカ社会がいかに平等化傾向から格差拡大傾向に転換し、今や富裕層貧困層の分離とも言うべき状態にまで進行していることが、『われらの子ども』では、ライフストーリーの聞き取りの分析と各種の統計や先行研究の整理によって示されている。
 正直に言えば、1980年代後半にアメリカにはじめて滞在したとき、ボストンの都市部で白人のホームレスを見かけたのが印象的だったので、アメリカ社会は(人種というよりも)貧富の差があるのだ、と頭に植えつけられてしまったいた感じが私にはある。とはいえ、白人の多いアメリカ図書館関係者の中で、たまにアフロアメリカンの人に会うと、けっこう赤裸々に自分たちの受けている差別の実感を語ってくれる人もいて、また、唯一、ノースカロライナ州が私が訪れたことのある南部なのだが、ここでは、主として白人が通う大学、アフロアメリカンの通う大学が今もあってということを目の当たりにして、人種ということを抜きにアメリカ社会を見ることはできないということも、図書館関係者のような概してリベラルな人の集りでアメリカ人と出会ってきた私にもわかってはいたつもりではある。『われらの子ども』では、しかし、人種というよりも、あえて、階級、という切り口で現代アメリカ社会の分離を明らかにしている。この「階級」というのは、多くの日本人には驚きかもしれないが、親の教育水準である。上層中間階級=四年制大学の卒業生(とその子ども)、下層もしくは労働者階級=高校より先に進んでいない親(とその子ども)と分けて、両者の分離されたアメリカ社会を描き出している。インタビューの記録が多く、かなり生々しい。
 ただ、「『われらの子ども』のストーリー」(p.293-308)では、この本の中心となるインタビュー調査の背景が明かされているのだが、なんだかこう、そうかー、同じアメリカ人でもここまで労働者階級が見えなくなっているのか、と感じさせられる記述が散見されて、なんだかほんとかなあと。読み手になにかの配慮しているのか、それともほんとうに新たに知って驚いて書いているのか。だいたい想像のつくようなことが、新たな発見だったかのように書かれている感じがするところがあるのだよね。例えば次のような記述(「ジェン」とは調査実施者)。外国人の方が、こういう経験が理解しやすいということなのかなあ。それとも、社会学のインタビューの分析って、あたりまえ、を排除した記述法が必要ということかもしれないかなあ。

若く、黒人で、労働者階級であるということがどういった感じなのかをわれわれが一瞬で知ることになったのは、ミシェルがジェンとともにクレイトン郡を注意深く運転していたときのことである。彼女は軽微な違反で警察に止められることを恐れ、また荒っぽい近隣地域の危険をジェンに警告してきた。

 ところで、この本には、司書図書館がポツポツと出てくる。パットナムは、Putnam, Robert D. and Lewis M. Feldstein. Better Together: Restoring the American Community. New York: Simon & Schuster, 2003.の第2章で、シカゴ公立図書館ニアノース分館が、貧富の格差のある 2つのコミュニティ境界に建設され、両コミュニティー社会関係資本醸成の場となったという話を書いている(この本は日本語訳が出版されていないのが残念)。図書館の社会的な意義について理解のある社会学者なのだ。今回の本では、インタビューで、スクール・ライブラリアンが前向きで勇気を得るような助言を与えた話が複数、紹介されている。図書館が視野に入っているのだなということは全編を通して感じたのだが、笑ってしまったのが、社会階級についての説明で例外として、「例えば教育水準は高いが給料の低い図書館司書、あるいはほぼ無学の億万長者」(p.55)と書かれているところ。この2つの例示の対比!いや、笑いごとではないですね。まあ、世界共通の図書館関係者の悩みであり、ここは図書館専門職に関する分析のしどころでもありましょう。
 巻末の「訳者解説」(p.315-327)は私のこの本の理解を進めてくれてありがたかったのですが、特に、「各章のテーマとインタビューの登場人物」の表(p.318)は、著者たちが作らなかったのはなぜなのというくらい有用。特に社会学教育学等の先行研究と関連づけて議論するあたりになってくると、各章のインタビュー協力者の名前が入り乱れてくるのだが、これだけ厚い本だと、えっとこれは誰だったっけと思い出すのに、私程度の能力の人は一苦労。この表は使えますので、秘密兵器として(?)、みなさんにお教えしておきます(笑)。
 日本でも、教育はどんどん、私事化してきていて、他の家庭の教育を覗くこと、ましてや意見することなんて、できなくなっていると感じる。親によって、『はじまりへの旅』のそれぞれの家庭があまりに違い、意見交換もできなくなっているように。ただ、パットナムは、アメリカでは、家族以外の大人が「助言者(メンター)」となり、「実際知(サヴィ)」を与える事例があること、といっても上層階級の子どもの方がずっと多くを得ていることを指摘している(p.240-244)。私個人は、ここがアメリカと日本は違うんだよなあ、というところ。家族ではない他者に出会わせよう出会わせようとする、というベクトルが、アメリカの(上層階級の)親にはあるのだよなあ。日本の教育熱心な親たちには抱え込みのイメージをもっているが、気のせいか、被害妄想か?
 大部の本で、気になるところがたくさんあり、短時間で書いて紹介しようとしてもまとまりませんが、アメリカだけでなく、日本の教育を考える際にも新しい切り口、視点を提供してくれると思います。翻訳の質も信頼でき、読みやすいです。こういう翻訳ができる人間になりたいものだ。。。

