このブログでは「渡米実業団」(Honorary Commercial Commissioners of Japan to the United States of America)と呼ばれた日本初の大型ビジネスミッションの日々の出来事を、『渋沢栄一伝記資料』に再録された資料等から追いながら、100年前と同じ日に一日ずつ更新しています。
1909年11月13日(土)
■[ニューヘブン][プロビデンス][スプリングフィールド][フィラデルフィア][ワシントン][ボルティモア][シンシナティ] 1909(明治42)年11月13日(土) 日本での報道「渡米実業団消息」(東京経済雑誌)
『東京経済雑誌』 第60巻第1516号 (1909.11.13) p.917-918
○渡米実業団消息
去月十二日紐育に入りたる我渡米実業団一行は、同地滞在十日にして二十一日夜ボストンに向け出発し、同地滞在中二十二日ニユーヘブンに抵り、エール大学の歓迎会に臨み、後更にプロビデンスに着したるが、此地は我邦の開国者たるペルリ提督の出身地なるを以て、歓迎一層熱誠を表はせり、廿四日ローマン氏の案内にて、渋沢団長以下数氏ニユーポートに赴きペルリ提督の墓に詣で、親しく花環を捧げたり、伊藤公の兇報は二十七日朝スプリングフヰールドにて耳にしたるが、当初之を疑ひしも、其の確実となるに至り一同驚倒し、深き弔意を表す可く其夕招待されし晩餐会を辞退し謹慎したるが、同国各商業会議所より一行に宛て続々弔意弔電を受けたり、夫よりニユーアーク、リーデイングを経て、二十八日ヒラデルヒヤに到着、翌二十九日は有名なる独立閣を観、造幣局・商業博物館を見物し、又海兵団を訪ひ、十一月一日夜を以て遂に華盛頓府に向ひ、二日朝同地に乗込み、直ちに自働車にて市内各官衙・華盛頓記念塔・廃兵院等を瞥見し、次で国務省の接見室にて国務卿ノツクス氏及ウヰリヤム次官に面会す、渋沢団長は特に一室にノツクス卿と談話を交換す、一同は陸海軍省・大蔵省に於て各次官に面会、白堊館を見物、正午ニユー・ウヰルラード・ホテルに入る、午後は特別仕立の汽船にてマウント・ヴアノンにワシントンの墳墓及び旧宅を訪ひ、渋沢団長は花環を墓前に捧け、一同記念の撮影をなし夕景旅館に帰る、夜は世界第一の図書館・上下両院を参観し、商業倶楽部のレセプシヨンに臨めり、三日は天長の佳節に当るを以て午前十一時一同は華盛頓大使館に参集、謹んで遥拝の式を行ひ夜に入りてはニユー・ウヰルラード・ホテルに於ける松井代理大使主催の祝賀会に招かる、ノツクス国務卿・バレンジヤー内務卿以下臨席の米国紳士百余名、国務卿立ちて日米両国間の友情深厚なる歴史より説き起して、日本の米国に学びしよりは、米国の日本に学べる事のより多きを述べ、殊に武士道の如きは正に大に学ばざるべからざる所なりと賞賛し、更らに此の深き友情より推せば、日本の哀悼は即ち米国の哀悼なりとて、伊藤公の薨去に対し深く同情を表せる一場の弔辞演説を試み、尚進んで将来日米両国間に起るべき商業上の競争に就ては公平にして同情ある商業上の仲裁裁判を組織し、以て世界の平和を保持する好個の新例を示さん事を望むと結びて席に復するや、次で内務卿バレンジヤー氏の演説あり、之に対して渋沢団長は答辞を述べ、猶ほ国務卿の伊藤公爵に対する弔辞に対しては、深く感謝の意を表する旨を述べ、頗る盛会を極めたるが、一行は直ちにワシントンを去り、四日朝バルチモアに到着す、一同は同夕各所に於ける招待を謝絶し、静粛に旅舎に在りて遥かに伊藤公の葬送に対して弔意を表せり、七日シンシナチーに着、熱心なる歓迎あり、華盛頓着以来各地共数名の巡査を護衛として附するなど、歓待頗る周到を極む、同地は大統領タフト氏の郷里なれば、特に好遇の度厚きを見たり、次で八日夜インデアナポリスに入れりと云ふ
(『渋沢栄一伝記資料』第32巻p.263-264掲載)
参考リンク
- 都市詳細 ニユーヘブン - 渡米実業団
〔渋沢栄一記念財団 渋沢栄一〕
http://www.shibusawa.or.jp/eiichi/1909/city/c30_newhaven.html
- 都市詳細 プロビデンス - 渡米実業団
〔渋沢栄一記念財団 渋沢栄一〕
http://www.shibusawa.or.jp/eiichi/1909/city/c31_providence.html
- 都市詳細 スプリング・フヒールド - 渡米実業団
〔渋沢栄一記念財団 渋沢栄一〕
http://www.shibusawa.or.jp/eiichi/1909/city/c34_springfield.html
