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東京から飛んで学校図書館を考える

2011-10-26

『理想の図書館とは何か』

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ペスカトーレ。写真も私のケータイで。光のとりかた,ライティングがだめですな。でもって,また食べ物の話をするのも何なので・・お皿は,昨年,信楽に行って窯元うつわさんから連れて帰ってきたもの。このお皿は,店主のおじさんに購入前に説明していただいたとおり,特に形が本当によくできているのだ。人間工学よ!このおじさんはすごかった。

『理想の図書館とは何か:知の公共性をめぐって』(根本彰,ミネルヴァ書房,2011)を読んだ。『知の広場:図書館の自由』(アントネッラ・アンニョリ著,菅野有美訳,みすず書房,2011)と合わせて読んでみて,と最近,機会があると学生さんたちに伝えている。
 根本先生は,また私と一緒に立教司書課程を担当してくださっている永田治樹先生も,「library as place」を「場所としての図書館」と訳しておられる(永田先生の書かれた,関連文献でフリーのものを見つけたので,リンクをとりあえずここに)。「場として」「場所として」の両者の違いについて,『理想の図書館とは何か』にも収載されているが,このご論考の中で,根本先生は,なぜ「場所として」をとるか,その理由を書いておられる。勉強になりました。翻訳って本当に難しい。ただ,語のリズムや音感では,「場として」の方が,「場所として」より,いいように思うのは,私だけだろうか?また,「場としての図書館」と言われる場合には,「☆☆の場としての図書館」という言い方が多いような気もしますが,どうかな。。
 根本先生のご本よりも少し前に出た『知の広場』については,書評や読後感がネットにいろいろ見つかりますね。図書館関係者だけが読んでいるのじゃないみたい?!そうした業界外の読者の方たちは,この本から,広場としての図書館,というテーマのほかに,図書館専門職司書の役割についてはどう読み取っているのかなと気になります。。私は,場所としての図書館というと,やっぱり図書館を"ひろば"と見ることに魅力を感じます。足立先生がずっと言っておられることですが(ブログにもここに書いておられる)。
 アメリカ図書館協会(American Library Association: ALA)「図書館の権利章典(Library Bill of Rights)」1980年に採択された新版の前文には,次のように謳われていることを思い出します。

The American Library Association affirms that all libraries are forums for information and ideas, and that the following basic policies should guide their services.

