追想特急〜lostbound express

    東良美季の不定期更新webコラムです。どんな平凡な人生にも見るべきモノはある──、そんな慈悲深い眼差しで読んで頂ければ幸いです。日刊更新の毎日jogjob日誌もよろしく。ゴッド・ブレス・ユー。
プロフィール

tohramiki

東良美季(Miki Tohra)。1958年11月13日生まれ。川崎市出身。國學院大學文学部哲学科卒。雑誌編集者、AV監督、音楽PVディレクター、グラフィックデザイナーを経て現在は執筆業。最新刊『猫の神様』(新潮社)

 

2008-05-20 僕らのサザンオールスターズ、We Love You!!


 6時起床。お風呂に入り、玄関から新聞を取ってストレッチしながら眺めると、朝日の一面、目次のピックアップのような欄に桑田佳祐さんの顔写真と「サザン、来年より活動休止」とある。数日前にスポーツ紙がスクープで報じ、その後もネット等で噂されていたのは本当だったんだなという想いと同時に──朝日の一面になるのがスゴイという意味ではないが、やはり国民的なバンドなんだなという気が改めて、した。僕は年齢的に近いということもあり、サザンオールスターズという存在を知ったのは早い方だと思う。あれは確か浪人時代、毎月毎月隅から隅まで穴の空くほど見ていた『プレイヤー』誌後半のモノクロ1ページで、「今月の新人バンド」というようなコーナーに出ていた。その前月、翌月辺りで紹介されていたのがカシオペア、現在は琴桃川凛という名前になっている和田哲郎率いる連続射殺魔だった記憶がある。そんな中で特に印象に残ったのは、おそらく渋谷・屋根裏とかの楽屋で撮られたであろう一枚の写真が掲載されていたのだけれど、桑田さんの髪が当時のロック青年らしくなく、妙に短かったからだと思う。名前はヴォーカル・桑田K助と表記されていた。

 

 連続射殺魔が紹介されてたくらいだから時代はもうパンクを通過している。なので短髪のミュージシャンも決して珍しくはなかったのだが、桑田さんの髪型は何とも垢抜けないオールバックで、ロッカーというよりもその辺の兄ちゃんみたいだった。いや、それは別に桑田さんだけじゃなく他のメンバーも同じで、原坊は何処かのお嬢さんが「ピアノが弾けるから」という理由だけで引っ張り込まれたみたいに見えたし、ヒロシさんも関口さんも垢抜けてなかった。かろうしで当時のロック青年ぽく見えたのは、大森さんと毛ガニさんだけだった。その野沢“毛ガニ”秀行氏はマーブルベッド・メッセンジャー*1というバンドからサザンに参加した。レコード・デビューはしていなかったが、都内のライブハウスには良く出演していて、ロック好きの若い連中には広く知られていた。確か、日大の経済学部か法学部のロック研究会から出たグループだったはずだ。同じ頃、日大の法学部ロック研にはBDバッヂという強烈なファンク・ロック・バンドがあって、オレンジカウンティー・ブラザーズもやはり何処かの大学のロック研究会出身だったような気がする。バンドではないけれど、早稲田の音楽プロデュース研究会からはソロ・シンガーの高橋研がデビューした。

 

 何だってそういう大学の軽音楽サークルから色々なロックバンドが生まれたかというと、当時は今のように都会であればそこかしこに練習スタジオがあるというワケではなかったからだ。あってもまだ値段が高くて、大学生にはそうそう簡単には使えなかった。その点、大学のサークルに所属すれば教室が練習場所として使えた。さらに歴史のあるサークルだと予算が使えたのかアンプや機材があった。日大法学部ロック研は構内に防音付きのスタジオを持っていたというし、明治のロック研はメロトロン*2を持っているというもっぱらの噂だった。サザンオールスターズが青山学院大学のベター・デイズというサークルを母体にして生まれたことは良く知られている。今はどうか知らないが、80年代前半までの大学というのやたら開放的で、学生でもない人間が平然と出入り出来た。だからサザンが大森隆志の同郷の友人ということで松田弘を誘い、そして評判のセミプロバンドにいた野沢秀行を、「リトル・フィートと同じ編成にしたい」という理由だけで──当時も今も、ハーカッションというパートを演奏する人は少ない──加入させたというのは、実にあの頃の雰囲気を現している。かくゆう僕も渋谷の國學院大學というとろの学生でありながら、江古田にある日大芸術学部の音楽サークルへ、エレキベースを担いで毎日のように通っていた。

 

 関口和之・著『突然ですがキリギリス〜誰も書きたくなかったサザンオールスターズ 』には、初めてサザンの練習に参加した毛ガニ氏が「チューニング狂ってる」「今のところリズムもたってるよ」とシビアな発言をし、一同が「さすがプロのミュージシャンは違う!」と感心した、というエピソードが登場するが、実に良く判る。友達の紹介の紹介とかで「上手い」という評判のプレイヤーと練習すると、必ずそういう「オレってロックに関してはマジだぜ」というような空気出すヤツがいた(笑)。何が言いたいのかというと、サザンオールスターズというのは、桑田佳祐という圧倒的な作曲能力と前人未踏な言語感覚の持ち主によって引っ張られたグループという印象があるかもしれないが、その背景には70年代後半から80年代前半にかけての、東京近郊の大学を中心にしたロック文化のようなものが根強くある、ということだ。

 

 70年代初頭から半ばまで、日本のロック少年達はいかに欧米のミュージシャンの演奏を忠実にレコード・コピー出来るかに命を賭けていた。大抵何処の高校の文化祭へ行ってもディープ・パープルの「スモーク・オン・ザ・ウォーター」や「ハイウェイ・スター」が演奏だけレコードそっくりになぞられて、ヴォーカルはむちゃくちゃな発音で唄っていたし、特にギター弾きに関しては、どれだけリッチー・ブラックモアジミー・ペイジと同じように弾けるか、あるいは指が早く動くかというような不毛な競争が行われていた。けれど、次第にはっぴいえんど四人囃子という日本語でロックンロールを伝えるバンドが広く知られるようになり、サディスティック・ミカ・バンドがイギリスで評価されたりし始めると、アマチュアのロック少年達の間でも「これは少し違うんじゃないか」というような雰囲気が生まれ始めた。関西では上田正樹サウス・トゥ・サウスなんていう、大阪弁を強烈なR&Bに乗せるバンドも現れる。

 

 サザンオールスターズは、そのような70年代的な背景から必然的に登場したロックバンドであった。また、先に桑田佳祐の前人未踏な言語感覚──と書いたけれど、80年代へブリッジするためには、桑田さんの持つ、リズムと共に快楽的に日本語を破壊していく才能が必要だった。それまでの日本語のロックで言えば、はっぴいえんどの松本隆が元々はボードレールコクトーに影響されていたと語るように、良くも悪くも60年代以前の文化に色濃く裏付けされていた。それは四人囃子の作詞・末松康生も、ミカ・バンドの松山猛も同様だろう。また、桑田佳祐の唄がよく「何を唄ってるか判らない」と的外れなことを言う人がいるけれど、そもそも日本語で唄われる歌とはそういうものだ。小唄、長唄、都々逸なんてのも、門外漢が聴くと正直何を言ってるんだか判らない。歌舞伎や能、狂言にだって独特の節回しがある。