2017-03-04

アバディーンの図書館

 図書館情報学のオンライン・プログラムを提供しているRobert Gordon Universityで教育の実態についてインタビュー調査をするために、スコットランドアバディーンに行ってきました。アバディーンに3日、滞在した間に訪れた図書館について、ここにも少し書いておきたいと思います。ちなみに、この大学の創立者であるRobert Gordonさんという方はですね、昨日知ったのですが、今のポーランドグダニスクDanzig)でビジネスで大成功して富を作ったという方だそうで(参考;英語のページです)ポーランドに寄ってから調査に来た私には奇妙なご縁と感じられました。スコットランドって、フランスポーランドなんかと歴史的に深いつながりがあるのですね〜
 学校図書館は2館、訪問しました。ひとつは市内中心部にある公立中等教育の学校(6 year comprehensive secondary school)で、生徒数は約900人の学校です。もうひとつは、インターナショナル・スクールで、生徒数は300人くらいだということでしたが、アバディーンは石油の街なので、石油ビジネスが盛んな時期は500人だったこともあるとのことでした。ともに、正規・専任・専門職ライブラリアンが配置されていました。公立学校の図書館では中学生の授業を見学させてもらい、インターナショナル・スクールではプレスクールの授業を見学させてもらいました。いわゆる読書/図書の時間のような授業でした。
 公立のこの学校図書館ライブラリアンの方は、元・英語教師でした。学部卒の後、最初はトルコのインターナショナル・スクールで教えていたそうです。そして、アバディーンに戻り、図書館学のpost-graduate(学部卒で入学可)を経て(修士号までは取らなかったそう)今のポストを得た、ということでした。彼女の学生との関わり方は、私の目には教師そのもの!ちょっとリベラルな、お母さんのような、お友だちのような先生、という感じです。生徒たちも彼女を教師の一人とみなしているように見えました。
 そこで、いかにも日本の学校図書館研究者の質問かもしれませんが(笑)、知的自由(日本の図書館関係者は「図書館自由」と言うかな)について聞いてみました。「生徒は買ってほしい方のリクエストはしてくる?」「してくるわよ」。「これは買えないなあ、とかこの学校図書館には適切じゃないなあとかいったリクエストもある?ハリー・ポッターキリスト教の親の反対があるから読ませられないとか、無いの?」「Umm…let me think…」で長い沈黙…「記憶にないなあ。ハリー・ポッターも買っているわよ。そういえばそれにはおもしろい話があって、ハリー・ポッターを家に持ち帰れないからって学校図書館で読んでいる女子生徒がいて。親に怒られるからここで読んで帰るって。原理主義の親ね。私は生徒が読むかどうか、で買っている。読むだろうと思うものを入れるわ」。「性的な表現、暴力などは問題にしない?」「ううん。オカルトだって、ほら、入れているし。あのね、生徒たちは、if she thinks she isn’t ready for it, she won’t read it. if she feels uncomfortable with the book, she would probably say “this isn’t mine” and return it to the library.(もし彼女がその本を読む状態になっていなければ読まないだろうし、もし本を読んでて不快な感じがすれば、「これは私のじゃない」とたぶん言ってきて、返してくるわよ(注:この会話は、私の記憶から英語を起こしておりますので、表現の細部は違っていた可能性があります)」。おーー、生徒がmatureだ(成熟している)。そして、先生は生徒を信頼しているなあ。
 ただし、「図書館コンピュータでゲームはダメ」だそうです。学校のパソコンには以前はフィルタリングソフトが入っていたのだけれど、今、何か政府の事情(コンピュータのシステムの変更中みたいでした)で入っていないそうです。ただ、以前、入っていたときに、コンピュータでゲームをしているのを見つけると、カウンターのPCから、その生徒の遊んでいるパソコンのゲームを遠隔操作で止めて、そうすると生徒が「あれ?」となるので、カウンターのPCから、生徒のPCの画面に「なにやってるの?」とメッセージを送ると、「え?なにこれ!」と生徒が驚いて、というのがほんとにおかしくて!とライブラリアンの彼女は笑っていました。「フィルタリング・ソフトが入っているのは生徒たちにあらかじめ言っていたの?」と聞いてみたのですが、まあ、モニターされていることに気づいた生徒がびっくりするっていうのだから、してたわけないですよね、この問いは流れました。図書館内のパソコンの状況をそこまで管理できる、覗くことができるという話ですから、知的自由の視点から言うとどうなのかなと思わなくもないのですが、ライブラリアンの彼女は教育の場で、決まりごとがあることなのだから、まったく当然という感じでした。図書に話を戻して、「ちょっと変な本ばかり読んでいるなという生徒がいたら、他の先生に言う?」と聞いたら、肯定的だったので、「何を借りたかも言ってしまうの?」とあえて突っ込んでみたところ、「何を借りたかということだけではなくて、行動として心配なことがあれば、適切な先生に連絡しておくのは、当然のことよね」ということでした。生徒の利用記録の守秘義務は、学校図書館における知的自由との関わりではすごく難しい問題だと思いますが、このライブラリアンの彼女に関して言えば、基本的には教育スタッフの一人として、行動するのだな、と理解しました。
