『氷菓』 芝居の豊かさと細緻さ


 僕は氷菓の肌理細やかな描写が好きだ。その細かい描写は、氷菓に限らず京アニ作品全般に云えることだが、氷菓はどの作品よりも一歩前に進んでいるように思える。


 僕の印象として氷菓は地味目の物語に思える。突拍子もないことが起きるわけじゃないし、派手なアクションがあるわでもない。でも、楽しんで観れるのは、登場人物たちの一つ一つ丁寧に描写された芝居の数々があるおかげだと思う。


 特に第5話「歴史ある古典部の真実」の描写が好きだ。


 脚本/賀東招二、コンテ・演出/三好一郎、作画監督/堀口悠紀子


 第5話冒頭、折木奉太郎福部里志は雨の中、自転車を押して自宅に帰る。ここで、一台の軽トラックが向かってきて、それを避けるため折木たちは自転車を押すのを止めて道路端に寄り、立ち止まる。そして、彼らはその場で話を続ける。これらの描写は、原作にはない描写だ。原作で軽トラックは登場しない。




 なぜ、ここで軽トラックが登場したのか。何のために登場させたのか? おそらく、折木たちを立ち止まらせて、折木の重要な告白をドラマティックに見せるためだったのだろう。自転車を押して移動させて告白させるよりも、立ち止まらせて会話をさせ、雨が止み光が差し込む中で折木の告白をさせたかった。そのおかげで、このシーンは原作よりも良いものになったと僕は思う。




 別に折木たちが急に立ち止まって会話を続けてもよかったようにも思えるのだが、意図的に軽トラックを登場させて折木たちを停止させた。その方が、立ち止まるのに自然だったからだろう。僕はそこに惹かれる。凡百の作品なら、軽トラなんて絶対登場させないだろう。人物たちにそういう芝居をさせて、作品を豊かにしていく。




 図書室で糸魚川養子に出会うシーンで、伊原摩耶花は本を本棚に戻す手伝いをする。

 原作には伊原が本を戻す手伝いの描写はない。ここで伊原が本を戻す作業は、本筋のストーリーにはまったく関係のない描写であり、伏線というわけでもない。はっきりいって必要のない描写であり、描写しなくてもストーリには影響のないものだ。でも、ここで伊原に本を戻すという芝居を選択させる。なぜ、選択させたのか? もし、伊原がその場で何もせず立っていたらどうだろうか。糸魚川先生が本を戻す作業をしているのに、図書委員である伊原が手伝いをしなかったら不自然だ。伊原の性格を考えると、積極的に手伝いをするだろうし。


 それになにより、伊原が本の手伝いをすることによって画面に動きが生まれるのだ。糸魚川先生と会話をする折木たちとは別の動きが生じて、画面が複雑になり、視覚的に豊かになる。動かないで会話する折木たちと本を戻すために本棚を行ったり来たりする伊原。伊原という別のレイヤーがあることにより、何の変哲もないシーンが魅力的になる。


 本を戻す芝居をさせることによって、映像をより魅力的にする。




 氷菓の真実を知る司書室でのシーン。

 ここでの福部の芝居も僕は好きだ。お茶を煎れるために席を立った伊原が席に戻るため、福部が一旦席を立ち、伊原が席に戻る。福部はすぐに席に座らず、その場で一旦屈み、糸魚川に「カンヤ」祭の言葉の意味を聞き、質問し終わると、ここでようやく席に戻る。この一連の動作は、別に何気ないものであり、たいして目立つものでもない。でも、屈んで質問するのと、ただ座って質問するのでは、見え方が違う。福部が席を立ち、そのまま座るよりも、屈んで質問する方がこの会話シーンの映像的なアクセントになる。この芝居を入れることによって、福部という人物がより生き生きとしてくる。人間味が増してくる。




 氷菓では、何気ない芝居によって、登場人物たちをより豊かに、拡がりを与えようとしている。それは、糸魚川先生の眼鏡を外す芝居であったり(過去の話をするとき、彼女は眼鏡を外す。それは、彼女を過去に引き戻すための芝居だ)、折木のコップの持ち方だったり(両手で持つ独特の持ち方、でもこれは原作に従った芝居なのかもしれないが)と挙げればきりがない。




 人物の仕草一つで、どういう人間なのかを伝える、どういう心情でいるのかを伝える。氷菓では、今まで京アニが描いてきた人物の丁寧且つ的確な芝居をより深化させ、そしてそれを積極的に描こうとしている。現にその思惑は成功しているとも僕は思う。