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2014-02-26

2月25日 古地図散歩「九段下〜高田馬場」

2月25日、私が講師を務めているよみうりカルチャー町田の屋外講座「古地図でめぐる東京史跡に行ってきた。講師とは言っても、要は古地図散歩のガイドである。


歩いたコースは九段下から高田馬場まで。九段交差点に集合し、蕃書調所の跡地を見た跡、交差点に密やかにある大砲、弥助砲を見てから、その開発者である大山巌のある田安門前まで行き、本日の古地図散歩はスタートとなった。


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それにしても同じNHKが近年放送した「坂の上の雲」と「八重の桜」で、同じ大山巌を演じたのが米倉斉加年と反町隆史だったとは、この2人の間にどのような共通点があるのだろう?


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江戸城の内堀にある田安門から外堀の牛込門までの間は、旗本屋敷が続いていた。川崎の代官として二ヶ領用水を築いた小泉次太夫の子孫や山岡鉄舟の実兄である小野鶴次郎の屋敷もここにあり、変わったところでは松の廊下事件で浅野内匠頭を背後から組み止めた梶川与惣兵衛の子孫梶川半左衛門の屋敷もあった。


ここで参加者の皆さんから「松の廊下は実はとても薄暗く、人の識別は困難だった」という話が出た。つまり松の廊下事件は内匠頭が怨みつのった相手と思って切りつけたら、人違いで吉良上野介を傷つけてしまった可能性があるというのだ。動機がいまだに未解明の松の廊下事件だが、もしこの真相が真実だったら、人違いで切りつけられた上に主君の仇と付け狙われて最終的に殺されてしまった吉良上野介の一生って、いったい・・・


牛込門跡は現在のJR飯田橋駅の前に当たる。現在も大きな石垣がだけが残っていると思われがちだが、実はそうではない。門の前にあった橋は、橋自体は新しいものに架け替えられているのだが、その両側で橋を支えた土台の部分、ここは現在舗装道路になっているのだが、この道路、なんと江戸時代に石垣を組んで造られた橋の土台の上をアスファルト舗装しただけのものなのである。


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飯田橋駅前を行き交う大勢の人たちのほとんど全ては、江戸時代の石垣の上と知らずに歩いているのだ。飯田橋駅前の橋を渡ったら手すりから身を乗り出して下を見ると、自分たちの下に江戸時代の石垣があることが見て取れる。


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この先は上り坂となる。神楽坂である。この坂道を上ったところには、江戸時代に「神楽坂の毘沙門天」として信仰を集めていた善国寺がある。どのくらい参拝者で賑わったのかというと、夜店の始まりはこの善国寺だという説まであるくらいである。


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ところでこの善国寺、いまはジャニーズのコンサートチケット入手を祈願する絵馬が多いことで知られている。二宮和也主演のドラマのロケ地になったことが原因だと言われているが、まったく御利益は何がきっかけで起こるものかわからない。今も「嵐のチケットに当選しますように」などという絵馬がたくさん掛けられているが、これが転じて将来的には台風除けの御利益があることになるやもしれない。


江戸時代は、神楽坂を上り切ったところに小浜藩酒井家の広大な屋敷があった。江戸時代初期の当主酒井忠勝は、3代将軍徳川家光から絶大な信頼を得ており、江戸城の御殿が火事で焼失した折りには、将軍が神楽坂上の酒井屋敷に非難し、ここが仮の将軍座所になったくらいであった。そのとき警備のために屋敷を矢来で囲ったのが矢来町の名の由来である。

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かくも勢威を誇った酒井家の屋敷だが、現在は細かく小分けされた住宅街になっている。その一角には明治時代尾崎紅葉が住んでいた家もある。

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西へ西へと進んで、ようやく酒井家の屋敷が終わったところに宗参寺がある。ここには「山鹿流陣太鼓」で有名な兵法家で儒学者山鹿素行の墓がある。「忠臣蔵」で大石内蔵助が山鹿流陣太鼓を打ち鳴らして吉良邸に討ち入るシーンは誰もが目にしたことがあるものだ。これは山鹿素行が赤穂藩浅野家に仕えていた時期があることからきている。

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しかし実態は少し異なり、素行が赤穂藩に仕えたのは儒者としてである。それはそうで、大名が兵法家など雇って彼の講義を受けたりしたらたら、幕府から謀反を疑われかねない。それに山鹿素行は赤穂藩に江戸屋敷で仕えていたのであり、大石内蔵助とは接点がない。さらに致命的なのは大石内蔵助が修めていた兵法は、山鹿流ではなく東軍流だったことである。


この宗参寺の裏には、夏目漱石の住居跡がある。漱石はこの地で小説を書きながら過ごし、この地で生涯を閉じた。現在では小説家として名高い夏目漱石だが、小説を書いていたのは最後の10年ほどであり、その人生も49年と短いものだった。


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夏目漱石は江戸の馬場下町の名主の家に生まれた。宗参寺から高田馬場に向けて早稲田通りを歩いてくとその場所がある。そこは今はやよい亭になっており、店の前に「夏目漱石誕生之地」の碑が立っている。この前の道を夏目坂というが、これは漱石の父の小兵衛が自宅前の道に自分の名前を冠したのが由来である。

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漱石生誕の地を過ぎると前方に赤い鳥居が見えてくる。そこが八幡である。寺社の新築のため崖を崩したら横穴が見つかり、その中から人骨と仏像が出土したのが名の由来だが、つまりは古代の横天墓の上に立てられた神社である。


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この神社でもっとも古いものは布袋様の形をした珍しい手水鉢である。慶安2年(1649)に社殿の新築を祝って3代将軍徳川家光が江戸城内の御殿の庭にあった布袋型の手水鉢を寄進したものである。江戸時代初期のものにしては非常の保存状態がよくきれいである。


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でも、ちょっときれいすぎないか???


その疑問は鋭く問題点を指摘しており、やはりこの布袋型手水鉢は近年造られたレプリカであった。本物は長年に渡って参拝者がなでていくために、ツルツルになり、やがてすり減っていき、いまやすっかりやせ細ってしまったので、現在は社殿の中にしまわれているそうである。


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穴八幡の前の坂道を上っていくと、その坂の上が高田馬場の跡である。そこにあるビルの外壁に説明板が設置されている。


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高田馬場は幕臣たちが馬術と弓術を練習する場であった。戦国時代ならばこれらはもののふとして生き残るために不可欠なものであったが、そこは平和な江戸時代のことである。これらの練習も単なる武士のたしなみとなり、その練習風景は庶民の娯楽となっていた。そのため高田馬場の周囲にはいつも見物に訪れた江戸庶民がおり、彼らを目当てにした茶屋が馬場の回りには建ち並んでいたという。


ところで高田馬場といえば堀部安兵衛の名を一躍高めた「高田馬場の決闘」が有名である。


村上庄左衛門と決闘することとなった菅野六郎左衛門は、甥の中山安兵衛に助太刀を頼む置き手紙を残し、決闘の場である高田馬場に向かった。家に帰ってきた安兵衛はこの手紙を見て、慌てて押取り刀で家を飛び出すと、走って高田馬場に向かった。しかし安兵衛が馬場に着いたとき、狡猾な庄左衛門が集めた20人もの人数によって六郎左衛門を滅多斬りにされていた。それを見た安兵衛は怒りに燃えて刀を抜くと庄左衛門たちに斬りかかり、瞬く間に18人を切り倒して見事に六郎左衛門の仇を討った、というのが高田馬場の決闘の概要であるが・・・


実はこの話はウソである!!



六郎左衛門と庄左衛門は仕事中の口論が昂じて決闘をすることとなり、六郎左衛門は己が通う道場で親しくしていた中山安兵衛に助太刀を頼んで、一緒に高田馬場へとやってきた。


押取り刀で走っていったのはウソ!


