終了のお知らせ

昨年の3月にツイートしてましたが、今更ながらここでもお知らせします。今年の2月ではてなダイアリーの有料利用も終了します。
ですが、アクセス数はわずかながらも、過去記事のアーカイブ性は依然として高いため、出来るだけ残すようにはします。

更新再開の可能性はまずありませんが、はてなブログの方に、とある事情からツイートのまとめを載せました。よろしければどうぞ。
神戸守さんに関しての覚え書き(随時追記あり) - とぼふ日記

はてなブログで、ブログの更新を再開したわけではないのです。

昔、テレビがつまらないと言われました。今でも言われているかもしれませんが、それに加え、インターネットも面白くありません。
放置しておくと、どんどん芸能記事化してしまう。記事の書き手も芸人化してしまう。お楽しみの気分としては分からなくもありませんが、個人的には耐えられない。
が、最低限、記録を残しておく場は必要だろう、という思いから、上記のような更新をしました。

「140文字制限撤廃」報道にジャック・ドーシーCEOが長文画像ツイートでコメント - ITmedia NEWS

というような話も出ていますが、どうなんでしょうね、分かりません。ツールの特性云々より、結局人は人がより多く来る所に集まる気がします。

繋がらない会話とソーシャルに対するうんざり感

Gレコの各話感想は皆さん素晴らしいものを書いてくれているので、自分は書かなくてもいいかなと。とにかく、最後まで終わってみないとわからんのでね。その時に書けるものが自分なりに出てくるかどうか、というのもあるけれど。というわけで今のところは素直に毎週楽しむだけで、様子見。

まあ、それはそれとして、4話までの放映後の反応をちらちら見てふと感じたことだけれども、Gレコ本編の展開にはあまり関係ない話かもしれないが、50年後とは言わず、至近な話で、「繋がり」を強制するソーシャルはもううんざり、でも止めたところで次の逃げ場、楽園は見つからない、という状況下で、Gレコの繋がらない会話、すれ違いの「リアルは地獄」さ加減が、何らかの一石を投じるのか何の影響力もないのか、そのへんちょっと興味あったりする。

だって、今作、ミノフスキー粒子で邪魔されながらもスマホ使ってんだぜ。

「ガンダム Gのレコンギスタ」特別先行上映所感。

まだ劇場での上映は続いているし、dアニメストアでの配信もあるし、何より地上波での放映もまだまだ先なので、ネタバレにならない程度の感想、というかファーストインプレッションを。

主に先にツイートしたものを中心に。

まず初見の感想。昔から富野アニメは作画の美麗さに頼らずともコンテワークで見せるのが上手いのは承知していたのだが、昨今のクオリティ重視のアニメに毒されてしまったのか、つい作画面の出来に気を取られてしまったのが迂闊だった。

アニメーターを信用しないころの富野監督は、なるべく作画の負担を減らすようなコンテを切っていたような気がしたのだが、今回は劇場限定BD特典の1話コンテを見ても、指示が細かくアニメーターに対する技量の要求度が高いような気がした。

そこで2回目鑑賞の時には鑑賞のスタンスを頭の中で切り替えて観ることに。

作画が良いことにこしたことはないのだが、出来上がった映像のレベルにこちらの視聴脳のレベルを合わせ、悪い言い方になってしまうかもしれないのだけれど、コンテ撮、原撮を観るかのような見方(あるいは記号的な)に変えたら、キャラやメカの細かい動き、仕草、設定描写、テンポの早い場面誘導、セリフの意味、等々に目が行って再発見がかなりあり実に面白かった。

観るこちらの頭の使い方次第なんだが、ああ、これが富野アニメの醍醐味だなあと改めて思った。繰り返しネタバレになるかもしれないから、言わないけれど、本当に語りたいポイントがたくさんあってウズウズしてます。まあ、秋から2クールの長丁場なのでテレビシリーズが始まったらいろいろ言います。

「ドッチボール」→「ドッジボール」ねw

HG 1/144 グリモア (ガンダムGのレコンギスタ)

