「渡米実業団」日録

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 今から約100年前の1909(明治42)年、東京・大阪など6大都市の商業会議所を中心とした民間人51名が3ヶ月間にわたりアメリカ合衆国の主要都市を訪問し、民間の立場から、日本とアメリカの経済界を繋ぐパイプづくりに大きく貢献しました。
 この日録では「渡米実業団」(Honorary Commercial Commissioners of Japan to the United States of America)と呼ばれた日本初の大型ビジネスミッションの日々の出来事を、『渋沢栄一伝記資料』に再録された資料等で追いながら、過去に遡る形で掲載しています。

 1910(明治43)年2月22日(火) 第4回議員銀行家聯合懇親会での演説

渋沢栄一 日記 1910(明治43)年 (渋沢子爵家所蔵)

二月二十二日 晴 寒
○上略 午後五時銀行集会所ニ抵リ、懇親会ニ出席ス、食卓上一場ノ挨拶ヲ為ス、夜十一時王子ニ帰宿ス ○下略
(『渋沢栄一伝記資料』第32巻p.424掲載)


銀行通信録』 第49巻第293号 (1910.03) p.378-379

    ○第四回議員銀行家連合懇親会
貴衆両院議員中の銀行家及東京銀行集会所組合銀行・東京交換所組合銀行倶楽部会員中の有志者は、二月二十二日午後五時より東京銀行集会所に於て、第四回連合懇親会を開きたり、当日出席者氏名左の如し
  貴族院(十六名)
  市川文蔵(山梨) ○外十五名氏名略
  衆議院(二十八名)
  岩下清周(大阪) ○外二十七名氏名略
  組合銀行(三十八名)
  池田謙三(第百)渋沢栄一(第一) ○外三十六名氏名略
欺くて晩餐後、渋沢男爵発起人を代表して開会の趣旨を述べ、続いて同氏及佐竹作太郎氏の米国見聞談あり、右に対して千阪高雅氏一同を代表して謝辞を述べ、最後に豊川良平氏の演説あり、夫より別室に移り、各自歓談の上午後十時散会せり
(『渋沢栄一伝記資料』第32巻p.431掲載)


