「正解」と「納得」の間で

「正解」が欲しいのか、「納得」が欲しいのか。

この一年間、教授と非常に仲が悪かった。研究は、最高にストレスフルなものだった。納得のいく説明は得られずとも研究には責任が伴うので、仕事としてとにかくこなさなければならない。最低な一年間だった。*1
一年前、教授に対して様々な問いを投げかけていた自分は、教授から「お前はすぐに正解を欲しがっている」と言われ、議論を拒絶された。結果、「考えるな、勉強するな、じっとしていろ」という研究方針が与えられた。自分は非常に不満に思いながらも、教授という自分よりもはるかに多くの経験や成果を生み出してきた先輩の言うことであるから、自分の計り知れない理屈がそこにはあるのだろうととりあえず従うことにした。

最近はその教授とも和解が進み、それなりに納得いくまで話をするようになってきた。自分は研究上の話にまぎれさせつつ、この一年間のうっぷんをぶつけてみたり、納得のいかなかった事柄を追求してみたりして、この一年間募らせてきたトラウマやらコンプレックスを解決しようとしている。
一年経った今、「お前はすぐに正解を欲しがっている」と言ったあれは、本当はどういう意味だったのかと改めて問うてみた。すると「あれは今でも正しいと思っている。研究の過程を経験していないお前に何も答えやる気はなかった。」そう答えられた。自分は憤った。自分が欲しかったのは「正解」ではない。「納得」が欲しかったのである、と。過程が必要だというのならばそう答えればいい。そこに納得があれば、自分はもっと良い仕事をしただろうし、もっと充実した一年を過ごせただろうと憤った。

おそらく、ここにはいろいろな前提の違いがあるのだろう。言葉の意味や背景にもつ経験、理想としているものなど、様々な前提を違いとしているために様々な部分で衝突が起こっているように感じる。
とりあえず自分の考えとして「正解」と「納得」をどのように違うものとして捉えていたのかを整理してみたい。

「正解」と「納得」の違い

自分は、漠然とであるが、「正解」と「納得」の違いを以下のように考えている。

  • 正解・・・与えられるもの
    • ある条件内での問いに対する答え。責任は答えを与えたものの上にある。「答え」とはいっても実際の現場では、条件は変わっていくし不明な事柄や想定外の出来事などは起こり得るので、実際は机上でしかあり得ない。
    • 教授と自分の対話の中では、自分の問いに対する教授の答えはすべて「正解」となるだろう
  • 納得・・・与えるもの
    • ある条件内で問いに対する答えが得られたとき、その答えに対して自分も責任をもつということ。もしも条件が変わったり不明な事柄や想定していなかった出来事が起こる場合は、その条件に合わせて自分で答えを出し直す。
    • 教授が自分に与える「正解」に対して自分がそれを責任をもって受け入れるかどうか

本来、「正解」と「納得」は並列に置かれるような性質の言葉ではない。それがこの2つを以下で述べるような「何が欲しかったのか」という観点からみると、この対比が、教授と自分の間で理想とする関係像の違いを浮き彫りにしてくる。

教授と自分の求める理想の違い

確かに上記のように「納得」を「与えるもの」というように自分自信の行動として考えてると、本来「納得が欲しい」というのはおかしな話である。実際、客観的に考えれば教授との対話で手にできるのは、「正解」の方だろう。しかし、それでも自分が欲しかったのは「納得」で、より詳しく言い表すならば「納得のいく正解が欲しかった」のだ。
単純に「正解」が欲しいというのであれば、冒頭に記述したような「考えるな、勉強するな、じっとしていろ」というのも1つの「正解」であろう。研究室という組織においてトップである教授の出した1つの答えなのだから。自分も結局は「自分の選んだ研究室なのだから」とか「教授という自分よりもはるかに多くの経験や成果を生み出してきた先輩の言うことであるから、自分の計り知れない理屈がそこにはあるのだろう」とか言い訳を考えつつ、その「正解」を受け入れた。受け入れたということでいれば、渋々ながらも「納得」したといえるのかもしれない。言いたくはないが。*2
また、いったいどんな情報がどれだけ与えられれば納得するんだという問題もある。実際の研究の現場を経験していない自分が言葉だけで経験したのと同じ程度の情報を得られるかといえば、それは難しいだろう。
こうしたことを踏まえると、自分の欲しかったものは次のような「正解」の中でも「特殊な正解」になる。

  • 「これ以上はやってみないと分からない」という境界が明確な「正解」

教授はおそらく自分が研究内容について自分で調べたり現場を見たりすることなく研究成果だけを直接知りたがっていると思ったのだろう。しかし実際にそんなもの与えられても自分には前提とする様々なものをもっていないのでそれに納得することなどできはしないだろう。
自分が欲しかったのはそんなものよりももっとメタなもの、研究室という場がどのように運営されており、どのように活用することができるのかというようなことだったのだ。「自分が知らないものは何なのかが知りた方」という表現が近いような気がする。

