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2012年08月17日

移転告知

次回よりBlogを下記に移転いたします。
宜しくお願いいたします。
(当ブログの記載内容、コメント等も全て移管済みです)
http://blog.tokumoto-shokai.com/

2012年08月16日

【書籍紹介】福原啓郎『魏晋政治社会史研究』(京都大学学術出版会)

魏晉政治社会史研究 (東洋史研究叢刊)

魏晉政治社会史研究 (東洋史研究叢刊)

魏晋期における政治史及び社会史に関する論考。恐らく同氏の著書『西晋の武帝 司馬炎』(白帝社)で名前を知っている人も多いと思うが、基本的な方向性は同じである。但し本書は学術書である為、先行研究に対する言及や注釈が豊富である(それだけではないけども)。目次等に関しては三国志ニュースさんで言及されているので全体的な紹介や論評はお任せすることにして、特に興味を持った箇所だけ言及する。

まず本書の概略に関しては、序論と結語の部分を読み通せば分かるように構成されている。また、図解は基本的に少ないものの、石刻資料(第四章)や墓誌(第十一章)には比較的多く図面が載っている。第九章の『銭神論』や第十章の『釈時論』に関しても主要な逸文に関する原文と全訳を載せているので、後で参照するのに役立つ。

そして個人的にもっとも興味を持ったのが、第五章「八王の乱の本質」及び第六章「西晋代宗室諸王の特質」である。この箇所は西晋時代の八王の乱に関して、従来研究では宗室の諸王が自らの欲するままにクーデターを繰り返したと見られがちであるが、それに対して貴族制の観点から一定の方向性を見出そうとするものである。そして著者がそのキーワードとして摘出したのが「輿論」の存在である。著者は言及する(赤字は拙による)。

この府主と幕僚の関係を考察してみると、そもそも府主に辟召されて幕僚となっていた士大夫は、府主が自らに人心を繋ぎ留めるために辟召した人物、すなわち輿論の期待を担っている人物であり、逆に言うならば、輿論を導く立場にある人物であり、それ故に幕僚の府主に対する批判は、輿論の具体的な代弁である。
(p.174:第五章第二節 輿論について)

このように宗室諸王は開府することにより、軍府の属僚および管内の郡県の長官の任免権を掌握していたのである。ではすべて宗室諸王の恣意によるかといえばそうではなく何かに規制されている。その規制するものが士大夫輿論であり、逆に言うならば輿論で支持された人物こそその軍府内の僚属となるのである。・・・(中略)・・・こうして府主である宗室諸王は辟召した士大夫(すなわち貴族)を通して具体的に輿論と結びつくのである。
(p.214:第六章第二節 宗室諸王と士大夫

突きつめれば、宗室諸王と輿論の存在とその結合が詔敕の代替となったといえよう。そしてこうしたありかたこそ逆に詔敕などに現われた皇帝の権威を生ぜしむる由来を示唆するのではないか。・・・(中略)・・・つまり魏晋国家体制は図式的には軍隊輿論の結合であり、その両者を結ぶ接点として皇帝が存在するのであり、皇帝の権威はその背景に両者により支えられており、そこから生じているのである。
(p.222:第六章第三節 宗室諸王の権威)


上述するように、皇帝の権威が軍権及び輿望を担う士大夫層の支持から構成されていると著者は結論づける。八王の乱の前半で矯詔によるクーデターが、後半で詔勅に因らない義起が可能であったのも軍権と士大夫層による支持があったからであり、これがなければ皇帝と雖も自由に権力が振る舞えなかったということである。

ただ個人的な贅沢を言えば、この輿論を構成する士大夫層が如何なるものであるかについてもう一歩踏み込んだ言及が欲しいように思えた。それは果たして川勝義雄六朝貴族制社会の研究』(岩波書店)で言及するような「郷論環節の重層構造」に由来するものなのか、それとも渡邉義浩『三国政権の構造と「名士」』(汲古書院)で言及するような文化価値によるものなのか、それともそれらとは別の見方によるものなのか。系譜的に川勝義雄氏の説をベースにしていると勝手に想像しているが、ひょっとすると私が見落としているだけかも知れない。

三国時代というよりは魏末〜西晋に掛けての言及が殆どであるから、三国時代末期に興味のある人は購入を検討しても良いのではないだろうか。

2012年07月18日

近況報告

色々と長く時間をあけていたが、その間に考えていたことを幾つかまとめて記す。

サーバ用のパソコン新調の件>
パソコンを新調したいと考えていた。別に現行機でも何ら困るような性能ではないのだが、今までBTOパソコンばかりで実際に自作した経験がないのでやってみたいこと。最新パーツでなくてもサーバ程度の利用なら安価で済ませられる見込みのあること。こういった関係で一度ゼロから組み立てようと思い立ったのである。

そして今回の検討に置いては、もう一つやろうと考えたことがある。それは地デジ対応のパソコンにすること。地デジ化してからテレビを自宅で見ていないから、これを機に設置しようというものである。もっとも、1年間見ないで業務上も私生活も支障なかったのだから、このまま無くても問題なしともいえるが。

