『夏雪ランデブー』第2話のメモ


 面白かった。

 コンテ・演出は、乗りに乗っている山崎みつえさんである。この面白さは、原作の良さなのか、山崎みつえさんなのか。


 手が印象的な回だった。



『泣きたいのは、こっちだ』




 島尾篤は六花のすぐそばにずっと一緒にいるのに、彼女に触れることも、会話することもできない。六花が高熱で倒れて苦しんでいるのに、どうすることもできない。彼女を持ち上げてベッドに運ぶことも、声をかけることもできずに、ただ彼女を見ていることしかできない。すぐすばに存在しているのに、彼女を守ることさえもできない。そこに存在しているのに、存在していない幽霊。


 葉月亮介はもちろん、六花に触れることもできるし、会話することもできる。花屋のバイトとしていつも六花のそばにいる。六花が高熱で倒れたときも駆けつけて彼女を助けることができる。でも、六花の口から出てくるのは、自分の名前ではなく、死んだ夫の名前だけ。こんなにそばにいるのに、彼女の心はずっと遠くにあり、今もまだ篤のものなのだ。


 二人とも、すぐそばにいるのに、六花と遠く離れている。この苛立ちと悲しさ。ラストの「泣きたいのは、こっちだ」のセリフにすべてが集約されている。「触れられるのに、遠くにいる」と「近くにいるのに、触れられない」


 「触れられるもの」と「触れられないもの」。その差異を表すために使用されるのが手の描写だ。クロースアップで捉えられる篤の手と亮介の手。


 亮介と六花が食事を終えての帰り道。彼と彼女は手を繋ぎ、キスをする(キスを直接は映さないが)。

 六花と今触れ合う男性は、亮介だということが手を繋ぐ描写によって強調される。


 ここでの手を繋ぐ描写が、このあとの六花が倒れても、触れることができないという篤の描写に生きてくるわけで。

 
 描写の仕方が見事だった。松尾衡監督の久々の監督作品であり、期待通りの出来。これからもコンテ・演出をするであろう山崎みつえさんの手腕も楽しみだ。



 話は変わり、篤の後ろ姿。


 度々描写される彼の丸まった(というかなで肩?)後ろ姿は、物悲しく映る。なぜこんなに、悲しくなるのだろう。