 

 だいいち、例えば関東の人間は早口の関西弁を理解出来ないし、東北や沖縄の言葉を聞き取れない。それは単に方言云々という話ではなく、そこには独自のリズムがあるからだ。元じゃがたらのギタリストでミュージシャンのOTOは、「日本人にファンクがないなんて嘘。民謡にはリズムがハネてスウィングするものがたくさんある」「東北で青森は“アンオモリ”という。NHK標準語で“アオモリ”と言った段階でリズム感の崩壊が始まった」と語っている。*3ともあれ、サザンオールスターズはそのようなロックバンドであった。コラムニストのえのきどいちろう氏(1959年生まれ)がかつて「サザンはなんと言ってもファースト・アルバムがいちばん好き」と言い、その理由を「ごく普通の大学生バンドがある日スターになってしまったようなバンドだから」と書いていたが、その気持ちは同世代として痛いほど良く判る。虎の威を借るような表現で恐縮だけど、やはりサザンは僕らの時代を代表する人達だった。

 

 僕がサザンオールスターズを初めて聴いたのは、たぶん冒頭に書いた『プレイヤー』誌紹介記事の数ヶ月後だったと思う。確かラジオ関東だったと思うけれど、その『プレイヤー』誌が30分ほどの音楽番組を持っていて、ヤマハ主催のコンテスト「イーストウエスト」で最優秀ヴォーカル賞を受賞したバンドと紹介された。DJは音楽評論家の平山雄一氏だった。Wikipediaで調べると1977年とある。同じ年に出場したグループに鈴木雅之率いるシャネルズ(ラッツ&スター)がいた。流された曲は「別れ話は最後に」だった。平山氏は「良く聴くとあんまし意味の無いことばっかし唄ってるんだけどイイんだよね」とコメントしていたと思う。確かに「雨が降っているのに空は晴れている、まして今夜は雪が降る」というメチャクチャ破天荒な歌詞である。

 

 桑田さんの声は当時よく「ジョー・コッカーに似ている」と言われたが、僕は初めて聴いた時「スティーヴン・スティルスみたいだ」と思った。ただ、本人はエリック・クラプトンやリトル・フィートのローウェル・ジョージを意識していたのかもしれない。また、初めて作曲したという「茅ヶ崎に背を向けて」は、ピーター・フランプトンの『フランプトン・カムズ・アライヴ』の中のヒット曲「ショウ・ミー・ザ・ウェイ」を聴いているうちに出来た、と言われている。確かに歌い出しの「本当に今まで、ありがとう」の部分は、「ショウ・ミー・ザ・ウェイ」の冒頭、トーキング・モジュレーター*4を使ったギターのイントロとソックリである。つまりそのように、我々同世代の人間が10代の頃に繰り返し聴いたアメリカやイギリスの音楽、それが桑田佳祐という才能を通過した時、サザンオールスターズという偉大なバンドが生まれた──そう言って、大きな間違いは無いと思う。

 

 最後にサザンと言えば忘れられない想い出がある。あれは確か大学二年から三年になる春休み、僕らがやっていた下手の横好きR&Bバンドも練習に練習を重ねて、そろそろ都内のライヴハウスなどにも出られるかな、というようくらいの腕になっていた。そうなると必要になるのが、アンプや楽器を運ぶ機材車というものである。そこでどういうツテを辿ったのかは忘れたが、鈴木茂とハックルバックのキーボード奏者で、ティン・パン・アリーのメンバーでもあった佐藤博*5さんが活動の場をアメリカに移すということになり、デリカのワンボックス・ワゴンを格安で譲ってくださるというお話を戴いた。確か車検付きで15万とかいうすごい値段だった(笑)。ただ、残念なことに僕らのメンバーの中で免許を持っているのはキーボードのSだけ。そのSも山形出身でほとんどペーパー・ドライバー、都会を走った経験がない。ならばということで『毎日jogjob日誌』には時々登場するギターのKとドラムのF、そして僕の三人は、この際当時流行り始めた合宿形式の教習所で免許を取ってしまおうと決めた。

 

 山梨県の田舎、周りには一軒の喫茶店しかないような場所。潰れたボーリング場跡地に建てられたプレハブの飯場みたいな建物で寝起きし、隣にある教習所へ通った。2週間のプログラムだった。その飯場(笑)に暮らしたのは20人程度だったろうか。ほとんどが同世代だったが、大学生は僕とKしかいなくて──ドラムのFはあんぜんBANDのローディを経て、アルバイトしながら後に桑田佳祐とKUWATA BANDを結成する河内淳一と「Be」というバンドを掛け持ちしたりしていた──職人だったり何かの作業員だったり、要は仕事上どうしても運転免許が必要というブルーカラーの若者達だった。ちょっと悪っぽいヤンキーも、いた。ただ、僕らには共通言語としてサザンがあった。ラジカセを持って来ていたヤツがいて、ファーストの『熱い胸さわぎ』やらセカンドの『10ナンバーズ・からっと』を皆で繰り返し聴いた。お金が無かったから──何しろ誰もが合宿と教習所費用の20万を作るのだけで精一杯だったのだ──遊びに行くことも夜に酒を飲んだりすることもなく、だただたサザンの曲を聴き続けた。

 

 一週間が終わり、日曜日はほとんどの者が東京にある自宅やそれぞれのアパートに戻った。それが、Wikipediaで確認してみると1980年3月21日である。夕方に僕が東京からその飯場に戻ると、聴いたことの無いサザンの曲が玄関まで大音量で聞こえてきた。先に戻っていたKが出迎えてくれて「新しいアルバムだよ」と嬉しそうに笑った。そう、サード・アルバム『タイニイ・バブルス』の発売日だったのだ。確か上野の料亭のひとり息子で、実家を手伝うのに免許が必要と来ていたヤツが発売当日に買って、その日のうちにカセットに録音してきてくれたのだ。一人、また一人と仲間が自宅から戻って来て、何もない、畳だけの部屋は腹這いになって「C調言葉に御用心」や「Hey! Ryudo! 」や「恋するマンスリー・デイ」や「松田の子守唄」や「働けロック・バンド (Workin' for T.V.)」を何度も何度も聴いた。そして「いいなあ」「いい曲だなあ」と言い合った。あの時一緒にいた連中とは、KとFは除いてその後一度も会ってない。もう、顔も名前も忘れてしまったげど、彼らも今日、サザン活動休止のニュースを聞いただろう。そして、あの日曜日のことを想い出したに違いない。僕らのサザンオールスターズ、We Love You!!