- 都市詳細 フィラデルフヒヤ - 渡米実業団
〔渋沢栄一記念財団 渋沢栄一〕
http://www.shibusawa.or.jp/eiichi/1909/city/c38_philadelphia.html
- 都市詳細 ワシントン - 渡米実業団
〔渋沢栄一記念財団 渋沢栄一〕
http://www.shibusawa.or.jp/eiichi/1909/city/c39_washington.html
- 都市詳細 シンシンナター - 渡米実業団
〔渋沢栄一記念財団 渋沢栄一〕
http://www.shibusawa.or.jp/eiichi/1909/city/c42_cincinnati.html
1909年10月31日(日)
■[フィラデルフィア] 1909(明治42)年10月31日(日) 午前は自由見学、午後は歓迎委員と共にフェアモント公園などを視察 【滞米第61日】
『竜門雑誌』 第270号 (1910.11) p.51-65
十月三十一日 日曜日 (晴)
午前九時ペンシルバニヤ大学商科大学々長、ホテルに青渊先生を訪はれ、中野氏も相会して種々談話の後辞去せられたり
午後二時青渊先生には自動車を駆りて、フエアモント公園及市外の見物を為し、帰宿の後頭本氏の紹介にて同地新聞記者の問に応じて、米国観想 談を試みられたり
夜は夕食の後、午後九時列車に搭乗、十二時三十分華盛頓府に向つて発車す(『渋沢栄一伝記資料』第32巻p.246掲載)
『渡米実業団誌』 (巌谷季雄, 1910.10) p.282-330
○第一編 第六章 回覧日誌 東部の下
第十二節 フィラデルフィヤ市十月三十一日 (日) 晴
午前は各自随意に見物し、午後二時より歓迎委員より廻されたる自働車にて、フェイアモント公園、及び市外のチェストナット・ヒル勝景の地を見物す。公園中一道の自働車通過を許さゞるものありしも、特に一行の為めに禁を解きて、週遊を擅にせしめしは、大に多とせざる可からず。夕方一同帰館、夜は各自随時列車に帰る。(『渋沢栄一伝記資料』第32巻p.257掲載)
参考リンク
- 都市詳細 フィラデルフヒヤ - 渡米実業団
〔渋沢栄一記念財団 渋沢栄一〕
http://www.shibusawa.or.jp/eiichi/1909/city/c38_philadelphia.html
■[フィラデルフィア] 1909(明治42)年10月31日(日) 日本への発電「海兵団を観る」(竜門雑誌)
『竜門雑誌』 第258号 (1909.11) p.43-46
△海兵団を観る(フイラデルフヰヤ三十一日発電)
三十日は市長の好意を以て、別仕立の汽船をデラウエア河に浮べ、先づ上流に遡りて鋸製造所・水道・貯水池等を参観し、更らに下流リーフ岳に於ける海兵団を見舞ひ、午後五時市長のレセプションに臨む、夜は盛大なる晩餐会あり、席上マニユフアクチユア倶楽部会長ホウルタヱル氏司会、上院議員、ペンロス市長、レイバーン州知事、スチユーアート判事、ビルリングトン、ワナメーカー諸氏の演説あり、渋沢団長・神田男等の答辞例の如く、今日午後は一同フエヤモント公園其他市内の見物等をなし、今夜ワシントンに向ふ
(『渋沢栄一伝記資料』第32巻p.261掲載)
参考リンク
- 都市詳細 フィラデルフヒヤ - 渡米実業団
〔渋沢栄一記念財団 渋沢栄一〕
http://www.shibusawa.or.jp/eiichi/1909/city/c38_philadelphia.html
1909年10月30日(土)
■[フィラデルフィア] 1909(明治42)年10月30日(土) デラウェア川を下り工場等を見学。夜は製造業者倶楽部主催の晩餐会 【滞米第60日】

「フヰラデルヒア製造家倶楽部」徽章
(「紀念牌及徽章」 (『渡米実業団誌』巻頭折込)掲載)
『竜門雑誌』 第270号 (1910.11) p.51-65
○青渊先生米国紀行(続)
随行員 増田明六十月三十日 土曜日 (晴)
