「渡米実業団」日録

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 今から約100年前の1909(明治42)年、東京・大阪など6大都市の商業会議所を中心とした民間人51名が3ヶ月間にわたりアメリカ合衆国の主要都市を訪問し、民間の立場から、日本とアメリカの経済界を繋ぐパイプづくりに大きく貢献しました。
 この日録では「渡米実業団」(Honorary Commercial Commissioners of Japan to the United States of America)と呼ばれた日本初の大型ビジネスミッションの日々の出来事を、『渋沢栄一伝記資料』に再録された資料等で追いながら、過去に遡る形で掲載しています。

 1909(明治42)年9月19日(日) (69歳) 渋沢栄一、アメリカ合衆国大統領ウィリアム・タフトと会見 【『渋沢栄一伝記資料』第32巻掲載】

是日渡米実業団一行ミネアポリスに入る。同日、其近郊ミネトンカ湖畔ラファイエット倶楽部に到り、大統領ウィリアム・タフトに会見し、後、午餐を共にす。栄一此の席上演説をなす。二十日、同市商業会議所の歓迎会に臨み、次いでミネソタ州立大学等を参観す。

出典:『渋沢栄一伝記資料』 3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代 明治四十二年−昭和六年 / 1部 社会公共事業 / 3章 国際親善 / 1節 外遊 / 1款 渡米実業団 【第32巻 p.141-154】

1909(明治42)年9月19日、渋沢栄一ら渡米実業団一行は、ミネアポリス近郊のミネトンカ湖畔で第27代アメリカ大統領、ウィリアム・ハワード・タフト(William Howard Taft, 1857-1930。就任期間:1909-1913)と会見、午餐をともにしました。後年、栄一はこの時のタフトの印象を次のように語っています。

 ○印象に残る米国の人々
    二、記憶のよいタフト氏
 以前大統領たりしタフト氏と初めて会見したのは、米国でなく日本に於いてゞある。曾てタフト氏は一行五・六人で我国に来遊された事があつたが、其際私共が主催者となつて、紅葉館に於いて歓迎会を開いた。○中略
 其後タフト氏が大統領時代に渡米した際に、私は東京商業会議所会頭であつた中野武営氏、横浜商業会議所会頭だつた大谷嘉兵衛氏等と共に、白堊館に於いて再度の会見をしたが、タフト氏はよく私を記憶して居られたと見え、私が自己紹介をせぬ中に先方から『バロン・シブサワ』と声をかけて、直ちに握手をなし、久濶を叙して先年渡日の際の好意を謝され、且つ種々談話をしたが、記憶のよい人で、中野・大谷氏等をもよく知つて居られた。私は政治家でないし、従つて談話も政治問題には一切触れなかつたから、政治家としてのタフト氏に就いては深く知らぬが、個人としての氏は誠に如才のない親切な人で、其の応待の態度といひ、話題といひ、誰にでも、好感を与へる好紳士で、流石に大政治家であると思つた。又日本に来遊された事があるだけに、日本の事情にも精通して居られ、日本に関する種々の質問などをされたが、今でも其の温顔が髣髴として眼前に浮かぶ心地がする。
(『渋沢栄一伝記資料』第32巻p.152掲載、渋沢栄一述『青淵回顧録. 下巻』(1927.12)p.893-894より)

なお、この回顧録では会見場所が「白亜館(ホワイトハウス)」とされていますが、これはミネトンカ湖畔にあるラファイエット倶楽部の誤りであると思われます。『渋沢栄一伝記資料』によれば、ホワイトハウスで栄一が会見した大統領は以下の通りです。


 1909(明治42)年9月19日(日) ミネトンカ湖畔ラファイエット倶楽部でタフト大統領と会見 【滞米第19日】

渋沢栄一 日記 1909(明治42)年 (渋沢子爵家所蔵)

九月十九日 晴 冷
午前六時汽車ミネヤホリスニ着ス、八時朝飧ヲ畢リ、歓迎者ノ案内ニテ旅館ニ抵リ、衣服ヲ改メ直ニ電車ニテタフト大統領ノ滞在スル湖水ニ沿フタル一倶楽部ニ抵リ、謁見ノ式アリ、一行各握手ノ礼ヲ為ス、畢テ食卓ヲ共ニシテ午飧ス、余ハタフト氏ノ隣ニ席ヲ占ム、今日ノ会長ハミネヤホリスノ人ニテネルソン氏ト云フ、食事畢テ司会者ノ演説アリ、後余ハタフト氏ニ対シテ答辞演説ヲ為ス、宴会畢テタフト氏先ツ席ヲ去リ、後一行モミネヤホリスニ帰リ、二三ノ工場ヲ一覧ス、夜地方人ノ催ニ係ル饗宴アリ、司会者ノ挨拶ニ次テ一場ノ答辞演説ヲ為ス、十一時散会ス
(『渋沢栄一伝記資料』第32巻p.141-142掲載)