HG 1/144 グリモア (ガンダムGのレコンギスタ)

ちょっとぼかしますけど、観た人は知ってるとは思いますが、2話で重いシーンが来るとは思いませんでしたねえ。

公式でもアナウンスされてますが、
News|ガンダム Gのレコンギスタ

今のところの結論。冒頭10分配信の時にはあまりにも身構えてしまったのですが、3話まで観て(今後どうなるかはもちろん分かりませんが)「キングゲイナー」の時と同じスタンスで観ればいいのだと分かってある意味安心しました。

「Gのレコンギスタ」第1話冒頭10分映像所感

「動体視力は宇宙で作業するための必殺兵器だ!」
まず驚くのが富野ガンダムにしてはくどいくらいの「ミノフスキー粒子」の丁寧な説明。レーダー無効化というファーストガンダム以来の最も基本的な点から、少々分かりにくいがそのもはや魔法レベルと言ってもいい応用であるミノフスキー・クラフト、そしてキャピタル・タワーの構造維持にも関係しているらしい点。

宇宙世紀についての言及もあり、「∀ガンダム」の時代ほど遠くはないが、宇宙世紀には近い時代(リギルド・センチュリー)の印象付け。その意味では作品のルックスとしては比較的「ガンダム」寄りである。それに比べれば(今にして思えば)「∀ガンダム」1話は「ガンダムシリーズ」の中に位置付けるにはかなり過激だったんだなあ、と思う(ガンダム好きではなく富野好きの自分には当時そんなに「過激」には映らなかった)。また「Vガンダム」の時の陰鬱で惰性で不親切な描写からすれば今回の状況説明は、結構「ガンダム世界」を知らない人にも気を遣ったやさしい、丁寧なアプローチである。

その丁寧な状況説明のアプローチも、ただ本編とは別の解説映像で説明するのではなくて、本編中でしかもわずか10分足らずで示している。富野ガンダムでは宇宙と地上を行き来することが多いが、今作の設定面の一番のアイコンとなっている軌道エレベータのシンプルな構造、宇宙と地球を繋ぐ「へその緒」のイメージを加味していることもあってか、宇宙から始まり地上の文化を見せ(宗教描写)再びカメラが軌道エレベータに乗るように宇宙へ行く。その上下構造にマッチするかのようなコンテワークで状況説明やキャラ紹介をこなす。これはコロニー時代のガンダム世界よりもシンプルである。最近の、冒頭10分程度の先行配信という宣伝の仕方にもちゃんとよくはまっている。

キングゲイナー」は暗い過去を持ちながら、キャラクターがバカをやる話だったが、「G-レコ」は脱ガンダムを目指しながらいわゆる「ガンダム」要素がこの冒頭10分だけでも意外にも多いと感じたので、全体的に明るいとは思うが、それほど脳天気なものでもないのかもしれない。

今回の「ミノフスキー粒子」の強調で、同じく富野監督の小説(「ブレンパワード」直前くらいの時期)、「アベニールをさがして」を思い出す。直接的なガンダム世界の話ではないが、はっきりと「ミノフスキー粒子」が存在する世界で、スペースコロニーが建造中の、いわば別世界線の「宇宙世紀」前夜とも読める世界。小説自体は話が進むほどグダグダになってしまうのだけれど、富野監督による「宇宙世紀」前夜の映像化は観たいと思っていた。あれから年月が経ち、「ガンダムUC」でその時代についてひとつの解釈として触れられたし、ファーストガンダム以降増殖しガチガチに固められた公式設定の中ではより「ガンダム」に縛られてしまうだろうから、まだ自由に無茶が出来る(「ガンダム」ではなく「アニメ」として)宇宙世紀以後の方がいいのだろうな、と思った。

キャラ作画に関して。個人的に富野監督のラフ絵を生かした吉田健一さん絵、といった印象だったのだが、あくまで印象なので劇場限定BDがもし手に入れば、特典の1話コンテで確かめたいところ。