午前九時青渊先生以下一行、市役所に於ける市長のレセプションに臨む、市役所より先生以下一行自動車を駆りてチエストナツト街の波止場に到り市長の厚意に依り一行に供用せられたる汽船スプリングフイルド号に搭乗して、デラウエア河を下り、沿岸に於ける各種工場を望見し、鋸を製造するヘンリー・デストン会社に到りて上陸し、支配人の案内にて一室一工場剰す処なく視察を遂ぐ、先生は日本文の製材家必携と題せる書物の寄贈を受けられたるが、如何に同社が其販路拡張に勉むるかは、其日本文の書物にて知るに足る、畢りて再度乗船、リーグ島の合衆国海軍造兵廠を一巡して、午後五時ホテルに帰宿す、午後六時青渊先生以下同ホテルに於て開かれたる製造業者倶楽部主催の晩餐会に臨む、此会場の四囲のボツクスには此の盛宴を見んとて、参集せる盛装の淑女花の如し、宴将に終らんとするや、例の如く演説始まれり、同部会頭フオルウエル氏は起ちて先づ歓迎の辞を述べ日本実業家の来遊は米国の為め非常の利益なり、当実業の関係さへ深ければ国交に何等碍妨を来たす事無きは明かなれば、両国の実業家は此意を以て益親交を厚くせざるべからず云々
次ぎに州知事スチユアート氏は
日本実業団の最も尊重せらるゝ、伊藤公爵の死を悼むとて、公爵の為めに弔詞を述べ、転じて一行の来遊は日米両国親善の要楔なり、日本の進歩及成功は過る日露の戦争に於て顕著なるが、平和に於て得たる成功及進歩は夫れ以上なりとす、諸君が米国商工業に就て学ぶ処多ければ多き程、両国の為めに利益大なるものなれば、此上十分の視察を希望するものなり云々
次ぎは上院議員ペンロース氏
余は日本に対し最も尊敬の意を表するものなり、東洋に於て最も若き日本人を茲に歓迎するは、衷心悦に堪へざる処なり、蓋し日米両国は天性互に親和すべき関係を有す、今後パナマ運河の開鑿せらるるときは尚一層親密の度を増加すべき事明かなりとす、政治上の使節は是迄来りたる事あれども平和の使節は今回諸君を迎ふを始めとす、此点に於て特に諸君を歓迎するものなり、世界の貿易は大西洋に限定せらるゝものにあらず、費府市の製造業者は、此若き新進の日本を華主とすることに勉めさるべからず云々
次ぎは青渊先生
一行の当市に到着したるに付き、盛大なる歓迎を受けたるを深謝す昨日来一行は手を分ちて当市の有名なる工場を見物したるが、時日の僅かなると反対に工場の甚だ多き為めに、十分見物する事能はざるは頗る遺憾とする処なり、今は又茲に偉大なる饗宴に招かれ、花の如き美人に囲繞されつゝ演説を試むるは、余の特に光栄とする処なりと前提して、一行渡米の理由を陳述し、且日米両国貿易の発達は全くペリー提督の我日本を開かれたるに基くものにて、爾来両国の貿易は統計に依るも年々増進する事明かなれば、将来も尚益増進する事は疑を容れざる処なり
米国が日本に輸出する物品少くして、反之日本より輸入する物品の多きは、米国に取り不利益なりとの説を称ふるものあれども、余は斯く信ぜざるなり、日本より米国に輸入する物品は原料品なるに付き、米国は更に之を精製して十分の利益を得らるゝ事明かなり、願はくは費府の実業家は各自の事業にのみ熱心せられずして、日本の事業にも注目せられ、吾々が多忙なる事業を放擲して当国に渡来したると均しく、日本に来遊して商工業を視察せられん事を望む
費府は其字に於て兄弟に親密なりとの意味を有すと聞く、当地の諸君は兄弟御親しむの友義を、更に日本に迄及ばさん事を望む、四十余年前の日本の使節は当地に来り此ホテルに投宿したりと聞く、今又我々一行が平和の使節として、茲に投宿したるは奇なりと云ふ可し、云々次ぎは市長レイバーン氏
千八百六十年、余の幼少の折日本の使節の当府に来りたるを見たるが、茲に開かれる宴会は、当時の歓迎より尚一層勝れたるものなる事と信ず
渋沢男爵の達識に付て大に感服したる辞あり、即ち同氏の談話に、秩序的に発達したる市は永久に衰ふる事無しとの言は、達識者の言なりと云ふべし、日本人は皆同氏の如く達識の士なり、将来の進歩発達期して待つべきなり云々次ぎは神田男爵
次ぎは判事バアリントン氏米国の紳士は、内に在りて妻君の永き演説を聞かさるゝ為めに、公開の席に於ては其鬱憤を晴らさん為めに永き演説を為す、以之短き演説を為す人は無妻の人なる事を証明するものなりとて、滔々数千言何時尽くべしとも思はれざる程にて、熱心に日米両国の貿易発達を計り両国は益々親交を厚うせざる可からさる事を論じたり
次ぎに州知事スチユアート氏は起ちて
七百万の本州の人民を代表して、茲に諸君を歓迎したるが、此市の独立閣は米国自由憲法の発現地にして、最も古き歴史を有するものにして、此地と日本との関係も亦最も深き事なれば、今回諸君の来米を機として、両国の関係を相互実業家の力に依つて結び付けん事を欲す云々
次ぎにワナメーカー氏の演説ありて、午後十二時半解会
(『渋沢栄一伝記資料』第32巻p.244-246掲載)
『渡米実業団誌』 (巌谷季雄, 1910.10) p.282-330
○第一編 第六章 回覧日誌 東部の下