 学校図書館のコレクションについて、日本の中学生にあたるクラスを読書の時間(英語の授業の一環)として学校図書館に連れてきた英語科男性教員にも聞いてみたところ、おもしろく読むならなんだっていいさ、という感じでした。とにかく、このクラス二十数名の中に、入学時に6歳程度の英語力と判定された子から、16歳程度と判定された子までいるのだから。とにかく読めるようになってほしい、と言っていました。この男性教員は、ライブラリアンの彼女のことを、みんなが忙しくなるようにする人なのだよ、と、笑って言っていました。ライブラリアンの彼女はこの学校に来て5年になるそうですが、この間、他の教員たちに、information literacyからなにから、いろいろ提案してみたそうです。そして結局、Accelerated Readers(イギリス版のHP)を導入したそうです。このシステム(商品)については、たしか以前もブログで書いたことがあるのじゃないかと思いますが、私が20年前にハワイ大に留学して図書館実習を3か月間、現地でした際、隣の中学校で導入がはじまったところで、他のライブラリアンたちが、これからはinformation literacy instructionの時代なのに、そんな古典的な読書推進のシステムを入れるなんて、という感じで批判していたのを聞いたりもしました。私も、そういうprogressiveな人たちに影響されて、なんじゃこりゃと思ったのですが、実際、広まったのですよね。まさかスコットランドでこれがうまくいっている例を、20年後に見るとは。私はほんとうに、先の読めない人間ですわ。。。
 Accelerated Readersは、英語科の先生たちといっしょに導入、実施しているとライブラリアンの彼女は考えているようでした。数年前までは違ったらしいのですが、最近は、少なくともフィクションについては、英国で出版されている、生徒の読むような本のほとんどがこのプログラムに導入されていて、読後のテストもあるので、買う前に確認したりすることも無くなった、とライブラリアンの彼女が言ったとき、英語科の男性教諭もどういう本が入っているかをある程度知っているような口ぶりで同意していました。子どもたちは、本を読み、テストで100点を取ると、カウンターで星をもらい、自分の名前を書いて、この写真の夜空に星を付けていく(けっこう無邪気に嬉しそうに)。また、いっぱい読んでテストに受かってという子の上位者ランキングは、学校図書館内の写真右手の掲示板だけでなく、学校の入口近くの掲示板にも貼りだしているそうです。f:id:to-yurikon:20170227091749j:image:w360:right
 そして、ライブラリアンの彼女が、午前の15分休みに、教員のお茶のお部屋に誘ってくれました。ソファがいっぱいあって、コインでお紅茶とスコーンを買って、教員たちが一息ついていました。男女半々くらいだったかなあ。来ない先生もいるけど、ここに来ると、いろんな人と出会えるから、それに学校図書館専門職って学校に1人しかいないくて孤立してしまいがちだから、私は来るようにしている、と言っていました。この間、学校図書館には鍵を閉めてしまっていて、以前は開けたままにしていたのだけれど、生徒たちがめちゃくちゃにするので、もう閉めることにしちゃったの、と言っていました。お茶を終えて戻ったら、次の授業が学校図書館で行われるクラスの生徒数名が学校図書館の前で待っていました(笑)。
 「社交的(social)なのねー」と問いかけたら、「学校図書館はsocialな人しか務まらないわよ」と。「学校図書館に勤める人で、socialじゃない人はいないの?」と聞いてみたら、「図書館情報学を学んでいたときにsocialではなさそうな人もいたけど、そういう人は学校図書館は選ばなかった」と言うことでした。「教師の仕事が嫌で、学校図書館に移ったの?」という質問には、「ううん。教師でよかったのだけれど、学校図書館の仕事がしたくなったのよ。ただ、教師だったとき、採点(scoring)は嫌いだったわね。」「評価(evaluation)のこと?」「うーん。ずっと採点(scoring)しているのは、嫌だった」と笑いながら、言っていました。英語科はテストがまだまだ多いのかなと思ったりしました。
 彼女は、私に、できるだけ日常の自分の仕事を見せてくれようとしていたので、観察していたところ、生徒が本を次々返しに来るのに対応しながら彼女は「Do you like it?」などと必ず、本についての声かけをしていました。そして、次々、イベントをしかけているようでした。英語科の教員が彼女のせいで忙しくなる(笑)、と言うように、この日の授業の後半では、World Book Day(どうやら日本の世界本の日(=世界図書著作権デー)が、日本とは違い、英国では3月第1木曜日になっているらしい)のイベント、「Design A National Book Token Competition」に誘っていました。生徒たちの中で、静かに読書をするのに飽きた子たちは、すぐにこのワークシートを取りに行って、ブック・トークン図書券のようなものですかね)のための絵を描きはじめていました。そしてもうひとつ、彼女独自のBook Hunt(本探し)のイベントも企画していて、それに生徒たちを誘っていました。オーサー・ビジット(著者の招へい)イベントもしているそうです。
 一人でいろいろ準備して、実施して、よくやっているなあと思いました。分類、受入業務配架もすべて自分でやっているそうです。「Library Clubはないの?生徒に手伝ってもらわないの?」と聞いたら、「クラブはない。生徒は以前、手伝ってもらっていたこともあるのだけれど、カバーかけにしても、配架にしても、きれいにできないし。生徒たちが一番やりたいのは、カウンターに座って、スタンプを押すことなのよ!それに、カウンターに入れるというのも、いろいろ置いてあって、気になるし」とのことでした。日本の先生なら、例えばカバーなんかは、汚くなっても、何度か練習させて、きれいにできるようになったら手伝わせてしまうような気がしますが、どうかなあ。まあ、コストのかかる話ではありますよね。