「Gのレコンギスタ」に対する期待。また、アニメキャラクターの書き込みよりもリアルで緻密な背景について雑感。

注):例によって散漫に書く。また事実誤認と言われてもたいした証拠となるソースは提供出来ないのであしからず。


昨今、CGが手描きに取って代わる云々の議論よりも、手描きだろうとCGであろうと、まず主に、例えばファーストガンダムの時代では絵的な描写のディテールが未熟だったので、映像面に期待せずリアリティを出すようにコンテ演出に創意工夫を凝らして、特殊な技術による手法を生み出した。そういったものを一部のマニアの方々が声だかに評価したのだろうが、一方でそれに反対するマニア層も正確にどのくらいの割合で当時存在したのかは分からないが、そこは研究者に任せることにする(切りがないような気がするが)。

映像の原則 改訂版 (キネマ旬報ムック)

映像の原則 改訂版 (キネマ旬報ムック)


歴史的な経緯から言うと、具体的には端折るけれども、初期のテレビアニメ(テレビまんが)では現場の予算、スケジュールの短さ、人材不足もあってかいわゆる動画枚数を少ないやり方でこなすのが主流となってしばらく続くが、初期「ヤマト」劇場版当時くらいからの、アニメを幼少時に卒業しなかったクリエイター志望の実力のあるファンにとって、彼らより過去に例えばメカのディテールに拘ったスタッフもいなかったわけではない(大塚康生、まあ強いて言えば宮崎駿)。が、当時の若いアニメファン、どちらかというと「おたく」というバイアスがかかった人々は、当時のバブル時期である程度むちゃをしていいような、キャラのファッションのこだわりやメカの過剰なディテール描写、設定に凝る傾向にあった。しかもその作業には快感が伴っていたはずだと推測する(例えば「マクロス」「メガゾーン23」あたりか)。


同じ1980年代ごろアニメーターがアニメ誌等におだてられて、あそばせられ、今から思えばほんの一時期ではあったのだが、爆発やエフェクトを描きたいと思っていた人間はやたら多かったことがあった。前後するが、金田伊功氏とそのフォロワーの影響が相当大きかったはずである。ただし、まだまだテレビアニメの玩具販促は至上目的であった時代で、また、後にOVA発売その宣伝の劇場イベント上映、コミック同梱のアニメOADとグッズ等と発展していっても「商売」の要素はけっして少なくなるわけではない。

アニメージュオリジナル Vol.5 (ロマンアルバム) (ムック)

アニメージュオリジナル Vol.5 (ロマンアルバム) (ムック)


そして現在に戻るが、富野監督の新作「ガンダム Gのレコンギスタ」は過去の例えば「ブレン」「∀ガンダム」「キンゲ」に比べれば、意外にも玩具展開に精力的で有り(結果はどうなるかは分からないが)、今作に対する富野監督の発言は、あえて「子供向け」と縛りをつけるためなのか、自分を奮い立たせるためか、すでに70代の自分を鼓舞するためか、メディアに対しては、自分に対する挑発も含めた世間に対するアピールなのかもしれない。実際、HGシリーズ「Gのレコンギスタ」&「ガンダムビルドファイターズトライ」9月より続々ガンプラ発売決定! | GUNDAM.INFOといった玩具展開のプレゼンテーションがあるので、監督自身、勝手にやってくれ、というわけではもちろんないだろうから、それなりに積極的に協力しているのだろう。公式のメカ設定を見るに、個人的にはいかにも玩具然としていた方が、その独特の使い方を見せてくれる可能性があるかもしれないので楽しみである。そういった点からいえば個人的には、かつてのVガンダムのように放映前の建前的な「子供向け」よりとは違って、タイヤ戦艦をスポンサーを押しつけられることもなく、富野監督の精神状態は元気なのではないだろうか。監督ご本人はもはや高齢ですし、先のブレン、ターンエー、キンゲの流れからしてテーマ的にはそれほど変わらないんじゃないでしょうか。