*1:『突然ですがキリギリス〜誰も書きたくなかったサザンオールスターズ 』関口和之・著では「マーブルベッド・メッセンジャーズ」と表記されている。

*2:あらかじめ楽器や自然音をテープに録音し、それをキーボードで鳴らす、いわばアナログ・シーケンサーのような楽器。非常に高価だった。ビートルズの「ストロベリー・フィールズ・フォーエヴァー」のイントロで印象的に使わてれる。

*3北中正和・著『ポップス・ダイアリー1987-91』より。

*4:ギターの音をアンプからいったん口の中を通し、それをマイクで拾い再現する装置。弾きながら口をワウワウと動かすことにより、ギターがまるでしゃべっているような効果を得られる。ピーター・フランプトンの他に、ジェフ・ベックやジョー・ウォルシュも好んで使った。

*5:今は青山テルマ『そばにいるね』の編曲者・プロデューサーと説明するべきか?

2007-07-17 中村中〜六月のある夜、妖精を集め紡ぐ音楽

リンゴ売り(DVD付)

リンゴ売り(DVD付)


「歌は前からそこにあったんです。ぼくが行く前からあったんです。ぼくはそこへ行って鉛筆でそれを書いただけなんです。でも、それは僕が行く前からあったんです」ボブ・ディラン*1



 友部正人に「おしゃべりなカラス」という唄がある。1975年にリリースされた『誰も僕の絵を描けないだろう』というアルバムに入っている。バックで、無名時代の坂本龍一がアコースティック・ピアノを弾いている。ジャケットの裏側には新宿駅構内だろうか、二人が並んで写っている写真が使われている。YMO時代以降の“教授”しか知らない人は、その写真を見て大抵は驚く。そこにはいかにも七〇年代然とした、肩まで伸びる長髪に口髭を生やした坂本龍一がいる。このアルバムに関して僕ら当時のフォーク、ロックファンの間には、ひとつのまことしやかな伝説*2が語り継がれていた。二人がある夜、新宿ゴールデン街のとあるバーで偶然隣り合わせになったことから、このセッションが生まれたという話だ。友部が連れもなくカウンターで酒を飲んでいると、隣にひとりの端正な顔立ちの青年が座る。何気なく言葉を交わしてみるとお互い「面白いヤツだ」と思う。二人は妙に気が合った。

 

「あんた、何してる人?」と若者は訊く。友部正人は72年にURCレコードからアルバム『大阪へやってきた』でデビュー。その時すでに三枚のLPレコードを発表し若い音楽ファンの間では有名な存在であったが、彼はまったく知らなかったようだ。「僕は唄を歌ってる」と友部は答え、「君は何をしてるの?」と訊く。「俺は芸大の学生。作曲の勉強をしてる」と彼は言う。「作曲、ということはピアノ弾ける?」「弾けるよ」「じゃあ明日スタジオに来て弾いてくれないかな。実はレーコーディング中なんだ」「いいよ、お安い御用」、というわけで若き日の坂本龍一は翌日、ジーンズにサンダル履きというスタイルでスタジオにフラリと現れる。そして、その場にいたすべての人々を驚愕させる素晴らしいピアノを弾いてみせた──と。しかし、残念ながらこれは単なる伝説であったようだ。2002年にCDで再発された際に書かれた、音楽評論家・小川真一氏によるライナーノーツによれば、その伝説について触れられているものの、しかし事実は「友部の記憶によれば、知人の紹介でスタジオに現れた坂本とセッションをおこなったところ気があったので、そのまま一緒にツアーを回るようになったそうだ」とある。


 それでは何故そのような伝説がまことしやかに伝わったのか? そこで演奏される坂本龍一のピアノが、ごく普通に曲を聴き練習して合わせた──というふうにはとても聞こえなかったからだ。少なくとも17才だった僕にはそのように聞こえた。それは今考えると「即興性」というものだったのかもしれない。つまり曲を憶えコードに合わせバッキングしていくというフォーク・ソングやロックンロールの在り方ではなく、ただ感じるままに鍵盤を叩いていくという方法論だろう。しかし、そうだとしてもそこで聞かれる坂本龍一のピアノは、友部の唄から何かを感じた彼の内面から沸き上がって来たものとは少し違って思えた。むしろ、ただ、その場にあった眼に見えない何かを正確にトレースし、描写しているように聞こえたのだ。けれど決して冷たいものでも数学的に計算されたようなものでもない。そこには胸が熱くなる音階があり、思わず頭を振って身を委ねてしまうリズムがあった。それは、友部正人というシンガーがギター一本で唄う一見単純なフォーク・ブルーズの中に、実はこれだけ豊かで美しいメロディが潜んでいたのだと我々に知らせてくれるものだった。言ってみれば友部の音楽とはモノクロームで撮られ、陰影深く印画紙に焼き付けられた気高くシンプルな肖像写真のようなものだ。しかし坂本龍一だけがそこに本来あった色を見ることが出来た。彼のピアノはその色をひとつひとつ正確に読み取り描いていったのだ。

 

 6月28日、銀座で行われた、ミュージシャン・中村中さんのデビュー1周年記念パーティへ出かけた。そのひと月程前、音楽プロデューサーの佐藤剛氏から電話を貰い、「今僕が関わっているアーティストの催しがあるから、東良くんも来てみない?」と誘われたからだ。この人の誘いには無条件で乗ってみよう──人生にはそう思える人が何人がいた方が幸福だ。佐藤剛さんは僕にとってそんな数少ない人のひとりである。ザ・ブーム中村一義といった人達を世に出した人だが、知り合ったのはもう20年以上前だ。その頃僕が編集していた少々変わったヌードグラビア誌を見つけ、「面白いことをやってる若い連中がいる」と連絡して来てくれたのがきっかけだった。当時は武道館クラスの全国ホールツアーをやるメジャーなロックバンドの主要なスタッフ、というような立場だったと思う。何でそんな人が僕みたいなのが作ってるマイナーなエロ本を面白がるのだろう? そう思いつつも僕は雑誌で一緒に組んでいたデザイナーやライターと共に、勧められるままとあるロックンローラーのポスターとパンフレットを作ったのを皮切りに、やがてカメラマンとしてツアーに同行し、VTRを廻しプロモーションビデオも数本作った。それらの仕事はすべて有形無形を問わず、僕の中の重要な財産になっている。その間もその後も、佐藤剛さんは僕に様々な問いかけを実にさりげなく、くれた。「東良くん、あの本は読んだ?」「あの映画は観た方が良いよ」「このミュージシャンは君が絶対好きになるからライブに来れば?」と。

 