 さて、この翌日に行ったインターナショナル・スクールでは、プレスクールから11歳までは毎週、クラス単位で学校図書館に来て、ライブラリアン読み聞かせやちょっとした調べもののワークをして、本を借りていくそうでした。12歳から14歳は二週間に一回、クラス単位で学校図書館に来て本を借りていく、そして14歳から18歳は、クラス担当の先生のリクエストに応じて、ライブラリアンがクラスに出向くということでした。このプレスクールの読み聞かせの時間を見せてもらったのですが、すっごくかわいかったです。一般的な読み聞かせでした。その後、借りて帰る本を探す時間がありました。子どもたちの中に、英語以外の本を探したい子がいたら、そのコーナーにライブラリアンの彼女が連れて行っていました。こういうふつうの読み聞かせの次には、ちょっとした調べものをさせる機会ももっているそうで、例えば、6歳のクラスに、「動物たちは暖かいところで生きられるか」という課題を出して、子どもたちが特定の動物が生きられるかを学校図書館図書で調べる、といったことをしているそうです。でも、特定のプロセス・モデルを教えるというようないかにもの情報リテラシーの授業はやっていないとのことでした。先生たちに頼まれれば、著作権を教えたり、引用指導をしたり、するけれど、教科の先生たちもけっこう教えられるのよね、とのことでした。「それって、スコティッシュの先生?」と聞いたら「うん。あとアメリカ人とかね」ということだったので「アメリカ人の方が情報リテラシーを教えられる?(笑)」と聞いたら、「それは人によるわね。アメリカ人だからとかスコティッシュだからとかじゃない」と。
 彼女は学部哲学文学を学んだ後、大学図書館で1年間働いて、そしてロンドン図書館情報学修士号を取得し、タイでインターナショナル・スクールの学校図書館に勤めた後、アバディーンに来たということでした。インターナショナル・スクールの生徒の多様性が好きで、今の学校が生徒の年齢に幅があるのも楽しいと言っていました。一人で運営責任をもっていて、のこり、15人くらいの母親のボランティアがいて、毎日2、3人が手伝いに来てくれているということでした。ボランティアの人たちの仕事を決めて、用意して、指示をしてというのもけっこう大変そうだなと思いました。この彼女も、年に1回はオーサー・ビジットをしているということでした。
 アバディーン学校図書館では、自分で自分の読む本を見つけられるようになるというのがすごく重要だと考えられているのだな、と思ったのが、左の写真のミニ掲示を見たときでした(もっと小さい子たちの書架にも似たようなミニ掲示がありました)。f:id:to-yurikon:20170228112935j:image:w360:leftこれって、前述の公立ライブラリアンが自分で読むものは自分で選ぶでしょう、という趣旨の発言をしたことと一致する考えに基づいているなと思いました。小学生に、1ページに5つ読めない漢字があったらそれはあなたには難しい本だよと教えるとかいった方法は日本にもあると思いますが、その後、いかに本を読み続けるように、読書材の選択方法を教えていくかですよね。私は、大学にいて、しばしば、「先生、何を読めばいい?何かおもしろい本を教えて」と言われていて、いやその年の人に本を薦めるって難しいよね、私の専門分野じゃなくて、もっと気軽な読み物のことを言ってるみたいだしなーと思っていました。本を薦めるって、相手を知らないとできませんしね。こちらのインターナショナル・スクールの学校図書館では、背に「Mystery」とか「Romance」とかいったシールを貼っていました(右の写真のように)。f:id:to-yurikon:20170228102654j:image:w360:rightこれも、生徒の図書選択のための工夫だそうですが、厳密なものではなく、この本はミステリーだな、とライブラリアンの彼女が判断して、シールを付けていると言っていました。これは、他の学校図書館の実践で見かけて、真似してみたら有効そうなので、継続していると言っていました。