第十二節 フィラデルフィヤ市十月三十日 (土) 晴
午前九時半、自働車にてチェストナット街の波止場に至り、市長の厚意によりて用意されたる汽船スプリング・フィールド号に搭乗しデラウェア川を上下して、附近の港湾、ヘンテーデ・イーストン鋸製造所、水道貯水所、海兵団等を訪ひ、河岸の勝景を探り、再びチェストナット街に上陸し、市役所を訪ひ、市長レイバーン氏以下に接見しホテルに帰る。午後六時よりホテル内に晩餐会あり。席上製造家倶楽部会頭フォルウェル氏・上院議員ペンローズ氏・市長レイバーン氏・州知事スチュアート氏・判事バァリントン氏、及ワナメエカー氏等の歓迎演説あり、渋沢・神田両男之に答ふ。深夜散会。
晩餐会はホテルの大食堂に於て開催せられ、其室内の美麗なるのみならず、装飾亦善美を尽せり。
婦人の部 午後四時ニューセンチュリー倶楽部にて、茶菓の饗応あり。夜はホテル別室にて歓迎婦人側の招待を受く。(『渋沢栄一伝記資料』第32巻p.256-257掲載)
参考リンク
- 都市詳細 フィラデルフヒヤ - 渡米実業団
〔渋沢栄一記念財団 渋沢栄一〕
http://www.shibusawa.or.jp/eiichi/1909/city/c38_philadelphia.html
■[フィラデルフィア] 1909(明治42)年10月30日(土) 伊藤博文を悼み、太平洋沿岸商業会議所聯合会から渡米実業団長渋沢栄一宛に哀悼の書状
ジェームス・ディー・ローマン外七名 書翰控 渋沢栄一宛 (1909.10.30) (ジェームス・ディー・ローマン氏所蔵) (COPY)
To Baron Shibusawa,
President Honorary Commercial
Commissioners of Japan:
Shocked by the terrible event which has deprived Japan and the whole world of one of the foremost statesmen of the nineteenth or twentieth centuries, PRINCE HIROBUMI ITO, we, the American delegates accompanying your Commission on its tour through the United States, wish to express to you our heartfelt sympathy in your national bereavement.
Prince Ito's wonderful work in the reorganization of the Japanese Empire in the light of the experience of other nations, the valuable counsel he gave at critical periods in your history, and the readiness to serve his country which he manifested even in an arduous administrative position requiring the exercise of his highest constructive genius at a time of life when he might justly have clamied a well-earned rest, have made his an honored name throughout the world, and especially in the United States.
Even in this hour of sorrow we cannot but congratulate you and your nations on the splendid achievements which he was allowed to accomplish before death came to give him that repose which he would not take for himself while there was yet work to be done for his Sovereign and his country.
October 30th, 1909.
