情報資源センター・ブログ

情報の扉の、そのまた向こう

公益財団法人渋沢栄一記念財団情報資源センターがお送りするブログです。
渋沢栄一、社史を始めとする実業史、アーカイブズや図書館に関連する情報をご紹介しています。

 1922(大正11)年11月10日 (82歳) 高峰譲吉追悼会での演説 【『渋沢栄一伝記資料』第49巻掲載】

是日、帝国ホテルに於て、高峰譲吉追悼会開催せらる。栄一出席して、発起人総代として追悼演説をなす。

出典:『渋沢栄一伝記資料』 3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代 明治四十二年−昭和六年 / 1部 社会公共事業 / 9章 其他ノ公共事業 / 6節 追悼会 / 10款 高峰譲吉追悼会 【第49巻 p.472-478】
・『渋沢栄一伝記資料』第49巻目次詳細
http://www.shibusawa.or.jp/SH/denki/49.html

1922(大正11)年11月10日、帝国ホテルで高峰譲吉(たかみね・じょうきち、1854-1922)の追悼会が催されました。渋沢栄一は高峰と「会ふ度に所謂心の底を打明けて共に語り、或は憂ひ或は悦ぶ」仲であり(『渋沢栄一伝記資料』第49巻p.475)、追悼会では発起人総代として追悼演説を行いました。演説の内容は『高峰博士』(塩原又策, 1926.08)からの転載として『渋沢栄一伝記資料』第49巻に紹介されていますが、その中で栄一は、高峰が理化学研究所設立の構想を語った際のことを次のように回想しています。

[前略] 然るに日本人は押なべての性質が、新しい事に遷り変つて活気を以て之に応ずる力はあるけれども、所謂独創の力に足らぬ嫌ひがある、之を大に進めるにはどうしても根本研究が必要である、即ち理化学の研究が必要である、是がなければ事物を進める訳にいかぬぢやないか、併ながら自分は学者である、お前はそう云ふことの権威者である、之に向つて大に力を入れると云ふことが今日甚だ必要と思ふが御前の考へ如何、と云ふ痛快の御話でありました。[後略]
(『渋沢栄一伝記資料』第49巻p.475)

また上記に続き、この前年(1921年)にワシントン軍縮会議視察で渡米した折、高峰から「体も弱つたから郷里に帰ろうと思ふ」と聞かされた際のことを、栄一は次のように回想しています。

[前略] 私は之に対して大に反対の意見を呈したのでございます。即ち紐育に於ける一席の談話です。既に君の能事は技術に於て大に発展し、余人の経営には関するけれども理化学研究所も容易ならぬ御骨折で、其考を承継いで吾々共多少努力をした、したに就ては大に発展したと云ふことを深く悦ぶ。[中略] 一方に於て大に骨を折られた日米関係は、まだ決してあなたの学問的事業の発展程には進んで居りませぬ、[中略] 年齢に於て私は十以上の長者であるけれども、此老躯を提げて、さうして罷出て心配するではないか、同じく日本の国民、国を愛するの情は御同様ではないか、君が紐育に居られて自ら日本の重きを成すことは幾許である、日本人にあゝ云ふ人があると云へば、自ら日本に重味を与へるのである。[中略] まだそれ程に御弱いとは見えぬ、御病気は御厭ひなさるが宜いけれども、望む所はもう十年亜米利加に留まられたいと希望する。私は死ぬ迄やる積りだ、其覚悟を以てすれば何でもないではないかと、少し過激な言葉でありましたけれども、さう申した所が、大きにそれもさうだ、考へ直しませうと云ふことであつたが、それが御別れになつたのでございます。私は今さう云ふ話をした事を回想致しますと、真に私が力励して、却つて病を増されたではなかつたらうかと深く恐縮するのでございます。[後略]
(『渋沢栄一伝記資料』第49巻p.476-477)

参考:高峰譲吉博士略年譜
高峰譲吉博士顕彰会〕
http://www4.city.kanazawa.ishikawa.jp/39019/contents/chronology.jsp