 このほか、アバディーン公共図書館の中央館(Aberdeen Public Libraries Central Library)、Robert Gordon University Libraryアバディーン大学のKing’s CollegeのSir Duncan Rice Libraryに行ってみました。公共図書館はすごく充実していると思いました。スコットランドイングランド公共図書館の違いがわかっていないのだが、前川恒雄さんたちが英国図書館を参考にしたというのもわかる気がしました。より歴史があり、伝統的な図書館観がちゃんとあって、日本人にはアメリカ公共図書館より馴染みやすいのじゃないかなと思いました。大学図書館は、Robert Gordonは新しい大学だけあって図書資料は少なかったです。Sir Duncan Riceは、ものすごい人が出入りしていて、ネット上でも大好評だったので、イザと思ったのですが、学生IDで入館を管理していて、私の方も時間がおしていたので、一階だけ見て出てきました。
 一階では、自動返却機が動いていました。わたくしが現在勤める大学では、自動貸出機はあっても、返却作業は人が一冊一冊をチェックして行っていて、時にoffensiveな印象を受けるので、もう返却も自動でいいよ、と16世紀から続く大学で自動返却機が動いているのを見て、改めて思ったのでした。。。人間を置くべきところとはどこか、ということなのですよね。日本では、妙なところ(要するに単純作業;貸出・返却のカウンター業務単純作業ではないという議論もあるとは思うが、それは今の大学図書館や中規模以上の公共図書館のカウンター業務の現実からかけはなれていると私は思う)に人間を配置して、人間の思考や専門性の求められる部分がすっぽり抜けていたりする。なんで、単純作業に人をしつこく置いて、専門性が求められるところに誰も置かない、という判断をするのかなとしばしば不思議に思います。
 最近、私の自宅の最寄り駅の東急スーパーが、レジに自動精算機を導入したのですね。ところが、商品のスキャン(スキャンして違うカゴに移す作業)は人間がやっている、つまりお客を信頼していない。で、清算だけ、機械にお金を入れさせる、つまり、今度はレジ係のお金の取り扱いを信頼していない、ということですかね。わかりませんけど、はじめて見たとき、気が狂いそうになって、「なんじゃこりゃ!もう来ないかもね!」とつぶやいてしまいました(笑)。アマゾンのレジ無し店舗、Amazon Goを知ってるのかね(知らない方は絶対にgoogles先生に聞いてくだされよ)、東急スーパーの上層部は。。。なぜ自動化するのか、どこを自動化するのか、何がコストなのか、どこでペイするのか、考えろよ!図書館も同じ。どこがコストとして許されて、どこで価値が生まれるのか、新しい機器、プログラムの導入にあたって、こういう計算を適切にしてほしい。図書館専門職を非専門職を置くコストとそれによってもたらされる価値。もちろん、図書館の場合、儲かるということではなく、社会にもたらされるあらゆる価値を考えてみる必要がある。
 アバディーン図書館については、これくらいで。