J. D. Lowman, Presidient Associated Chambers of
Commerce of the Pacific Coast
Charles H. Hyde, Tacoma Chamber of Commerce
O. M. Clark, Portland Chamber of Commerce
C. Herbt Moore, Spokane Chamber of Commerce
Roger S. Greene, U. S. Department of State
Jackson S. Elliot, U. S. Dept. of Commerce and Labor
J. Paul Goode, U. S. Department of Commerce and Labor
Frank R. Packham, Cincinnati Chamber of Commerce(『渋沢栄一伝記資料』第32巻p.269-270掲載)
参考リンク
- 都市詳細 フィラデルフヒヤ - 渡米実業団
〔渋沢栄一記念財団 渋沢栄一〕
http://www.shibusawa.or.jp/eiichi/1909/city/c38_philadelphia.html
■[フィラデルフィア] 1909(明治42)年10月30日(土) 日本への発電「独立閣を観る」(竜門雑誌)
『竜門雑誌』 第258号 (1909.11) p.43-46
△独立閣を観る(フイラデルフヰヤ十月三十日発電)
二十九日午前は有名なる独立閣を観、夫れより造幣局・商業博物館等を見物し、午餐は七組に分れて各種工場に於て饗せられ、食後は各工場を見物す、夜はマニユフアクチユリング倶楽部に於てレセプシヨンありたり
(『渋沢栄一伝記資料』第32巻p.261掲載)
参考リンク
- 都市詳細 フィラデルフヒヤ - 渡米実業団
〔渋沢栄一記念財団 渋沢栄一〕
http://www.shibusawa.or.jp/eiichi/1909/city/c38_philadelphia.html
1909年10月29日(金)
■[フィラデルフィア] 1909(明治42)年10月29日(金) 独立記念館、造幣局、ペンシルバニア大学、ジラードカレッジ等を見学。造幣局では記念牌を贈られる 【滞米第59日】

「米国政府造幣局」紀念牌
(「紀念牌及徽章」 (『渡米実業団誌』巻頭折込)掲載)
『竜門雑誌』 第270号 (1910.11) p.51-65
○青渊先生米国紀行(続)
随行員 増田明六十月廿九日 金曜日 (晴)
午前九時三十分製造業者倶楽部に集合し、青渊先生以下一行同部に於て用意せられたる自動車に分乗して、各調査希望の方面に向て出発す青渊先生は先づ独立紀念会堂に到り、独立戦争に関する盟約文、之に署名したる名士の筆蹟及当時鋳造したりと云ふ鐘等を見て往時を追懐せられ、夫れより合衆国造幣局に到り、其美麗なる建築を一覧の後、銅貨鋳造の作業を巡覧せられたる後、鋳造部に至る、局長親ら案内の労を取り、軈て金塊一個を手にして出で、之を一行の面前に於て紀念牌に製造し、青渊先生に託して我
天皇陛下に献呈し度しとて、見る間に機械に掛けて表面にタフト大統領を表し、裏面に日英両文を以て日本実業家来米歓迎紀念章千九百九年秋と刻せる金牌を作りて、先生に其伝献を依頼せらる、先生は謹て之を受諾せられたるも、コハ局長より其意を華盛頓なる我大使に通じて之を送付し、大使より之を先生に托するの手続に依るこそ至当なりとて、一と先之を返却せられたり、米国人の無造作なる真に驚くに堪へたり
造幣局の参観終りて、先生にはペンシルバニア大学を参観せらる(同校在学の日本人は阪本陶一郎・上田良武(海軍大尉)・和田庄三郎・佐藤梅太郎・畑井某・国友信哉・高橋某の諸氏なり)正午学生倶楽部に於て午餐の饗を受け、夫れより学生寄宿舎(上田大尉の居室を見たるが、日本の夫れに比すれは天地の差あり)を見、又機関・電気等の実習室を見る、畢てジラード・カレーヂに到る、現在生徒千六百名、一堂に集合したるを見れば、何れも十歳乃至十六歳位の生徒制服にて静粛に座を占めたり、校長は起ちて青渊先生を生徒に紹介し、先生は起ちて訓戒的演説を試み、次ぎて神田男爵・大谷嘉兵衛氏の演説あり、畢りて生徒の分列式を参観して午後六時帰宿せらる