研究室という場の運営

結局自分は研究に対して自主的に働きかける窓口を失い、研究をただの業務としてこなすしかなくなってしまった。1年経って下積みが終わり、教授は自分に対して様々なことを話すようになった。自分は1年間熟成させてきた様々なトラウマを解決しようと必死に問い続け、教授はそれに答えてくれている。
自分は本当に研究室で研究するということに憧れていた。様々な背景をもつ学生や教授と最先端の問いに立ち向かい、議論し、ある瞬間、様々な問いをスマートに解決する理論が立ちあがり、そしてその最先端が切り開かれるようなそんな世界に夢見ていた。だから、自分のようなみじめな思いをする人間を増やしたくはない。研究室には、ただ課題をこなす場所ではなく、正解のない問いに対して納得のいく解を与え続ける場所であって欲しい。
今回の問題は結局、研究室側に学生を受け入れる体制が整っていなかったということなのではないかと思う。教授は学生に対して課題を与える一方であり、先輩学生もそれを受け入れる一方で、新入生はただその場にいるだけで十分であり、それ以上されても許容できないということだ。研究室という場に直接アプローチしてくる自分のような学生がいた場合、それは「問いに答える」という与える側でもあり、「問いを受ける」という受け入れる側でもある必要がある。自分の研究室にはその両方を同時に満たす機能がなかったのだろう。
研究室のマネジメントに非常に関心がある。研究室の全体像が未だ見えていない自分に何ができるのかは分からないが、自分は意欲のある後輩に対応できる窓口でありたいと思う。

*1:そう言いつつも研究室では仕事とは別に自分の好きなこともたくさんしたので、「研究生活」という意味では楽しいこともあった。

*2:実際、受け入れながらも文句を言っている自分は、教授に甘えているのだと思う。

とうふ

とうふ とうふ

おまえのすがたはおだやかで

やはらかい


とうふ とうふ

おまえのしろいはだは

うつわさえもうつくしくさせ

やはらかそうだけれども

まっすぐなすがたは

どこか高貴に見えるが

けっして孤独ではない


とうふ

わたしはおまえにかつおぶしをのせ

そのうえにしょうゆをたらすだろう

しかしそれはおまえをけがすものではなく

そのしろさをあざやかにする


とうふよ

おまえは、わたしには淡くみえるのだ


とうふ とうふ

ふれることかなわぬ とうふ

そのかほりはふうわりと

そのくちあたりはふうわりと


とうふ とうふ

あひたい


とうふ

恋愛観分析

 ある日マクドナルドで本を読んでいたら、隣に座っている女性が電話でどうも恋愛相談を受けているらしく、どうも深い恋愛観についての話をしているらしいということがありました。恋愛下手な私はそれが気になって気になって、聞き耳を立てたいがそれは良くないような気もするし、本の続きを読みたいがやっぱり聞き耳を立てたい気もするし、という葛藤にどうしようもなくなったので、せっかくだから自分も恋愛観について考察してみることにしました。黒歴史になりそうな予感がするのですが、旅の恥はかき捨て、人生は旅路であるということでうやむやにして記録することにしました。
 まずはじめに、以下で述べるモデルは、自分(主体)にとって相手(客体)はどのような位置づけにあるかという観点から論じていきたいと思います。この場合、2人の関係性を考える場合は、お互いがお互いをどのような位置づけで認識しているかという形で論じることができます。
 また、以下で述べるモデルでは「結婚」や「彼氏彼女の関係」のようなある種、約束事か契約のような関係性については別に考えることとします。自分が相手をどのよう認識しているかということにのみ注意し、その上で「親友だよね」とか「友達以上恋人未満だね」というようなことについて考えていきたいと思います。

2軸による分類(愛情×意志)

 まずはじめに、2つの軸により自分にとっての他者の位置づけを分類したいと思います。軸は、以下の2つです。

  • 愛情(相手を自分に近しく感じる度合い、感情の起こる度合い、感性によるもの)
  • 意志(相手を認知する度合い、選択した責任を感じる度合い、理性によるもの)

けっこうアバウトだなとは思うのですが、言葉を駆使して説明すると、以下のようなものを考えています。
 1つ目の「愛情」の軸は、いわゆる友情や愛情、家族愛のような感情的なものの度合いを想定しています。友情や愛情を本質的には同じものと捉え、相手をどれだけ自分に近しく感じるか、どれだけ多くの物を感覚的に共有できているかという一元化した形で考えています。例えば、モノのを相手に渡す場合にどれくらい自分側の損失を受け入れられるかというところで、その度合いを測れるかと思います。赤の他人であれば物々交換(貸し借りであれば消耗の分利息を付ける)までという感覚で、友人であればたまに食事をおごったりや利息無しでの貸し借りをしたりもOKでしょうか。恋人であれば結構なものを無償で与えられ、家族であれば家計や人生を1つにするぐらい多くのモノを共有できると思います。*1この違いは「相手のことをより自分に近しいと感じていれば、モノの移動においてコストはより小さくなる」という観点で見ています。*2
 2つ目の「意志」の軸は、いわゆる受動的であったり能動的であったりというというところの度合いを想定しています。あるいは区別する上での積極性の度合いともいえるかもしれません。例えば他人の中にも、「まったく知らない他人」と「顔と名前は知っているぐらいの他人」の差があるでしょう。恋人の中にも「この人しかいないと選んだ恋人」と「告白されて好きになった恋人」の差があるのではないかと思います。ここには愛情のような感性によるものとは別に理性的な違いがあると考え、そうしたものを1つの軸として区別することとします。
 以上を踏まえ、縦軸に「意志」を置き、横軸に「愛情」をおいて、いくつかの単語を分類すると、以下のように配置できるのではないでしょうか。