forumって,ひろばでしょう?図書館は情報と思想のひろばだ,って言っているんですよね。ちなみに,"Bill of Rights”は"Bill of Rights"だから,"権利章典"だよね。宣言じゃなくて,章典と訳すのでよいと思うけれど。米英の"Bill of Rights"の歴史を見ると,それが"Library Bill of Rights"につながっていることを感じる。そして,少なくとも人権図書館の自由と関連づけられた近代の図書館理念は,もとはアングロサクソンの文化のものなのだなあと感じます。
 戻りまして,根本先生のご本については,第7章が迫力。これは私は『図書館界』に掲載されたときに読んでいましたが,根本先生の近年の(公共)図書館論がまとめられたこの本の中の一部として,改めて読み直したら,あまりに真摯な議論で,圧倒されました。
 図書館資料論の授業を数年ぶりに今学期,担当していて,先日,この7章をリーディング課題とした。それとあわせて,安井一徳さんの「「無料貸本屋」論」(田村俊作,小川俊彦編『公共図書館の論点整理』勁草書房,2008(図書館の現場7).の第1章)もリーディング課題に。で,おととい,授業が終わったあと,ある学生さんが,安井さんの文献の,「貸出が著作者や出版者に経済的損失をもたらすという問題意識」に対する「損失否定型」(『公共図書館の論点整理』p.25)のところのいくつかの引用部分を指して,"こんな言い方って無いだろう",という趣旨の意見を私に伝えにきてくれた。そうだよ,そんな言い方は無いよね!!引用は,一部が切り取られたもの,ということも彼はちゃんとわかりつつ,それでも,この言い方は変だろう,って二人で話した。
 図書館は,図書館だけで存在しているわけじゃない。社会の中に存在しているし,特に日本については,出版はたまた本に関わっている人,強い関心をもっているは,いろんなところにいて,吉田さんがおっしゃったように,日本の読書空間は多元的なんだよ(このことは以前も書いた)。そこを図書館関係者は認識しておかないといけないんだと思う。図書館は私は特別な機関だと思う,独自の使命/役割をもつと思う--だけれども,人びとは,図書館だけで情報行動のすべてを行っているわけじゃ,当然,ない。ま,こんなことは多くの人が認識しているとは思う。だけれども,安井さんも最後の方で書いているように,無料貸本屋の「論争に参加しなかった沈黙する勢力の存在」が図書館界にはたぶんあって,私はその人たちが,きちんと声を出すべきだと思うんだよね。黙って日常の業務を誠実に遂行するだけじゃなくて,図書館の使命やあり方を多くの人に誤解されたりしないために,私たちはきちんと自分たちの考えを語り,伝える必要があると思う。選書はたまたメディアや情報の評価の力は,私たちのプロフェッションの専門性のコアだ。また,実際,多くの図書館はちゃんと選書をしているように思う。ただ,それを一般の人にわかりやすくは,説明できていないんじゃないかな。もっとも,やぶへびにならない説明をするって,選書については難しいよね。(・・といったところで,情報の評価に関する連続講座の宣伝をば。第2回は今週の土曜日です。)
 話がどんどんそれていきましたが,『理想の図書館とは何か』の中で,六本木ライブラリーが言及されていた。この会員制図書館公共図書館の違い,が語られていて,ふむふむと。このライブラリー設立理念ここに見つかったんだけど,それこそ,理想の図書館ライブラリー)の追究の取り組みではあるのね。2003年の開館以来,ずーっと気になりながら,行ってなかったのを反省。そのうち,学生さんたちと行こうと決意しました。それにしても,この森ビルがやっているアカデミーヒルズという取り組み,いろいろとおもしろそうなものがある。来月の,六本木アートカレッジ,行きたいなあ。幅さんのお話,聞いてみたい。彼の活動(BACHウェブページここにまとまってる)を見ていると,それこそ日本の本の世界の多元的なさまを目の当たりにする思いだよ。。日本では図書館専門職司書って何がその独自の専門性なんだろうね,とほんとうに考えさせられる。この”勤労感謝”の日に本学ではふつーに授業が行われて会議が行われるという事実。。

2011-10-23

『原子力の腹の中で』

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カルボナーラ。今夜,ひっさしぶりっに会えた,学部時代からの友人のチカさんが作ってくれて,私のケータイでぱぱっと撮ってくれたのだ。(私,がっついて,食べはじめちゃってたんだけどね。)実は,中のパンチェッタも,別の友人の手作り。絶品のカルボナーラとなりました。今となると,ワイン飲めばよかったな。話に夢中だったのか,なんだか頭がまわらなかった。チカさんのウェブページ,すてきだな〜。

 標記のタイトルの本を読んだ。連続講座第1回の講師をお引き受けくださった中尾ハジメ先生の新刊書です。今月出て,もう読後感がネットにあがっているのだけれど(中川六平さんのもの足立正治先生のものに勝手ながらとりあえずリンクを),それらを読んでいたら,刺激されてしまい,やっぱり私も書こうと。
 最近,1960年1970年安保闘争は,本当は挫折していなかったんじゃないかって思います。少なくとも,よくそう言われている気がするするけれど,"挫折"と言うのは違うなと。ちょっと2つの安保闘争をいっしょくたに乱暴にこんな大胆なことを書いていいのか,考えてはしまうのですが。実は,このアイディアは,私の完全オリジナルものではまったくなくて,加藤登紀子さんのご本を読んで,考えはじめたことです。それは,『登紀子1968を語る』(世界書院,2010(情況新書001)(改訂版))という彼女の語りの記録なのですが,彼女が,冒頭で,大学生の近藤伸郎さんの「1968[という加藤さんの歌です]に込められたメッセージは何ですか。1968年がスタートだったとおっしゃる言葉の意味です。」という問いかけに対して,次のように答えておられるのが,印象的でした。