 そのようにして僕はその夜初めて、中村中というアーティストを観た。それはデビュー1周年記念パーティであり、新曲で5枚目のシングル「リンゴ売り」の発売翌日に控えたものであり、さらに中村さんの22回目の誕生日を祝う会でもあった。そのせいかエイベックスという、いわゆるメジャーなレコード会社によるものにも関わらず、親しい人、スタッフ、彼女を応援する人々だけが集まる催しだった。場所もどちらかと言えばこぢんまりとした中華料理店で、何人かの人からの挨拶とお祝いの言葉があり、バースデイ・ケーキのろうそくを吹き消すというセレモニーがあり、そして集まった人達へのお礼の意味もあったのだろう、中村さんによる弾き語りのミニ・ライヴがあった。しかしそこで披露された唄と演奏は、そのような場にありがちな、主賓による“余興”と言ったものにとどまらない、とても強烈な印象を残すものだった。いや──、こう書くと何かそこで髪を振り乱し声を絞り出すようなパフォーマンスが繰り広げられたように思われてしまうかもしれない。けれど決してそんなことはない。中村さんは終始笑顔を絶やさずリラックスして楽しげに、時にジョークを含んだMCを交え三曲を唄った。

 

 まず眼を惹いたのはそのピアノだった。僕は音楽の専門家ではないし、自分では趣味で下手なギターやエレキ・ベースを弾くだけなので特に鍵盤楽器のことは良く判らない。けれど、僕はこんなふうにピアノを弾く人を初めて見た。中村さんはその夜、88鍵はあるだろうが、さほど大きくない、いわゆるスーツケース型のエレクトリック・ピアノを弾いた。僕は舞台上手の彼女から5メートルも離れていない席にいたので、その指先が鍵盤に落ちるのが良く見えた。今、指先が鍵盤に落ちる──と書いたけれど、それはピアノを弾いているという表現では正しくない気がした。何と言ったら良いのだろう、中村さんは思うまま、感情にまかせてただ指をそこに落としていくのだが、ピアノの方がその想いを受け止めて彼女の出したい音を出させている、そんな感じだ。弾き手とピアノがあたかも一体になっているようだった。先に坂本龍一のことを書いたけれど、その弾き方ともまた違う。後々彼のピアノをTV等で何度も観る機会があったけれど、もっと“弾いている”という感じがした。誰か他にと考えて、思いついたのはレイ・チャールズだった。レイ・チャールズがピアノを弾く映像を観ると、指から腕とその鍵盤が一体のような、そこに一切の隔たりが無いように感じてしまうのば僕だけだろうか? 腕と鍵盤だけではない。身体の奥底から湧き出るエモーションがピアノをつたい腕を通って、あの喉から声となって出てくるようだ。

 

 中村中もまた、そのようにピアノを弾き、唄った。彼女はその夜、黒いドレスに銀色のバックストラップのハイヒールを履いていて、右足は演奏に合わせリバーブ・へダルに乗せられるのだけれど、そうでない方の左足は、時々それ自体が意思を持ったようにステージを叩き、タンッと音を立てて跳ねた。リズムに合わせて蹴っているというよりも、まるで床の方が曲に合わせて彼女のヒールの底を跳ね上げているようだった。ジェイミー・フォックスがレイ・チャールズを演じた映画『Ray/レイ』の中に、若き日のレイが眼が不自由なのにも関わらず、ファンの女性の手を触っただけで相手が美人か否か判るというエピソードが出てくるけれど、中村中の唄と演奏も、そのように身のまわりにある見えない何かを引き寄せて形にしているように見えた。その日資料として配られたインタビュー記事*3によれば、中村さんは特に幼少の頃から音楽教育を受けたわけではなく、小学校高学年の時、合唱コンクールの伴奏をするため初めてピアノに触ったとあった。「家にピアノがなかったので、先生にお願いして、放課後に学校で練習しました」と。彼女はそのように、自分に必要なものをこの世界からひとつひとつ見つけ出したぐり寄せ、ビルドアップして現在の音楽を作り上げたのだろうか。そう言えばレイ・チャールズもまた、視覚障害者の学校に通うようになってクラシックを学んだものの、元々の音楽との出会いは近所の雑貨屋にポツンと放置されていたボロボロのアップライトピアノだったという*4

 

 中村中の音楽は、2000年代に甦った昭和の歌、ネオ歌謡曲というふうに表現されることが多いようだ。確かに新曲の「リンゴ売り」やデビュー・シングルの「汚れた下着」には、宇崎竜堂と阿木耀子が作った曲を山口百恵が唄ったような匂いがあるし、彼女の名を一躍有名にした「友達の詩」には、桑田佳祐が作り研ナオコが唄った「夏をあきらめて」のように、ロック系の音楽家が作り歌謡曲の歌手が唄ったかのような不思議な感覚がある。それに関しては、僕をその場に誘ってくれた佐藤剛氏が『ramblin'』誌*5のコラムにて、中村中が1985年の生まれ──つまり60年代からの旧譜が次々とCD化されると共に育った世代だからと指摘している*6。そう、彼女はおそらくそれらの音楽を頭で聴くのではく眼で見るのでなく、手で触るように肌で感じるように身に付けたのではないか。先に挙げたインタビュー記事で、そもそも「昭和の歌」が好きになったきったけは、お母さんが研ナオコの「泣かせて」という歌をいつも口ずさんでいたから、という発言がある。

 

 その夜、中村さんは「誕生日にはふさわしくない」と苦笑しながら新曲の「リンゴ売り」を唄い、次に「実は一時期この歌を唄うのが嫌な頃があった」と前置きして「友達の詩」を、そして最後に「いつかもっと優しい歌を唄えるようになりたい」と言って、まだCD化されていないという曲を唄った。相変わらず彼女の指は思うがままに鍵盤に落ち、ピアノのそれに応えるように美しく鳴った。銀色のハイヒールはそれ自体が別の生き物のようにステージの上で跳ね、そして彼女の右手は演奏の途中、時々何かに吊り下げられているように右耳の横の辺りでフワリ、フワリと浮いては止まった。それは──過剰にロマンティックな言い方をしてしまえば──眼に見えない小さな妖精が何人かで眼に見えない糸を使い、彼女の指を吊り下げ、マリオネットよろしく操っているようだった。

 

 時々思う。世の中に歌の上手い人はいるし演奏の上手な人もいるだろう。そして物書きにも実に文章の上手い人もいる。しかし、残念ながらそれだけでは優れた表現者たり得ない。彼ら、彼女らの作ったもは誰かの心には届かない。誰かの心を響かせるためには、この世界にある眼に見えないものを集め紡ぎ、形にしていくことが必要なのではないか? 例えば人の心には明るい部分もあれば暗い面もある。善意もあれば悪意もある。そう考えていくと世界中のどんな人間の心にも、小さな妖精の何人かは存在するはずだ。それが、アーティストにとってのオーディエンスという存在なのかもしれない。中村中の音楽はその夜、その場にいた人々の善意の形をした小さな妖精達を、確かに紡いで音楽にして、輝かせるようにふり蒔いていた──。それが彼女の言う、「優しい歌」であるに違いない。

 

※中村中、オフィシャル・ウェブサイト『恋愛中毒』http://www.nakamura-ataru.jp/index.html

*1:『ボブ・ディラン〜瞬間の轍1・1960-1973』ポール・ウィリアムズ著、菅野彰子訳(音楽乃友社・刊)第3章・メッセンジャーP.67“『ブロードサイド』のラジオ番組テープのディランの声”より。