すると庄左衛門は弟2人と3人で高田馬場にやってきた。安兵衛はこのうち弟2人を斬り倒し、六郎左衛門と庄左衛門は相打ちとなって2人とも死んでしまった。


18人斬りもウソ!!


この決闘のときにも馬場の周囲には大勢の見物人がおり、その噂話に尾ひれがついて広まったものが後に芝居や講談で人気を博してしまったため、真相とはほど遠い話が現在まで伝えられることになってしまったのだ。


この事件の後、武名が上がった中山安兵衛は赤穂藩士堀部弥兵衛の婿養子として迎えられ、晴れて浪人生活に別れを告げたのだったが、中山改め堀部安兵衛がその後置かれた運命はよく知られたとおりである。


さて、今回の古地図散歩はこれでおしまい。今回も様々な事件や人物の痕跡をたどる町歩きとなった。

2月22日 古地図散歩「半蔵門〜新宿」

2月22日、散歩かふぇちゃらぽこ主催の古地図散歩をガイドしてきた。今回のコースは、半蔵門から新宿までである。


半蔵門は服部半蔵の屋敷が近くにあったことが名の由来と言われている。ただし、服部半蔵の屋敷が当初あった場所は清水谷(ホテルニューオータニの東側)だったので、近くとは言えだいぶ離れている。


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現在の半蔵門は、門の内側が皇居であるため警戒が厳しく、内堀通りより近くには近づくことができない。


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本日はこの半蔵門の前をスタート。甲州街道を少し歩いて、半蔵門駅の近くから南側の道に入る。この辺りは江戸時代の道がそのまま使われているところが多いので、主にそのような道を歩きながら、まずは四谷へと向かう。


歩き始めて早々に今日の見どころに遭遇!何の変哲もない花屋だが、ここは「江戸切絵図」「助惣」と記載のある場所で、助惣焼きという焼き菓子を売る橘屋があった。

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この助惣焼きというのは小麦粉を水に溶いて薄く焼き、そこへ餡を乗せて焼けた生地で包んだ菓子であった。このときに鍋の代わりに使われたのが銅鑼であり、これがどら焼きの起源だと言われている。つまりこの花屋はどら焼き発祥の地なのである。


私はたびたび古地図散歩でこの花屋を案内しているので、花屋の人たちは「あいつ、また来た!しかもまた違う人たちを連れてきた!」新手のストーカーだと思っているのかも知れない。



ストーカーが終わったら平河天満宮へ。ここは太田道灌が江戸城内に建立した神社が、江戸時代のはじめにこの地に移転してきたものである。今も皇居東御苑の入口の1つに平川門があるが、この内側にあったので平河天満宮である。


ここから長い坂道を下っていく。これが清水谷坂で、下りきったところが清水谷、向かいにある上り坂は大久保利通が暗殺されたことで名高い紀尾井坂である。


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紀尾井坂はあまりに急坂であるので、ホテルニューオータニの中にあるエスカレーターで上へと向かう。なんとへたれた古地図散歩!そしてエスカレーターを下りたところは、なんと日本庭園であった。


ホテルニューオータニのある場所は、江戸時代初期は加藤清正の屋敷であった。加藤家改易後は彦根藩井伊家の中屋敷となり、明治以後は伏見宮邸となっていた。


昭和になり伏見宮邸が空き家となって庭園も荒れ放題になっていたところを買ったのが、ホテルニューオータニの創始者大谷米太郎である。彼によって整備し直された庭園が現在宿泊者以外にも公開されており、だれでも自由に入ることができる。


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内部にはさまざまなものがあり、例えば池の中にある庭石は木の根の化石で、加藤清正の屋敷だったころから残っているものである。



この庭園は誰でも入れるとは言うものの、内部にあるレストランはランチが5000円もして、これに我々庶民が手を出すことは自殺行為に相当する。



ホテルニューオータニの庭園を出たら四谷へ。四谷には半蔵門の名の由来ともなった服部半蔵の墓がある西念寺がある。


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伊賀忍者と言われることが多い服部半蔵だが、父親の代に伊賀から三河へ移住して、松平清康・広忠・徳川家康と松平・徳川家の3代の当主に仕えてきた。半蔵自身も戦場での槍働きで名を上げており、「忍者」としての実績はなかったようだ。


ところがこの半蔵に試練が訪れる。織田信長が家康に対してその嫡男岡崎信康を殺害させたとき、半蔵は家康に命じられて信康の介錯役として派遣される。このときの心の傷を半蔵は一生引きずり続けていたらしく、後に江戸の清水谷に屋敷をもらった半蔵は、信康を弔うためにこの地で出家して自邸を寺に造り替えた。それが西念寺である。西念寺の半蔵の墓の後ろ側には、半蔵が建立した信康の墓もある。


寛永13年(1636)の江戸城外堀建設に伴う江戸の町の再編成により、清水谷にあった寺院群は外堀の外側に当たる四谷の地に集団移転した。西念寺もそのときに現在地に移転し、現在に至っている。


そのため四谷には、今も西念寺を含めたたくさんの寺院がある。潮踏み観音の真成院、塙保己一の墓がある愛染院、豆腐地蔵東福院、7代目山田浅右衛門の墓がある勝興寺、長谷川平蔵の菩提寺戒行寺、榊原健吉の墓がある宗福寺などたくさんの寺があり、ここをめぐっているだけでも1日が過ぎてしまいそうである。


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そこから少し離れたところには、四谷怪談で知られるお岩稲荷がある。実は現在「お岩稲荷」と言われる場所は四谷に2つあり、しかも路地を挟んで向かい合わせである。元祖お岩稲荷のお岩稲荷田宮神社と、その向かいにある陽運寺がそれである。

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この地に伝わるお岩の話はよく知られた怪談話と異なり、御家人田宮伊右衛門の妻お岩は夫を支えて件名に働き、田宮家を隆盛させた賢妻となっている。そのお岩が参拝を欠かさなかった御家人の組屋敷内にあった稲荷神社がお岩稲荷田村神社となったという。


4代目鶴屋南北は、当時江戸で話題になっていた様々な話を合わせて「東海道四谷怪談」を書き上げた。このときに主人公の名前に伊右衛門とお岩の田宮夫妻を借用したことで、お岩は日本を代表する怨霊となってしまったそうである。


陽運寺は昭和に建立された比較的新しい寺なのだが、境内の木の下にお岩を祀る祠があったことから、この寺も「お岩稲荷」と呼ばれている。賢妻であったお岩の話から縁結びの御利益があり、女性の参拝客が非常に多い。


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そして境内には、このような石の水鉢に焼き物の玉を投げ込むと願いが叶うというパワースポット系アトラクションがある。古地図散歩の参加者の皆さんもチャレンジしていたが、この「○○できれば願いが叶う」系では、私は過去に失敗して大悪運を招いたことがあるので、それ以来私はこのようなものには手を出さない。パワースポットには、人生を没落させる力があるのだ。


甲州街道に出て西へ進み、四谷四丁目の交差点に出ると、ここは四谷大木戸玉川上水水番所の跡地である。


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四谷大木戸は江戸の西のはずれに設置された木戸だったが、江戸の治安が良いため夜間に木戸を閉める必要がなくなり、すぐに戸は撤去されて石垣だけとなった。現在はその石垣もなく、小さな碑があるだけである。



水番所は、江戸の生活用水を供給していた玉川上水がここから地下水道となるのに当たり、ゴミや死体などが地下に入っていかないように管理していた場所である。


し、死体?!?!


