「渡米実業団」日録

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 今から約100年前の1909(明治42)年、東京・大阪など6大都市の商業会議所を中心とした民間人51名が3ヶ月間にわたりアメリカ合衆国の主要都市を訪問し、民間の立場から、日本とアメリカの経済界を繋ぐパイプづくりに大きく貢献しました。
 この日録では「渡米実業団」(Honorary Commercial Commissioners of Japan to the United States of America)と呼ばれた日本初の大型ビジネスミッションの日々の出来事を、『渋沢栄一伝記資料』に再録された資料等で追いながら、過去に遡る形で掲載しています。

 1909(明治42)年10月15日(金) 日本での報道「我渡米実業団の一行に如斯奇談あり」(実業之日本)

実業之日本』 第12巻第22号 (1909.10.15) p.4-12

    我渡米実業団の一行に如斯奇談あり
      九月十四日、シヤトルの日本実業団旅館
      華盛頓ホテルに於て
              特別通信員社友加藤辰弥
 (1)一行皆渋沢男に舌を巻く
「何といつても渋沢さんは実にエライ』といふ一語は、一行中に於て屡々繰返へさるゝ言葉である。
成程実にエライ、第一一行中船中で第一の朝起きは渋沢男である。出帆の翌日より大抵毎日朝五時過には必ず床を離れ、秘書役の増田明六氏を起して、幾回となく甲板上を運動される。それは元気なものである。
次に運動が済むと読書される。是れは一行中の予想外とした所で、男に驚いた特色の一つであつた。一行中読書家の大関は堀越善重郎氏であるが、氏に次ぐものは男爵である。殊に朝食前と雖、少許の時間を利用して読書さるゝ熱心と気力に至ては唯感歎の外はない。
 (2)上陸後も第一の朝起者は男爵
上陸後男爵の大活動に至つては更に驚くべきものがある。上陸後も第一の朝起者は矢張り男爵である。早い時は五時、又如何に前夜遅くなつても六時には必ず起きられる。起きれば直に増田秘書役を呼び起して、新聞を見、日米の貿易並に経済の事に関した書籍を読まれる、八時の飯前にはモー訪問客が詰め懸けてゐる。それから各種の歓迎を受け、工場・銀行・会社等を視察し、演説を為すこと一日少くとも二・三回、夜は晩餐会・夜会・芝居見物等を終て、旅館に帰る時は既に十二時を過ぎ、晩きは二時、三時に及ぶ事がある。而して男爵はどこに往つても団長として、中心として、注目・歓迎・談話の集注する所であるが、男は毫も疲労の色なく、其精力の旺盛なること一行の壮者も遠く及ばない。真に勇気絶倫、一行中の大異彩である。
 (3)渋沢男の発揮されたる大勇気
工場巡視はなかなか疲労する者である。それを日に幾つともなく見せられて、中には一つの都市で同一の種類の殆んど同一の工場を三つも四つも鄭寧に案内されて見る時は、実際うんざりする事がある。従て一行外の或日本人が、セメて同じ者は省略して貰う事にしたらどうですと注意する者があつた。
渋沢男は之を聞て毅然としていはるゝ様、今回の事は箇人の漫遊でない、お客となつて来た以上は主人の膳立に従はねばならぬ。先方が非常なる好意を以て案内して呉れるものを、一つでも断はるといふのは無礼である。余は如何なる工場へでも、如何なる困難の場所へでも苟くも生命の続く限り喜んで行く決心だといつて、先の言ふが儘に熱心に出席されて居る。其元気の旺盛なる事、実に当るべからずである。
○中略
 (12)渋沢男美人に包囲せらる
上陸後渋沢男の会話は、頭本元貞氏が主もに通訳の労を執つて居るが、男は自から直接に外人と話の出来ぬのを非常に遺憾とし、もどかしさの余り時々自分で仏蘭西語を唸られる事がある。成程男は其昔し仏国へ留学された事があつた、古るい話であるが、男の記臆力の強き仏語は今に少し覚えて居られる。之を聞た仏語通の婦人連は前後左右より男を取囲み、パレー、ブー、フランセーといつて話し懸ける、男は一向辟易せず、例の愛嬌たつぷりの顔に微笑を浮べながら、アンプー(少しばかり)と言はれ、覚束なげに挨拶位の言葉を交はされる。之が非常の愛嬌となつて、バロン渋沢は仏語を話されるといふ事が評判になり、新聞紙の如きは『バロン渋沢は仏語に巧なる上流紳士也』と書たものがあつた。
 (13)一行中第一の読者家
船中読書室の上客は堀越善重郎氏である。氏は暇があると常に書物を読で居る。実業家で氏の如く読書する人は少いであらう。書籍はすべて原書であるが、財政・政治・経済・歴史の書籍を初として、其他種種なる外国雑誌の類である。
渋沢男もよく読書室に入つて来られる、男は日米の財政史、米国の歴史、日本交通史といふ様な書物を見て居られた。
其他の人は真面目に読書する者は誰もない、されば広き読書室も常に淋しく、稀に机に向ひ居る人があるかと思ふと、日記を書たり、又は故郷に送る手紙を書たり、又は読書室が静粛なるを幸ひに午寝に来る人などであつた。
○中略
 (15)日本婦人競技に優勝を得
ミネソタ号には、我実業団以外に約五十余名の米国人あり、又森村組の紐育支店長村井保固氏外数人の日本人あり、出発後両国人合同して航海中毎日各種の競技を為し、勝利者に賞品を与へる事にした。賞品授与者は渋沢男爵夫人とセルダン夫人とが選ばれた。米国の勝利者には渋沢夫人の手より之を授与し、日本人の勝利者に対してはセルダン夫人の手より与ふる事にした。
斯る事には学生以外の日本人は一体駄目なものだ、体裁は悪るし、平生から練習も趣味もないので、勝利者は大抵米人のみだらうと思つて居つたが、何ぞ図らんだ、送別会の席上で賞品を与へる時になると、半数の受賞者は日本人であつたので、皆驚て仕舞つた。殊に針糸競技で渋沢男夫人が勝ち、スプレー競技で高梨たか子女史(渋沢夫人の親戚)が勝つたのは頗る振つて居つた。
(『渋沢栄一伝記資料』第32巻p.120-121掲載)


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