*2:これに関してはwikipediaの坂本龍一の項「来歴」にも記述があることからしても、相当広く語り継がれた都市伝説(?)であるらしい。

*3:『婦人公論』2007年7月号「中村中〜音楽と恋がなければ生きていけない」

*4:このエピソードは、『レコード・コレクターズ』誌2005年3月号、木村ユタカ氏による「レイ・チャールズ・ヒストリー」を参考にさせて頂きました。

*5:『ramblin'』〜「ミュージック・ダウンロード・ナビゲーター」題されたフリー・マガジン。全国のCDショップ等で配布されている。アーティストへの充実したインタビュー、コラム等を読むことが出来る。

*6:『ramblin'』2007年2月号、コラム「佐藤剛の音楽を信じるかい?」より。

トラックバック - http://d.hatena.ne.jp/tohramiki/20070717

2007-05-18 『彼岸まで。』〜小説家としての勝谷誠彦

彼岸まで。

彼岸まで。

 7時起床。118分走る。空はまさに雲ひとつ無い五月晴れ、陽射しも強いが、日陰に入ると肌が少し寒く感じる。風は少しも強くないのだが、空気が冷たいようだ。これもまた、初夏に成りきらない季節といった感じがして悪くない。戻り、少しずつ楽しみに読んできた勝谷誠彦氏、初の小説集『彼岸まで。』、その最後の短編「平壌で朝食を。」をお風呂の中で読み終わる。七篇からなる短編集、それぞれに味わい深く読み応えがあったが、この最後の一編が最も刺激的であった。物語はこうだ。一話目「ママ。」、表題作「彼岸まで。」に引き続き勝谷さん本人をモデルにしたコラムニストが主人公、同様に西川口で風俗穣をしながらネットトレーディングで膨大が金を動かしている不思議なヒロイン・梨花も登場する。

 

 ある平穏な日曜の朝、梨花が不意に「平壌に行かない?」と主人公に切り出す。「無理だろう」と苦笑する語り手。国交が無いとは言え、一般の市民が観光で訪れることが決して出来ない国ではない。ただ、彼は拉致問題が発覚して以来、TV等に於いて北朝鮮攻撃の急先鋒たるコメンテーターでもあるのだ。そんな人物をかの共和国が入国させるはずがない。がしかし、日々ネットの海を動き廻り独自の情報網を持った梨花は、彼も一緒に参加出来そうなパックツアーをすでに探し出していた。かくして二人はまるで初めて海外旅行に出かける恋人同士のように北朝鮮へ向かう。念のため主人公は「コラムニスト」というジャーナリスティックな匂いのする肩書きから敢えて「作家」を名乗る。約20名の日本人観光客に混じり羽田から北京へ、そして順安国際空港。バスに乗り込み、三泊四日の平壌市内観光が始まる。搭乗員は朝鮮総連青年部の好青年、ただし密かに日本人達の行動をチェックしているカメラマンが同行し、さらには「課長さん」と呼ばれる、党の公安から派遣されたとおぼしき男。しかしながらツアーは平穏に続く。万景台、金日成の生家、そして市内観光の目玉、万寿台のあの、巨大な銅像。主人公達が泊まるのは高麗ホテル、その部屋には全体のサイズからすると明らかに不条理な壁の空間がある。かつて平壌詣をした日本の政治家が、帰国すると突然北朝鮮に有利な発言をし始めたりする──それはいわゆるハニー・トラップ、この空間から撮られたあられもない夜の姿の写真によるものだ──そんなことを主人公と梨花は見つけてクスクス笑い合ったりする。

 

 それでも、その旅行はあくまで忙しい恋人達の、つかの間の平凡な旅行だったはずだ。しかし少しずつ奇妙なことも起こる。夕食の会場で「課長さん」から勧められた北朝鮮産のビールや焼酎に、主人公の酔いは何故か普段より早く深く廻る。ふと気づくと記憶を無くしていたりする。そして翌日、やはり夕食の席、三泊二日22万は高いが酒は飲み放題、「悪いツアーじゃなかった」そう言いつつご機嫌の彼はトイレに立つ。しかしそこで何処からともなく不意にこう声をかけられるのだ。「センセイ、楽しいですか?」と。気配もなく例の「課長さん」がいつの間にか横に立って用を足していた。男は主人公の正体を知っていたのだ。そして持ちかけられるのである。「センセイたけ、特別なツアー、良ければご案内しますよ」。行き先は開城と板門店。日本人がめったなことで行ける土地では、ない。「まさかこのまま拉致なんてされないよな」そう嘯きつつも、主人公の物書きとしての好奇心は抑えられない、そして──。

 

 勝谷誠彦氏は早稲大学在学中、フランス文学者で晩年は「早稲田文学」の発行責任者でもあった平岡篤頼教授に師事し、卒論も小説を書いたと発言されていたと記憶する。しかし、この作品は思いのほかエンターテイメント性に溢れた小説集だった。いや、冷静に考えれば当然のことなのだ。TVに登場する勝谷さんを見ていれば、この人がどれほどサービス精神に富んているかが判る。そして僕がこの小説集から想起したのは──御本人としては本意で無いかもしれないが──何故か『さらばモスクワ愚連隊』や『ソフィアの秋』と言った初期・五木寛之氏の短編集だった。それともうひとつ感じたのは、この人は基本的に長編型の作家なのではないか? というのも、一話目の「ママ。」、二話目「連絡船のうどん」のようにしみじみと味わい深い小品といった話もあるのだが、格差社会と少年犯罪の矛盾をテーマにした「U13〈アンダーサーティーン〉」、自身がかの日航機墜落事故で死にかけた経験を元に書かれたとおぼしき「遠い墜落」も、短編に収めるには物語のスケールが大きいのだ。それもまた、“中間小説”などと奇妙な呼ばれ方をしていた頃の五木文学と符合する(五木氏の作品がその後どんどん長いものになっていくのはご承知の通り)。それはきっと週刊誌の記者としてジャーナリストとしてフィリピンやカンボジア、さらにはイラクまでを走り、その後はコラムニストとして数々の社会問題を考察分析してきた勝谷さんの経験と脳内データベースが、物語の器をどうしようもなく大きくしてしまうのだろう。

 

 それにしても、あれだけ忙しい生活の中でこのような優れた短編集を書き、さらには週刊誌でいったん連載が終わったはずの長編『天国のいちばん底』は現在も週一回のペースで有料メールマガジン「勝谷誠彦の××な日々」にて連載中である。いったいこの人がいつか腰を落ち着けて小説だけに集中したらどんな作品になるのだろう? 僕は極めて個人的にミーハーで申し訳ないですが、世界を股にかけた冒険活劇風長編小説なんてのが読んでみたい。あるお宝──今で言えば世界を揺さぶる情報なり、新たに開発されたプログラムとか──を巡って大国の思惑が交錯し、ひょんなことからこの島国ニッポンに暮らすひとりのコラムニストが巻き込まれる。CIAや北の工作員らとの追いかけっこが始まり、物語は東南アジアからフィリピン、中東からヨーロッパへと展開する。当然の如く本作の梨花を引き継ぐような謎のヒロインが登場し、主人公は故・橋田信介氏を彷彿とさせる戦場ジャーナリストに助けられ、さらには不肖・宮嶋カメラマンを思わせるような相棒も現れ九死に一生を得ながら物語は大団円へと突き進んでいく──、読んでみたくはないですか、そんな冒険譚。