後に詳しく書くが、新宿という町の特殊性から、玉川上水にはよく人の死体が浮かんでいたのである。


江戸時代に水道を管理していたここには、現在も東京都水道局がある。その前には大きすぎて塀だと勘違いされることが多くてなかなか気付いてもらえない石碑「水道碑(すいどうのいしぶみ)」がある。

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さて、この先から西へと続く甲州街道は、江戸時代には内藤新宿があった場所である。甲州街道の最初の宿場の高井戸が遠かったため、四ツ谷にあった高遠藩内藤家下屋敷の北側に新たに築かれた宿場なので「内藤新宿」である。これが新宿の名の由来なのだが、江戸時代には新宿は四ツ谷の一部に過ぎなかったのに、現在はこれが逆転して「新宿区四谷」となっている。


現在の地名の「四谷」には「ツ」の字は入っていないのだが、「江戸切絵図」には「四ツ谷」「四ツ谷見附」と記載されている。「ツ」が抜けるようになった経緯は不明だが、四ツ谷駅は四ツ谷見附の跡に造られたこともあり「ツ」が入った「四ツ谷」になっている。


こうして造られた内藤新宿だが、江戸に近すぎて宿泊客は少なく、だんだんと遊郭化していった。遊郭となった内藤新宿では飯盛女と呼ばれた宿場女郎と遊客が結ばれぬ恋に落ちることが少なくなく、やがてそれは心中という結末を迎えることもあった。


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内藤新宿の遊女の悲哀を伝える成覚寺には、身よりなく死に捨てられるように寺に葬られた遊女たちを供養する子供合埋碑、玉川上水で入水して心中した男女を弔う旭地蔵などがある。玉川上水を死体がよく流れていた理由はここにある。


さて、道をさらに進んで新宿三丁目の交差点に来ると、雑踏に踏みつけられるようにして新宿追分の表示が路面に書かれている。


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ここから正面に進む道が青梅街道、左に進むのが甲州街道である。


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本日の古地図散歩はここまで。今回も東京の町の意外なところに江戸時代を見た一日であった。

2014-02-12

赤坂はお稲荷さんのワンダーランドだった

2月11日は古地図を片手に赤坂をうろついてきた。


赤坂は外国大使館やおしゃれな飲食店、高級住宅街などで知られているが、江戸時代には武家屋敷町家、さらには寺院が混在していた地域であった。江戸時代の地図を見ながら、当時の名残を求めて歩いてきた。


まず駅を出てすぐに赤坂不動尊の看板が見えてくる。

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ここの正式名称威徳寺で、江戸時代末期に作られた江戸の地図「江戸切絵図」にも載っている寺である。ちなみに丸ノ内線の赤坂見附駅は「成満寺」前の通り辺りに当たる。

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↑「宣徳寺」と誤記されているのが赤坂不動尊である。江戸時代以前からあった非常に古い寺だが、江戸時代初期にこの地に移転し、近くに屋敷のあった紀州徳川家の祈願寺となった威徳から現在の寺の名称になったという。



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本堂には延暦寺開祖である最澄伝教大師)作の不動明王像が本尊として安置されている。火事や地震、戦災などあらゆる災害に遭っても無事だったため、厄除けの神様と言われている。



赤坂不動尊の裏口を出て南へ向かって路地を歩いていると、急激な石段が見えて来た。丹後坂である。

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元禄時代に開かれた坂道で、そのころ坂の近くに米倉丹後守の屋敷があったのが名の由来という。元禄時代に柳沢吉保と縁戚関係にあった米倉丹後守忠昌という大名がいたが、その屋敷のことだろうか?


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近くには江戸六地蔵を造立したことで知られる地蔵坊正元が作った銅製地蔵尊のある浄土寺もある。

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赤坂はなんとも坂の多い町で、今度は上り坂となり、右手の高層マンションを眺め上げながら坂道を上っていくと、今度は小さな稲荷神社が見えてきた。

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末広稲荷神社である。江戸切絵図に載っているかと確かめたら、寺社を表す赤い部分がないものの、よく見てみると・・・


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赤く塗り忘れられたところに「末廣稲ナリ」と書いてあった。この地図ではかなりの広さの境内があったようだが、今は町の一角に小さな敷地があるだけとなっている。



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またまた急激な坂道、三分坂を下る。あまりに急なので車力賃を3分上乗せしたのが名の由来という。車力というのは大八車で物資を運んだ運送業者のこと。ここを車を引いて上るのは大変だろう。


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ここにある報土寺は史上最強の力士と言われる雷電為右衛門の墓があることで知られている。

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また、東京都旧跡に指定されている井部香山の墓もある。井部香山は天保の改革を行った水野忠邦に仕えた儒学者であり、門弟3000人とも言われた人物である。


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その墓は雷電の墓の前を通り過ぎてすぐ。都の指定を受けているにしては表示もなくひっそりと立っている。



報土寺を出たら再び三分坂を上り、今度は青山通りに出る。羊羹のとらやの前を通り過ぎようとすると、あれ?その隣のビルの間に・・・

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こんなところにも稲荷神社。美喜井稲荷神社である。こちらは江戸切絵図には出ていない。しかもビルの2階のようなところにある。変わっているのはそれだけではなく、階段を上って神社境内に入ってみると・・・


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あれ?ねこ?

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ここにもネコ???

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なんとキツネではなくネコがいる。



さて、青山通りを挟んで反対側には、豊川稲荷東京別院がある。


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稲荷神社には2つの系統があり、京都市伏見区にある伏見稲荷大社の系統と愛知県豊川市にある豊川稲荷の系統である。大きな違いは、前者が神社であることに対して後者はお寺だということだ。



赤坂にある豊川稲荷東京別院は、大岡越前守忠相の子孫である西大平藩主大岡氏が、三河の領地近くにある豊川稲荷から勧請して邸内に建てた神社が始まりである。


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江戸切絵図に「大岡紀伊守」と書いてある屋敷がそこである。明治時代廃藩置県で大名がなくなり、庶民が大岡邸内にあった稲荷神社に参拝できるようになったことから広く一般に信仰されるようになった。


明治40年に現在地に遷座。ちょうど江戸切絵図に「定火消御役屋舗 米津小太夫」と書いてある場所が現在の境内地である。(「小たま」と読めてしまうが「小太夫」である)


境内はとにかく御堂が多い。どこにお参りすればいいのかわからないくらいだが、本堂内には自由には入れるので参拝してみると、やっぱりここはお寺である。


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お寺なのにキツネの像がある。神社の稲荷神社に慣れていると、何とも不思議な気分である。


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結論!

赤坂はお稲荷さんの

ワンダーランドだった!

2014-01-20

1月19日 歩き旅応援舎「古地図散歩に行こう!江戸城外堀1」

1月19日、歩き旅応援舎「古地図散歩に行こう!江戸城外堀1」を開催した。


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江戸城外堀は、徳川家光の時代、寛永13年(1636)に完成した17kmにわたって江戸の町を廻っていた長大な堀である。これを5回にわたって一周する、今回はその初回である。


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今回歩いた場所


10℃に満たない気温に加えて強い風が吹き大変に寒い日にもかかわらず、参加してくださった方は3名。少なめではあるがこれから徐々に増えて行くであろうことを期待しつつ、まずは外堀起点の跡地である堀留橋へ。外堀は江戸時代、ここから南に向かって始まっていたのだが、明治時代に堀留橋の北側が掘削されて神田川につながったため、現在、この辺りの外堀は日本橋川の一部となっている。


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外堀の最初の門、雉子橋門の近くまで来た。朝鮮通信使の使節への接待のために飼われていた雉子の小屋が近くにあったことが門の名前の由来である。また、ここは内堀と外堀が極めて接近していた場所でもあった。


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ここで門のあった辺りに気になる石垣が見えた。近づいてみると、矢穴と大名の刻印のある大きな石垣が現れた。ところが・・・


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実はこの石垣、ニセモノ!