青渊先生と同校々長との談話を左に摘録す入学児童はペンシルバニヤ州の住民に限らるゝ哉
ジラード氏の遺言に依り、先づ費府市の児童を収容し、次にペンシルバニヤ州、尚定員に余りある時は紐育及ニユーオルリヱンスの両州より収容す
定員及年齢の制限は如何
定員は千五百名、年齢は七・八歳より十八歳迄とす
十八歳以上は児童の取扱は如何
十八歳以上の児童には、夫迄に職業を習はしめ、実際に於て差支無き様に為す
兵式体操に力を入るゝ様なるが、軍人を養成するの主意なるや
否、稀に軍人と為るものあるのみ、兵式体操は体育上最も可なりと認めたれば、之を採用するなり
当校総体の費用、財産より生ずる収入は幾干
一年の費用は百万円、一人に付六百五十円を要す、財産は炭礦及市内所有土地(五千万円の価格)ありて、石炭より百十万円、土地より九十万円、合計二百万円の収入ありて、支出百万円を差引たる残金は翌年に繰越すこととせり
宗教上の関係は如何
宗教には何等の関係なし、故に入学児童の宗旨を問はず聖書は講義すれども日曜日には牧師又は先輩を招きて道徳上の講話を為す
入学児童の資格は如何
単に孤児(但父無く母丈のものも含む)に限る丈なり右畢りて先生には一旦帰宿の後晩餐を認められて、午後八時半より製造倶楽部のレセプシヨンに臨まれ、午後十時帰宿せらる
(『渋沢栄一伝記資料』第32巻p.243-244掲載)
『渡米実業団誌』 (巌谷季雄, 1910.10) p.282-330
○第一編 第六章 回覧日誌 東部の下
第十二節 フィラデルフィヤ市十月二十九日 (金) 晴
午前九時半、一同ホテルの隣家なる製造家倶楽部に参集、自働車に分乗し、十時同所を発し、まづ独立閣に向ひ、堂内を見物す。独立宣言書を作成したる紀念堂には、机・椅子・インキ壺・燭台等、当時の什器猶ほ存せり。階下の中央には自由の鐘あり。今は硝子箱に蔵めて安置す。階上の広間は其当時食堂に用ひしものゝ由にて、ペンシルバニヤ州創建者、ウィリアム・ペン氏の肖像画あり。又一隅にはワシントンの使用せられしと云ふ、粗末なる一脚の安楽椅子あり。頗る当年を偲ばしむ。
十時四十五分造幣局に達し、各部を参観す。恰も我が一行歓迎紀念章を製造し居れり。其中純金を以つて製せるものあり。同所長より 天皇陛下に捧呈したき由にて、一面に大統領の肖像を打出だし、他面に「日本実業団来米歓迎紀念」を、日英両文にて刻せり。次に商業博物館に向ふ。同館は州市合同経営にして、物品陳列の方法頗る教育的なるは、館長ウィルソン博士の苦心する処にして、蓋し米国一の名に恥ぢず。各地巡覧の後、図書室にて祝杯を挙げ、紀念撮影等あり。十二時一同々館を辞す。それより各自希望により、各方面の視察に向ふ。大学病院、ステットン帽子製造所、ワナメエカーデパートメント・ストーア、絹会社、ペンキ会社、メーソニック寺院、カーペンター会堂、動物園、美術院等、其主なるものとす。午後八時三十分より十時まで、製造業者倶楽部に接見会あり。一同出席す。
婦人の部 午前九時三十分男子側と共に独立閣・造幣局・商業博物館等を見物し、午後二時三十分、再び自働車にて、ヂラート大学の孤児院に赴き、夜は観劇に招待さる。附記 今日当費府駐在、帝国名誉領事、マク・ファーデン氏より正賓専門家へ、時計飾金鐘一個宛贈らる。独立紀念鐘を模せる物なり。
(『渋沢栄一伝記資料』第32巻p.256掲載)
参考リンク
- 都市詳細 フィラデルフヒヤ - 渡米実業団
〔渋沢栄一記念財団 渋沢栄一〕
http://www.shibusawa.or.jp/eiichi/1909/city/c38_philadelphia.html
■[フィラデルフィア] 1909(明治42)年10月29日(金) 実業団渡米紀念金牌の作製
『渡米実業団誌』 (巌谷季雄, 1910.10) p.576-582
○第三編 第五章 徽章及び金牌伝献の件
第一節 実業団渡米紀念金牌