2017-03-01

アウシュビッツ。。。

 なるべく感情的にならないで、もう少しだけアウシュビッツについて書いておこうと思います。
 こちら、アバディーンに来てから、2つの学校図書館と、公共図書館大学図書館を1館ずつを見学しました。明日、最後に1館、大学図書館を見学するつもりです。これらの見学については改めて、ブログに書くつもりでいますが、これまでに見た2館の学校図書館と1館の公共図書館で、歴史のコレクションの開架では、第二次世界大戦がどんなコレクションになっているのかを見てみました。ホロコースト第二次世界大戦の資料でかなり重きを置かていることがわかりました。原爆投下についての資料もすべての館にありました。特にホロコースト第二次世界大戦の他の問題よりも、学校図書館では重きを置かれていてるようでした。私は昨日まですっかり忘れていたのか、もしくはちゃんと勉強していなかったのか、なのですが、イギリスでは、The Kindertransportというプロジェクトが第二次世界大戦中にあって(参考資料として、イギリスのThe Holocaust Memorial Day Trust (HMDT)という団体による説明のページ(英語です))、約1万人のユダヤ人子どもたちがドイツオーストリアチェコスロバキアから(親たちから引き離されはしたものの)英国に呼び寄せられて、命だけは助かったということがあったのでした。このプロジェクトの意義を、英国で出版されている子ども向けのホロコーストに関する本では必ず書いてるようです。当然ですかね。
 アウシュビッツを訪問し、その後、アバディーン図書館ホロコーストに関する本を何冊か読んで思ったのは、「systematic murder」という言葉の重要性です。この「systematic」という言葉がすごく重要なのだと思います。日本語のホロコーストに関する本にはここをきちんと訳せてというか、書けてというか、いないものが少なくないのではないかと思ったりました(この私の理解が間違えていたら、ご教示ください)。ホロコースト(the holocaust)は(ユダヤ人の)大虐殺(mass murder)のこと、という説明が日本語ではすごく一般的だと思うのですね。でも、アウシュビッツに行って思ったのは、これが「systematic」な大量虐殺であったということが、誤解を恐れずに思い切って申しますが、私の考えでは、他の大量虐殺と違うのだ、ということなのです。「ユダヤ人問題の最終的解決」("Final Solution to the Jewish Question":"die Endlösung der Judenfrage")は、近代的な思考によって人間によって考え出された、他の特定のグループの人びとの大量虐殺のシステムなのです。。。これがシステマティックであったことが、近代的であると言え、近代の恐ろしい部分を象徴しているように思います。
 アウシュビッツでは、到着と同時に、人びとが、労働力として価値があるとみなし生かしておく人びとのグループと、そのままガス室で殺されるグループとに分けられますが、ここで生かされた人びとについては一人ひとりについて記録カードが作られていました(写真参照)。ただ、後には、カードを作らずに、人間に番号の入れ墨をして管理するようになったと聞きました。この記録カードが、近代の図書館の目録とあまりにも似ていることを指摘するのは、不適切でしょうか。。。この記録カード以外にも、あまりもきちんとした記録管理がされていたらしいことに、私は驚きました。あまりにも官僚的な仕事ぶりなのですよ、、、そして、戦争末期には、記録を処分することも忘れていませんでした。多くの記録が失われたということです。f:id:to-yurikon:20170224121859j:image:w360:right
 アメリカでは、ユダヤ人研究者ライブラリアンにしばしば出会います。これらは彼らが悪いとは思っていない仕事なのだな、と思っていました。『刑務所図書館の人びと:ハーバードを出て司書になった男の日記』の原著者(主人公)も、ユダヤ人ですね。もっとも、落ちこぼれの(笑)。この本の中で、主人公がいかにアメリカユダヤコミュニティ落ちこぼれていくかが書かれているのだけれど、アメリカユダヤ人のここ二十年くらいかなー、の若者の実態が書かれているなあと思いました。ユダヤの価値観であるとか、ユダヤ人同士で結婚しなければという雰囲気であるとかに、ある程度の年齢になると葛藤する。親に反発し、ユダヤ人コミュニティに反発し、ユダヤ人であるということについて考える。とある、ユダヤ人男性に言われたことがあります。キミに興味がある。というのは、自分はユダヤ人というマイノリティで、キミは日本で1パーセントのカトリック信者というマイノリティだから、と。十数年前かなあ、けっこう本気で言ってるように思えたから、びっくりしました。信仰の問題でマイノリティだという共通点で近しく感じるとは、と。でも、私もここ何年かで、彼の発言の意味が少しずつわかってきたような気がしています。
 最後にもうひとつ。アウシュビッツは、アウシュビッツ=ビルケナウ博物館としてポーランド(国)が管理しているのだそうです。この博物館のHPには、簡単なものながら、日本語のページもあります。ここから、現地で購入できる2つの冊子のうちの1つが無料で、PDFダウンロードできます。この中に「博物館か記憶の場か」というコラムというかがあります。アウシュビッツ博物館museum)と呼んでよいのか、という議論があるというお話です。はじめて、アウシュビッツ博物館という名称だと聞いたときに違和感をもったのですが、このコラムをやっぱり議論があるのかと思いました。「博物館」とは何か、と考えさせられます。
 ではこのくらいで、アウシュビッツの話は終わりにしましょうか。