使われている医師は本物の外堀の石垣のものなのだが、これをセメントを使って石垣様に積み直して、危険物倉庫の外壁に使っているのである。江戸時代の石垣はセメントなどの接着剤を使っていないから、下から順番に規則的に石を積んでいく。しかし、この石垣は一見して積み方が不規則である。接着剤を使っているために不規則な積み方であっても石垣が積めるのである。


この雉子橋門跡から一ツ橋門跡にかけての外堀には、江戸時代に積まれた本物の石垣が、今も護岸に使われている。


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さて、一ツ橋門跡に出ると、ここも内堀との間隔が近い。しかも内堀の門の1つである平川門がある。本物の門を見に行こうというわけで、平川門にやってきた。


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平川門の石垣は、江戸時代の石垣の技法としては後期のものである切り込みはぎで造られている。石を積み上げる形にきれいに成型してから積む方法で、石と石との間は紙一枚が入る隙間もないほどの精巧さである。江戸時代初期の石加工の技術は、実は極めて高いものがあったのだ。


さて、一ツ橋門の内側には、徳川吉宗が創設した一橋徳川家の屋敷があった。吉宗の四男である宗尹を初代とし、将軍家の跡継ぎが絶えたときに将軍を出すための家である。そして一橋家からは2人の将軍を出している。第11代家斉と第15代慶喜である。屋敷跡の一角、一ツ橋の近くに碑と説明板が設置されている。


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家斉と言えば享楽的で記録に残っているだけでも53人の子をもうけた将軍だし、慶喜にいたっては昨年の大河ドラマ「八重の桜」で演じた小泉孝太郎を嫌いになる人が続出した人物である。はたしてこの2人が将軍になったことは、一橋家にとって良かったのか?それとも悪かったのか?


一ツ橋門の次は、神田橋門である。この橋は江戸時代初期の幕政の実力者土井大炊頭利勝の屋敷が近くにあったことから、大炊殿橋とも呼ばれている。


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この門の前に架かっていた神田橋の上では、寛永18年(1641)に仇討ち事件が起きている。兄を殺された多賀孫左衞門・忠太夫の兄弟が2人の助太刀とともに、仇の内藤八右衛門とその家臣9人を殺害した事件である。このとき孫左衛門も斬り死にしている。

この事件の発端はこうである。仇討ちが行われる20年前、松江藩士多賀孫兵衛が恋をした。その相手は箕浦与四郎、藩内でも美貌で聞こえた人物であった。しかし与四郎にはすでに内藤八右衛門という恋人がいた。それにもかかわらずしつこく言い寄ってくる孫兵衛をうとましく思った与四郎は、八右衛門と相談の上で酒宴にことよせて孫兵衛を自宅に招くと、八右衛門とともに孫兵衛を殺害してしまったのだ。


あ・れ・???

この三角関係、登場人物は全員男♂♂♂


なにはともあれそのような事情で仇討ち事件というのは起こるものだという教訓である。


この神田橋は江戸時代には現在とすこしずれた場所に架けられており、今もランプウェイの下に江戸時代の橋の台だった四角く飛び出した石垣を見ることができる。


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神田橋門を過ぎると左側に竜閑川の跡がある。竜閑川は江戸時代前期に掘られた水路である。1週間前に行われた記念すべき歩き旅応援舎の初企画「古地図散歩に行こう!竜閑川跡」ではこの水路の跡を歩いている。


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竜閑川は昭和25年に戦災による瓦礫を処理するために埋め立てられてしまったが、その跡地は今も道路となってはっきりと残っている。



そう言われてみると

川の跡地がとても気になる・・・


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さて、外堀の正門に当たる常盤橋跡を過ぎると、一石橋に出る。ここから先の外堀は昭和20年代から30年代にかけて埋め立てられて、現在は外堀通りの一部となっている。


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一石橋だが、その名の由来として幕府御用達の呉服商後藤家と金座を支配していた後藤家が橋をはさんで両側にあったので、五斗(後藤)と五斗(後藤)で一石という話が知られている。しかし異説もあり、江戸時代の初めに戦国時代に使われていた永楽銭の流通を禁止したとき、永楽銭を回収するため幕府がこの橋の上で永楽銭1貫(1000枚)と米1石を交換したからともいう。


この一石橋のすぐ南には呉服橋門があった。この門の内側に、江戸時代の後半には北町奉行所があった。丸の内トラストタワー建設に伴って発掘された北町奉行所の下水道の石垣と外堀の石垣が、植え込みの一部として保存されている。


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今回はトラストタワーのすぐ隣にある東京駅で終了である。一口に外堀と言っても、実際に古地図を見ながら歩いてみると見どころがたくさんあり、楽しいウォークイベントであった。


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江戸城外堀の古地図散歩の2回目は、2月15日に開催予定である。

歩き旅応援舎のホーム-ページ

2014-01-16

1月11日 歩き旅応援舎「古地図散歩に行こう!半蔵門〜新宿」

歩き旅応援舎によるウォークイベント初日、1月11日の午後は「古地図散歩に行こう!半蔵門〜新宿」を開催した。


江戸時代末期の地図を見ながら、東京史跡を巡る「古地図散歩に行こう!」。この回には3人の方にご参加いただいた。



半蔵門駅に集合し、最初に行ったのは半蔵門。江戸城内堀の門だが、ここは江戸時代の初期、服部半蔵の屋敷が近くにあったことが名の由来という。


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現在は皇居の門の1つであるため、警察の警備が厳しく門に近づくことはできない。


ここからどら焼き発祥の地である花屋の前を過ぎ、太田道灌が平川門近くに建立し、徳川家による江戸城拡張に伴ってこの地に移転してきた平河天満宮へ。


ここには江戸時代後期に建てられた銅製鳥居や、幕末期に奉納された常夜灯、狛犬などがある。


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西へ向かうとやがて道は下り坂となる。下りきったところが清水谷。半蔵門の近くにあったという服部半蔵の屋敷は清水谷にあり、晩年の半蔵が出家してからは屋敷を寺に造り替えて西念寺になったというが、この場所は半蔵門から離れすぎているので、もしかしたら江戸時代初期の地名としての清水谷はもっと広い範囲にわたっていたのかもしれない。


谷底に下りたらまた上るのが世の常なわけで、今度は急激な上り坂を上る。これが紀尾井坂である。紀伊徳川家、尾張徳川家、彦根の井伊家の屋敷に囲まれた坂なので「紀尾井坂」。明治11年に大久保利通が暗殺されたことでも知られている。


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紀尾井坂を登り切ると江戸城の外堀がある。この堀を渡る橋が喰違(くいちがい)である。外堀建設当初は門があったのだが、後に枡形の門は廃止され、冠木門だけの簡素な門になったという。ここを過ぎると四谷である。


四谷にはたくさんの寺がある。これは寛永13年(1636)の外堀建設に伴い、今後は江戸城の郭内となる外堀内側にある寺のほとんどは、外堀の外側に移転させられたことによる。四谷にも江戸城外堀の内側にあった寺がまとめて移転してきたのである。


その中には服部半蔵の屋敷だった西念寺もある。境内には服部半蔵の墓がある。


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時代小説や時代劇では服部半蔵は忍者として描かれることが多い。たしかに半蔵は伊賀の大豪族服部家の一族だが、半蔵の代になったときにはすでに三河の松平家(後の徳川家)3代の当主に仕えており、半蔵自身も忍びの者としてではなく戦場での鑓働きをもって家康に仕えており、半蔵自身は忍者ではなかったというのが実情だったようである。

西念寺には、三方原合戦において退却する徳川家康を護衛して半蔵が振るった鑓が、今でも所蔵されている。


四谷にあるたくさんの寺社の中には盲目の大学者塙保己一や内藤新宿の創設者高松喜六の墓のある愛染院、豆腐地蔵の伝説の伝わる東福院元禄時代の山門と毘沙門堂が残っている本性寺などがあるが、なんと言っても有名なのはお岩稲荷田村神社である。


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四谷怪談の怨霊として名高いお岩だが、この地に伝わる話はだいぶ違う。江戸時代の初期、ここにあった御先手組の組屋敷に住んでいた御家人の娘お岩は、婿養子に入った夫の伊右衛門を助けて田宮家をもり立て、家を大いに栄えさせたという。そのお岩が信仰していた神社が田宮家の邸内にあった田宮稲荷で、田宮家の隆盛ぶりにあやかろうと、近所の人たちも参拝するようになったのが現在のお岩稲荷田宮神社であるという。


