「渡米実業団」日録

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 今から約100年前の1909(明治42)年、東京・大阪など6大都市の商業会議所を中心とした民間人51名が3ヶ月間にわたりアメリカ合衆国の主要都市を訪問し、民間の立場から、日本とアメリカの経済界を繋ぐパイプづくりに大きく貢献しました。
 この日録では「渡米実業団」(Honorary Commercial Commissioners of Japan to the United States of America)と呼ばれた日本初の大型ビジネスミッションの日々の出来事を、『渋沢栄一伝記資料』に再録された資料等で追いながら、過去に遡る形で掲載しています。

 1909(明治42)年10月11日(月) ゼネラル・エレクトリック社等を見学。晩餐会でGE社長のほか、東京大学で教鞭をとったモースも演説 【滞米第41日】

「ゼネラルエレクトリツク会社」徽章

「ゼネラルエレクトリツク会社」徽章
(「紀念牌及徽章」 (『渡米実業団誌』巻頭折込)掲載)


竜門雑誌』 第269号 (1910.10) p.22-28

    ○青渊先生米国紀行(続)
         随行員 増田明六君
十月十一日 月曜日 (晴)
午前一時シラキユース市を発し、四時卅分、スケネクタデー市に到着す、此市のゼネラル・エレクトリツク電気会社は、電気の機械器具一式を製造する大会社にして、米国第一と称せらる、九時十五分列車は同社構内に進入して其の停車場に停車、同社長コツフイン氏を始め同地有志者の出迎を受け、直に同社員の案内にて一行十名宛間隔を取りて、工場の作業を順次参観を始む、青渊先生は社長コツフイン氏と共に、特に自動車に依りて重なる工場を参観せられたり。
  ゼ・ゼネラル電気会社は千八百七十八年設立のエヂソン・ゼネラル電気会社と、千八百八十年設立のトムソン・ハウストン電気会社を千八百九十三年に於て合併したる者にて、現在四個の大工場より組織せらる、スケネクタデー(紐育州)ライン(マサッチューセツツ州)ピツツフイルド(同上)ハリソン(ニュー・ジヤシー州)の四地に在るもの是れなり、是等の構内総面積弐千弐百六十六町歩、工場建坪七千万平方呎、従業者弐万三千三百人なり、而してスケネクタデー工場は其最大なるものにて、八百四十四町歩の地積と、三百八十万平方呎の建坪と、八十三の建物と、従業者一万人とを有す、此会社は日本と浅からぬ関係を有し、東京芝浦製作所は此会社の代弁店なり、又日本の留学生にして此会社に来りて学ぶもの多く、現に本社員工学士渋沢元治君も、幾年かを此会社に費やされたるものなり。
斯くて一行は甲の工場を通抜的に通観して乙の工場に到り、丙の工場を過き丁の工場を観来り観去れは、足棒の如くなれども、また数工場を観たるに過ぎざる内正午に達し、会社の料理店に催されたる午餐会に列す、青渊先生は自動車にて各重なる工場丈を参観して已に茲に在り、午餐会終りて青渊先生以下一同、午後二時自動車に分乗してモホウーク倶楽部に遊び、又ユニオン・カレージに至り、フートボールの競技を参観して一旦列車に帰着し、夕刻服装替の上、午後六時特別電車にてモホウク・ゴルフ倶楽部に案内せられたり、一行の電車将に同倶楽部に近かんとすれは、煙火一発中空に舞ひ、二発・三発、純粋の日本煙火中空に花を咲かせ、星を飛ばす、主人ヱレクトリツク電気会社の厚き款待推して知るべきなり、七時半食堂開始せらる、宴将に終るや社長コツフイン氏起ちて
  予は演説の準備なし、準備などして之をなすは、親密の間柄なる日本人に対して、冷淡に過ぎればなり、予の日本を敬愛する所のものは、先きに日本人が露国に対し戦争を為すまでも人道を重んじたればなり、予は日本人の勇気と美術を愛す、此日本美術の米国人に愛せらるゝに至りしは、予の友人なるボストン市のモールス氏が万金を惜まずして之を集め、米国に紹介したるに依るものなり、日本人の愛情に厚きは、予の会したる日本人にして、ペリー提督の功績を感謝せざるもの無きにて明かなりとす、今や日本は、日に月に進歩し、米国とは交情も益々親密なり、諸君は今回三箇月の有益なる旅行を米国に於て為さんとす、出来得る丈の観察を為し、研究を遂げ母国の進歩を計られん事を希望す、蓋し実業に於ては米国は日本の親たる事を得べきかなれども、美術に関しては米国は日本の子供たるべし、実業の無き生命は罪悪なり、美術の心なきものは野蛮なり云々。
と演説し、青渊先生は次きて一行を代表して、朝来ゼネラル電気会社の懇切なる歓迎と本夕の盛宴とを深謝し、且左の意味の演説を為す。
  予は会社の名に依て当市を知つた位にて、会社の宏大なる事は、米国に於ては勿論世界に於ても最大なるものなる事は、予て承知せる処なりしが、本日其実際を見るに及んで、聞きしに勝るものなる事を感じたり。
  凡そ物事は始めに聞きて後実際を見るときは、多くの場合驚かざるものなるが、当会社は嘗て聞きしに勝りて宏大なり、隆盛なり、完美なり、巧妙なり、豈に独り工場の斯の如く盛大精緻なるのみならす、会社の方針が博愛的なり、幼稚なる日本人の多くは此会社の懇切なる収容を受け、鄭寧なる教育を授けられ日本に帰朝し、之を実地に応用して日本文明事業を助け居るは蓋し当会社の恩恵なり。
  既に其名を聞き、其恩恵に接し、兼て知り居れる会社に出てゝ懇切なる打融けたる懇談に接し、而して吾国を愛せらるゝ精神を披攊せられたる当会社々長コツフイン氏の寛宏なる度量を、深く謝せずんばあらず。
  吾々一行は、ペリー提督が開きたる日本を尚一層発達せしめんが為めに、米国の各地に亘りて旅行し、日本人の心情を、米国人に知られ、又米国の情態を親敷見聞して、米日両国々交の親善と貿易の増振を計らんとするものなり。
  吾々一行は到る処に於て鄭重なる歓迎を受け、当地に於ては更に深く吾々の心情を酌まれたるを深謝するものなり。
  当会社の事業の、世界に於ける文明を助くるものなる事は、勿論なるが、予は此文明の事業は国を扶くると同時に人の生命を永からしむるものなる事を悟れり。
  吾々一行が日本を去りて以来二箇月を経さるに、已に其十四箇所の都市を経過したるは文明の利器に依りたればなり、若此利器莫かりせば、此旅行は数多の年月を要する哉知るべからず、之に依りて推考するときは、全体の旅行を三箇月間に終る事を得れは、夫れ丈生命を長くしたるものなりとす。
  ペリー提督は、日本に対し過去の利益を与へたる恩人なれども、現在に於て利益を与ふるものは当会社なりと思考す、日本の美術に関し溢美の賞詞を蒙りたるも、米国は日本より大に勝れるものなる事を信ず、今夕の宴会の装飾は青葉に蔦紅葉、又卓上には黄菊に白菊を混ぜたるは、実に日本的装飾なるが、此装飾は会社関係の婦人の設計なりと聞く、此美術的の設備が已に美術思想の優秀なる事を証して余りあり云々。
夫れより尚神田男爵及モールス氏の演説あり、畢りて余興に移り、会社員の音楽・唱歌・舞踏・絵画の早描等の催あり、中に日本人二名黒人に扮して交り居り、巧に唱歌舞踏を為したれば、誰れしも日本人たる事を知るもの無かりしが、中途に二人が日本語にて語り出したるにて分明となれり、最後に余興係員一同二十三名舞台に出てゝ君が代を三唱したるが、如何にも稽古に苦心したりと見へ、一行が合唱したりとて、迚も彼の如く立派に揃ふ事は能はざるべしと思はれたる程なりし、是にて余興も終り、十一時再度特別電車に乗じて、スケネクタデ停車場に廻されたる特別列車に到り、車中に搭じ午前一時紐育市に向て発車す。
(『渋沢栄一伝記資料』第32巻p.182-184掲載)


