2011-08-30
■ある、インタビュー、に、寄せて
こんなことを言っても笑われるだけかもしれない。しかし、あのような形式の自分語りには、慎みがない。路上で、ビール片手に鼻くそほじりながらおまんこしてるような露骨さだ。あなたがたは、あまりに下品なんだよ! 狭いサークルの中で、お互いに「キャラ」を演じあって微々たる差異を強調するような、そんな目を覆いたくなるようなぬるくてゆるいコミュニケーションはインターネットによる観測範囲の増大で死んだはずではなかったのか? なんなんだこの気持ち悪い空間は、お前らは一体どうしちまったんだ? 人目もはばからずに「質問」を欲し(驚いたことに、実際自分語りを始める前に、この受動的ステップがあるんだよ!!「100の質問」よりタチが悪い!!)、ひとたびそれが与えられたら涎を垂れ流しながら自分語りを始める、あくまでも「レスポンス」として!! なんという洗練された、ピュアな、コミュニケーションによる快楽の真髄を精製したような設計、高純度の麻薬、何の情緒もない即物的な劣情満たし、糞、これが未来か、残念ながら皆さんのほうが正しい、私は、あまりに、狭量で、社交性に乏しく、私は、そして、うっ(おわり)
2011-06-05
■ 震災と、「人間が死ぬ」のこれまでと、これからの話
毎日どこかで事故が起こり、人間が死ぬ。あるいは殺される。大きな事故が起ころうが起こるまいが、人間は、毎日、死に続けている。しかし、個別の死、分散された死は、私たちの目に止まらない。
だから、人間の死を、可視化せねばならない。人間が死んでいることを、忘れてはならない。
死から断絶した日常生活において発せられる「しねばいいのに」のような言葉。人身事故に対する悪態。面白半分に死を扱う姿勢。それらは、死に対する現実味の無さから来るのではないか?毎日誰かに訪れる死が可視化され、画面越しにほんものの死体を目にすることになっても、我々はそのようなふざけた態度を取れるのか?はい。
つまり、もっとたくさんの死体写真を、もっとたくさんの死亡事例をタイムラインに流すことができたら、フォロワーに「死」をリアルなものとして知覚させられたら、そのとき何かが変わる。日本では一年間に三万人の自殺があるという。一日に80件余の自殺事例をタイムラインにリアルタイムで表示できたら、あなたはそのとき笑っていられるか?
やってみなくてはわからない。
ならば、やってみようではないか。
今日もどこかで、ningengasinu。
という怪文書がマンションのポストに入っていたので、無視した。
2011-02-27
■[映画]死霊のえじき(Day of the dead): 自然の反乱、そして敗北
イギリスのニューウェイブ作家J.G.バラードは、人類の終わりを描いた一連の小説を書いている。
彼の小説で、人類を滅ぼすのは自然そのものだ。
「沈む世界」では温暖化によって地球全域が熱帯のジャングルと化し、「結晶世界」では自然現象によってすべてが美しい結晶と化してゆく。
私がゾンビという概念を好きなのは、彼らもまた意思なき自然現象として人類の終焉をもたらすからだ。地上を支配する知性ある人間が、ある日知性をなくし、意思なき自然現象の使者として知性を地上から駆逐してゆく。彼らは増え続け、たとえその場の危機を脱したとしても知性あるものたちの居場所はもはやないことを示唆して物語は終わる。うつくしい人類の終わり。
と、いうのが「Night of the living dead」「Dawn of the dead」を観た時点での私の認識。だから「Land of the dead」を観たときはのけぞった。知性を持ったゾンビだって?それではまるで、ただの人間じゃないか!知性を持つもの同士の戦争だか革命だか、そんなものがいったいどうだというのだ。増え続ける知性なきゾンビたちが約束する美しい世界の終わり、そいつはいったいどうしちまったんだ?