ただしこのような平面を考えたとしても「赤の他人」と「同居人」が同じ意志レベルとは考えられませんので、意志と愛情にはある程度の相関を考慮した上での配置といえるでしょう。*3

友人〜恋人付近のケーススタディ

 恋愛観の問題というのは、愛情の軸における友人〜恋人付近に境目をどう置くかというところが話題になるかと思います。このあたりについて、思い付くいくつかのケースについて上記の2軸において考察してみたいと思います。簡単のため、以下の4つの場合に分けて考えます。

 まずはじめに、「友達以上恋人未満」という言葉について考えてみたいと思います。感覚としてはほぼ恋人なんだけど、付き合っているわけではないよねというようなところ。これを通常の友達や恋人とどう区別するかというのはありがちな問題かと思います。これは結局Bのタイプに当てはまるのではないかと思います。感覚としては恋人、でも「この人と関係をもつ」と選択したわけではないという位置づけです。似たような意味合いとして、恋人ではないけど同じぐらい大切な「親友」なんかもあてはまるかと思います。
 他に、「告白されたのでとりあえず付き合ってみた」とか「社会勉強で付き合ってる」みたいなパターンもあるのではないかと思います。こちらはそこまで好きじゃないんだけど、積極的に他とは区別するという意思が働いていますから、Cのタイプに当てはまるかと思います。Cには他に「キープ」であるとか「なりゆきで」なんてところもあてはまってしまうのではないかと思います。
 また、微妙なところで「好きなんだけど結婚する気はない」というような場合はどう分類できるでしょうか。これは、言葉としては同じでも2つのタイプがあるかと思います。1つはCのタイプ。このタイプは結局、「そこまで好きじゃない」ということでしょう。もう1つはBのタイプ。こちらは、「好きなんだけど、決められない」というところだと思います。相手をAに配置するには「この人に決めた」というような意志決定を前提としています。意志を決めるには勇気がもてないような状況といえるでしょう。
 以上のようなことを考えたとき、幸せな恋愛をするのにもっとも重要なのは「お互いにお互いの分類が同じ位置にある」ということなのではないかと思います。お互いにAであれば、外部の事情さえ整えば結婚しちゃうのではないかと思います。お互いにBであれば、きっとズルズルと彼氏彼女の関係を続けるのではないかと思います。結婚するしないでもめるようなときは、AとBでズレがあったときでしょう。AとBはお互い十分に想い合っているのだから、それを好き嫌いの問題ばかりで議論しては状況が悪化してしまいそうです。もしもAとCのズレだとしたらAの方はかわいそうとしかいいようがありません。

恋愛観を2軸上の推移で考える

 以上のような空間を考えた場合、個人の恋愛観というのは、相手の位置づけが関係が深まる中でA〜Dをどのように推移するかという形で議論できると思います。例えば以下のようなものが考えられるでしょう。

  • 「ひとめぼれ」タイプの方は、運命の人とはきっと会っていきなりAに配置してしまうのでしょう。
  • 「友情と愛情は違う」というような方は、B→AのルートとD→Cのルートが明確に分かれているのかもしれません。
  • 「好きになってくれる人が好き」は、D→AとかC→Aのルートが不連続に確保されているということなのでしょう。
  • 恋愛を友情の延長で考えている方は、D→C→B→Aで連続に推移していくのではないかと思います。

自分の恋愛観

 きっと赤の他人からすればまったく興味はないでしょうが、私の恋愛観にはD→B→Aのルートが存在しているような気がします。別に同僚であるとかよく会う人間でなくとも、「とりあえずデートしてお互いのこともうちょっとよく知ろうぜ」みたいな発想があるからです。Aに行くにはBを経由する必要があるのは感じていて、Bを増やしその中から「この人に決めよう」と意志を固めてAへ移して初めて恋人として認識しようとしているようなところがあります。恋愛観に関してどうも周りから誤解を受けているところがあるような気がしていたので、通常のD→C→B→A以外にも自分の中にルートがあるからなのだと自分で理解できてすっきりしたような気がします。
 そうなってしまったのはきっと、私にはCの数が少ないのとそれにもかかわらずBの数が多い方が幸せだと思っているからなのではないかと推測します。正攻法を考えるなら、いろんな所へ頻繁に顔を出していろんな人と仲良くなってDの数を増やし、その中からBが現れてくるのを待つべきなのだろうなという気がします。以上に対する考察を今後の課題(?)としたいと思います。

*1:これはあくまでも例で、家庭崩壊していて愛情なんてないけど家族だから家計は1つというような外部要因による場合は別とします。

*2:極限として、相手と自分が一体であれば、相手にモノを与えたとしても、相手と自分は一体であるという前提なのでモノの移動は起こっていないと考えることができます。

*3:垂直に交わっていない形で2軸をとり、垂直に表現し直したと考えることもできるかもしれません。基底を変換するような感じで。

なぜ私は働くのか

インターンの事前課題で、読書感想文を求められました。課題は選択式で、私は田坂 広志の『仕事の思想』を選択しました。

この書籍自体、非常に感動的で、考えさせられるものだったのですが、「はて、読書感想文?何を書けばいいのだろう」と小学生時代に何度も感じたような問いに戻るわけです。書評のようなものを書けばいいのかな?とも思ったのですが、こういうテーマを課題に出すところから想像するに、おそらく仕事相手が知りたいのは、「お前は何者か?」ということだろうと判断しました。確かに、批評を書いてみたり絶賛広告を書いてみるのもある種、私のテクニカルな部分を表現することになるでしょう。しかし、「思想」と名のつくようなそれこそ思想を課題にしている以上、それに沿うならば、書をネタに「私の思想」を表現するべきだろうと判断しました。
 若干ぎこちない雰囲気もありますが、せっかくなので書いたやつを公開してみます。