検討を進めた結果、サーバ目的ならLinuxOS及び1世代以上前のパーツ構成でも何ら問題ないことがわかったが、一方で地デジ目的を志向するとWindowsOSで最新パーツ(性格には地デジの規格適合品)にしないといけないことがわかった。結果的に費用は嵩む傾向に。

長く比較検討していると意欲が徐々に減るため、今は検討を中止している。今すぐ買わないとやばい、何が何でも欲しいという筋合いのものではなかったということだ。

タブレットBluetoothキーボード組み合わせの件>
タブレットを購入してもうすぐ1年が経過するが、通常のネット検索やSNS利用では特に不自由していない。むしろ私が購入したのがASUSのTransformer TF101であることから、今までのWindowsOSからの移行に違和感すら感じなかった。ここ1年間の経験を考慮する限り、外出先はタブレットで何も問題ないだろう。

しかし今の10.1型は持ち運ぶのには少々大きい。一回り小さい方が望ましいと考える。そのため、7型あたりが次回買い換えの候補に挙がる。お値段的にも手頃感があるし、ヘビーな使い方を想定しなければ7型でも十分だ。後は琴線に触れるような端末に出会えればいいのだが、電器量販店の店頭を見る限り、あまりパッとしない。そもそも私の利用する店のタブレットコーナーがこじんまりとし過ぎているのだが。

それに今度はキーボードの問題もある。今使用しているポメラのDM20が外付けキーボードとしても利用可能なら問題ないのだが、実際はQRコード読みとりを経由しないとダメだ。そして店頭で外付けキーボードを見るに、ポメラに勝るキーボードは無い(使い慣れているということもある)。最新型のDM100はAndroid端末ととにかく相性が悪く(iPhoneiPadとは相性が良い)、英語キーボードの認識からうまく変更できない。QRコード読みとりを使用するのであればDM20と何ら変わることはなく、あえて買い換えようとする必要性はなくなる。

結局、1年間かけて理想的な組み合わせは脳内にできあがっているのだが、購買意欲を沸き立たせるような実機が見つからないという実状だったりするのである。

<ミラーレス一眼レフカメラ>
ミラーレス一眼レフを購入して4ヶ月。写真を撮ることは嫌いではないので、何か機会があるごとに写真撮影をしている。私の場合、特に飲食物と風景がメインになるのだが。

カメラに凝りだすとレンズ及び周辺機器に投じる金額が増える。私の場合はすでにカメラ本体と標準ズームレンズ、単焦点レンズ、望遠レンズの3つを購入している。殆どアウトレットでの入手なので定価に比べて幾らか安価なのだが、しかし全体的にはそれなりだ。

今後は脚立の購入が最有力になるだろうが、そのためには持ち歩くカバンを検討しなければならないし、バッグばかり増えても仕方ないし云々・・・という問題がある。しばらくは単焦点か標準ズームで撮影をすることになるだろう。

2012年05月20日

小池和夫『異体字の世界』(河出文庫)

先日、@yunishio殿と神田神保町を散策した際、小池和夫『異体字の世界』(河出文庫)という本を偶然にも見つけた。河出書房は東洋史や戦略論好きな私にとってさほど重要ではなく、新刊もチェックしないしコーナーにも立ち寄らない、そんな扱いだった。正直興味がわかないのである。ラインアップ的に。

で、神田神保町となると東洋史関係の書物を一堂に会しているため、そういった文庫でも個別に陽の目を見ることができる。それが本書である。

著者はDTP組版研究者でJIS X 0213規格制定に関わった、漢字研究の第一人者でもある。そもそも異体字とは何か、そういった諸事情を細かく解説してくれる。

結論から言えば、現在のような常用漢字だとか第○水準漢字のような区分けができた理由は、江戸時代までの手書きから明治以降の活版印刷技術の普及、そして漢字を一般庶民に普及させるための標準化・簡便化である。この取り組みは明治初期から現在に至るまで脈々と続いており、GHQの陰謀とかそういうのは全く関係がない。また戸籍管理のためにかくも膨大な漢字を規格として定めている。逆に言えば、正字とか異体字とかの区別はそれ以上の意味がないのである。

こういう異体字とか略字とか正字とかの区別は、一つには康煕字典に定めているというところに求めうるが、実はこれも全てが正確なわけではなく、実用例がないのにむりやり正字にしてしまったり所々の誤りが見受けられる。

本書を読んで面白いのは、現在使われている新漢字というのは正字に対する略字や俗字に属するものが多く、決して現代になって新しく急造したものではないと言うこと。そして中国簡体字についても事情は同じで、数多くの略字・俗字の中から採用した文字が偶然にも日本と異なっていただけにすぎない。どちらが正しいとか間違っているではない。両方とも昔から元々存在していて、それを国としての常用漢字として採用した文字が違っただけなのである。実は日本の旧漢字にも事情は全く同じである。旧漢字が正しいという理由はなにもない。

ともすると今受けている教育、又は昔の学校教育で習う漢字こそが正しいと錯覚しがちであるが、漢字の世界はそう一意的に決められるものではない。もし近世以前の古典の世界に浸るのであれば、これまで学校教育で習ってきた漢字に関する固定観念を捨てて接するようにしなければならないだろう。

2012年05月03日

転送テスト

Pomeraで打ち込んだ文章をはてなダイアリーに転送できるかのテスト。

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