 

 冒険譚──。そう、非常に不謹慎な言い方で恐縮だが、かの『イラク生残記』(講談社)にしてもそもそもが、「嫌がる被害者や犯人の関係者からコメントを取ったり、事件や事故の危険な現場に飛び込んだりするのが面倒になった」元記者が、「美味いものを食べ良い宿に泊まり、人の金で旅行して楽しく暮らして」いたのにも関わらず、何かに引き込まれ、まるで巻き込まれるように戦場に向かうまさに冒険譚であったのだ。作家とは、自分が書きたいものを好きに書いていく商売ではない。この世界に吹いている物言わぬ風とその風向きをまるで巫女からのお告げのように察知して、その竜巻に巻き込まれながら物語を紡いでいく人だ。そう考えていくと、ああして寝る間を惜しみ、しかしながら旨いものと旨い酒だけは意地でも欠かさずに(笑)数々の社会問題に首を突っ込んでいく勝谷誠彦という人の生き方が、そもそも小説家的なのかもしれない。ともあれ、今は「いつまで続くのか!」と一部では囁かれているらしい『天国のいちばん底』の完結を願い、一冊の長編小説としてじっくりと読める日を待つことにしましょう。

 

トラックバック - http://d.hatena.ne.jp/tohramiki/20070518

2007-03-22 猫の神様〜いつまでも、生き続けるために

tohramiki2007-03-22

 夢を見ていた。

 僕は五年前まで住んでいたアパートのソファーに座り、みャ太と遊んでいた。みャ太は仰向けになって寝転がり僕の左手を前足と後ろ足で挟み、僕の指を強く弱く噛んでいた。それは、僕と彼がよくやる遊びだった。僕が手を左右に振ると彼が歓んで足で挟み指を甘噛みし、動きを止めると「もっと遊ぼう、もっと遊ぼう」と強く噛んだ。

 背後でカタカタと音がした。背中の壁越しには隣室があり、僕の仕事用のデスクがある。何の音だろうとそちらに行ってみると、ぎじゅ太が机の上で消しゴムを転がして遊んでいた。

「なんだ、ぎじゅ。久しぶりじゃないか?」

 僕はそう言って彼を後ろから抱き上げた。何故「久しぶり」と言ったのだろう。みャ太は夢の中によく出てきていて、彼は登場していなかったということか。自分でも判らない。ぎじゅはキョトンとした顔で僕を見ていた。

 デスクの上にはiMacG4が無かった。いや、それ以前に使っていた旧式のiMacも、その先代のPower Macも無く、デザイン用のライトテーブルとペン立て、そして何本かのボールペンや定規、そして消しゴムが転がっていた。ぎじゅ太は、それを前足で突ついて遊んでいたのだ。

 僕は彼を膝の上に乗せ、背中を撫でた。懐かしい、艶のあるしっとりとした毛並みだった。

「もう、何処へも行くな」撫でながら言った。「またこの部屋でずっと、三人一緒に暮らそう」

 その時、ぎじゅの背中が何かに気づいたようにびくっと振るえた。そして彼の身体は、まるで萎むように消えていった──。

 

 眼が覚めると泣いていた。僕は今住んでいる部屋のベッドに寝ていて、西側の窓から、ブラインド越しに夕陽が差し込んでいた。自分が昼寝をしていたことに、しばらくして気づいた。

 

 昨年約十ヶ月にわたり、『猫の神様』という本にするための文章を書いた。それは我が家の相棒の片割れ、みャ太が闘病した期間十ヶ月の、丸々翌年ぶんにあたった。二月に初めて編集担当の方に会い、梅雨の頃いったん半分ほどの原稿を渡したのだが、先方の意図したものとは少し方向性が違っていたので、もう一度話し合いを持った上で夏前から仕切り直しとなった。それも、みャ太の病状と不思議なほど一致していた。八月、九月と暑い盛りは我ながら快調に筆が進んだものの、十月に入り気温が下がり始めてからは急に停滞した。それもみャ太の病状と同じ。そして十二月、三月の発売を睨むと校正、プロモーションその他でどうしてもその月の半ばには書き上げなければならず、編集さんの要求も日に日に高くなり正直しんどかった。そして最後のエピローグを書き終えたのが、みャ太の一周忌、その命日の前日だった。

 年が明けて校正が始まった。初校、再校と出て、すべての作業が終わったのが二月の二十三日。その翌日から、夜に朝方に、昼寝や仮眠をした昼に夕方に、相棒達の夢を見た。僕の仕事場に置いてあるiMacG4、そのデスクトップには彼らの写真が貼り付けてある。彼らが生きていた頃、やはり僕がPCに向かい原稿を書いていた時にやって来て、床に並んで座り見上げじっとこちらを見つめた──その時の写真だ。写真の二匹に問いかけてみた。

「お前達、何か言いたいことがあるのか?」

 猫たちは何も答えなかった。

 

 みャ太が、長い長い闘病の果てに死んだのが二〇〇五年の十二月十四日。コラムニストの勝谷誠彦氏からメールを戴いたのが明けて一月の五日だったように記憶している。そこには、

「猫たちとの暮らしのことを書いて本にしませんか。ネットだけではもったいない」

 とあった。

 ネットだけでは──という言葉には説明が必要だろう。みャ太が逝った翌日、勝谷さんからわざわざお悔やみのメールを頂戴し、僕はそれに返してお礼を送り「来年はもっとたくさんインターネット上に文章を発表していくつもりです」と書き添えた。実はその時すでに、『猫の神様』最終章、「猫の神様、再び」の文章は、僕の中では出来上がっていた。

 勝谷さんと知り合ったきっかけは、二〇〇四年の秋だった。ある日、僕の先輩にあたる編集者が「勝谷誠彦がお前のことをホームページに書いているぞ」と教えてくれた。正確にはホームページではない、勝谷さんが二〇〇〇年から丸六年毎日書かさず書き続け、今年からメールマガジンに生まれ変わったweb日記『勝谷誠彦の××な日々』である。そこで、僕のこの、始めたばかりの『追想特急〜lostbound express』が紹介されていた。それにしても何故? と思った。コッチはもちろんTV等でその活躍は見知っている。でも、向こうがコッチを知ってるはずはない。

