『図書館戦争』、違和感の原因


昨日、部屋を掃除していたら、約半年前の「Newtype」2008年1月号が出てきて、読みふけってしまった。そこで気になる記事を見つけた。それは『図書館戦争』の記事で、浜名孝行監督のコメントが載っていました。


Newtype (ニュータイプ) 2008年 01月号 [雑誌]

Newtype (ニュータイプ) 2008年 01月号 [雑誌]




「一番の見どころはラブコメだと思っています。『恥ずかしい〜!』と真っ赤になりながら夜中にひとりで楽しんでもらえたらいいかな。」




浜名孝行監督の口からは、意外な発言が飛び出した。「図書館戦争」の舞台は、合法的な検閲がまかり通る世界。読みたい本を自由に読むことすらできない窮屈な世界の中、人々が拠りどころにするのが図書館だ。この時代の図書館は「読む自由」を守るためには、血を流すことも恐れない。主人公、笠原郁は、そんな図書隊の中でも精鋭だけが集まる特殊部隊の一員なのだ。これほどまでにヘビーな設定なのに、ラブコメがメインとは!?



「郁は、過去に窮地を救われた図書隊員のように健全な読書環境守る任務においても、そして文字通り彼に近づきたいという淡い恋心も入隊の動機です。堂上とのいがみ合いや、心理描写など、原作を感じて読んだのはキャラクターが皆、すごく生き生きしていること。本のために戦うという世界観もおもしろいのですが、重要なのは、人間ドラマ。アニメでもキャラクターとその関係性をていねいに掘り下げて描き、あったかい雰囲気を出したいですね。」


とはいえ、国立図書館自衛隊への取材を重ねてできたという、綿密かつ、膨大な美術設定が支える、戦闘シーン含めた映像については?


「原作のおもしろさを生かしつつ、アニメならではの映像つくりにしていくつもりです。型にはまった作品にはしたくないので、キャラが一人歩きして作品的にも、スタッフ的にもどんどん成長していけたらいいなと。本好きにはもちろんですが、幅広い人にたちにこの作品をみてもらえたらいいなと思っています。」






この記事を読んでみると、浜名孝行監督は「難しい設定はすっ飛ばして、ラブコメだけやります」と宣言しているようにしか思えない。「本のために戦うという世界観もおもしろいのですが、重要なのは、人間ドラマ。アニメでもキャラクターとその関係性をていねいに掘り下げて描き、あったかい雰囲気を出したいですね。」この発言は、「俺、図書館戦争のラブコメにしか興味ないし」と言わんばかりの内容だ。



そりゃ、視聴者が設定について一斉につっ込むわけだ。なにしろアニメの制作者サイドが、「設定をはしょります。」と堂々と言っちゃってるわけで、設定についてはさほど描かれないわけだから、疑問がどうしても発生してしまう。



原作小説では、有川浩さんがこのメディア良化法や図書隊などの設定に所々フォローを入れているのに、それを無視して、アニメの制作者側が「ラブコメ」をメインの物語にしたら、設定の荒唐無稽な部分がより顕在化されてしまい、違和感が爆発してしまう。この違和感は起こるべくして起こったことだと思う。有川浩さんはあとがきなどで「メディア良化委員会側も描きたい」という旨の発言をしている所をみると、自分が作った設定に偏りがあることを自覚しているように思える。それなのに、アニメの制作者サイドはそんなのお構いなしで、ラブコメばかりを描き、他のヘビーな設定を簡略化し、設定の矛盾にこれでもかと拍車をかけ、違和感を何倍にも膨れ上げさせた。なぜ設定の偏りを放置し、フォローもせずに、ラブコメをメインに描くのかというと、ノイタミナ枠の女性層に媚びた結果だろう。それ故に、視聴者に違和感が生じてしまった。




この設定における違和感の原因の一つは、アニメ制作者サイドの「ラブコメ偏重精神」が生んだものなのではないだろうか。