意味は,ふたつあると思う。まず68年という奇跡のような時代を生きた人々へのストレートなメッセージとして。失われた希望やその後の挫折感もふくめて,1968年は今日につながっているんだと伝えたいの。具体的には今日の環境保護の運動や消費者運動など,今の時代の流れのなかに68年の夢とその挫折の教訓が生きているということ。(中略)もうひとつ,私の1968のメッセージは,あなたたちのような若い世代に向けたものでもあります。68年は時代の生きにくさの中で自由と解放を求めたパイオニアの時代。都市の孤独とか,家庭の崩壊とか,労働の非人間化とか,それは今の生きにくさとよく似ている。68年の経験を知ることで,若い人たちと私たち先行世代のギャップをうめられたらなと思う。(『登紀子1968を語る』p.21-23)

 この本って,最後に,加藤さん(1943年生まれ)の約5歳年下の上野千鶴子先生(1948年生まれ)との対談も掲載されている--だからなんか,骨太っていうか,骨太っていうと違うんだけど,太いんだよね,内容が。すっごくすっごく丁寧な本作りがされているようではないんだけど。。上野先生は,「その「1968」の曲についてですが,私はどうしてもあんな風に美しく回想することはできません。」(p.204)として,続けて当時のご自身のご経験等等等等を語られているのですが,考えさせられました。そもそも,ある人の記憶の語りって,どうやって作られて出てきたものか,をよく吟味しないといけないですし。
 えっと,このブログ記事は,この本のことを書こうと思って書きはじめたわけではないので,今さらですが戻ります(笑)。
 そう,『原子力の腹の中で:福島第一原発事故のあとを,私たちはどう生きるか』(中尾ハジメ著,編集グループSURE,2011)を読んで。このご本に掲載されたハジメ先生との対談に集まった方たちが,安保闘争を経験した世代のようなのですね。彼ら(のほとんど)は(たぶん)今,退職を迎えている世代。改めて,社会と自分の関係を問い直そうとしておられる世代かなと思うのです。
 私は過去に,占領期に学校図書館の運動が高まってくる時期の経験をおもちの先生方にインタビューをしました(その記録(上)(下))。この方たちは今の80代で,インタビューの中で占領期の2.1ストの記憶を語ってくださった方がおられました。今,80代半ばの私の伯父も,このゼネストの話を,東京大空襲の記憶と合わせて,語ってくれたことがあります。そのころから漠然と,世代によって,もっともインパクトをもって受けとめている社会運動等の記憶というかが,違うんだなと思ってきました。私の両親は今の70代で60年安保がおそらく身近だった世代(でも彼らはむしろ子ども時代の戦争の経験を語ることが多い)。ただ私は10近く年上の姉がいますし,同世代の友人の多くは,名実共に団塊Jr.(私は1972年生まれですから,時代区分では,おもいっきり団塊Jr.)。そしてこの団塊世代とそのちょっとだけ上の世代の多くにとっては,70年安保がもっとも強い記憶なんですよね。もちろん,私から見て,なので,”たぶん”です。私はこの世代の方たちに導かれて,同志社時代は仕事をしていたなと思います。立教は退職年限が5年短いので,今年になってからはあまり機会がなくなっているけれど。だけれども,この世代の方たちって,私はなんだかんだ好きです,尊敬しています。個人と社会の関係を考えてきた世代だと感じるから。
 個人と社会の関係について,すごくおおざっぱで大胆な言い方なのですが,今の60代までと,それより下の世代では,どれだけ深く考えてきたかがまったく違うように思いますが,どうなのでしょう?
 私が,個人と社会,国家や権力との関係をおそらくはじめて,もっとも真剣に考えたのは,就職活動をちらっとしてみた,大学4年生のときでした。社会と自分がそれまでに育ってきたコミュニティとの乖離を感じました。それまでは自分の所属コミュニティの中で,右往左往していただけでした。教科書に書かれていること,学校や家庭,はたまた教会で語られている理想と,現実の違い,しかも自分にはなにひとつ変えられないように思われるザ社会--改めて,自分は何者で,いかに生きるか,を考えさせられました。そして,大学院学校図書館について研究していく選択をしたわけですが・・
 『原子力の腹の中で』を読んで,私は,人ひとりは,一見,社会を何も変えられていないようで,いや,きっと変えてる。人が調和して,ひとつの波動エネルギーが生まれて,何も変わらないはずないな,と思いました。宇宙の歴史で言ったら,私たち一人一人の生命なんて,ほんとうに,ほんとうに,短い。だろうし,やりとげられることなんて,"社会"という視点で見たら,あって無きがごとし(の人が多い,と言うべきか)。だけれども,あたりまえのことを言っているかもしれないけれど,何もできないってわけでもないんだよね。そのときどき,無力感にさいなまれたとしても。それをこの本を読んで,改めて感じました。
 まったく独断と偏見になりますが,私には,特に第三章「一つの言葉によって隠される,もう一つの言葉」が読み応えがありました。あ,でも,その前の第二章「核という不全技術が生んだ,管理と隠蔽の社会」も,考えさせられたなあ。例えば次の箇所。