なぜ私は働くのか

 『仕事の思想』の中に「なぜ我々は働くのか?」という問いがあります。「働く」とは「仕事をする」ということだと思いますが、では仕事とは何でしょうか。必ずしも生きることに直結するわけではなく、必ずしも楽しいものでもなく、かといって社会の中で生きていくには不可避で、しかも1日のほとんどの時間を費やす対象、「仕事」。なぜ我々は仕事をするのでしょうか?自分自身にその問いを投げかけ、それに答えることで私の読書感想文としたいと思います。
結論からいえば、私は「生きるために」仕事をします。ただし、ここでいう「仕事」は、もしかしたら一般的な意味ではないかもしれません。私にとって仕事は、単純に「会社に属すること」ではありません。自分の人生を主体的にデザインし、それを実現するために社会へ積極的に働きかけることを「仕事」と認識しています。

自分の人生をデザインする

 私は、勉強するのが好きです。自分の知らないことを知るというのは、とてもドラマティックなことで、自分の価値観を変え、自分の中にもっている世界を変えていくことになります。自分が今現在知っている世界、身近な世界だけにじっとしていると、だんだんそれになれてしまって、生活することに飽きてしまいます。そこで、私の仕事には、いつも勉強するという要素が含まれています。たとえばサークル活動の運営においては、例年と同じ企画であったとしてもその目的や現状を再考し、0から立ち上げるつもりで企画をしました。前例はあくまで参考かきっかけに止め、メンバー自身に目を向けることでそこから主体性のある独自の活動の芽を見出すのです。自分たちで0から企画を立ち上げ仕組みを作るのは難しいことですが、そこではいくつもの価値観がぶつかり合い、混ざりあい、発見があって楽しいのです。
 私が仕事をするのにはもう1つの理由があります。それは、人生の可能性を広げるためです。人生の中には、様々な困難があります。経済的にうまくいかないこともありますし、仕事の中で悩むこともあると思います。そんなとき、自分の中の同じ世界でじっとしていてもなかなかうまくいかないものです。仕事は、そんなときに変化を起こすための仕掛けにもなります。新しいことを仕事として実行することで自分の中の世界に変化を起こし、それまでの問題を問題でなくしてしまうのです。たとえば、サークル活動の中でうまくいかないことはたくさんありました。新しいことをしてリスクを取りたくないメンバーは前例からの変化を嫌がります。しかし私はシステム開発のアルバイトをする中である程度のプロジェクトマネジメントの経験を積んでいました。その経験は企画に必要な条件を分析し、対策をとってメンバーの不安を解決することで状況を変えていきました。このように、仕事をするということは自分の可能性を広げることに繋がります。私は、自分の人生にバリエーションをもたせることで、可能性を広げ、困難を克服し、よりよいデザインへと変えていくのです。

社会へ積極的に働きかける

 自分の人生をデザインするということは、見方を変えれば、自分をとりまく環境をデザインするということにもなるでしょう。自分の属する社会へ働きかけることでそれを変化させ、より良いものへとしていく。私にとっての仕事は、理想の社会を作っていくことでもあります。例えば、私はこれまで生きてきた中で様々な理不尽な目に遭い、様々な理不尽な話を耳にしました。教育の現場において、学生はなぜ自分がその場で教育を受けているのか理解して説明できるでしょうか。教師は自身が行っている教育の意義を理解して学生を説得することができるでしょうか。これはマネジメントが無く制度のみで現状が維持されているために起こる理不尽なのではないかと考えます。マネジメントの不備は教育の現場に限らずいろんなところにあるように感じます。私にとっての仕事は、こうした仕組みを分解し、再構築することでより納得感のある社会をデザインすることでもあります。
社会へ積極的に働きかけていると、自分以外の人生へ干渉することにもなります。私は、こうしたお互いの価値を認め合ったり恩に報い合ったりということも仕事だと考えています。私がここまで生きてこられたのは、社会というシステムが私に居場所を与え、食物を与え、仕事をさせてくれて、生命維持装置として機能しているからでしょう。そこでは様々な人との関わり合いもありました。この大きなシステムの中で自分自身がそのシステムを構成する一因として、自分と他人の居場所を作り、価値の連鎖を生み出していく。それも重要な仕事であると感じ、積極的に社会との接点をもとうと活動しています。

 この本を読んで真っ先に思ったのは、実は仕事なんかより「なぜ我々は勉強するのか」という問いの方でした。社会人ならば「なぜ働かなければならないんだ」となるでしょうが、学生は「なぜ勉強しなければならないんだ」という問いでしょう。この問い自体、私はこれまで何度も自問自答しましたし、おそらくみんな一度以上考えることだと思います。実際、何度か友人から問われたことさえあります。初めは、学校から課されるいわゆる「勉強」の嫌いだった私は、「これは勉強じゃなくて遊びだ」などと憤りながら返していたものですが、最終的には「勉強」と和解(?)して、「生きるため」という、上記と同じ結論へ至りました。一度、友人の問いにそう答えたときは、「勉強しなくても生きられるじゃん」と笑われましたけどね。頭を働かせて能動的に生きなければ、私にとってそれは死に近いことなのです。一方で問わずに生きられたとしたら、どれだけ幸せだっただろうとも思ってしまいます。