『銀行通信録』 第49巻第294号 (1910.04) p.507-510

    ○両院議員中銀行家並東京組合銀行有志第四回
     懇親会席上演説(四十三年二月二十二日)
      ○渋沢男爵の演説
○中略
昨年の亜米利加旅行は、御聞及びの通り八月半ばに出立致しまして、十二月半ばに帰りました、故に四箇月の間の大旅行で、大陸の汽車旅行も三箇月でございましたが、其道行は略しまして、見ました事柄に付て大体の観察を一二申上げて置きたうございます、但し工業上に付ての事などは、寧ろ佐竹君が後に御話のある積りになつて居りまするで、御聴取あることを希望致します、独り佐竹君のみならず、成るべく斯う御集りの処でございますから、どうぞ議会に席を持つて居らるる御方、又は地方の諸君に於て、新見解、新智識を以て、充分御論説のあらつしやるやうに希望仕りまする、仮に私が此会の司会者として見たところが、どなたに御演説の御指名を申上げると云ふことは致し兼ねまするが、先づ隣席におゐでの御方などには、是非御願ひ申上げる積りでございます、そこで私が今亜米利加の旅行談を取摘んで申上げて、此開会の趣旨とともに談話を終らうと考へますが、亜米利加の一般の有様は、百般の事業を頻りに大きく網羅するやうに考へて居るやうでございます、一例を申すと製鉄事業の如き、市俄古のゲリーと云ふ処に、合衆国の鋼鉄会社が特に大工場を開いて、殆んど鉄事業を集中してしまふと云ふやうな経営をして居るやうでございます、「トラスト」と云ふ言葉が数年前から聞えて居りまして、或る場合には壟断を意味するが如き嫌があるやうに思ひましたけれども、さう云ふ意味の「トラスト」も無いではないか知れませぬが、事業をして区々に経営するのは、生産費を余計掛けるのと、販売に付て世間の見渡しを間違へる、要りもせぬ物をどしどし造り、右の方から左の方へ持つて来るかと思ふと、又左から右へ持つて往くと云ふ弊害が多い、そこで其弊害を少なからしめるのは、成るたけ此事業を集中して、一番良い方法を以て工事は分業にして、支配は集権にする、斯う云ふ趣意を執つて居るかと見えますやうです、総ての事業にさう云ふ事が為し得られるかどうか、疑問でございますけれども、果して今申す有様が私の観察にして中るとすれば、今日の我国の有様は、余り分立に過ぎて居ると云ふ虞がありはせぬか、若し余り分ち過ぎて居るのであれば、今申すやうな集中主義の亜米利加の事業とは、迚も闘ふと云ふことは出来ぬかと斯う考へますると、どうも今御互が銀行ばかりでなしに、或る事業を経営することに付ては、モウ少し集中すると云ふことの考が生じはしないかと、斯う思ふのでございます、是等はどうも一事に付て総ての物を律し得るかどうかは疑問でございますけれども、亜米利加の有様はどうもさう見えまするので、斯かる御席に自分の感想を申上げて、イヤさうでないと云ふ御説があれは伺ひたい、若し果して然りとすれば、御互が心掛けて、成るべく小さい物を大きくする、二つの物を一つにする、十の物を五つにすると云ふやうな経営を心掛けねばならぬことではなからうかと思ふのでございます
更に一つ申上げて見たいのは、亜米利加人のする仕事は、悪く申すと乱暴と言ひたい位に、良いと見ると直ぐに着手すると云ふ気風でございます、如何にも直情径行、勇敢果断と云ふやうに見受けられます、併しさう云ふ気象に似合はず学問を重んじて、其果断する所作が、総て学理に合ふと云ふことを、深く考へて居られるかと思ふやうでございます、要するに亜米利加人は、学問とか法律とか云ふものに対して常識の発達を深く心掛ける、是は其性格がさう云ふ方に長じて居るためかと思はれる、吾々日本人と較べて見ますると、少し軽卒と云ふ嫌がある、併し俗にいふ学問酔ひがするとか、法律負けがするとか云ふことが、少いやうに思ふ、是は御互に余程心掛けて、一般に此風習を興すことを考へねばならぬと思ひます、現に目下我邦の有様は、総て議論づくめになつて、甚しきは法律が人を使ひ、学問が人を支配するやうになりはしないか、若しさうなると、即ち学問負け、法律酔ひと云ふことになつて、自身が法律を使ふのでなく、人が学問を応用するのでなくして、学問が人を支配するやうになる、亜米利加の有様は全く反対に見える、此等は我も人も心して、モウ少し常識から仕事を仕出すと云ふことを心掛けなければ、国家の進運に不充分な嫌がありはすまいかと懸念されるのであります、要するに亜米利加の大体の風俗に付て観察するに、日本に対する感情から申しますると、或は其間に客を愛する情合とか、或は客を迎へる工合と云ふこともありましたらうけれども、五十三箇所巡回致した所の様子で見ますると、到る処誠に快活に、能く其土地の現況を見せ、頗る深切に迎へて呉れまして、又吾々共も努めて亜米利加人に対して、日本人は押並べて良い感情を持つて居ると云ふことを説明しました、彼国人も其事を能く聴き受けて、頗る同情を表すると云ふて、益々交誼を厚うし、歓喜の間に経過致しました、吾々旅行の有様は、風を観、俗を察し、或は交誼を厚うすると云ふことに付ては、所謂漫遊ではございましたけれども、大体に於ては、左まで欠点は無かつたと申上げて宜からうと思ふのでございます、見聞した事の驚くべきもの、盛なること抔は或は今申し上げました製鉄所のこと、又は原料多き鉄山の有様、若しくは各都市の商店の模様とか、工場の設備とか、或は公園とか、学校とか、州庁とか云ふやうな事に付ては、何処の土地で斯る物を見た、其宏大なる有様は斯様であると云ふことは、ナカナカ申上げ切れぬ位でございます、且つ是等は申上げても余り価値の無いことでありますから略しますが先づ米国の商工業の有様は、分業にすると同時に集中させると云ふ精神を以て進行して居ると見受けられます、それから個人の働きが頗る直情径行で、且つ敢為でありながら学問を重んずる、而して其学問に酔はない、法律に制せられぬ人気であると云ふことは、吾々の十分に学習したいと考へるのでございます、亜米利加に対する大体の観察は帰国後種々なる席で申上げて、今日では耳古いことでございますけれども、見たところの目が一つしかなかつたために、申上げることも変つた事を言ひ得ぬのであります故に、初めて御目に懸つた方々には、或は御参考にならうかと思ふて、隣席から一言添へよと云ふ御言葉に従つて、亜米利加観察の概況を申上げた次第でございます(拍手)
(『渋沢栄一伝記資料』第32巻p.431掲載)