渡米実業団誌』 (巌谷季雄, 1910.10) p.191-247

 ○第一編 第五章 回覧日誌 東部の上
     第十八節 スケネクタディ市
十月十一日 (月) 晴
午前四時スケネクタディに着、同時列車を「ゼネラル」電気会社の構内に入る。茲に同会社の主なるものと接見し、それより十数名の案内者と共に、一同各工場を見物す。当会社は我が三井物産会社と年来特約あるが故に、先に紐育へ先発せる岩原氏、及び同所三井物産支店瀬古副支配人は、特に此処まで出張して一行を迎ふ。午後一時同会社の料理館(レストーラント・ビルディング)に一同参集、先づ紀念の撮影の後、午餐を饗せられる。席上器械及び工科主任にして副社長なるライス氏の歓迎の辞あり。午後二時半より、一同自働車にて、モホーク倶楽部を経てユニオン大学に至り、図書館及フートボール競技を見る。一応特別列車に帰り、夜は七時より特別電車にてモホーク・ゴルフ倶楽部に導かれ、晩餐会に臨む。席上ゼネラル電気会社社長コツフィン氏の歓迎の辞に次て、モールス氏(明治初年より日本に雇傭されし博物学者)の演説、渋沢・神田両男の答辞あり。後音楽・唱歌・活人画等の余興ありて、頗る盛会なりき。宴後直に紐育に向つて発す。因に此地の歓待は、総て同会社の主催に係り、特に特別列車を構内に引き入れ、日本国旗を其屋上に揚げ工場を隈なく視察せしむるなど、頗る懇切丁重を極む。今回の旅行中、一会社の招待によりて、態々一市を訪問したるは、此のスケネクタディ市あるのみ。
婦人の部 福井・岩下の二夫人紐育より出迎はる、午前十時、出迎の自働車に乗り、モホーク倶楽部に向ふ。途中市内及公園を巡覧し午餐はミセス・パアソンス氏の私邸にて饗せらる。夜はモホーク倶楽部にて晩餐会を終り、後ゴルフ倶楽部に男子と合し余興を見る。
(『渋沢栄一伝記資料』第32巻p.196-197掲載)


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