中尾 隠蔽体質というのが,非常にはっきり隠蔽するということだけじゃなくて,意味のある情報としてつかめないものについては,要するに何も言わないし,調べないし,考えようとしない。ということは,結果的に隠すことになる。その部分がものすごく大きいんだ。それが原子力の大きさなんです。(『原子力の腹の中で』p.126)

 ここでハジメ先生がおっしゃられていることって,戦後史そのものじゃないかと思いました。安保以降かもしれない・・?たとえば,自分の個人なり家族なりにすぐに目に見えて迫ってこなければ,本当には見ようとしない,行動しない--そして,自ら隠蔽に加担する,みたいなこととか。きっと原発だけじゃない。結局,そういう社会に責任をもとうとしない生き方は,ハジメ先生が先日のご講演でおっしゃっていた陰謀史観じゃないけれど,悪魔的にね,団結して,意志をもって行動する人たちにかなわなくなっちゃうんだよね。
 そして第三章に入って,本の終わりに近づいて。。これはハジメ先生のご発言ではないけれど,ハジメ先生のご著書『スリーマイル島』(新泉社,1981)についての語りの流れで。。

黒川[創] やっぱりこういうことって,起こってみると,二つの言葉のせめぎ合いだと思う。まっすぐ,現実をしゃべろうとするのと,現実を言いかえられたり,責任を逃れたり,という,言葉の二つのプレートの裂け目が,ぱーっと出てきてしまうという感じがする。
 一つはフォークロア,つまり民俗の言葉だと思うんだよ。で,もう一つは,高度金融資本主義っていうか。
 中尾さんの本は,素朴なはじまりなんだよ。おばさんたちがまとまりのない,とりとめのない話しかできない。口のなかが金属の味がしたとか,唇がかさかさだとか。それに対して,反原発の人のほうが,そんな話じゃデータが足りませんとかいうことになって,どこまでも地崩れして足もとが崩れていく。だけど,それしかない。足もとが崩壊するような話。(『原子力の腹の中で』p.215-216)

 言語化すること,いわゆる科学であること--これが絶対的な力をもってしまっていること。今,大学にいて,私はこれをどう受けとめ,どう行動したらよいだろうか。
 ただね,この章の最後に,次のようなやりとりがあるの。とってもいいんです。このブログの記事の前半にここでつながってくるのだけれど,人が生きていることは,いつも過去とつながっていて未来ともつながっている。加藤登紀子さんも言ってる。「生きていく力が知らず知らず,時代を変えていく。」(『登紀子1968を語る』p.173)と。その最後の,私がとても気に入ってしまったやりとり。

北沢[街子] 中尾さんが絶望的なのはなんなのかなと思っているんですけど。
中尾 それはなんというか,シニシズムというか。
北沢 と言いながら・・・・・・。
齋藤[友宣] ここまで11時間しゃべっています。
黒川 これだけしゃべってシニシズムもないだろう(笑)。(『原子力の腹の中で』p.203-204)

 ハジメ先生は,誰かを告発・糾弾するようなことを言ったり書いたりしてるだけじゃだめで,責任をもち,行動をしないと,という趣旨のことを先日の連続講座のときにおっしゃっていたように思うけれど,いやはや,やっぱり力のある語りってあるよ,と思った,一冊でした,『原子力の腹の中で』は。
 来週29日は,影浦峡先生をお呼びして,連続講座第2回です。ご関心がおありの方は,今からでもぜひお申し込みのうえ,おいでくださいませ。