(2017.3.3追記)ところで、私たちはお会いできませんでしたが、現地で公認ガイドをしている中谷剛さんのこの記事いいです。また、私たちが旅行中に、NHKが放映したこの番組もすごくよかったと複数の人から情報をいただきました。再放送もあります。

2017-02-28

ワルシャワでの図書館見学

 スコットランドアバディーンという街に調査に来ています。ここには昨晩(26日)深夜に着いたのですが、この前、ポーランドにちょっとお休み取る形で寄ってきました。司書課程で学んでいた学生が、ワルシャワ大学に交換留学で行っていて、彼女に会いに行ったのです。IFLAは今年、ポーランドで開催とのことで興味をもっている方もいらっしゃると思い、ちょっと紹介を書いてみます。
 今回、その留学中の彼女が、英語を話す司書の方と約束してくれていて、その方の案内で、ワルシャワ公共図書館の本館の充実した見学ができました。この本館のHPには英語版の規則も載っていますので、ぜひちらとご覧になってみてください。また、学生の彼女が今度、おそらく『図書館雑誌』に少し紹介を書いてくれるので、それも載りましたらご覧ください。彼女のブログこちらワルシャワヨーロッパ図書館のことがちらちら出てきます。
 さて、ワルシャワ公共図書館こんなところ(google mapへのリンク)にあります。この立地が重要なのだそうで。このあたりは日本の青山といったところらしく(笑)、まあ、集う人たちの年齢層は少し高いのだろうが、いちおうおしゃれな場所ということらしい。そこに、図書館がリノベされた、というので、おしゃれな感じの学生たちで図書館はいっぱいでした。でも、みんな、場所だけ使っているのじゃないんだよ。図書館の資料を複数広げている。本が、学生にとって高いような気がする。あと、Humanities中心のこの公共図書館が、その分野の勉強をしている学生にとって貴重な歴史的資料の宝庫なのかも。f:id:to-yurikon:20170225155221j:image:w360:right
 おもしろかったのが、2015年に新館として開館した部分と旧館を残した部分があるのだが、そのギャップの大きさ。ヨーロッパの格式ある図書館リーディング・ルームそのものという感じの旧館部分の写真をあげておきますが(ちなみに利用者は写真に写っていないところにたくさんいました。この写真の部屋はかなり広いのです)、新館については留学中の彼女のおそらく掲載される『図書館雑誌』の記事をご覧ください。白基調で、大胆な吹き抜け、ガラス多用の明るい図書館になっていました。ポーランドの著名な建築家の事務所がコンペで勝って設計したそうです。
 案内してくださった司書の方いわく、とにかく、図書館が新しくなって、開架の本が多くなり、快適な空間になって、利用者が増え、図書館滞在者が増え、もうとにかく新しくなったのよ!と。日本の図書館がどうなっているか知らないけど、これはポーランドでは新しい動きなの、と若干興奮気味に、おっしゃっておられました。ヨーロッパ公共図書館変革の波がポーランドに!ということのようです。
 このあと、ポーランド国立図書館(英語のHPへのリンク)に連れて行ってもらいました。建築とシステムがNDL永田町本館とすごく似ている感じがしました。びっくりした。図書館学研究のための部屋もありました(NDLには無くなってるけど、昔はあったよね)。世界の図書館をすべてそろえて、類型化した研究ってないのじゃないかな。まあ、お金かかるけれど、やれたら、博士号取れますな。誰かやってほしい。ワルシャワ大学図書館は、見に行く予定にしていたのだけれど、時間切れ。留学している彼女のブログを見てくだされ(これこれ)。