世界を変える「デザイン」

 この本をご存知でしょうか。

 私は最近、この本に由来するイベントのスタッフボランティアをしています。それはとても刺激的で、私に様々なものを与えてくれています。それは労働の楽しみ、BOP(Base Of the Pyramid)という概念、そして私の専門への新たな視点でした。

世界を変えるデザイン展

 世界を変えるデザイン展というイベントが、東京ミッドタウンで開かれています。

 このイベントでは、発展途上国の様々な課題を解決する「デザイン」をテーマに展示会やカンファレンス、そしてワークショップが開かれています。このブログを書いている時点(5月24日)は開催から1週間。ものすごくたくさんの方々がいらして下さいました。特に開催初日と2日目のカンファレンスはほぼ満席の状態で、様々な方々が意見交換をされておりました。展示場の方も、会場のデザインハブではここ数年ないほどの入りで、初日で800人を超える入場者数だったとのことです。平日においても常に200〜300人の来場らしく、1週間たった23日(日)もたくさんの人でにぎわっていました。
 この様子からも、人々の間での関心の高さが伺えます。しかし、このデザイン展は、ただの展示会ではなくここから日本のBOPビジネスを盛り上げていこうという意図があるそうです。BOPやデザインという概念は、日本では世界と比べて5年は遅れているといいます。関心はあるけれども事業となるとまだまだというのが日本の現状ということでしょうか。ただ、「遅れているから」という理由ではなく、このデザイン展をきっかけに多くの方々が世界の現状と動向を知り、新たな視座とともに新しく世界を変える行動を起こしていったとしたら、それば素晴らしいことだと感じます。

BOPを知っていますか?

 ところで、BOP(Base Of the Pyramid)という言葉をご存知でしょうか。ちなみに上記で紹介した書籍のもう1つのタイトルは、"DESIGN FOR THE OTHER 90%"。世界の90%は貧困層であり、それをピラミッドの基盤(Base)として例えているのです。BOP(Bottom Of the Pyramid)とも呼ばれていたのですが、そのBottomという差別的な意味合いを避けて、近年ではBaseを使うようになっていると聞きました。*1
 そして、BOPが自らの手で発展していけるよう支援するのを、彼らをターゲットとしたビジネスによって行っていくというのは「BOPビジネス」と呼ばれています。「途上国支援」と聞くと、「慈善事業」であるとか「先進国のエゴ」のように考える方もいるかもしれません。確かに一面としてはそういうところもあるかもしれません。しかし、私がこのイベントで見てきたものは、単純な資金投入や開発というものではありませんでした。現地の生活をよく調査し、現場に受け入れられるプロダクトとビジネスモデルを開発していく地道な事業が行われていました。実際、カンファレンスに参加されていた一般の方々も、BOP事業を採算の取れる「ビジネス」としていかに維持していくのかというところに関心をもたれている様子でした。
 私は、この「デザインが世界を変える」という考えに感動を覚えずには居られません。ただのプロダクトデザインですら、途上国の生活問題を解決するきっかけになるのです。原始人類が発展してきた歴史は、思考錯誤しながら様々な「道具」を開発してきた歴史です。それは形あるモノからコンセプト、そしてシステムへ。この歴史をもう一度、しかもビジネスとして再現しようというのです。私はこの「デザイン」という言葉のもつ可能性に感動せずにはいられません。

デザインとは何か?

 カンファレンスである講演者の方が「デザイン」を次のように定義していました。

デザインとは、社会のもつ課題を解決する手段である。*2

「デザイン」というとよく連想されるのは、製品の外見、意匠のことではないかと思います。しかし多くの現場で使われる「デザイン」はもっと大きな意味をもっています。コンセプトのデザイン、システムのデザイン。世のデザイナーはもはや、製品の最終段階だけではなく、世界そのものさえもデザインしようというのです。言い過ぎ?
 ところで、私は「社会のもつ課題を解決する」というフレーズに聞き覚えがあります。この言葉をまさかデザイン展のカンファレンスで聞くことになるとは思いもよりませんでした。これは、私の専門である管理工学を語るときに使う言葉です。管理工学(経営工学、産業工学)は、社会の問題を様々な技術を駆使して解決する学問です。「管理」や「経営」という言葉を使うときは企業活動や産業システムが意識されていますが、広く見れば公益や社会システムなどのこの世界そのものを扱うことになります。そしてこの「社会の持つ課題を解決する」という行為は、もはや工学そのもの。学問として一般化するかしないかの違いはありますが、私の目の前で様々な世界と概念が重層的に関係し合う様子が感じられます。
 私は、この「デザイン」の考えがもっともっと広まればいいと思います。BOPに限らず、もっと身近なところから。日々の生活のちょっと大変なところを工夫してデザインの形で解決していく。それが事業として大きくなっていけば、確かに世界は変わってしまうかもしれないと夢を見てしまいます。