ところが江戸時代中期、戯作者であった鶴屋南北は、夫の浮気によって半狂乱になって家を飛び出したまま行方が知れなくなった女の話や、神田川に戸板に打ち付けられた男女の死体が流れていた話など、当時実際にあった話をいくつも取り入れて、身の毛もよだつような恐怖譚を考え出した。そして貞女として名高かった四谷のお岩の名前を主人公のために拝借し、「東海道四谷怪談」を書き上げたのである。


この「東海道四谷怪談」が歌舞伎として大ヒットしたために、お岩の名前は怨みを飲んで死んだ後、夫やその新しい妻など関係者を次々に呪い殺す怨霊の名前として広く知られるようになってしまったのだそうである。


さて、現在は「新宿区四谷」という地名になっているが、もともとは新宿は四谷という地域の中の地名に過ぎなかった。それというのも、幕府が定めた五街道のうち甲州道中については起点の日本橋から最初の宿場高井戸までの距離が長かったため、浅草の名主であった高松喜六らが幕府に申し出て、四谷にあった内藤家の下屋敷の北側に新しい宿場を築いたからである。四谷の内藤家の下屋敷の隣にできた新しい宿なので、この宿場は「内藤新宿」と名付けられた。現在の新宿の名の由来である。


この内藤新宿の入口の少し東側には、江戸の西の外れを意味する四谷大木戸と、江戸の町に水を供給する玉川上水にゴミなどが混入しないように見張る水番所が設けられていた。


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現在、大木戸も水番所も跡形もなくなっているが、あった場所付近に碑が立っている。特に水番所跡を示す「水道碑記(すいどういしぶみのき)」の碑は、あまりに大きすぎて道行く人も塀だと思って碑であることに気付かないほどの規模である。


この先から内藤新宿の跡に入るのだが、内藤新宿は関東大震災と第二次大戦の空襲の2回にわたって完全に焼けてしまったため、宿場の名残はまったくと言っていいほど残っていない。


それでも1本路地に入ると、江戸時代に日本橋を起点とした6本の街道の江戸への入口に建立された青銅製の地蔵尊大仏の1つが安置されている太宗寺がある。


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この太宗寺の閻魔堂は江戸時代から庶民の信仰を集めていたが、やはり関東大震災の火災で焼けてしまい、江戸時代から残っているものは首だけになってしまった。


近代的な商業ビルが建ち並ぶ中、新宿三丁目まで歩いてくると、ここが甲州道中と青梅街道の分かれ道である新宿追分である。多くの人が歩道を行き交う中すっかり目立たなくなってしまったが、交差点の角にはちゃんと碑が立っており、歩道上には追分を表す図柄が描かれている。


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東京の町に張り巡らされた地下鉄網を使うと遠く感じてしまうものだが、実際に地上を歩いてみると意外に近いものであり、そしてこれまで知らなかった「江戸時代」が見えてくるものである。

歩き旅応援舎では、見慣れた東京の町の中に眠っている「江戸時代」を訪ね歩く「古地図散歩に行こう!」を、これからも土日祝日を中心に企画・開催していく予定である。


歩き旅応援舎のホームページ http://arukitabi.biz/

2014-01-14

1月11日 歩き旅応援舎「古地図散歩に行こう!竜閑川跡」

私が今年1月に設立した歩き旅応援舎の記念すべき初のウォークイベント「古地図散歩に行こう!竜閑川跡」が1月11日に行われた。

ただし、今回申し込んでくださった方はただ1人。これ以上ない少ない人数だが、歩き旅応援舎はできたばかりで知名度も信用もない会社だからこれは仕方ない。それでも申し込んでくれたことに、感謝するばかりである。


さて、肝心の古地図散歩の様子だが、朝9時に神田駅で落ち合い、竜閑川の始まりである竜閑橋跡へ。


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ここに大正時代に竜閑川に架けられた橋が保存されている。日本最初のコンクリートトラス橋である。外堀通りに実に堂々と置かれているのだが、それでも車で通り過ぎてしまっては気付くことも少ないであろう。やはり歩いてこそ見えてくるものがあるのだ。


竜閑川は江戸時代に掘られた水路である。開削については諸説あるのだが、江戸時代前期に掘られてものであることは間違いない。

江戸時代中期に江戸の人口の増加に伴い、土地を増やすために両岸から埋め立てられて3分の1ほどの幅に狭められたが、明治以降も水路として存続していた。

しかし第二次大戦の空襲により流域が焼け野原となり、その瓦礫の処理場所として竜閑川は埋め立てられ、昭和25年に水路としての姿を消した。しかし・・・


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竜閑川の跡は今も道路として、あるいは公園としてはっきりと残っている。

その竜閑川の跡を、竜閑橋の跡から歩いて行くのが今回の古地図散歩である。


竜閑川跡の周囲には、実に様々な史跡がある。


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例えば石町時の鐘跡。徳川秀忠の時代に、江戸城中にあった時の鐘は町中のこの地に設置されることになった。この石町の鐘が最初に時を告げて撞かれ、その音を聞いた周囲の時の鐘がさらに衝かれて江戸の町に時を知らせていたものである。現在、時の鐘があった道は「時の鐘通り」と呼ばれ、説明板が設置されている。


この場所にあった時の鐘は、現在十思公園移設されている。その十思公園は小伝馬町牢屋敷の跡地に当たる。江戸時代に罪人を収容した施設で、取り調べを受ける罪人を収容する監獄と、斬首刑を行う処刑場がその役割であった。石出帯刀が代々その長官を務めていたのだが、監獄の長というと陰湿で冷酷な人物を思い浮かべがちだが、実は歴代石出帯刀には文化人が多く、3代目の常軒は国学者・歌人として知られ、多くの人が集まって歌を詠み合う連歌の達人であったという。


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ところでこの小伝馬町牢屋敷は、幕末吉田松陰が処刑された場所として知られている。そのため、十思公園の中には「身はたとえ武蔵の野辺に朽ちるとも 留め置かまじ大和魂」の松蔭の辞世の歌が刻まれた碑が立っている。


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竜閑川は外堀から始まり、ちょうど真ん中辺りで「く」の字に曲がって隅田川に通じている。この屈折点から隅田川にかけては、浜町を通ることから「浜町堀」とも呼ばれている。

この竜閑川の後半戦にかかったら、ちょっと寄り道。周囲にたくさんある稲荷神社に寄ってみる。写真は橘稲荷。徳川秀忠の時代、京都の医師で江戸に隔年でやってきて将軍家の診察・治療を行っていた岡本玄冶がこの地に屋敷を賜り、その屋敷内にあったと伝わる稲荷神社である。


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岡本玄冶は幼少時の徳川家光の疱瘡を治療した医師として知られている。岡本氏は本姓が「橘」なので「橘稲荷」と呼ばれるようになった。岡本玄冶の屋敷跡が、後に玄冶店と呼ばれる町家となり、橘稲荷のある区画の反対側にはその旨の碑があるのだが、実はこの場所は徳川秀忠・家光の時代には元吉原であり、岡本玄冶の屋敷があったはずはないというオチまである。


玄冶店跡の近くには銀座があった。江戸時代の銀貨鋳造所である。


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「あれ?銀座って、今の銀座にあったんじゃないの?」

そのとおり、江戸時代の初めには銀座にあったのだが、寛政の改革の一環として蛎殻町と呼ばれていたこの地に移され、それ以降は「蛎殻銀座」と呼ばれるようになった。蛎殻銀座の跡地には現在大観音寺があり、その裏手は料亭として風情ある町並みになっている。


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さて、この付近の地名は人形町であるが、江戸時代前期である寛永時代、江戸幕府は京橋付近にたくさんあった芝居小屋を、江戸城に近すぎて風紀を乱すという理由で堺町に集団移転させた。当時の芝居は人が演ずるものと人形浄瑠璃があり、浄瑠璃の人形を修理する職人たちが堺町周辺には大勢住むこととなった。それが人形町の地名の由来である。