 さて、実は今回、私が担当している「図書館総合演習」に登録している/過去にして今も自主的に出てくれている学生たち数名とポーランドで合流し、アウシュビッツ訪問についていきました。いや、つらかった。この後は、もう混乱した話で、図書館も出てきませんので、、、読み進めないでいただいてもまったく構わないと思います。
 さいしょ、私はアウシュビッツは絶対に行かないと言っていたのだ。でも、周囲(学生含む)に説得され。。。『夜と霧』すら読むことを避け続けてきたわたくし。フランクル著作は、他は何冊か読んでいるが、『夜と霧』はタイトルからしてつらすぎる。ただ、これの原語タイトルはまったく違うんだよね。原語のタイトルの日本語訳を付けている別のフランクルの翻訳の本があって、『それでも人生にイエスと言う』という講演集。変なことになっちゃってるんだよなあ。でもこのタイトルなら読める気がして、こっちは読んだ。『夜と霧』は読んでいないが。以前、D大学にいたころ、グルグル考え続けて苦しんでいるゼミ生がいると貸したりもしてた。今回、アウシュビッツに行って、『夜と霧』を読む準備ができたように感じている。近々、読みたいと思います。
 宗教に抵抗のある方も読んでいると思うので、ちょっと書きづらいが、カトリック信者の私としては、ポーランドは、あの世とつながっているという感じでした。天国なのかわからないが、神の存在を感じる。天国みたいなところでした、ってことじゃない。神の存在が、ポーランドではリアリティをもって感じられるということ。出会った人たちも、みなすごく素敵でした。shy、でも、人間が実は誰ももっている温かさの温度がちょっとだけ高い感じ。情報のあふれるザ先進国の人たちとは、見えているものが違う人たちだなと思いました。一度、住んでみたい。
 アウシュビッツを訪れてから、ふとした瞬間に、身体の底から、何かものすごく悲しい気もちの塊のようなものがこみあげてくる。ポーランドに魂が取り上げられるような、離人症のような感覚。アウシュビッツ見学そのものが、離人症的にならないと、無理です。その塊を抑えながら、アバディーンの空港に真夜中に降り立ち、タクシーに乗ったら、とっても素敵なshyな笑顔のお兄さんがドライバーで救われた。そしてタクシーに乗ってほっとしたところでラジオから聞こえてきたのが、hey jude。あー、イギリスだわなんて思いながらホテルに着いて、もう一度、スマホからhey judeを聴いてみたら、、、歌詞の中のher、なんじゃこりゃとわからないでいたherがGodと思うと、歌詞全体が納得行くような気がしてならなくなった(笑)。わたし、、、病んでますかね。改めて、jey jude、素敵だ。heal、peace。。。
 写真は、アウシュビッツの見学の最初に掲げられている、アメリカで学び活躍した哲学者の言葉。このサンタヤーナ氏の著作、読んだことないので、読んでみよう(もし探す方がいらしたら、ネットだと、英語の情報の方がよさそうです。本や論文はわからないが)。歴史を研究する者には励みになる言葉でもあるけれど。。。英語のcondemnedっていうのは、強い言葉だよね、、、つらい。。。
f:id:to-yurikon:20170228061707p:image:w360