本作「Day of the dead」を観たことで、そのもやもやは解消されたようだ。ここに描かれているのは、知性あるゾンビの誕生と人間への反乱 ――つまり、「Land of the dead」へと続く道。
「Night」「Dawn」「Day」「Land」の流れは、ある物語を想像させる。すなわち、非-知性による、知性あるものたちに対する反乱。彼らは知性に反逆し、人類を終わりに導きつつあった。しかし彼らの中からも知性に目覚めるものが出現し、楽園は終わりを告げる。後に残ったのは知性あるもの同士の争いで、美しい終わりは成就することなく、世界は淡々と続いてゆく。日常への回帰。なんという悲劇。
2011-01-02
■ ふつうに体調を改善したい人のための精神科利用ガイド
天気の変化によって体調が悪化するという症状に、20年くらい悩まされていた。
曇りや雨の日(雨が降る直前みたいな天気が一番危険だった)に頭痛が出たり、息苦しくなったり、光がまぶしく感じたりふらふらしたり。快晴のときも時たまひどい眠気に悩まされたり。具合が悪くなるとちゃんと起きられないし動けないこともしょっちゅうだった。就職してからも症状は変わらず、会社でもぼんやりしていることが多いし時には欠席したり19時出社することも。
症状が改善したのは、今年の二月ごろあまりに体調が悪くて内科に行ったところ信用できなそうな年配の医師に「欝っぽいし精神科に行けや」と一蹴されたので精神科にいったことがきっかけ*1。処方された薬(レキソタン)を飲んでから頭痛やふらつきといった症状が明らかに改善した。症状が完全に消えたわけではなく、その後も色々な薬を試したが最近(10月)処方されたサインバルタで体調が劇的に改善。
- 睡眠時間の安定: 今まではだるくて10時間以上寝ていることも。最近は8時間程度で安定
- 気力の向上: 外出する予定があってもだるくてキャンセルみたいなことがなくなった。毎週末出かけても平気に
- ネガティブな症状(頭痛、だるさ、めまい)の消滅、天候の変化に影響されなくなった
これは投薬治療の成功ケースだと思っていいだろう(現代医学の勝利!!)。食習慣の改善やまぶたの整形より汎用性のある治療法だと思うし、通院の過程で得た知見についてまとめる。
精神科は薬をもらうための機関
これが大前提なのでしっかり押さえておく。「症状に合った薬をもらう」のがゴールであることをちゃんと認識して行動することが重要。
自分の症状を正確に伝える
精神科医は症状に合った薬を処方するプロであって非コミュのお前の話を我慢強く聞いてはくれない。初診時に自分がどのような症状なのかを正確に伝えることは非常に、非常に重要です。このコミュニケーションに失敗した場合、書斎みたいなところで父親然とした医師に「お前は努力が足りない」的な説教をされた上に薬はもらえないみたいなことになるのでしっかり準備しましょう(学生時代の実体験)。黙って座ってればどうにかなると思ってると残念な結果になるであろう。
診察時には、
- いつごろから、どのような症状があるのか
- その症状で生活にどういう影響が出ているのか
- 処方された薬を飲んでみてどうだったか
について、できるだけ詳しく伝えることが重要。
向精神薬をエンターテイメント化する
まず前提として、薬の相性は事前にわからないし、副作用は出る。いくらプロとはいえ初診でパーフェクトな処方をすることは不可能だろう*2。したがって、様子を見ながら合うかどうかわからない薬を何種類も試すというのが基本的な治療スタイルになる。
当然副作用は色々出るし、これはまともな神経ではかなり辛い。が、これは見方を変えれば「合法的にいろいろな向精神薬を試せる」ということに他ならない。いろいろな薬を飲んで副作用を体験できるとはエンターテイメントとしてみればなかなか面白いので、積極的に新しい薬を飲みまくりましょう*3。
予算について
自分の事例について述べる
みたいな処方で一回三千円程度でした(診察代+薬代)
代替手段について