そこで今ではこのようなからくり時計が設置され、毎時0分ごとに人形が現れて木遣りを歌う。


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今でも近くには明治座があり、竜閑川跡の公園には歌舞伎「勧進帳」の弁慶が設置されている。


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さて、跡地が公園となった竜閑川は、現在の箱崎ジャンクションの辺りで隅田川に流れ込んでいた。現在は埋め立てが進んで完全な陸地となっているが、日本橋中洲の辺りは江戸時代には「中洲」と呼ばれた葦原があり、田沼意次老中だった江戸時代中期にいったん埋め立てられて陸地になったものの、その後松平定信が再び川に戻し、明治時代半ばに再び埋め立てられて陸地となった。


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ここを抜けると隅田川に出る。関東大震災復興事業の一環として架けられた清洲橋がある。この橋の名前も、対岸の清澄と中洲を結ぶところから来ている。平成19年に国の重要文化財に指定されている。



* * * * * * * * * * * * * * * * * * *


歩き旅応援舎では史跡巡りを中心としたウォークイベントを土日祝日に開催しています。

1回約3時間、5〜6卍度を歩きます。

くわしい開催日程とお申込みについては、こちらのホームページ(→ http://arukitabi.biz/ )をご覧ください。

2013-12-23

12月15日 古地図散歩「藤沢周平『用心棒日月抄』を歩く」その3

12月15日の日曜日、散歩かふぇちゃらぽこで行われた古地図散歩のガイドを務めてきた。

今回の古地図散歩は通常の史跡巡りとは異なり、藤沢周平の「用心棒日月抄」の舞台を江戸時代の地図を見ながら巡るというものだった。

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今回の資料


今回は物語も終盤の「代稽古」「内蔵助の宿」「吉良邸の前日」の舞台を巡ったのだが、物語の概要はというと・・・


「代稽古」

主人公青江又八郎は良い仕事に恵まれず、口入屋相模屋吉蔵から揚場人足の仕事をもらったら、それはなんと砂利取りの仕事だった。連日の砂利取りとその荷揚げで体がガタガタになった又八郎は、新しい仕事をもらいに吉蔵の店に行く途中、吉蔵が若い男に殴られているのを見かけるのだが、砂利取りの怨みから吉蔵を見殺しにしてしまう。


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ここが又八郎が砂利取りをやらされた小名木川に架かる高橋(たかばし)。増水に備えて高く架けてあったので高橋である。


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ちなみに小名木川は行徳から塩などの物資を江戸に運ぶために掘られた運河である。

そしてここが吉蔵が殴られていた馬喰町


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又八郎は吉蔵が2〜3発殴られたのを確認してから「やあ、どうしたどうした相模屋」と言って、あたかも今通りかかったふりをして助けに入るのだ。


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ところが殴られるのを見殺しにしたのに、次に吉蔵がくれたのは道場の代稽古という又八郎にとっては願ってもないもので、ちょいと良心に呵責を感じてしまうのである。


その又八郎が雇われた道場は竪川沿いの林町5丁目にある長江長左衛門の道場。その跡地辺りがここ。


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あれ?安兵衛公園???


実は長江長左衛門は、吉良上野介を狙う赤穂浪士堀部安兵衛の仮の姿。道場も赤穂浪士の巣窟で、しかも彼らを探りに密偵がやってくる。


そんな密偵には浪士側も気付いていて、ある日又八郎は赤穂浪士たちに密偵が殺され、竪川に死体が捨てられるのを見てしまう。


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ここが密偵が殺されて竪川にながされた三ツ目橋


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「内蔵助の宿」

腕を見込んだ安兵衛に推挙され、今度は又八郎は垣見五郎兵衛なる人物に雇われることになる。訴訟のために江戸に出てきた五郎兵衛を、川崎から江戸まで警護するのが仕事である。

赤穂浪士たちはばれてないつもりでいるのだが、これまでのいきさつから又八郎は彼らの正体を知っている。垣見五郎兵衛と名乗っているが、実は浪士たちの首魁大石内蔵助である。バレバレである。


物語は川崎が主舞台で、内蔵助を襲った刺客の一団を相手に又八郎は剣の腕を振るうのだが、川崎は遠いし資料として配付に使える古地図もないから今回はパス。内蔵助が最終的に到着した公事宿小山屋の跡を見に行く。


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小山屋は石町時の鐘の鐘楼の真下にあったことがわかっている。

ここが時の鐘の跡の時の鐘通り。


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そしてここが小山屋跡。現在は天ぷら屋。


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内蔵助が吉良邸討ち入りまでここに滞在していたことは確からしいのだが、実は2つの説があり、小山屋に宿泊したというものと、息子の主税が借りた小山屋の裏の長屋に住んでいたというものである。



「吉良邸の前日」

赤穂浪士との関わりの話ばかりになってしまったが、「用心棒日月抄」のもう一つに軸は、又八郎は藩主毒殺の陰謀を知ってしまったことから脱藩し、江戸で浪人暮らしを始めたにもかかわらず、国元の藩主毒殺派から刺客を送られ続けていることである。


江戸で最後に刺客に来たのは、何と国元で物頭を勤めていた男だった。「国元で何かが起こった!」と又八郎が帰国を決意するきっかけとなるのだ。


ここが又八郎が国元からの刺客と戦った千鳥橋跡


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千鳥橋は今は埋め立てられてしまった竜閑川に架かっていた橋である。


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内蔵助の護衛以来仕事にあぶれて腹が減っていた又八郎は、この刺客に苦戦する。這々の体でようやく敵を倒した又八郎は、腹が減っては刺客と戦えぬ、国にも帰れぬということで、あまり乗り気でなかった吉良邸での警護の仕事をもらいに相模屋吉蔵を訪れたのだった。


そして又八郎が雇われた本所の吉良邸がここ。


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雇い主の吉良さん、健在


供え物がしてあったり、妙に人で混み合っているのは、赤穂浪士の討ち入りに合わせて毎年行われている元禄のまっただ中に突入してしまったため。


さて、赤穂浪士討ち入りの噂が江戸の町に飛び交う中、それに備えて警護の士を集めていた吉良邸に雇われた又八郎だったが、そんなところへ道場の代稽古と大石内蔵助の用心棒で知り合った赤穂浪士たちから知らせが届く。

「明後日、赤穂浪士が吉良邸を襲う。すぐにその屋敷から出ろ」


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この結末がどうなったのかは小説を読んでいただくとして、はからずも祭りの人混みの中に突っ込んでしまった古地図散歩の一行、もみくちゃにされながらも・・・

振る舞い酒はちゃんといただきましたぞ!


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というわけで、3回に分けて行った古地図散歩「藤沢周平の『用心棒日月抄』をあるく」は今回で終了である。またやってみたい面白い企画であった。


【告知】

古地図散歩を開催する会社を作りましたぞ!