 後から判ったことだが、今を去ること二十年以上前、僕が白夜書房という出版社で『ボディプレス』という雑誌を作っていた頃、その隣の机で編集されていた『元気マガジン』という風俗誌に、勝谷さんは関わっていたのだ。僕は二十五才になったばかり。勝谷さんはまだ早稲田の大学生だったはずだ。それから折に触れ、僕がごくマイナーなAV情報誌等に書いている文章を読んでくださっていたそうだ。

 勝谷さんは『追想特急〜lostbound express』を紹介してくださったその日の日記で偶然にも、奥山貴宏さんが初めての小説を書き上げた、ということについても触れていた。後に『ヴァニシングポイント』(マガジンハウス刊)と名付けられる作品である。僕はそこで初めて、奥山貴宏という若いライターの存在を知った。そしてあわててアマゾンドットコムで調べ、彼の処女作『31歳ガン漂流』(ポプラ社)を買って読んだ。

 

 猫たちとの暮らしを書いて本にする──そのための打合せと称して勝谷さんと会ったのは、メールを戴いてから半月ほど経ってからだ。『毎日jogjob日誌』を読み返すと一月の二十日、とある。それが初対面だった。『追想特急〜lostbound express』が紹介された『勝谷誠彦の××な日々』を読み、お礼のメールを差し上げ、返信を戴いてから早一年と約三ヶ月が経っていた。場所は勝谷さんもプロデュースに関わっている新宿西口の東京麺通団。某出版社の勝谷さん担当の編集さんも同席したが、仕事の話はそこそこに酒になり旨い肴になり、そして奥山さんの話になった。奥山さんは残念ながらその約九ヶ月前、『ヴァニシング・ポイント』発売のわずか三日後に亡くなっていた。

「奥山くんが『ヴァニシング・ポイント』を書き上げた時も」と勝谷さんは言った。

「こうやって何処かへ売り込みに行こうって話し合ったんですよ。で、俺の知ってる出版社に持ち込んで決まりかけたんだけど、ところがその直後、彼のところへマガジンハウスから話が来た。そしたらアイツ、あっさりメジャーなマガジンハウスへ行っちゃったもんなあ。まあ、結果的にその方が良かったんだけどね。あっはっは!」

 勝谷さんはそう言って、TVとまったく変わらない大らかな表情で笑った。東京麺通団は酒もつまみも旨いが本来はその名の通り讃岐うどん屋さんだ。だから普通ならシメはうどんとなるはずだが、その夜はそうはならなかった。勝谷さんが「トーラさん、奥山くんと初めて会った日に食った沖縄ソバでシメにしましょう。是非食べて欲しいんですよ」と言ったからだ。僕らは三人は、ホロ酔いで新宿の街に出た。その夜遅く、東京にははらはらと雪が舞った。

 新潮社の、後に『猫の神様』の担当となる編集の方からメールを戴いたのはそれからまた十日ほど経ってからだっただろうか。やはり、「現在弊社で、猫たちとの出会いから別れまでを本にしたいという企画が持ち上がっています。いかがでしょうか?」というような内容だった。雪の日に東京麺通団で飲んだ編集者氏にそのようなお話を頂戴した旨のメールを送ると、幸か不幸か、編集会議にかけたものの現段階ではでペインデングになっているとのこと。「どうぞ新潮社さんの方でお話進めてください」という返信を戴いた。勝谷さんにもその旨メールで報告した。

「奥山くんの時と同じじゃないですか(笑)」

 という返信が来た。

「新潮社で進めましょう! それはきっと奥山くんの魂が誘ってくれたのですよ」と。

 それから一年と二ヶ月が経った。

 三月十五日。昼間部屋にいると、ドアホンが鳴った。出てみると見覚えのある男が立っていた。彼の手には、出来上がったばかりの『猫の神様』が一冊握られていた。

 

 以前暮らしていたアパート──今住んでいる此処から約一キロほど離れた所──つまり僕がみャ太とぎじゅ太と出会い暮らし始めた部屋の近所にあった、酒屋の御主人だった。

 僕はその頃、鬱病でアルコール依存症だった。文章を書きたかったけれど仕事がなく、雑誌のデザインの仕事で生活費を稼いでいた。まだパソコンではなく、ライトテーブルの上にレイアウト用紙を広げ、シャープ・ペンシルで線を引き、消しゴムで消してはまた線を引いた。デザインも決して嫌いなわけではなく、やりがいも面白味もあったのだが、何処かに鬱屈した感情がやりきれないほどにあったのだろう。気持ちがどうしようもないほど暗く、酒に逃げていた。毎日のように昼間から、時には朝から飲んだ。酒が切れると、その御主人の店に買いに行った。

 アル中の人間は、酒を買うのが何故か恐ろしいほどに恥ずかしくなる。とんでもなく悪いことをしているという自責の念に駆られるのだ。いつも顔を伏せてその店に行った。僕はさほど顔に出る方ではないが、真っ昼間から眼を充血させ、フラつく足取りで酒の臭いをぷんぷんさせてるい男は如何にも異様だっただろう。でも、御主人はいつも何も言わず、あまり僕の顔を見ないようにしてバーホン・ウイスキーを売ってくれた。

 その彼が、玄関の外に立っていた。

「ゆうパックのお届けですよ」

 と御主人は言った。

 あれから数年して、僕がやっとのことでアルコール依存症から脱することが出来た頃、彼の店の半径百メートルほどの間には24時間酒と煙草を売るコンビにが二軒出来て、御主人は店を閉めた。そしてある時から郵便局の委託配送員として時々我が家にやってくるようになっていた。

 彼は僕のことを憶えているのだろうか? それは、にわかには判らない。「印鑑を」と言い、捺印するとあまり僕の顔を見ないようにして去った。

 

 勝谷さんを始めとしてこの本を作るにあたりお世話になった方や、前作『アダルトビデオジェネレーション』を評価してくださった作家、批評家の方には、お手紙を書いてこちらからお送りしようと思っていた。だから新潮社さんには見本が出来たら十冊ほど送ってくださいとお願いしていた。しかし、社内で事務的な行き違いか何かがあったとかで、すみません明日になりますとのメールを貰っていた。それでもこの一年一緒に作ってきた編集担当の方は、とにかく著者は一刻でも早く出来上がった本を見たいはずだと思ったのだろう。何とか一冊だけ手に入れて速達で送ってくださったのだ。

 ゆうパックの封を切ると、素晴らしい装幀の本が現れた。さっそくデスクトップの相棒達の前に持っていって見せた。

「出来たよ。お前たちの本だよ」と言った。

 猫たちは何も答えない。

 不思議だ。同じ写真なのに、毎日、その日その時によって違ったことを言ってるように見える。寂しそうな顔をしてる時もあれば、嬉しそうな時もある。怒ってるように見える時もあれば、飼い主に「もう泣くなよ」と言ってる時もある。