自分の症状にあった薬があればいいので、個人輸入というもの選択肢としてはある。プロがいないので薬のチョイスが不安、薬の品質もなんか不安、色々な種類の薬を買うことになるので余計リスク高そうだしめんどくさい、といった理由で選択しなかった。ただ、日本で解禁されてない薬も買えたりするので治療に行き詰ったときに試す価値はあるのかもしれない。また、国内で処方される薬でも個人輸入で同成分のものを買うほうが安かったりもするので金はないけど勇気はあるという人は試してもいいかも。
おわりに
体調不良は薬で治るのでとっとと医者に行け
2010-09-12
■ [読書]トマス・ピンチョン「メイスン&ディクスン」読書メモ(一章〜七章)
インターネット上の関連リソース
- Thomas Pynchon WikiのM&D注解ページ
- おそるべき情報量、たぶんここを読めば完璧なんだけど僕は英語が読めないのです
- wikipedia
- はてなのwikipedia記法は読みにくい……
第一部 緯度と出発
原文だと"Latitudes and Departures"で、「緯度と軽度(Latitudes and longigudes)」と「到着と出発(Arrivals and departures)」の合成(広義のかばん語ってやつ)。
ディクスンが人のことを「汝」と言うのはクエーカー教徒だかららしいよ。
第一章 チェリコーク牧師の長い物語が始まる
舞台は1786年、アメリカ独立戦争(1755-1783)の終結まもないペンシルバニア州はフィラデルフィア。この都市は77年までイギリス軍に占領されており(フィラデルフィア方面作戦)、その傷跡はいまだに癒えぬ。チャールズ・メイスンの葬儀に出席し、そのままルスパーク家に滞在するチェリコーク牧師は子供たちに20年前のメイスンとディクスンの物語を語って聞かせる、というのがこの小説の枠物語。
戦争のほんの数年前*1のことだ、――儂等があの地でやっておったのは、勇敢な、儂には理解出来ようもない科学を巡る、鯔の詰りは無意味な営みであった、――儂等は荒野のど真ん中に真っ直ぐな線を引いておったのだ、幅八碼*2の線を、真西に向かって、二つの領主権を分ける為にな、世がまだ封建制であったころに下賜された、僅か八年後には独立戦争によって無効となってしまう権利を分ける為に。
メイソン・ディクソン線である。
牧師の物語はイギリスから始まる。政治的な罪により投獄され、「狂気を癒すため」東へ向かう船に乗せられることになったチェリコーク牧師、はてさてその運命や如何に。
第二章 メイスンとディクスン、手紙をやり取りする
王立天文台(グリニッジ天文台)天文台長助手・チャールズメイスンはスマトラにて金星の日面通過(1761年6月6日)を観測することとなる。助手に任命された測量士ジェレマイア・ディクスンとの手紙のやり取り。
第三章 メイスンとディクスンが対面してから「海馬号」で出帆するまで
メイソンとディクソンがポーツマス_(イングランド)*3の酒場で対面する。
メイスンが泊っておったポーツマスの宿の酒場で二人が顔を合わせた途端、メイスンは、見るからに倫敦の町に怖気づいておるディクスンの目に、自分がこの都市を知り尽くした身と映ることを悟ったのだった。
という一節がよくわからぬ、ポーツマスと倫敦ってけっこう離れているように見えるんですが。
メイスン、タイバーンで行われる公開絞首刑に毎週通っていることを語る。
メイスンは葡萄酒派、ディクスンは麦酒派。飲みに出かけようとすると、喋るgoogle:image:ノーフォーク・テリア(博学英国犬: the Learned English Dog: LED)に出会う。メイスンはすっかり興奮して犬の楽屋に行くと、これから乗る予定の船・海馬号の乗組員一行と出会う。LED、M&D、海馬号の面々の間でひと悶着。
メイスンは亡き妻レベッカが忘れられない。女預言者「黒髪ヘプシー」との対話。女占い師曰く、海馬号はサン=フゥ率いるフランスの武装帆船「上海女号」に襲われるだろう*4との不吉な予言。
1761年7月9日、海馬号はM&D(そして、語られないが、チェリコーク牧師も)を乗せて出帆する。
第四章 チェリコーク牧師、フランス武装帆船ルグラン号の海馬号襲撃について語る。
海馬号、サン=フゥ率いるルグラン号にボコボコにされる。
第五章 やられた海馬号はプリマスに戻り、M&Dは今後の行動について王立協会と書面で議論する。
なぜフランス船は海馬号を攻撃したのだろうか? 害のない科学調査を目的とした船を?
