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今日から日記を書き始める人と、そう前置きを書いて書き始める人と、そう前置きを書いて書き始めることに飽きた人と、そう前置きを書いて書き始めることに懐かしさを感じている人としての前置き。
懐かしさは軽度の達観で、しばらくすると懐かしさにも飽きてきてどんどん素直になりいすぎてしまうような気がする。
日記を書き続けている人が、日記を読み返すとなく振り返った時に思い出される過去というものは、日記を途中で書かなくなってしまった人のそれとどう違うのだろう。
そういのには興味がある、何食わぬ顔でみんな街ですれ違ってはいるが抱えている状況も資産も体の軽さ痛みなど、みな驚くぐらいばらばらなのだろう。
歩きながら携帯を見ている、その人の眼差しの先にあるものも簡単に理解できるわけがないのかもしれないし、取るに足らないクソが広がり続けて侵食を始めているのかもしれないし、今横断歩道を渡ったのに、歩道がない場所で道路を横断しようとしている人の状況を理解して、夜カルピスの原液を買って片手に持って帰る。
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家の机にあるノートに書く言葉、ツイッターに書く言葉、数年ぶりにログインしたブログに書く言葉、違うものです。
近視眼的に見れば今やツイッターが世界のように思えてくるけれども競馬で考えれば、適正関係なくダート1400の条件で皆は世界を読んで書いているということになる。
ある一つの条件でしかないのに今や140字がクラシックディスタンスになっている。
ただそれに適さない人間も山ほどいるだろうという事と、適応したとしてもそこで表現できる事柄はごく限られているだろう。
わざわざ「これはメモ」なんて断り書きを書くのも野暮だろうが本来メモ程度のスピードと軽量のものに自覚なく言葉を書くと一瞬の感情をそのまま書いてしまうには相性が良いものだと気づかされる。
昔は自然な推敲なども負担なくできなきがするが、もう今や読み返すことも億劫であり、書き散らしておしまい。なだらかにできなくなっていくことがとても多い。
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日常は自分に見合った弱い敵と対峙しながらなるたけ変わらない日常を維持してるんだろうな、と毎日自分にとってのその敵は酒なんだろなと思って、コンビニスーパーをやり過ごしている。
こういう日があったとしても停止しないように、わかってる敵は本当に取るに足らないなんでも無いものだ。
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エンジェルベイビーのアナログレコードが届いた。30越えて物を手に取ってここまで感動するのは久しぶり。
少し前にApple Musicで、宇宙もしくは目の前に壁があるみたいに感動して、いよいよ本当にCDなんて買う必要なくなるな、なんてまさに壁を目の前にしてそう呟くほかない為にそうちャンと呟いたけれど、あれ以降安くてありがたいと言って腐る程腐らない音楽を再生するCDを買って、有限の部屋に積み上げては次々と部屋で再生している。
こんな物だから、メディアの終着はいよいよ無いんだろう。まず、時代に変わってある形に統一させるという思考そのものが、無意識が作る私たちの普通の残酷さだ。あの頃、迷って買えなかったCDを安く買う。CDが丸くてよかったってよく思う。
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ある 一定の周期で訪れる、日記でもつけてみようかと帰り道に思ったりする日。何をきっかけにして、そう思って次の日に忘れるのだろうか。
それが継続しない事がよくないという話ではなくて、時々訪れるそういう日っていうのは何なんだろうか。
そういう時はあわせて健康にも気をつかう。自分の中にある周期のようなものが勝手にバランスを取ってるのだろう。ブラックビスケッツに「バランス」という曲があったら、「スタミナ」と「タイミング」の三つで人生の普遍性をカバーしたグループになっていたのにとよく思う。
午前4時に走っている人、継続が形成するバランスもあれば途切れ途切れの断片で成るバランスもあるだろう。
何か残そうと思って考えて、30越えると、その思考の貧相さに愕然とする元々そうなのに。高橋源一郎がさようなら、ギャングたちで再び書き始めた時みたいな、骨格を吐き出すだけで精一杯みたいな、骨が喉に引っかかってたって。
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幸福が等しく降り注げば問題ないわけだけど、木陰に立つあの人には届かないとして、なにができるか。まず自分にそのひかりはあたっているのか、あたっていないのだとしたら、自分はどう思うのか、上を睨むのか。隣のひかりをただ見つめ続けるのか。その場から移動するのか。
何かを書くということはどういうことなのか、何も書けないと言う事は。何も書けない間に流れる生活の中、繰り返される毎日にどう思うのか。
悲しい事があったとして、悲しい事が合ったとして。流れる映像に何を思うんだろうか。
なぜ何かをしなければいけないと思うのだろう、なぜ何かを書こうと思うのだろう
見つけて欲しいのか、そのような矮小な考えしか浮かばない
変える事はステップを踏むようにけんけんぱ
幸福が等しく降り注げば問題ないわけだけど、木陰に立つあの人には届かないとして、なにができるか。まず自分にそのひかりはあたっているのか、あたっていないのだとしたら、自分はどう思うのか、上を睨むのか。隣のひかりをただ見つめ続けるのか。その場から移動するのか。
何かを書くということはどういうことなのか、何も書けないと言う事は。何も書けない間に流れる生活の中、繰り返される毎日にどう思うのか。
悲しい事があったとして、悲しい事が合ったとして。流れる映像に何を思うんだろうか。
なぜ何かをしなければいけないと思うのだろう、なぜ何かを書こうと思うのだろう
見つけて欲しいのか、そのような矮小な考えしか浮かばない
変える事はステップを踏むようにけんけんぱ