次に最近本当にどの作品を見ても当たり前になってしまった、アニメキャラクターの書き込みよりもリアルで緻密な背景について雑感。

時事放談YouTubeで言われていたんですが、夏のテレビアニメ多すぎだ(テレビアニメに限らずだが)、視聴者側は若者、年寄りにもかかわらず、全番組困難、かといって供給側はビジネスチャンスを絶えず狙っているので視聴者の事情はあんまり考慮してないと。とすれば、もう申し訳ないが視聴者は無理のない視聴生活に徹するしかない。パッケージを買わなければ2期はない、と言われても経済的に余裕がなければ善意から、スタッフに援助しようとしても詮無きことである。

また、上記のパーソナリティの一人が、今までのロボットもののパターンは玩具メーカーありきに対応あるいは反発してきたものがずいぶん伝統化されてしまったので、玩具スポンサーを考慮しないロボットものがあり得るのか、いったんちゃんと検証した方がいいんじゃないのか、だったらやりがいがあるかも、と発言していたので、それは分かるけれど、難しいな、と思った。セレクターの場合は子供の頃親しんだカードゲームをやっていた人間が、大人になってカードも箱買い出来るようになったところで、ウィクロス等いったんカードゲームを卒業した人間をターゲットにした商品が出てきて、しかも、アニメ版は単なるカードバトルではなく、実際のウィクロスのゲームにそいつつ、本質は思春期の不穏なドラマでその両者が幸運にも上手くハマった。これってプロデューサーの目論みとしては、かつてのロボットアニメのファンの年齢層が上がって玩具よりもアニメのパッケージを買うようになったパターンを明確に踏襲したからなのだろうなあ、と思ったからだ。

そこで、よく言われる明らかに映像的なクオリティバブルである。
手描き作画的には、個人的には昔からのジブリ以降の宮崎アニメだったり押井守パトレイバー2あたりが悪く言えば諸悪の根源だったりするのだが、当時の自分からすればアニメの映像表現の進化に一喜一憂していたので今更否定できず、結局その進化はなるべくしてなってしまった、としか言えない。それだけが理由の一つではないだろうが、問題は普通のテレビアニメでもメカ、車などのCG そして特に緻密さが著しい背景画(CGでも手描きでも)が当たり前になって来ている。さらにデジタル制作が当たり前になった今、特に撮影が演出の重要な役割を担っているらしいとも聞く。
例を挙げるならば「残響のテロル」などを観てしまうと、シリアスな空気感、緊張感を客に納得させるにはあの劇場クラスのクオリティでなければならないのだろうか、と思う。ほとんどのアニメがそのような方向に突っ走っているような気がしてならない。

一方クオリティ問題でいえば、内容的にも映像的にも話題になった「シドニアの騎士」は3DCGオンリーであれだけの映像の安定さと面白さを提示したことは賞賛に価する。自分の印象としては、セルルックを目指すサンジゲンとは違い、漫画の描線を生かした感じが良かった。そのあたりが、制作のポリゴンピクチャーズの特色なのかもしれない。ガルパンもそうだが、3DCGだからといって単に優れているわけではない。要は優秀なスタッフと良好なスタッフワークによるものであるのだろう。

というわけで一応の結論は、昨今のクオリティバブルの中で、秋の富野監督の「G-レコ」がおそらく簡素な画面で有りながらカウンターとまではいかないが、アニメの面白さは映像の美しさだけではない、ということを示してくれたらと思う。