私の世界は変わった

 今回のデザイン展スタッフボランティアをさせてもらって、私の世界は大きく変わったように感じます。知らない世界に足を踏み入れた感じがします。デザイン展、カンファレンス、BOPビジネスを手掛け国際的に活躍される方々を目の当たりにし、それに関心を寄せる方々、そしてそれに関わる学生たち。
 この縁は、いったいどこへ繋がっているのだろう。私には、この世界で何ができるだろう。毎日そればかり考えています。

*1:BOP〜経済システムの外側にいた低所得の40億人 http://www.nikkeibp.co.jp/article/column/20100122/206703/

*2:うろ覚えだけど、こんなことを言っていました。

私の夢見る研究

 私は小さなころからずっと、研究室での研究活動に憧れていました。始めは試験管を振っているようなイメージだったかもしれません。世界に対する深い洞察に憧れていたような気もします。それはいつしか「知の最先端を切り開く場所」や「世界を変える火種を起こす場所」など過激なイメージへと変わっていきました。今では大人しくなって、「研究室」と一言で言っても大学や企業では目的が違うようだなぁ*1とか、少しシンプルに「学生が自分の理想とするテーマを探すところ」という認識になっていますが、それでも、今年度から始まる自分の研究室生活には心が躍っています。
 新年度が始まって1ヵ月が立ちます。いろいろな転機もあったように思います。ここで少し初心に返って気持ちを整理するつもりで、自分の夢見る研究のようなものを残してみたいと思います。

ヒューマン・ファクター

 私の入った研究室の専門分野は、「ヒューマン・ファクターズ」です。きっとピンとくる方はあまりいらっしゃらないでしょう。確かに物理や化学と比べると歴史の浅い分野です。しかし、産業が組織として行われ、「企業」という概念が生まれたそのときから、この分野は存在し続けています。
 では、「ヒューマン・ファクターズ」とは何か。この言葉を単純に訳せば「人的要因」でしょう。この分野は、組織や工場のような生産システムとその中で働く「人」とがどのように影響を及ぼし合っているのかということを考えてきました。その中でも特に話題に上るのが「ヒューマン・エラー」です。簡単にいえば、人がエラーをするとその生産システムは不調となるわけです。では、そのエラーを起こす原因はどこにあるのか。どのようにしてエラー行動へ繋がるのか。理想的な人とシステムの関係はどのようなものなのか。そうしたことを考えていきます。
 「ヒューマン・ファクターズ」という言葉はあまり耳にしなくても、「人間工学」という言葉は聞いたことがあるかと思います。実はこの2つの概念は同じものです。聞いた話によると歴史的に「ヒューマン・ファクターズ」はアメリカで、「人間工学」はヨーロッパで発展したらしいです。しかし、この2つの言葉を聞いて連想するものは少し違うのではないかと思います。どちらの概念も「人とシステムの調和」を目指すものですが、どちらかというと「人間工学」の方は人の体に合った椅子やペンといったような「モノのデザイン」を連想しがちなのではないでしょうか。一方で「ヒューマン・ファクターズ」の方は、聞いたことのある人にとっては工場内の安全であるとかシステムの信頼性といった「安全工学」「信頼性工学」というような形で話題に上るかと思います。概念としては同じ「人とシステムの調和」をテーマとしていますが、使われ方が微妙に違うのが実際なのです。
 さて、「ヒューマン・ファクターズ」がシステム内の安全・信頼性を中心に扱うというところで、その扱うシステムにも様々なものがあります。かつては、工場の中での安全管理活動が中心に扱われていたようです。工場の中での事故は大きな損失を生みやすいですし、人の命に関わる大事故にもなり得ます。指さし確認や声の掛け合いなどの基本的なところから、工場では安全のための様々な取り組みが行われています。そして、私が研究のテーマとして扱っているのは、医療現場の安全管理活動です。医療の現場は人の体を直接扱うため、そこでのエラーは人命に影響を及ぼしやすくなります。しかし実際は、医療現場は忙しい上にいくつもの基準・手順やルールのある非常に厳しい作業現場であるにもかかわらず、すべての医療現場で高機能なシステムを導入するわけにもいきません。また、エラーをなくすためにすべてロボットによる自動化をすればいいかといえば、これまで看護師の頑張りによって支えられてきた人間味・暖か味のある医療サービスはなくなってしまいます。そうした実情を踏まえた上で、単純に高価な機械を導入するような方法ではなく看護師がもっと働きやすくなるような形でサービスの安全性や信頼性、そして安心を作りだそうとしています。

