「渡米実業団」日録

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 今から約100年前の1909(明治42)年、東京・大阪など6大都市の商業会議所を中心とした民間人51名が3ヶ月間にわたりアメリカ合衆国の主要都市を訪問し、民間の立場から、日本とアメリカの経済界を繋ぐパイプづくりに大きく貢献しました。
 この日録では「渡米実業団」(Honorary Commercial Commissioners of Japan to the United States of America)と呼ばれた日本初の大型ビジネスミッションの日々の出来事を、『渋沢栄一伝記資料』に再録された資料等で追いながら、過去に遡る形で掲載しています。

 1909(明治42)年12月20日(月) 東京銀行集会所等主催京浜団員帰国歓迎会

竜門雑誌』 第260号 (1910.01) p.41-46

    ○青渊先生歓迎会彙報
△銀行家の歓迎会(廿日) 東京銀行集会所・東京手形交換所・東京興信所・東京銀行倶楽部の四団体発起と為り、廿日午後六時より銀行倶楽部楼上に、青渊先生を始め京浜渡米団員並に水野総領事を招待して歓迎会を開きたり、開宴に先だち委員長豊川良平氏は懇切なる歓迎の辞を述べ、且つ感想談を求むること切なり、乃ち先生は起ちて概要左の如く述べられたり
  久方振にて此演壇に立ち、而も亳も通訳を煩すなく自由に所見を開陳し得るは、誠に愉快とすると共に、御懇情切に感謝する所也、而して彼地到る処非常の歓待を受けたるは、畢竟自力に依て得たるにあらずして、全く国家の余光の然らしむる所と信ず、排日地方たる加州に於てすら同情頗る厚く、固より排日思想は労働協会の一部に於ては旺盛なるが如きも、現にウオルシ氏の如きは余が本邦人に於ても多少欠点あるべきを述べたるに対し、極力之を反駁したるを見ても、有識者間には決して斯かる問題に加担するなきを証するを得べし、而して彼の国民の勇敢且つ善に移るの念頗る強きと所謂「ホルクアー」の観念強きは、実に彼地今日の発展を得たるの所以なるべし
と語り、且つ路程の所感を述べ、更に銀行制度に関する興味ある土産談を為せり
  一日市俄古に於て有力銀行六七行主催に係る歓待の折り、予は本邦に於ける銀行制度の沿革を語り、当初多頭政治の状態たりし我が銀行業も、十五年日本銀行の設立せらるゝに及では全く統一主義となり、而して年の経過すると共に一同金融機関の統一組織の下にあるは、大体に於て可なりと信するの念一層強きを加ふ、然るに方今米国に於ては此事実が一大問題と為りつゝありと聞く、之れに対する米人の所見如何と問ひ試みたるに、中央組織は政治的趣味の加味せらるゝ懸念ある為め非なりとの答を得たり、而して後ち紐育に至るや、セリグマン教授は松方君を介して、自説の論拠に供せんが為め予の中央銀行設立説を確め来れり、依て之に対し米国にして若し永く現状の儘にして中央銀行の設立せられざるに於ては、他日再び卅九年に於けるが如き恐慌を繰返すの悲況に陥る事あらんと云へり、省みれば七年前ルーズベルト氏に依て我国は軍事と美術に付て頗る称讚を得たれど、商工業に至ては遂に氏の称辞を受くる事能はざりしが、今回計らずも我が銀行業のみは彼が称讚の辞を得たり、是れ実に銀行倶楽部・集会所の余光の然らしめたる所と、深く感謝の意を表する也
尚ほ神田男爵・中野武営君・日比谷平左衛門君等の感想談ありて、午後十時散会せりといふ
(『渋沢栄一伝記資料』第32巻p.417-418掲載)