2013-12-08

12月7日 「ホントに歩く東海道」でホントに歩く東海道ウォーク 第2回 品川〜蒲田

12月7日に、私がスタッフを務める東海道イベント「『ホントに歩く東海道』でホントに歩く東海道ウォーク」第2回・品川〜蒲田が行われた。


風人社発行のウォークマップ「ホントに歩く東海道」を使って東海道を歩くこのイベント、一般的な東海道歩きイベントとの違いがいくつかある。

^率されて歩くのではなく、参加者各自が地図を見ながら歩く

東海道の見どころにクイズが設定してあり、それを解きつつ歩く

E喘罎把眠瓩垢襯船Д奪ポイントに地元の名物の試食が用意してある


この日は品川宿の荏原神社をスタート。

「荏原神社の天王祭りで行われる神輿海中渡御を江戸時代に行っていた品川沖の浅瀬は現在埋立地になっています。そこはどこでしょう?」というクイズに正解した人から出発である。クイズのヒントはこれ。

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う〜む・・・ 難しいヒントだ・・・


荏原神社を出た後は、クイズを設定してある場所を中心に参加者の皆さんがそれぞれ好きな場所を見ながら東海道を歩いて行く。

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私はその東海道のところどころに出没し、解説を行うのという崇高な使命がある。


品川寺の六地蔵の背中と台石に書かれた文字を見る人々

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背中や台石には寄進した人々や造られた年月日が書かれているのだ。


海雲寺の千躰荒神堂の中

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火の神様である千躰荒神を祀る御堂の中にある27面の奉納額は品川区の文化財に指定されている。


鈴ヶ森刑場跡の首洗い井戸

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井戸にかぶせられた金網を外すと、中から生首が飛び出してくるらしい。


磐井神社内で灰皿変わりに使われているプロテインの缶を見て盛り上がる人々

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磐井神社にある石碑群が見どころの1つなのだが、思わぬマッチョ系灰皿を発見することに。


梅屋敷公園は紅葉もきれいだった。

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梅屋敷は江戸時代中期に茶屋の主人が梅林を植えたことに始まる観梅の名所だった。


途中で参加者の皆さんに時間内の通過をお願いしているチェックポイントでは、今回も地元名物の試食を用意した。試食をお願いしたのは和菓子店3軒,海苔問屋1軒の3店舗。お店の人たちも試食用に細分してくれたり、みずからのお店で試食品を配ってくれたりと大変イベントに協力していただいた。感謝感謝である。


チェックポイントでの試食の様子

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人気殺到!

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注:多少の演出が含まれています。


海苔問屋での試食の様子

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試食が終わったらお店に直行!

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小さな店に一気に入りすぎじゃろ!
注:この写真には演出はありません


私たちスタッフが事前に食べておいしいものばかりを集めたので、参加者のみなさんもお店に買いに行ってくれた。お店の人たちにもお礼が出来てよかった!


※今回試食に協力していただいた店舗様

和菓子司鷲の子 東京都品川区南品川3-5-12 

川良海苔店 東京都大田区大森本町2-7-22

餅甚 東京都大田区大森東1-4-3

志ら井 東京都大田区南蒲田1-20-28

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※イベントのために急遽店を開けてくれた店舗様

大黒屋 東京都品川区東大井2-25-16

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試食後は「あの最中はどこで売ってるの?」「あのお餅美味しかった!店はどこ?」など大好評だった。東海道を歩いたら、是非地元の名物を食べるのも楽しみの1つだし、買いに行った先でお店の人たちから様々な話が聞けたのも楽しかった。



そんなこんなで楽しく時間を過ごしているうちに、だんだん日が傾いてきた。終了地点に急げ!

ここが本日の終了地点雑色駅入口交差点。来月開催時のスタート地点はここである。

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終了後はクイズと答え合わせと歓談を兼ねた「まとめ会」を雑色駅前の喫茶店にて。

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一時は収拾が付かなくなるほどの盛り上がりぶりであった。


次回「『ホントに歩く東海道』でホントに歩く東海道ウォーク」の開催は平成26年1月13日、雑色駅入口から生麦まで歩く予定である。


「ホントに歩く東海道」でホントに歩く東海道ウォーク ホームページ

2013-12-01

11月26日 よみうりカルチャー町田で竜閑川跡の古地図散歩

11月26日は、よみうりカルチャー町田で行っている古地図散歩「古地図でめぐる東京史跡で竜閑川跡を歩いてきた。


竜閑川は江戸城外堀から隅田川までを結んでいた「く」の字型の水路である。掘られた時期は諸説あってはっきりしないのだが、江戸時代の地図には元禄時代から明確に描かれている。


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嘉永3年作製安政6年再板江戸切絵図「日本橋北内神田両国浜町明細絵図」


その竜閑川も昭和25年に戦災のがれきの埋め立てに使われて姿を消した。水路としての姿は消えたものの、このようにビルの間の道として、現在でもその痕跡ははっきりと残っている。


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この竜閑川跡地の道沿いには多くの史跡がある。たとえば竜閑川が中山道、現在の国道17号と交わっていた今川橋の跡には碑があるが、今川焼きはこの地で売り出された焼き菓子が起源だと言われている。


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竜閑川沿いで一番有名なのは小伝馬町の牢屋敷であろう。現在ではその跡地は大安楽寺、身延別院、十思公園になっている。小伝馬町の牢屋敷では、犯罪者の拘禁と斬首刑の執行が行われていた。安政の大獄で死罪となった吉田松陰もこの地で処刑された。そのため十思公園内には吉田松陰の碑が立っている。


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明治初年に牢屋敷は廃止され、跡地はいったん遊園地になったのだが、処刑が行われていた場所に遊びに行く人は少なく、ともに財閥の創始者である事業家大倉喜八郎安田善治郎が土地の払い下げを受け、刑死者を供養するために両人の名の一文字を取って建てた寺が大安楽寺である。


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竜閑川は橋本町でほぼ直角に右に折れ、そのまま隅田川へと向かう。ここから先は浜町堀とも呼ばれていたのだが、江戸時代、この屈折箇所には竹森稲荷があり、今も竹森神社としてこの地に残っている。私たち一行は、神社の隣にある竜閑川児童公園で休憩である。


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竜閑川の周辺には、江戸時代から続いている稲荷神社も多い。ちょっと寄り道して三光稲荷橘稲荷を見にいった。三光稲荷はいなくなった猫が帰ってくるという御利益があり、橘稲荷は将軍秀忠の侍医であった岡本元冶の屋敷内にあったと伝わる神社である。


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ただし、秀忠の時代にはこの地には吉原遊郭があり、ここに岡本元冶の屋敷があったはずがないのはご愛敬である。


この近くの日本橋人形町には、江戸時代の後期に銀座があった。江戸時代に銀貨を製造していた銀座はもともと現在の銀座にあったのだが、松平定信の寛政の改革の一環として銀座の解体と再構成が行われ、銀座は当時蛎殻町と呼ばれていたこの地に新たに作り直されたのだ。


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その銀座は「蛎殻銀座」と呼ばれていたが、現在、その跡地は多くの飲食店が立ち並ぶ一帯となっている。明治時代に建てられた大観音寺から日本橋小学校へと抜ける路地は、このように料亭が建ち並ぶ風情ある町並みとなっている。


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竜閑川は、箱崎ジャンクションの場所で隅田川に注いでいた。今では埋め立てが進み、隅田川の河原もずいぶんと交代している。この埋め立てられた場所は江戸時代には「中洲」と呼ばれていた場所で、田沼意次の時代にいったん埋め立てられて庶民の歓楽地となったが、その後の寛政の改革によって取り壊され、川に戻されてしまった。


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その後明治時代に中洲が再度埋め立てられて陸地となり、昭和46年の首都高速向島線建設に伴って中洲との間に残っていた川も埋められて、現在のように地続きとなった。


今は中洲から隅田川対岸の清澄に向かって清洲橋が架けられている。関東大震災復興事業として架けられた橋で当時の技術の粋を尽くして建設されており、国の重要文化財に指定されている。


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清洲橋からは、東京スカイツリーもよく見える。


来月の古地図散歩では、「12月」ということで赤穂浪士の関連地をめぐる予定である。

といっても12月になるとあちこちの団体や会社で行われている「赤穂浪士引き上げルート」を歩くのではない。皇居東御苑の中にある松の廊下跡から両国の吉良邸跡まで赤穂浪士事件に関連する場所をめぐって歩くという、他のイベントではあまり行われていないコースを歩く予定である。

よみうりカルチャー町田のサイト

2013-11-29

11月23日 散歩かふぇちゃらぽこで目黒〜田町の古地図散歩

11月23日、この日は散歩かふぇちゃらぽこでの古地図散歩のガイドであった。


この日の古地図散歩のルートは、目黒から田町まで。お寺の多い場所を縫って歩くようなコースとなった。


まずは目黒不動として知られる瀧泉寺へ。


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江戸時代の地図には本堂前の石段横に滝が描かれているが、この地は湧き水が豊富で目黒不動境内にも「独鈷の滝」と呼ばれる湧き水がある。


