中級者の名称に関する諸問題

そんな問題がそもそも存在するのかという疑問はさておき、少しだけ今日の日中に話題となった事柄について。

中級者の集いに関するログ

そもそも三国志に関する中級者とか初心者とかに明確な区分は存在しない。もし本当に広く使うのであれば誰かが○○は初心者である、××は中級者である、といったような認定をしなければならない。しかし、今度は誰がそれを認定するのか。その認定者に相応しいのは誰だろうかという話になる。

一番分かり易いのは三国志検定だろうか。だが、これは一部の三国志好きが受験しているだけで、全ての三国志好きが受験しているわけではないし、受験していない人間は三国志好きを名乗ってはいけない、という筋合いの代物でもない。就職に有利になるわけでもない。

一応、私が中級者という用語を用いている時は自分の中で勝手に次のような定義をしている。「正史に興味を持ち始め、How to本には飽き足らなくなってちくま訳正史又は中華書局の原書を読んでいるが、一方で学術論文を寄稿するには至らない知識レベルの階層」この定義は私が勝手に決めたものなので賛否両論はあるだろうが、私の想定する方々は此処に当てはまる人たちである。恐らく大量の人が此処に当てはまるので、本当はもう少し細分化した方が分類法としては適切なのだとは思う。

しかし根本的な問題として昨日の記事でも言及しているとおり、一応は勉強会を兼ねてはいるが、基本的に私の開催するこのオフ会は飲んでしゃべっているだけである。こういう厳密な区分をして何かどうこうするつもりはないし、区別すること自体に意味があるとは思わない。論文投稿をする力量の人が居てもいいし、演義にしか興味がない人が居てもいい。ただ、話題が合うかどうかは別問題である。

次に敷居の問題について。

ある程度の力量を持った人が謙遜していると初心者の敷居が上がるからあまり好ましくない、という意見である。確かに納得は出来るが、一方で「ある程度の実力を持っている」とは一体誰が認定するのかという問題が依然として存在する。明確で誰もが納得できるような基準があればいいが、そのようなものは三国志界隈に存在しない。それに或る一分野において博学でも、そこから少しでも外れると基礎レベルさえ危うい、ということは良くある話。そもそも趣味なので興味がある分野に特化して知識を獲得するのは自然な流れで、誰もが三国時代の文化、政治、宗教等の諸問題に広く通じなければならない、という法はない。そもそも、誰かに認められたくて正史を読んでいるわけではない。

そうなると、自分が初心者であるか上級者であるかは自称とする他はない。その時の自称の尺度は恐らく(1)自分の目標とするレベルを設定し、(2)知識のない段階から目標到達まで数直線上で表し、(3)自分の実力がどの程度の位置にあるのかを見て自称を決める、という段階を踏む。その為、相対的に見れば最初の目標レベルの設定が重要になるのであって、その設定を低く見積もれば容易に自称上級者に到達できるだろうし、逆に汲古書院で専門書を著す大学教授レベルを設定すれば学術論文を1本投稿したところでまだ目指す道のりは迂遠であろう。


結局最初の話に戻ってしまうが、三国志界隈の共通した到達目標がない以上、中級者という呼称にそれほど重要な意味はないし、当然初心者という呼称にも同じく重要な意味はないように思われるのである。