竜門雑誌』 第266号 (1910.07) p.30-38

    ○青渊先生米国紀行(続)
         随行員 増田明六
○上略
九月十九日 晴 (日曜日)
午前七時ミネアポリス市に到着、八時車中朝餐を終り、九時同地商業倶楽部の代表者と接見し、其の案内にてホテル・ウヱストに到り、直に衣服を改め、十時歓迎委員の案内にてホテル前より特別電車に乗じてチヤーチに到り、牧師の熱心なる説教を聴聞し(電車を下りてチヤーチに到る前、乳母車に乗りたる七十余歳の老嬢の希望に依り、青渊先生令夫人之と握手を為す)畢りて再度電車に主客分乗して、市を距る二十哩なるミネトンカ湖畔のエキセルシオ(此辺は特に印度人の土語を取りたる名前多きを以て地名等甚だ唱ひ悪し)に抵り、此処より汽船にて湖上を渡り、ラフエツト倶楽部に抵る、此倶楽部に於て米国大統領タフト氏に謁見し、午餐を共にする予定なり。
青渊先生・同令夫人を先頭に汽船を降りたる一行は、列を正して倶楽部に参入するや、市の歓迎員及大統領の随員等迎へて楼上に導き、少憩の後下の広間に於て大統領に謁見したり、水野総領事先づ進みて大統領に握手し、一行の為めに紹介且通訳すべしとて其傍に起つ、青渊先生は団長として進み握手を為し、且種々談話の交換を為し、次ぎて神田男爵・中野氏以下、大阪・京都・横浜・神戸・名古屋の順序にて先づ正員の謁見を終り、夫れより亦同上の順序にて専門家の謁見を為す、尚夫人は青渊先生令夫人を先頭に、男子と同一順序を以て謁見を了す、水野総領事人毎に紹介すれば、大統領は其人毎に相応しき挨拶を為し、愛嬌よく親しげに握手せられ、其態度の平民的にして、談笑せらるゝ様少しも隔心の様無し、此謁見終るや直に食堂に入り、十数箇の円卓を囲みて日米人交互に着席したるが、其数数百名以上なりしならん、青渊先生は中央の円卓にタフト大統領と相隣りて席を占む、此食堂の後方は硝子障子を隔て芝生の庭園なれば、此の光景を見んとて茲に集合せる老幼男女無数なり。
午餐将に終らんとするに先ち、本会の司会者商業倶楽部会頭ネルソン氏起ちて歓迎の辞を述べて青渊先生を紹介す、青渊先生は拍手に迎へられて、謹厳なる態度と熱心なる音調とを以て演説せられ、頭本元貞氏又厳正の態度を以て之を英訳し、要処々々に到れば拍手の声堂を圧せん計りなり、青渊先生は此英訳終ると共に杯を挙げて大統領の健康を祝し、一同和して万歳を三唱したり、次にタフト氏は起ちて朗々たる大音声を上げて演説を為す、拍手足踏雷の如し。
    [渋沢栄一演説、タフト大統領演説]
宴畢る哉タフト大統領先づ席を去り、一同に見送られて随員三名と共に自働車に同乗して湖畔に至り、別仕立の汽船にてオマハ市に至るべく湖上を快走せられたり、次きて青渊先生以下一行も此処を辞し、汽船に乗じ湖上を周遊しつゝ其風光を賞し、電車停留所に上陸して特別電車に乗じ、ミネアポリス市に帰着しホテルに入る。
(『渋沢栄一伝記資料』第32巻p.142-147掲載)


渡米実業団誌』 (巌谷季雄, 1910.10) p.159-173

 ○第一編 第四章 回覧日誌 中部の一(往路)
     第十一節 ミネアポリス
九月十九日 (日) 晴
午前七時ミネアポリス停車場に着す。一同列車内にて、朝食を済まし、午前九時半歓迎委員の出迎を受け、各自自働車に分乗して、ホテル・ウエストに入る。日曜なるを以て、一同美以教会の礼拝に赴き、午後零時五分更に電車にて約二十哩を隔てたるミネトンカ湖畔に向ひ、倶楽部に着し、沿岸エキセルシオルより、更に小蒸汽船に乗じて、午後一時彼岸に上陸し、直にラファエット倶楽部に至る。予ての打合せにより、一同大統領タフト氏に接見の為なり。時に大統領タフト氏は、已に侍従武官及市長等に護衛されつゝ、階下の広間にあり。即ち一同は、水野総領事の紹介により、渋沢男・神田男を始め、東京・京都・大阪・横浜・神戸・名古屋の各商業会議所会頭、正賓・専門家等一同交る交る接見せしに、大統領は一々然るべき辞令を以て応接せらる。接見終りて、タフト氏一行並に我団員一同は歓迎委員の案内により、別室にて午餐を饗せらる。
席上渋沢団長は立て下の如き演説(頭本氏通訳)を為し、終りに大統領の健康を祝せしに、次でタフト氏は満面に笑を湛へつゝ、起つて其の意見を述べたり。
     渋沢男演説 ○前掲ニツキ略ス
     大統領タフト氏演説 ○前掲ニツキ略ス
と大統領は自ら日本語にて「バンザイ」と叫びしかば、衆之に和し万歳の声、三度び湖上に反響せり。
かくて大統領は三時頃従者を伴うて去り、一行も亦辞して船に乗組み、湖岸の風光を賞しつゝ、更に又電車の便によりて、薄暮ホテルに帰る。
此夜岩原氏は先発して紐育に向へり。
(『渋沢栄一伝記資料』第32巻p.148掲載)


参考リンク


 1909(明治42)年9月19日(日) 太平洋聯合商業会議所会頭ローマン、タフト大統領へ特製徽章を捧呈 【滞米第19日】

渡米実業団誌』 (巌谷季雄, 1910.10) p.576-582

 ○第三編 第五章 徽章及び金牌伝献の件
    第二節 金剛石入金製徽章
[1日より・前略] 一行が九月十九日ミネアポリスに於て、大統領タフト閣下に謁見するの栄を得たるとき、会頭ローマン氏は、該特製徽章の一を捧げて、恭々しく大統領に呈したる所、タフト氏は凝視稍々久くして、深く其美麗なるを嘆賞し、此徽章は日本実業団渡米の愉快を紀念すると共に、幾久しく保存すべき旨を述べられたり。[後略・11月3日へ]
(『渋沢栄一伝記資料』第32巻p.450掲載)