現在はその泉の中に「水かけ不動尊が立っている。石造のお不動様に水をかけて願をかける。似たようなものは日本全国にあるが、目黒不動尊の「水かけ不動尊」が際立っているのは、上から水を注ぐのではなく少し離れたところから柄杓水を吹っかけることである。


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まるでイヤガラセのような水のかけ方だが、けっこうなストレス発散となる。


目黒不動の裏の墓地には、サツマイモの栽培で有名な青木昆陽の墓がある。植物学者か蘭学者のように思われがちだが、実は幕府御用の儒学者である。晩年は目黒に住み、生前のうちに「甘藷先生墓」と書かれた墓石を建てていた。


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江戸時代の目黒は、田畑の中に目黒不動を中心とした寺院群と門前町があり、江戸の庶民の行楽の場となっていた。今も岩屋弁天、蛸薬師成就院、安養院(江戸時代の地図には「養安院」と誤記されている)が残っている。


目黒不動を出た後は、行人坂を上って大圓寺へ。江戸で2番目の大火である目黒行人坂の火事の火元になった寺である。住職への怨みを晴らすために僧が寺に火を放ったのだが、江戸を焼き尽くす大火となってしまった。


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この寺には国の重要文化財の釈迦如来立像があるのだが、通常非公開。この日も安置されている御堂の扉は閉じられていて見ることはできなかったが、以前に公開されているとき私が撮影した写真がこれである。


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目黒駅を越えるとその先は白金台である。江戸時代の地図を見ると、そこに「増上寺下屋敷」と描かれている一角がある。


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ここは増上寺の塔頭のうち8寺院が、幕府によって移転させられてきた場所である。増上寺住職の隠居所となった寺なので、「下屋敷」と呼ばれていた。


ここには画家の伊東深水とその一門が描いた花天井がある隆崇院、唯一戦災で焼け残り江戸時代の門と本堂が現存する清岸寺、歌舞伎役者板東三津五郎の墓がある月窓院、そして福沢諭吉が埋葬された常光寺などがある。


福沢諭吉は死後この寺に埋葬されたのだが、昭和52年に麻布に改葬された。今も福沢諭吉の墓碑と福沢諭吉の像が建てられている。


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白金台には他にも本堂と通用門が国の重要文化財に指定されている瑞聖寺もある。この前から始まる坂道を下ると、そこに加藤清正を祀る覚林寺があり、その向かいの坂道を上ったところが三田台である。


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三田台にはたくさんの寺がある。江戸城の拡張にともなって、江戸時代初期に江戸城近くにあった寺が移転してきたのである。あまりたくさんの寺があって全ては回りきれないのだが、白粉を塗ると顔がきれいになるという御利益のある「おしろい地蔵がある玉鳳寺に行ってみた。


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女性の参加者の皆さんが入念に白粉を塗り、妙な盛り上がりを見せるこの日の古地図散歩・・・


江戸時代の地図には玉鳳寺の隣に正覚寺が描かれているが、この寺には加藤清正と並び称された猛将福島正則の墓がある。


さて、ここから田町駅まで歩いてこの日の古地図散歩は終了となった。女性参加者の皆さまもすべからく美しく変身し、これまでになく有意義な古地図散歩であった。



散歩かふぇちゃらぽこの古地図散歩は、毎月1回開催しています。

今後の開催日はこちらのサイトでご確認ください。

2013-11-28

11月9日 セブンカルチャークラブで御徒町〜茗荷谷の古地図散歩

11月9日は私がガイドを務めるセブンカルチャークラブの古地図散歩「古地図で巡る江戸・東京だった。


この日のコースは御徒町から茗荷谷まで。午前9時に御徒町駅に集合し、出発である。


ちなみに御徒町とは、江戸時代初期に御徒組の組屋敷があったことに由来する。御徒組とは単なる徳川家歩兵のことではなく、将軍が鷹狩りなどで外出するときに先触れや周辺の警備を行った幕府の役職である。


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江戸時代から残っている道(江戸時代の地図の青い矢印)を歩いて、まずは湯島天神へ。江戸時代から参拝者で賑わっていた湯島天神には、迷子を捜すための「奇縁氷人石」という石標など見どころがたくさん。学問の神様の菅原道真が祭神だから、合格祈願の願掛けが多いのだが、それにしても今にも崩落しそうなこの絵馬はいったいなに?!


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現在の春日通りのほとんどは、江戸時代の道を拡張して作られた。湯島神社の近くには、この通りの名の由来となった春日局の墓がある麟祥院がある。


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3代将軍徳川家光乳母であり、幕政にも大きな影響を及ぼした春日局の墓には「あの世からも幕府の政道を見通す」という意味で、卵塔に穴が開けられている。


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現在では、「見通す」→「通る」ということで、このお墓に参拝すると受験に合格するという御利益まである。

※効果には個人差があります。



現在の本郷薬師のもとになった真光寺の跡、春日局の家臣たちの組屋敷のあった春日町の跡を通り、源覚寺のこんにゃく閻魔にお参りしてから伝通院へ。


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伝通院は徳川家康の母於大の方が葬られている寺である。墓域に巨大な墓がある。彼女をはじめとして多くの徳川家の女性たちの墓があるのだが、その他にも幕末に新選組結成のきっかけを作った清河八郎小説家柴田錬三郎など、多くの歴史上・現代の著名人の墓がある。


知名度では彼らに遠く及ばないが、墓地の一角にある岡本三右衛門の墓にも立ち寄った。


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岡本三右衛門は江戸時代に日本に潜入したシチリア宣教師である。日本でキリスト教を布教しようとしたのだがその前に幕府に捕まり、宗門奉行の井上政重の屋敷に監禁された。


井上政重は幕府のキリスト教政策を拷問・処刑による弾圧から説得による改宗へと転換させた人物である。彼の下屋敷はキリシタン屋敷」とも呼ばれ、キリスト教徒の牢獄となっていた。


島原の乱にも従軍した政重は、殉教を神聖視するキリスト教徒に弾圧は無意味であることを悟り、このキリシタン屋敷でキリスト教徒の取り調べを行い、キリスト教の教義を論破して改宗に導いたのである。


この政策転換はそれなりの成果を上げ、シチリアから密入国した宣教師ジョセフ・カウロも、キリシタン屋敷に捕らわれているときに改宗し、その後は岡本三右衛門の名と幕臣の立場を与えられ、日本人の妻を娶って残った生涯を日本で過ごした。


そのカウロの人生を哀れんだイタリア大使によって、伝通院に岡本三右衛門の墓が建てられたのである。



伝通院の山門前にある福衆院には三国伝来と伝わる大黒天や、唐辛子を備えて願をかけると咳が止まるという唐辛子地蔵もある。まるでネックレスのように唐辛子がつながれてお地蔵さんの首にかけられている。


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さらに春日通りを進んでから南側の谷間へと降りていくと、そこにキリシタン屋敷跡の碑が立っている。


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この谷では茗荷がたくさんとれたので「茗荷谷」の名が生まれたのだが、その茗荷谷には滝沢馬琴の墓がある深光寺や縛り付けて願をかけると願いがかなうしばられ地蔵のある林泉寺がある。


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しばられ地蔵は願をかけるときに縄で縛り、願いが叶ったら縄を解くのだが、あまりに巻いてある縄の数が多すぎて、自分の縄がどれだか分からない状態になっている。願いが叶った後に、誤って他人が願をかけた縄を解いてしまったらどうなるのであろうか???


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今回も江戸時代の地図を見ながら現在の町を歩き、見慣れた風景の中の意外なところにたくさんの江戸時代を発見した。

セブンカルチャークラブの「古地図でめぐる江戸・東京」は月1回開催。3ヶ月に1回新規募集を行っているほか、途中参加も可能です。

詳しくはこちら