「船長は信号を送ったのだろうか?相手はそれを解読し、尚且つ攻撃したのだろうか?」
「或いは解読したからこそ……?」
二人いずれの人生に属すとも思われぬ事態。「当日の計画に手違いがあったのだろうか? 我々は、誰か他人の歴史の欠片を、何らかの偉大なる瞬間から剥げ落ちた断片を与えれたのだろうか、――たとえば先年のキブロン湾での戦闘とか、――そうした重大な事件が時折、さして劇的でない人生の日常に紛れ込んだりするのではなかろうか? 隠して我々は、鬘も歪む醜態に陥ることと相成る」
フランスの脅威により当初の目的地での観測は不可能との書面に対し、王立協会からは高圧的な非難の返事が届く。
第六章 海馬号は再び出発し赤道を越えるが、最終的な目的地は明かされない
とりあえずカナリア諸島はテネリフェ島に向かうのだが、そこから先については船出の直前に船長が手渡された謎の封印文書の指示しだい*5。
船は赤道を越える。赤道越えの儀式。
「然し、その一瞬、」牧師は指摘する。「我等の影は、体の完全に真っ直ぐ下に来るのである。別半球へ移ることは、決して抽象的な転換ではない、――王の赤子や何やらにあれこれ手をかけるのは、一瞬の影なき瞬間の門を潜って、新たな星座の広がる空と、おおよそ予測のつかぬ生き方死に方を備えた南半球とに入ってゆく際の、欠くべからざる通行料なのだ。だからこそ、<通行の儀>なしでは済まされぬ。
第七章 船はケープ・タウンへと到着する。奴隷制との出会い。
当時のケープ・タウンはオランダ東インド会社の支配下。M&Dはここで金星の日面通過を観測することになる。
ゼーマン家に寄宿することになったM&Dだが、台所付きの奴隷が逃亡したため食事は隣家のフローム家で取ることとなる。
ディクスンは現地の文化に惹かれ、オランダ人からは不人気。しかしメイスンはモテる。フローム家の妙齢の三姉妹(上は16、下は12)およびミセス・フロームに誘惑されるメイスン。
そして、奴隷制。
しかしながら、メイスンと年長の女奴隷とを組み合わせんと謀るヨハンナの術策の核を成すのは、いかなる形態の欲望でもなく、むしろ奴隷制度そのものである。そのややこしい網目の外にいるディクスンにはそれが見えるが、メイスンには見えない。この地には一個の妄執が、ここに住む誰よりも古い一個の妄執が、若しくは宿痾が、積年人々を苛んでいる、――夜通し合唱を続ける憂鬱な風どもに包まれて、人目につくかどうかに頓着もせぬ、今後何が為されようと決して帳消しにはならぬであろう大きな不正。(略)だが此処に在るのは、家族の規模を超えた、云わば集合的な幽霊。奴隷たちに対して日々犯されるさまざまな悪は、チャチな悪も重大な悪も等しく記録には残らず、魔法に掛ったかのように歴史の目には見えず、見えぬながらも質量を、そして速度を有し、鎖を揺するのみならず断ち切る力さえ持っている。この地での生活に付きまとう危うさ、この幽霊を、会社の容赦ない祭祀制と何巻にも及ぶ規約によって日々宥めておく必要。余程剛の者でない限り、みな遅かれ早かれ、最大の問題に、ほぼ薄められていない形で向き合うことを余儀なくされる。この地での奴隷の自殺率は恐ろしく高い、――だがそれを云えば白人の自殺率も同じ、そこには何の理由もない、いやむしろ、あまりに遍在し、誰も口には出さぬ理由ゆえ、束の間以上直視するに耐えぬ理由ゆえ、というべきか。
ディクスンはケチャップを好む。18世紀のケープ・タウンで作られていたケチャップとは、果たしてどのようなものであったのか……?
ディクスン、自分が観測助手に任命された経緯に疑問を持つ。
