「渡米実業団」日録

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 今から約100年前の1909(明治42)年、東京・大阪など6大都市の商業会議所を中心とした民間人51名が3ヶ月間にわたりアメリカ合衆国の主要都市を訪問し、民間の立場から、日本とアメリカの経済界を繋ぐパイプづくりに大きく貢献しました。
 この日録では「渡米実業団」(Honorary Commercial Commissioners of Japan to the United States of America)と呼ばれた日本初の大型ビジネスミッションの日々の出来事を、『渋沢栄一伝記資料』に再録された資料等で追いながら、過去に遡る形で掲載しています。

 1909(明治42)年10月13日(水) 手形交換所、財務省分局、証券取引所等を見学。午後はグラント将軍の墓参 【滞米第43日】

「紐育絹業協会」徽章

「紐育絹業協会」徽章
(「紀念牌及徽章」 (『渡米実業団誌』巻頭折込)掲載)


竜門雑誌』 第269号 (1910.10) p.28-31

    ○青渊先生米国紀行(続)
         随行員 増田明六君
十月十三日 水曜日 (晴)
午前九時絹物組合員の案内にて、青渊先生以下自動車に分乗ホテルを出発、下町にある手形交換所・大蔵省分局・株式取引所を見物し、市役所に到り市長に会見の後ホテルに帰る。
午後一時青渊先生以下一行、同ホテルに於て絹物組合開催の午餐会に招かる、組合頭取スキンナー氏歓迎の辞を述べたるに対し、青渊先生一行を代表して歓迎に対する謝辞を述べ、且日本貿易は生糸に依て重きを為す、此生糸を取扱ふ此組合の歓迎を受くるは一層愉快を感ずる処なり、吾々は生糸の生産を益々多くして、以て本組合の厚意に酬ゆべし、予は生糸に付ては其生産又は輸出に直接の関係を有せざれども深き縁故を有す、其理由は第一予が二十四・五歳迄は農業に従事し親しく養蚕を為し生糸を製したる事、第二日本生糸製造業の進歩したるは、実に明治二年王政維新の際伊藤公・大隈伯等の尽力に依りて、之を海外に輸出したるが為めなり、当時予は大蔵省に仕官して、実地の見地より富岡に生糸場を設立して、国民に生糸の製造改良の方法を示したる事、第三は予が銀行業に従事して生糸荷為替の便を開きたるに在る事、此三の境遇より生糸に関係しては相当苦心したるものなり、日本生糸の将来に付ては、人造絹糸・支那生糸益々生産を高めつゝありて、可恐勁敵なりと雖とも、予は信ず、日本生糸業者の勁敵は人造絹糸にあらず、又支那生糸にもあらず、生糸業者夫れ自身なりと、蓋し生産費を減じ、値を安くして良好の製品を得て需用者に満足を与ふれば、人造絹糸・支那糸如何に発達するも憂ふるに足らざるなり、予は常に此言を以て吾生産者を警戒するものなり云々。
午餐会を終り、同組合の案内にて青渊先生以下自動車に分乗、上町見物を為し、グラント将軍の墓に詣で、青渊先生花輪を捧げて石棺の上に安置し、夫れよりハドソン河の夕景を賞しつゝ、セントラル・パークを車上より瞥見してホテルに帰着す、午後七時青渊先生には神田男爵・頭本氏・石橋氏等と共に、プレスビテリアン教会外国布教部の主催に係る宴会に招かれたり、出席者は司会者ダルス氏の他、グリーア師・デバイ博士(紐育慈善協会書記長)ノツクス博士(ユニオン神学校教授)モツト氏(基督教青年会万国部書記)其他紐育市の重なる紳士にて、司会者ダルス氏の指名の下に数番の演説の後、青渊先生及神田男爵答辞を述べられたり、午後十一時半解散帰宿せらる。
本日参観したる紐育手形交換所の規則を得たれば左に抄録す。
○下略
(『渋沢栄一伝記資料』第32巻p.216-217掲載)