(本書写真版第一頁参照)○写真版略ス我団が十月二十九日フィラデルフィヤ滞在中、同市にある米国造幣局を参観したる際、同局長は局内の各部を案内し、一行を階下の一室に導き、爰に据付られたる極印機械を説明し、我一行に対する歓迎紀念牌の原型を示したる末、即座に該型に由り、金牌一個を製作し、直ちに之を渋沢団長に交付し、我 天皇陛下に捧呈されんことを要求し、尚ほ団員一同に対しては、同一の原型に由れる銀牌を調製し、追つて旅宿に送附すべき由申述べたり。然るに此金銀牌は、之れを合衆国政府の寄贈と云ひ、或は之れを造幣局長の寄贈と云ふも、何れにしても米国官憲より、我 天皇陛下に対しての献納品たる以上は、其捧呈又は伝献の手続並ひに交付の方法につき、如何に民主国とは云へ、聊か不備の嫌なしと云ひ難きを以て、同行のグリーン領事に諮り、一応之れを返付し、更に相当の手続を履みて、交付されんことを求めたるに先方に於ても其意を諒したり。
[後略](『渋沢栄一伝記資料』第32巻p.449掲載)
参考リンク
- 都市詳細 フィラデルフヒヤ - 渡米実業団
〔渋沢栄一記念財団 渋沢栄一〕
http://www.shibusawa.or.jp/eiichi/1909/city/c38_philadelphia.html
■[フィラデルフィア] 1909(明治42)年10月29日(金) 日本への発電「費府の歓迎」(竜門雑誌)
『竜門雑誌』 第258号 (1909.11) p.43-46
△費府の歓迎(フイラデルフヰヤ十月二十九日発電)
我実業家一行は二十七日夜リーデイングに着せしに、市長・商業会議所会頭を始め、有志の老若男女音楽を奏しつゝ熱心に歓迎し、握手の為め車中に押入る者数百名に及べり、二十八日には先づ精神病院を参観し、再び帰つてリーデイング鉄道会社の工場を見、夫より高等学校の歓迎式に臨み、市長並に神田男の演説あり、次てベスレハムに至り各工場を見、午後六時三十分フイラデルフイヤに到着、渋沢男及び各会長は名誉領事マツクフアダン氏の招待にて晩餐を饗せられ、更に米国政治社会に臨めり
(『渋沢栄一伝記資料』第32巻p.261掲載)
参考リンク
- 都市詳細 フィラデルフヒヤ - 渡米実業団
〔渋沢栄一記念財団 渋沢栄一〕
http://www.shibusawa.or.jp/eiichi/1909/city/c38_philadelphia.html
1909年10月28日(木)
■[レディング][ベスレヘム][フィラデルフィア] 1909(明治42)年10月28日(木) サウスマウンテンで病院を見学。レディングで前日同様の熱狂的な歓迎を受け、フィラデルフィアでは「金製名誉」の鐘を贈られる 【滞米第58日】

「レツヂング商業会議所」徽章
(「紀念牌及徽章」 (『渡米実業団誌』巻頭折込)掲載)
『竜門雑誌』 第270号 (1910.11) p.51-65
○青渊先生米国紀行(続)
随行員 増田明六十月廿八日 木曜日 (曇)
午前八時サウス・マウント市に到着す、直に下車し、歓迎員の案内にてペンシルバニア州立狂癲病院を訪ふ、院長ウイリアム・ヒル氏歓迎の辞を述べ、青渊先生一行を代表して謝辞を述べ、夫れより各室を参観す、当院に収容する患者の資格は、州内各地病院に在りて一年以上治療したるも、到底全治の見込なしと云ふ所謂慢性患者に限られ、而して其費用は患者出身の郡に於て三分の一、其町村に於て三分の二を負担する由なり、現在入院患者男六百名、女二百名にして、建物の数合せて十二個、位置と云ひ設備と云ひ殆ど間然する処なし
午前九時列車に戻りレデング市に向ふ、一時間にして達す
此市に於ける歓迎は意外の盛況にて、前夜潮の如き歓迎人に握手を求められしが、果せる哉此日汽車の停車場に着するや、待構へたる歓迎人は黒山の如く蝟集して一行を迎ふ、青渊先生以下一行は自動車に迎へられ分乗す、三名の騎馬巡査先頭に、音楽隊を乗せる自動車、団長たる青渊先生を迎たる自動車以下、順次二十余台の自動車は、最先の行進の譜を奏せる自動車の跡を、実に清潔なる、砂塵だに認むる能はざる街路を駛る、小学校生徒を始め、市中の老若男女群を為して一行を迎ふ、一行は先づ鉄工場を参観す、百五十噸の蒸汽機関車を、エレベーターに依りて容易く一行の頭上を運搬する様を見たり、斯くて各室を参観の後シチー・パークを一周して秋色を賞で(此公園の入口に牢獄あるは文明国として如何哉と同行の外人に質問を発したるに、如何にも野蛮的なれは近々の内に他に移転する事に決定しありと云)中学校に到る、校長ウエチー氏の案内にて青渊先生外一同講堂に進む、堂内にて待ち受けたる男女生徒千余名は、起ちて校歌を唱うて一行を迎ふ、席定まるを待ちて市長は起ちて、此市の年少の男女に日本国の印象を与へんが為めに茲に一行を迎へたる者にて、新聞又は雑誌等に記録を存せんとする意趣にあらさるなり、此地の商工業はメリヤス製造・紡績・機械製造を以て、主とする者なれば、諸君の特に記憶せられ、他日再度来訪せらるゝ際に於て比較せられん事を望むと、簡単に歓迎の主意を述べたるに対し、神田男爵英語勅語を捧読して其一本を同校に寄贈せられたり、右畢りて午前十一時列車に帰乗し、午食しつつある間にベツレヘム市に到着す、時に初雪紛々として中空に舞ふ、午後二時同地製鋼会社構内に進入して停車す、青渊先生以下一行社員の案内に依りて各工場を視察し、二時間の後列車に帰着し、四時三十分フイラデルフイヤに向て発車す
午後六時半費府に到着、青渊先生以下一行直に出迎自動車に分乗してベルビユー・ストラツトフオード・ホテルに入る、往年幕府の使節一行も此ホテルに行李を解きたりと云ふ
午後七時半青渊先生には、水野総領事・頭本氏外三・四の同行員と共に同ホテルに設けられたる名誉領事マツクフアツデン氏の饗宴に招かれ金製名誉の鐘を送られたり、又同九時よりウイザー・スプーン会館に於て、米国政治社会学会の集会ありて、青渊先生以下一行之に招かれ、先生には頭本氏を通訳として一場の講話を試みられ、午後十二時帰宿せられたり(『渋沢栄一伝記資料』第32巻p.242-243掲載)
『渡米実業団誌』 (巌谷季雄, 1910.10) p.282-330
○第一編 第六章 回覧日誌 東部の下
第十節 ニューワーク市及レッヂング十月二十八日 (木) 曇
午前八時レッヂング停車場を発し、十哩を隔てたる、サウス・マウンテンに在る州立癲狂病院を訪ふ。院長ウィリアム・ヒル氏歓迎の辞に次で、当院の組織の大要を述ぶ。当院はペンシルバニヤ州立にて、多く慢性患者を収容し、其諸費用は州に於て三分の二、当郡に於て三分の一を負担する由なり。夫れより院内を参観し、各病室を見る。本院は頗る閑雅の地を占め、設備亦殆ど遺憾なきが如し。
午前九時癲狂病院前より再び列車に搭じレッヂングに帰り、更に自働車に分乗するに、二名の騎馬巡査及び四名の音楽師を乗せたる自働車、其先導となりて市中を趨る。小学生徒を始め、市中の老若男女の街頭に歓迎する者頗る多し。軈てペンシルベニヤ及レッヂング製鑵会社を参観し、公園を経て十一時半レッヂング中学校を訪ひ、大講堂内の歓迎式に臨む。男女生徒約千名已に堂内に充てり。校長ウェナー氏の司会にて、市長の歓迎辞あり。神田男之に答へ、更に英訳勅語を朗読し、其一本を同校に寄贈す。十一時三十分列車に帰り、直にベツレヘムに向ふ。時に初雪の霏々たるを見る。
午後一時ベツレヘムに着、列車は同製鋼所構内に停る。当所は鋼鉄板、其他武器の製造を特別として、合衆国鋼鉄ツラストの一部に在り。社員の案内にて各工場を見る。流石に米国屈指の大製鋼所の事とて、規模頗る大に、只通覧せしのみにても約二時間を費せり。午後四時三十分、一同列車に帰り、フィラデルフィヤに向ふ。
午後六時半、フィラデルフィヤに着、官民の歓迎者多し。直に出迎の自働車に分乗し、ホテル・ベルビュー・ストラットフォードに入る。往年幕府の使節一行も、此旅館に行李を解きたりと云ふ。奇縁と云ふべし。当夜名誉領事マクファーデン氏、団長・各会頭及日比谷氏等を招待して盛宴を張る。九時よりウィザースブーン会館に於て米国政治社会学会の集会あり。一同招待を受く。席上渋沢男(頭本氏英訳)神田男・水野総領事等の講話あり。聴衆二千余名。(『渋沢栄一伝記資料』第32巻p.255-256掲載)
参考リンク
- 都市詳細 レッヂング - 渡米実業団
〔渋沢栄一記念財団 渋沢栄一〕
http://www.shibusawa.or.jp/eiichi/1909/city/c36_reading.html
- 都市詳細 ベスレヘム - 渡米実業団
〔渋沢栄一記念財団 渋沢栄一〕
http://www.shibusawa.or.jp/eiichi/1909/city/c37_bethlehem.html
- 都市詳細 フィラデルフヒヤ - 渡米実業団
〔渋沢栄一記念財団 渋沢栄一〕
http://www.shibusawa.or.jp/eiichi/1909/city/c38_philadelphia.html