selector infected WIXOSS 総括

前記事selector infected WIXOSS 第12話(一期最終話) - トボフアンカル・ミニ・メディア(T:M:M)大幅加筆。





とりあえず一期の最終回の総括を。なぜ自分がこの作品に久々に執拗に拘ったかは最後に書く。

まず物語的な感想。るう子自身のこれまでの知識や経験から、彼女がすべてのルリグ、セレクターの呪いを解放する、という願いを持つことに到達したものの、伊緒奈の願いが、結局るう子のルリグとなって戦いを楽しみたいことらしいとなれば、それはもはやるう子を含めた他のセレクター、ルリグの考えを超越している次元のものであって、るう子にはもはや太刀打ち出来るものではない。しかもるう子に感化され、さらに監獄的な不思議空間のマユとの会話で逡巡するタマは姿を消し、その位置にルリグとなった伊緒奈が居座れば、いわばタマとは違ったえげつない方法でるう子をバトルにかり出す存在となるのだろう。このえげつない展開はまさに岡田麿里らしい。不思議空間でのマユと伊緒奈、伊緒奈のルリグであったウリスとの関わりは不明だが、彼女たちはマユが語るような非常に曖昧なルリグとセレクターとの理を犯す存在なのかもしれない。

WIXOSS」のゲームルールを説明しなくとも、その「一般に人気がある」という設定、ふつうに流行っている前提の上での、特殊な文字通り選択者「セレクター」の「3回勝てば願いが叶う」、それが絶対の条件ではないと後出しされるわけで負ければマイナスに願いが作用する。セレクターがルリグ化した後、ルリグと契約した後にたどり着く謎の少女マユの孤独な世界での対話が行われるわけだが、マユの物言いは煙に巻くことが多く、結局は納得出来ないユヅキにも友人である、るう子や一衣にもはっきりとは説明出来ない。

ゆえにルリグ、セレクターの関係についてより知っているらしい、伊緒奈のバトルにるう子は乗ってしまうわけで、願いは確定したももの、曖昧なセレクターのルールの中で、無根拠の自信(友人を助けたいという強い願いがそこを補強し)かといって無根拠なだけに自信が持ちきれずにブレ、伊緒奈にすがる気持ちもあったかもしれない。つまり無理もないがバトルの快楽を資質的に持ちつつ、るう子にはバトルに無心に徹することが出来ない。

伊緒奈の過去にはまだ謎が多いが、セレクターを闘技場に集めた時点で、都市伝説なセレクター幻想に惑わされることなく、今までのバトルの結果の分析から、伊緒奈がるう子のバトルに最終的に負けたらしいにもかかわらず、ルリグ化した伊緒奈は望み通り自分より強いセレクターのるう子のルリグとなり、繰り返しになるが、タマとは違った、陰湿でえげつない方法でるう子をバトルにかり出す存在となるのだろう。るう子はそれでも友人を助けるために不本意ながら伊緒奈に騙されしたがうのか。それともユヅキ、一衣、ユヅキに成り代わった花代さんの何らかの協力があるのか。

前々回の記事で一期のラストはわりと漠然としたラストになるのでないかと思っていた。もちろん、まだ世界観は曖昧な部分があるわけだけれど、とりあえず一期全体で言ってもこちらの妄想を刺激してくれたし、すでにアニメ二期の告知がされたので、完結までの引き延ばし感はありつつも、それほどこのラストに不満はない。元々1クールでは収まらない話だと思っていたし、こちらの予想を良い意味で裏切ってくれて大変嬉しい。二期がますます楽しみである。


もう一つ、視点を変えて、スタッフの目論みを邪推すれば、伊緒奈の、アニメ内及び現実でのTwitterのツイート等、作品外部の「WIXOSS」ゲームを巻き込んでの展開(ゲームしか知らない側からのアニメ二期へのフィードバックもあるかもしれない)も、いわゆるメディア・ミックスからすればそれほど目新しい気はしないし、自分のような年寄りからすれば色々思うこともあるけれど、若い人、まあ若い人間だけではないかもしれないが、特にTwitterでやり取りする(非常に速いペースでネタ的に楽しむ)には昨今すでに当たり前で、さらに、インターネットラジオ配信サイトの「音泉」で「セレクター」のラジオ(http://www.onsen.ag/blog/?p=35359)も7月から始まるらしいし(どうして一期前から始まらなかったのか、と思うが)、割とマイナーだった一期から、スポンサーの「WIXOSS」も売れ、アニメパッケージについては二期までの視聴者の興味を途切れさせないためかもしれない。その他色々な仕掛けもあるようで。
ちなみにhttp://www.norainu-jiji.com/news/hp0001/index07960000.html
selector infected WIXOSS|ƒRƒ~ƒJƒ‰ƒCƒY•WEBƒ‰ƒWƒI”zMŒˆ’èI
ご苦労様です。