人を幸せにする「マネジメント」

 私は個人的にずっとマネジメントのことを考えて生きてきました。小さなころはなぜ子供は筋の通らない大人の主張に右往左往しなければならないのか疑問に思っていました。大きくなってからはメンバー1人1人がそれぞれ最高のパフォーマンスを発揮しつつ、全体でも良い仕事へつなげるにはどうしたらいいかということを考えてきました。「マネジメント」は人の集まりがただの集まっただけではなく、組織として何か目的をもって行動するための活動です。組織の中の人間を活かし、その上で組織の目的を達成し、組織の周りにある社会へ利益を生み出す、そのためにはマネジメントという機能が組織の中には必要になるのです。
 なぜ私は「マネジメント」を考えるのか。それは単純に自分が組織というものになかなかなじめなかったからなのかもしれません。小さなころは大人が子供に対して行うマネジメントに納得がいかなかったから。少し大きくなってからも自分の正しいと思ってやることがマネジメントの権限をもつ人間に納得されなければそれは生きないということが理不尽に思えたから。そうでなくても、人間関係というものはコミュニケーションのレベルから難しいものです。そういった困難さから言語学に傾倒していた時期もありました。論理や言葉の表現法だけではなく、音楽や絵画のようなデザインにも意識は向きました。それらすべての収束した先が、「マネジメント」であるように思います。*2結局は、自分の感じた苦しみや孤独を他の誰かが味わわないようにしてあげたいというのが根源的な動機なのかもしれません。苦しみもしたけれど私を助けてくれた社会がある。私はその社会に孤独な社会であって欲しくはないのです。システムとして社会を、人間を進化させるために私はこの分野を研究しているのです。
 このように私のマネジメントへの動機がとても個人的なところにあるために、私のマネジメントとしての意識もより人間に近い現場へと向きます。実際はプロジェクト・マネジメントのように計画を遂行するための技術やファイナンスのようにお金の流れを管理するようなマネジメント技術もあります。しかし、私はマネージャーとして、組織のメンバーがそれぞれの強みを発揮できる仕組みをつくること、それを1番に考えていきたい。そのために組織の中の「安心」や「安全」を考えていきたいのです。もちろん、ある程度のストレスはむしろ集中力を高め、エラーを下げたりパフォーマンスを上げる方向へ働きます。しかし実際はそれだけでに留まらず、「指示の意味が分からないのに何かやらなければ」や「なんでこの作業はあるのだろう」という不安、「アレもコレもソレもやらなきゃ!もう意味分からない」というような現場はあると思います。そこへ少し、ヒューマン・ファクターズの技術が入っていければ、現場環境は改善し、労働者としても組織としても良いパフォーマンスを発揮できるのではないかと思うのです。

オフィスの中へ、ヒューマン・ファクターズを!

 上記でも少し触れたように、ヒューマン・ファクターズや工学そのものは産業の中心が移っていく中でその対象を変化させてきました。かつて形ある製品を作ることが産業の中心だったころは、ヒューマン・ファクターズはも工場や製品のデザインをその対象としてきました。現在、産業の中心はサービスへ移ってきています。工学それ自体もどのようにして新しいサービスを作りだすかというところへ意識が向いてきているように思います。私は、ヒューマン・ファクターズももっとサービス業へ移っていく必要があると感じています。今は安全への意識が高い医療が中心かもしれません。しかしいずれは、この概念がオフィスの中へと浸透していければ、ブラック企業などという言葉はなくなるのではないかと思うのです。
 では例えば、オフィスの中のヒューマン・ファクターズとはどのように考えられるでしょうか。これまでの研究の定石として、インシデント分析という作業があります。これはハインリッヒの法則という「1件の重大事故の背景には29件の小さな事故があり、その裏には300件の『ヒヤリとする』・『ハッとする』程度のエラーが隠されている」の考えを基にしています。「インシデント」というのは、この「重大事故とまではいかない事象」を指し、こうした小さな「事故の芽」を分析して、その原因となり得る原因予備軍、「要因」を排除するという行動をとるのです。確かに工場や病院には「安全管理者」という役職がありますが、通常のオフィスにそのような役職はありません。ですが、マネージャーがメンバーとコミュニケーションをとりながら、不安の要素を分析し、改善していくことはできるのではないでしょうか。個人においても誰かに作業を頼むときに口だけで説明するよりマニュアルを作ってそれを使いながら説明した方が作業者は安心できるでしょう。すると、読みやすいマニュアルはどんなものか、明確にしておくべきところは何かというところへ考えが進みます。また、オフィスの中のエラーがどんな影響を出しているか調べることができれば、現在もてはやされているような長時間労働による生産性の低下をより論理的で構造化された形で説明できるかもしれません。
 私はいつか、オフィスの中の安全・安心のための研究をしたいと考えています。私は、その先にどのような未来を夢見ているのか。私はただ漠然と「人間、1人1人がそれぞれの仕事と生活と人生を謳歌できればいい」と考えています。女性であるというだけで育児や介護を強制されるシステム。男性であるために育児休暇を取りづらかったり必死で家計を支えなければならなかったりするシステム。障害をもっていたり何かしらのマイノリティーであるために苦しまなければならないようなシステム。社会はまだシステムとして未熟で、その要素である人間の特性すべてに適応できていないように思えます。社会は、自身が生み出す政治や経済、環境の変化などにも柔軟に対応し、その内部である人間を生かしていかなければ、そこに在る価値はないでしょう。もちろん、現在の時点でも原始部族の時代に比べれば格段にいいシステムであるからここまで発展してきたのだと思います。しかし、「まだ」です。まだ、いいシステムになる余地を残している。私はその可能性のために自分の人生をかけたい。

人生、うまいことばかりじゃないさ

 ここまで、長い文章を書いてきたように思います。大言壮語も吐いたかなぁという気もします。しかし現実の私は、ずっと夢だった研究室に所属できたにもかかわらず、その研究室と良い関係にありません。成績も悪く、研究室へ行けば「ダメなやつ」と刷り込まれるばかりです。少し鬱だったのがこの数カ月でした。
 一方で、私はこの1年、ベンチャー企業で長期のインターンをしようとしてます。つい先日、そのための面接を受けてきました。私はこのインターンを、私のいまやっている医療現場の研究から、いつかやりたいオフィス現場の研究へと繋げるものだと考えています。面接では志望動機や過去の経験など自分のことを話します。その中で、この数カ月ただ頑なに自己を守るばかりだった自分の心が、息を吹き返したように思います。私は決して優秀ではないけれど、やりたいこと、そしてやれることはたくさんあるのだと思い出すことができた気がします。
 以上のことは、ただの夢想。私の見るただの夢です。ただ、夢や理想を想うと、心が躍ります。興奮します。そして、楽しくなります。生きている実感として、夢はより現実のものです。私は生きるために、これからも夢をみて、勉強し、研究し、働いていくのだろうと思います。