渡米実業団誌』 (巌谷季雄, 1910.10) p.249-263

 ○第一編 第六章 回覧日誌 東部の下
     第一節 紐育市
十月十三日 (水) 晴
午前九時米国絹業組合の案内にて、自働車に分乗し、先づ手形交換所及び大蔵省分局を参観し、株式取引所を訪ひ、次に市庁に於て、市長マックレラン氏に会見し、終りてホテルに帰る。神田男・南博士・巌谷・熊谷等、教育関係の向は、午前中バアナード女子大学・コロンビヤ大学等を参観す。午後一時よりホテル・アスター内に、米国絹物業協会の主催に係はる午餐会あり、会頭ウヰリアム・スキンナー氏、及渋沢・神田両男の簡単なる演説あり。午後も引続き同組合の案内にてグラント将軍の墓に詣で、団長親しく花環を捧ぐ。夜は米国プレスビテリアン教会外国布教部の主催に係る、晩餐会あり。団員中特に宗教・教育に関係あるもの十数名列席す。席上ノックス博士・慈善協会幹事長デバイン氏・万国青年会幹事モツト氏の演説あり、渋沢男爵は、大要左の如き意見を述ぶ。
  今夕此処に招待を受けて、宗教・教育・慈善事業、及び実業に関係ある、第一流の諸名士に見ゆるを得たるは、余の頗る愉快とする処なり。余等今回渡米の目的は単に我が実業界の進歩を謀るにあるも、亦別に深意無きに非らず、蓋し我が国は、三百年来鎖国の方針を取りしも、実は不得止に出で、決して好んで之を為せるに非らず、是れは当時の歴史に徴して、何人も等しく認むる処ならん。然るに其日本が、五十六年前始めて世界と交際の道を開くの機会を得たるは、全く貴国の賜物にして、其好意に対しては、国民上下大に感謝する処なり。ペルリ提督に次で、日本の開発に尽力せしは、タウンセント・ハリス氏なりとす。氏の日本に対する功労は偉大にして、其条約締結に際し、非常の忍耐と親切とを以て之に当れるは、歴史に証して又余あり。例へば彼の書記官ヒユースケン氏の惨殺事件に際し、他国公使は直に国交の断絶を期し、国旗を撤して横浜に引揚げしに、ハリス氏は之れに反し、甘んじて我が幕府の保護の下に、静に事端の落着を待ち、遂に他国の公使等をして、亦帰館せざるを得ざるに至らしめたり。此寛仁にして勇敢なる態度は、我国民の永く感銘措かざる処なりとす。爾来親交度を進めたるも、不幸にして我が国は、十年来に二回の大戦を敢てせしが故に、或は我が国民を以て、偏武好戦の民と誤解するあらんも、之れ大なる迷惑なり。彼の二戦の如きは、共に正当防衛に外ならず。我等は寧ろ戦争を嫌ひ、平和を好む国民なり。此故に今回の渡米の如きも、畢意平和の使節として、国民より派遣されたるものなり。而かも我国に於ては、上 陛下を始め奉り、官民等しく之れに重きを措けるは、我等が出発当時の光景之を証明するに難からず。思ふに商工業の進歩は、世界の文明に最も大切なりと雖も、更に之よりも大切なるは、国民の精神的進歩なりとす。然るに我邦旧来の教育は、主として支那経学に偏せるが故に、商工業に対しては、大に謬見を有し、専ら之れを卑みたり。然れども余が見によれば、是れ決して孔孟の教の本旨に非らず。若し真に之に憑らば、殖利と仁義とは、決して併行せざるものに非らず。衣食足て礼節を知るの語に徴して、寧ろ両者の並立は、国家教育の大本にして、徒らに彼を卑み、是れを重んじたるが如きは、後世腐儒の言に過ぎずと云ふべし。由来商業は道徳と離れて一刻も立つを得るものに非ず。個人に付て之を云ふも、自己を利せんと欲せば同時に他をも利することを忘るべからず。此と同じく、国と国との間に見るも、単に一方にのみ利するは、理に於て在り得べからざる事なり。真正の文明は、福利と道徳との並行にあるは、元より論を俟たざるなり。而して此道徳を維持せんに、我等は我等の武士道に拠らんとするも、将来永久に、之れにのみ依つて可なるや、将た宗教に頼らざるべからざるや、此問題は自分一個のみならず、国民一般に目下心を砕き研究しつゝある処なり。否余が此度米国に来つて、各種の事物に接触する毎に、益々此念を強うするの感あり。
  米国の慈善事業の発達完備せる、実に感嘆に余あり。之に反して我が国に於ては、現に余も三十年来之に特別の関係を有せるも、屡々困難を感ずる事あり。思ふに日本には親族間に於て相扶助するの風習あるが故に、公共慈善は反つて其必要を閑却さるる観あり、蓋し慈善の真の目的は、之れを多く施さんよりは、受くべき者を減少せしむるにあらん。而して米国に於ても、輓近此点に注目し来れりと聞く、是れ大に喜ぶべき事ならずや。
  終りに臨んで、宗教に対する卑見を述べんに、余は幼より儒教を以て教育され、従つて孔孟の教を信ずるものなるも、亦将来の道徳は、宗教に憑るの必要を認むる者なり。而して此宗教は、如何なる者を採るべきかは、今日断言し難きも、只だ其何たるを問はず、単に信仰にのみ、重きを置かず、所謂実践躬行、信念と躬行と並び立てる者たらんを要す。已に斯の如き宗教あらば、之を我が邦に伝布し、又隣境に布教せられん事を、最も歓迎するものなり。云々。
(『渋沢栄一伝記資料』第32巻p.224-225掲載)


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