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公益財団法人渋沢栄一記念財団情報資源センターがお送りするブログです。
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 1929(昭和4)年7月6日 (89歳) 渋沢栄一、日本女子大学校より九十寿の祝賀を受ける 【『渋沢栄一伝記資料』第44巻掲載】

是日、当校に於て、当校主催渋沢子爵九十寿祝賀会開催せらる。栄一之に臨み、謝辞を述ぶ。

出典:『渋沢栄一伝記資料』 3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代 明治四十二年−昭和六年 / 1部 社会公共事業 / 5章 教育 / 2節 女子教育[承前] / 1款 日本女子大学 【第44巻 p.698-707】
・『渋沢栄一伝記資料』第44巻目次詳細
http://www.shibusawa.or.jp/SH/denki/44.html
1929(昭和4)年7月6日、日本女子大学校渋沢栄一の九十寿を寿ぎ、祝賀の会を開催しました。同校ではこの前年の1928(昭和3)年10月にも米寿祝賀会を計画しましたが、栄一の病気により延期され、約半年後に今度は九十寿の祝賀として開催されました(『渋沢栄一伝記資料』第44巻p.707)。
日本女子大学の卒業生会、桜楓会の機関紙『家庭週報』(1951年に『桜楓新報』と改題)には、この日の様子が栄一の謝辞とともに次のように紹介されています。

家庭週報 第九九二号 昭和四年七月一二日
    渋沢子爵九十賀会
 母校の創立記念日、卒業式、其の他の式日又は会合のある毎に渋沢子爵の晴れやかなお顔が壇上に現れることは、どんなに嬉しいことであつたらう。そしてそのをりをりに子爵から親しくお話を伺ふ時の喜びと深い感銘!真に渋沢子爵は日本のあらゆる方面に欠くべからざる方であるより以上に、我等にとつては最大恩人の渋沢子爵であることは、過去三十年間の日本女子大学校発展の歴史を顧る時、思ひ至らざるを得ない所である。
 然るに、今春の卒業式又創立記念日にも、子爵は御微恙の由にて我等は遂にあの温容に接しまゐらすることが出来なかつた。我等は子爵の御体御恢復をひたすら祈り、再び壇上から微笑の輝くことの一日も早からんことを、待ち望んでゐたのであつた。
 七月六日、遂に我等の深き祈と希望を容れられ、此処に九十の御齢を迎へられ、尚钁鑠たる渋沢子爵お祝ひの会を催すことが出来たのは何と云ふ幸福なことであつたらう。
      ×
 午前十時、講堂には早くも全校の人々が集つてけふの喜びに溢れてゐるのであつた。きのふもけふも五月雨空が続くのであつたが、子爵御来校の十一時頃は空も何時か霽れて、庭の青葉もすがすがしく照りはえて居た。[中略]
 塘幹事の挨拶によつて開会。奏楽は先づ明るい空気を満堂に漂はせて、[中略] 次いで学生総代から、又桜楓会代表として井上理事長、教職員代表としての島田教授から、最後には麻生校長から祝辞が朗読された。子爵は一々に対して絶えず緊張の面持で傾聴され、此等の賀詞を恭々しくお受け下さつた。子爵は感慨深き御様子の中に、溢れる笑みを両頰に湛へてやをら椅子を立たれた。
    私の歓び
                     渋沢子爵談
      長命してよかつた
 校長、教職員諸君並に桜楓会員、学生の方々。今日は実に存じよりませぬお催しにお招き戴きまして、その上御賞讚のお言葉を多く下さりまして何とも喜びに堪へませぬ。[中略]
 実は何れの会合に出ましても、心の上でこそ先輩と仰ぐ方々は今もおありでござりまするが、年の上では、年一年と私が長老となつて行くやうでございます。私は、本年の二月十三日で恰度九十歳の誕生日を迎へました。斯うなると、先き程も申しましたやうに先輩友人はだんだんと故人となられて、其の上、世の中はよいことばかりはありませぬからそういふ時は、つくづくと長命するものゝ憂目を感じまするが、併し、今日のやうに皆様の心からのお催しに出ますると、身にあまるお褒めに預つて恐縮するとは申せ『長命してよかつた』としみじみ感謝いたす次第でございます。[中略]
      ×
 子爵は御案じ申し上げたやうな御疲労の色さへなく、お言葉は明るく、微塵の暗影もなかつた。縷々として尽きぬ思出につけても、私達婦人の将来の為めに、その重大なる使命のあることを懇々とお訓し下さつた。やがて一同は母校創立記念の歌を合唱してけふの喜びを喜びつゝ閉会すると、子爵は壇上よりお声も大きく『まことにありがたうございました』と御挨拶があると、待ち構へて居た各新聞通信社の写真班は走せ集つて来て子爵のお笑顔をカメラに入れやうとする。とうとう写真班は子爵御夫妻を擁して万歳を呼ぶ学生の中にお立たせして頻りにフラツシユを浴びせるのであつたが、子爵は例の莞爾としてカメラに向はれやがて再び『まことに有り難うございました』と愛嬌をこぼして家政館食堂に準備されて居るけふの祝賀午餐会へ臨まれた。[後略]」
(『渋沢栄一伝記資料』第44巻p.703-706)

なお、「今日の栄一」タイトルに付記した年齢は、栄一の生年1840年と記載記事の日付から換算したものですが、この記事の中で栄一は自らの年齢を「1929(昭和4)年で90歳」と数え年齢で述べています。