前々回の記事で(http://d.hatena.ne.jp/tobofu/20140615/1402828937

視聴者も妄想の着地点を見つけられずに不安なまま放置されることになるだろうが、それがストレスのままで終わるか、良い意味で視聴者側で勝手に発展していくか、さらにはそれらが作品側に回収されてアニメ二期に上手く繋がるような好循環を生むのか、個人的には良い方向に転がることを期待したい。

と書いたが、思えば、今のアニメビジネスが確立する前の、マニアや熱心なファンの働きかけによってスタッフもそれに答える黎明期の幸福な時代の発想であり、自分もその同時代に生き、思い出補正に乗っかってしまったことはあるだろうな、ちょっと安易な結論を出してしまったなと反省している(ただ、最近では「ストパン」の例があるからあながち間違いではないのだが、数少ないかも)。


selector infected WIXOSS」、また第二シリーズの「selector spread WIXOSS」にしろ(二期はまだ分からないが)、プロデューサーの意向が比較的全面に出ているらしい今作において、るう子の心情を「思春期の心情」とダブらせて表現する手法を取ったらしい佐藤卓哉監督のアプローチ(例えば11話でるう子が、おばあちゃんとるう子の母親との電話を偶然聞いてしまう。大人同士の会話ではそれほど特別なことではないのだが、悪いことにるう子のトラウマがバイアスになって、るう子視点では不穏な会話として描写され視聴者も同じように感じる演出はよろしかった)、一方、岡田麿里のシリーズ構成は、岡田麿里らしくえげつない話を展開するわけで、それも佐藤卓哉監督や川瀬プロデューサー、スポンサーであるタカラトミーもいて、たぶん、それぞれの立場を、そのやり方を認めただろうから、それぞれの才能を生かしつつそのどれかが「作家性」という名の独りよがりに陥らず、過去の強力な「作家性」で(主に監督が)引っ張って作られた名作群を必ずしも追い越せてはいないものの、ファンが満足出来るものをプロデューサーの意向にクリエイターが上手く答えた作品ではなかったか、と思う。しかも本作はジャンルとしては「カードアニメ」をヒントとしたとはいえ「オリジナルアニメ」で成し遂げたことは賞賛に値するといっていい。


6/29追記。
https://note.mu/tobofu/n/ne2cd6c9d5f71

selector infected WIXOSS 第12話(一期最終話)

すでにアニメ二期の告知がされたので、完結までの引き延ばし感はありつつも、それほどこのラストに不満はない。元々1クールでは収まらない話だと思っていたし。
るう子自身のこれまでの知識や経験から、彼女がすべてのルリグ、セレクターの呪いを解放する、という願いを持つことに到達したものの、伊緒奈の願いが、結局るう子のルリグとなって戦いを楽しみたいことらしいとなれば、それはもはやるう子を含めた他のセレクター、ルリグの考えを超越している次元のものであって、るう子にはもはや太刀打ち出来るものではない。しかもるう子に感化され、さらにマユとの会話で逡巡するタマは姿を消し、その位置にルリグとなった伊緒奈が居座れば、いわばタマとは違ったえげつない方法でるう子をバトルにかり出す存在となるのだろう。このえげつない展開はまさに岡田麿里らしい。ルリグ空間?でのマユと伊緒奈、伊緒奈のルリグであったウリスとの関わりは不明だが、マユが語るような非常に曖昧なルリグとセレクターとの理を犯す存在なのかもしれない。

というわけで、とりあえず一期全体で言ってもこちらの妄想を刺激してくれたし、最終回も予想を良い意味で裏切ってくれて大変嬉しいし、二期がますます楽しみである。