 猫たちは何も答えなかった。何となく、複雑な顔をしていた。

「何ンか、違うのか──」と僕は訊いた。

 本を手に取り、眺め、その手触りと重さを感じた。

「そう言えばお前たち、ウチに来た頃はこのくらい軽かったな」と言った。

 小さかった。本当に小さかった。『猫の神様』ブログの方に子猫の頃の写真を載せてあるけれど、あれでも我が家にやって来てひと月は過ぎている。拾って連れて帰った時は、生きているのが不思議なほど小さかった。二匹一緒に、僕の片手の掌にゆうに乗ったのだ。

「──そうか、お前たちは、本になって俺のところに帰ってきたのか」そう思った。

 そしてリビングの、いつもお気に入りだった、そして猫の神様の元へ旅立った時、ぎじゅ太もみャ太も寝かせてやった椅子の、赤い座布団の上に出来たばかりの本を置いた。

「おかえり」

 と言った。

 

 飼い主の社交性が無いばかりに、人間の情に薄い猫たちだった。幸か不幸か、みャ太は病気になったおかげで最後の十ヶ月だけ、動物病院の先生方やそこに治療に来る犬猫の飼い主さん達に可愛がって貰った。けれどぎじゅ太は、人一倍甘えん坊で人懐っこかったにも関わらず、僕以外のほとんどの人に抱っこして貰ったこともなかった。

 でも、もうお前たちは本になったのだ。少し前に「千の風になって」という唄が話題になったけれど、お前たちは文字通り、幾千もの本になって色んな街の本屋さんに並ぶのだ。そして色んな人達に手にとって貰い、気に入って貰えればその人がお家まで連れて帰ってくれるだろう。そうだ、あの雨の夜、俺がお前達を連れて帰ったように。これからは、そうやってたくさんの人達に可愛がってもらえ。そして、たくさんの人達の心の中で生きろ、生き続けろ。いつまでも、いつまでも──。

『猫の神様』は今日、本屋さんに並びます。

トラックバック - http://d.hatena.ne.jp/tohramiki/20070322

2006-04-17 奥山貴宏が残したもの〜一周忌によせて

tohramiki2006-04-17

 今日4月17日は、作家・奥山貴宏さんの一周忌だった。奥山さんは堂本光一クン司会のトーク番組『ジェネジャン』に出演したのをきっかけに、その存在が一般的に知られたと言われている。しかし、それにしてはTVを始めいわゆるマスコミというもので、没後の彼が取り上げられた機会が少ないような気がする。いや、そうじゃないな。『ジェネジャン』は今年の1月、奥山さんの出演回を含めた再放送がされたし、NHKのドキュメンタリーは地上デジタル、海外の放送共に何度も再放送を繰り返している。おそらくネット内での記述の多さに比べて、僕が個人的にそう感じてしまうのだろう。

 

 今日、僕らが想像する以上の多数の人々が自身のwebサイトに、誰かのブログのコメントに、私信のメールに、奥山さんのことを書き連ねているだろう。先に記したドキュメンタリーのタイトルは『オレを覚えていてほしい』。それは生前、彼が「死んでしまうことよりも、忘れ去られてしまうのが恐い」と発言していたことによるものだ。そして彼自身がまさに命を削って残した4冊の著作は、そのために書かれたものでも、あった。

 

 しかしそれがこの一年、思わぬカタチで変わった。従来であれば、亡くなった人、直接面識の無かった人を忘れない、想い出す、という行為は、その人の書いたものを読み返す、生前の映像を見直すというごく個人的な行為だった。それが変わった。僕は、私は、奥山さんが亡くなって一年経った今日をこのように感じました、この一年をこのように過ごしましたと不特定多数の誰かに向かって発信することによって「忘れない」ようになったのだ。これはひょっとしてとてつもない変化なのではないか?

 

 僕は奥山貴宏という若いライターの存在を、コラムニスト勝谷誠彦氏のweb日記で知った。そして今日、勝谷さんの日記にアクセスしてみると、やはり僕と同様の感想を述べられていた。例えばその勝谷さんに対してでも、おそらく数年前までは人気コラムニストとして、TVのコメンテーターとして有名な人だからその人がwebに公開している日記も読んでみよう、そういうモチベーションで接する人が多かったのではないか。

 

 しかし今は、少なくとも僕のまわり──僕がメールでやりとりしている人、相互リンクしている人、定期的にブログを覗きに行く人──は、『勝谷誠彦の××な日々』をまさに日々愛読していて、勝谷さんが書くものが面白い、賛同する、好きだ、共感する、だから勝谷さんが出る日の『やじうまプラス+』はチェックしよう、勝谷さんが出るなら『朝まで生テレビ』も夜中まで起きて見ようというように変わっている。

 

 それは、単純に従来のマスコミからネットの世界へという変化では、ない。みんなが良いと言うから良いんだろう、とか、TVに出てる有名な人の言うことだから正しいんだろうとか、売れてる本だから買ってみようとか、みんなが持ってるブランドだから身に付けてみたいとか──、そういった受動的なメンタリティからからの大きな脱却だ。他人が何と言ってるか知らないが私はコレが良いと思う、オレはコレが好きだぜと言って生きていく社会への転換なのだ。

 

 我々が奥山貴宏という人間に惹かれたのは、彼がガンという病気に冒されていたからでは断じて、ない。もちろん、30才そこそこの若者が2年という余命を宣告されたという事実はショッキングなことだ。しかし僕らが見たのは、彼がその現実と立ち向かい、戦い、それらひとつひとつの局面に正面から相対した過程を発信し続けたという事実だ。奥山は医師の指示に従い、友人や家族の助言に支えられながらも、最終的には自らの判断で生きた。そしてそのひとつひとつを文章にした。家族からしてみればホスピスに入って欲しいという気持ちはわかる、ただ、自分は嫌だ。何故なら、ホスピスはロックじゃない、と──。

 

『週刊新潮』誌上で、池田晶子センセイが犯した最大の愚かな間違いはそこだった。彼女にはそれが見えなかった。池田さんには、無名な人間は黙って大人しく生きていろという驕りがあった。そういうことは哲学者である自分の仕事であって、市井の臣のやることではない、と。だからひとりの若者が文字通り残り少ない命を削って生き、その姿を書き続けたことを、目立ちたがり屋が「オレを見て、見て」とやってるとしか感じられなかったのだ。それは、「たかが選手が」と言ったナベツネなる不機嫌な老人の過ちと基本的に同じだ。

 しかし、時代は変わった。これからは、ひとりひとりが自分のアタマで考え、発信し、意見を交換して作っていく社会が始まる。メディアは週刊誌と新聞だけではない。ひとりの無名な若者がネットに書き続けた行為によって、それが明らかになった。何故なら奥山貴宏は「我々」という大きな不特定多数のひとりだった。物言う巨大な市井の臣のひとりだった、そして大いなる分水嶺だったのだ。

 

 誰かを指導したくてたまらない人や、誰かに導いて貰わないと不安でしかたない人は、中国や北朝鮮へでも行って、抗日運動でも拉致でも勝手にやってくれ。少なくともオレは、イヤだ。そういう生き方は、ロックじゃない。