*1:大学の「研究室」は教育の場所。企業は「研究所」で製品開発を目指すところ。

*2:加えて分野としての「マネジメント」が、物理や化学のような専門領域の垣根を越えてそれらを結びつける、非常に重要で価値があって面白そうな分野だと思ったという理由もあります。

音楽をしたいなぁ

 友人の紹介でオペラを観てきました。オペラを観るのは人生の中でこれで4度目。なかなか文化人やってるじゃないかフフフとか思いながら楽しんできました。やはり音楽はいいものです。自分の中で、何か目覚めるものがあります。フフフフフ…。

"イル・カンピエッロ"

 今日観てきたのは、"イル・カンピエッロ"という作品。マイナーなのかな?検索しても昭和音楽大学にあるレストランばかりがヒットします。でも、なかなか楽しかった。ヴェネツィアのとある広場が舞台で、そこを囲む4組の親子と、旅行でやってきたとある騎士のお話。広場の連中は喧嘩したりお祭りしたりでやたらうるさいし、お母さん役の内、2人を演じているのが男だったり変なホームレス役が幕の合間に「ラモスだよ」とか言って出てきたりするし、意味が分からないw字幕に絵文字が出てきたときは本当に吹いたw
 観に行く前は、藤原歌劇団のオペラ歌手育成部の修了講演会ということだったからちょっと緊張していたけど、始まってみるとナニコレウケるwwwな感じで、ひじょーに気楽に楽しめました。値段も2000円で観られたので、もっとこんな風に、映画を見に行く感じでオペラ観られたらいいなぁとつくづく思いました。

音楽で覚醒する

 ふと思うと、音楽に触れるのはまた久しぶりだったんだなぁと感じます。最近どうも思考が停滞しているなぁと思っていたところ、今日のオペラを観て、どうやら思考が回転しだしました。去年、一昨年と、歌を歌うようになってから本当に気付かされます。音楽をすると、何か解放される感じがするのです。今日は観て聴くだけだったけれど、やっぱり自分も音楽に参加したい。いっしょに歌を歌いたい。歌を歌っているときのあの全感覚が解放される感じ、今はもうそれを思い出すばかりです。
 音楽をすると覚醒する感じがするというのは、どこか脳神経学的な話題を思い出します。研究などで行き詰ったら、運動をするといいという話に似ています。脳の普段と違う部分を使うのがいいのか、アドレナリンの出るのがいいのか原理はよく思い出せませんが、何かで読んだか聞いたかしたような気がします。『仕事ができる人はなぜ筋トレをするのか』だったかなぁと思って部屋を探すのですが、いま部屋が散らかっていて見つかりません。残念です。
 そんなこんなのことを考えると、やっぱり音楽をやりたいなぁと思うのです。自分の精神のためにも、自分の仕事のためにも!運動もして体力をつけないとこのままじゃヤバいだろうという感じもしますが、とりあえず私には音楽の方が馴染み深いので音楽から続けたい…。

歌うように話す

 そういえば余談ですが、最近知り合った女性から「トーフさんいい声ですよね。もっと話すの聞いていたい。」と言われました。*1そんなこと言われちゃうと照れるしかできないですけど…お世辞でも照れちゃいますよ。
 確かに最近、自分の考えを話すときは歌うようなイメージで話しをするようになりました。歌うように自分の考えや想いを話すのです。それは相手に自分の中の様々なものを伝えたいという想いと、ステージにも似たほのかな緊張が歌を連想させるのです。一方で、やはり実際に歌を歌う体に鍛えていないので、日に日に声が衰退している感覚はあります。また、プレゼンテーションの場での「歌」はあり得るかもしれませんが、他愛のない会話をしているときやファシリテーションをしているときなどは、無駄に目立ってしまっていミスマッチが起こるような気がします。言いかえれば、「話す」ことに特化してしまい「聞く」ことが疎かになる感じ。調整が難しいです。

音楽がもっと気軽だったらいいのに

 なんとなくいろんな事を考えるのですが、とにかくもっと音楽が気軽なものだったらいいのになんてことを考えます。私個人に限らず、もっとみんなが普段の生活の中で気楽に歌を歌うような。オペラやバレエなんかも、もっと安い値段で気軽に観にいけたらいいのに。実際はプロの世界は本当に厳しいものだと思うから、そんな簡単にやれるものではないとは思いますけど、みーんなもっとてきとーでいいからクソ楽しくいこうぜ!って思っちゃったりするのは、もしかして私はDQNなのか…といま不安になりました。
 日本のカラオケは、気軽に歌を歌える良いシステムなのか、それともそういうシステムがないと気軽に歌えないような文化なのか…。何か興味が湧いてきましたが、みんなが歌うように生きていける社会であればいいと思う限りです。

*1:自慢です。ええ、自慢です。