2011-08-01
スポーツ!!(最終回)
私たちは、それぞれが少しずつの犠牲を差し出すことによって、共同体を維持してきました。そして、その見返りとして安全や利便や豊かさを享受しています。と、同時に、他の共同体との無益な諍いを避け、連携を模索してもきました。利他的な振る舞いは、高い精神性の証左として人々の尊敬と賞賛を集め、逆に暴力的な言動は孤立を深める。これが私たちの生きる社会の大まかな仕組みです。
一方で「生きる」という生存の意思は、闘争本能と表裏の関係にあります。言い換えるなら、私たちは生きるために、時として戦うことを避けては通れない。しかし、だからといって闘争本能をむき出しにすることは戒められてきたし、場合によっては法の裁きを受けます。その理由は、暴力と弱肉強食がまかり通るならば、やがて弱者は切り捨てられ、共同体の存続そのものが危うくなってしまうからです。両手を縛られたまま、私たちは生きるために戦わなければならない、これが現代社会のもうひとつの側面です。
しかし、スポーツはその対極にあります。スポーツにおいて闘争本能をむき出しにすることは、むしろ奨励される。そして人々は、あらわになった闘争本能が繰り広げる真剣勝負に酔いしれ、賞賛を惜しまない。場合によっては、観客が競技者に匹敵するようなカタルシスを得る。その意味においてスポーツには、「反社会的」な一面があるのです。いくつかの競技の成立過程は、紛争や戦争が姿かたちを変えスポーツとして定着したことはよく知られた事実です。また、為政者は、その熱狂と興奮を国威高揚に転化させてきた歴史もあります。オリンピックが「平和の祭典」と称されるのは、スポーツの持つこの反社会性に依拠しています。つまり、めいめいが自己を抑制することで社会を下支えしているからこそ、その反作用としてスポーツの反社会性が許容されているのです。スポーツは、人間に生来そなわっている闘争本能を去勢するための「装置」として機能してきた。逆説的にいうと、社会の健全性が担保されているからこそ、スポーツがスポーツとして成立しうる。スポーツには、平和という“畑”が必要なのです。これを僕は、スポーツの希少性と解釈しています。
もちろん、スポーツが多くの人々に夢や希望を与えてきたこともまた事実です。往年の名作アニメ『あしたのジョー』は、ボクシングを題材にしています。そこには、ボクシングのもつ暴力性、残虐性、苛烈さが描かれている一方で、主人公の矢吹丈は、孤児院の子供たちに夢と希望を与えるヒーローだった。ひとつの作品の中に、暴力と慈愛が矛盾なく共存している。このことが、スポーツのもつ「二面性」を端的に物語っています。
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7月17日、サッカーの女子日本代表「なでしこジャパン」が、ワールドカップの決勝でアメリカを破りました。久方ぶりの明るいニュースです。サッカーという競技で、日本が世界一になるとは思ってもいなかったので、驚きもしたし感動もひとしおでした。快挙のさらに上、奇跡といってもけっして大げさではないでしょう。「なでしこ」が、ドイツに向け日本を出発する際、成田空港は見送りもまばらで閑散としていたそうです。それが帰国時の空港のロビーは、出迎えの人々と報道陣でごった返しました。彼女たちの一挙手一投足をメディアが追いかけ、テレビ各局は、先を争って彼女たちをスタジオに招きました。その様子はまさに“なでしこ争奪戦”。いつものことです。いつものことだし、彼女たちはそれほどの偉業を成し遂げたのだから、メディアが大はしゃぎするのも無理はありません。
けれども(これはある程度予想できたことなのですが)、キャスターやコメンテーターが、スタジオのひな壇に鎮座した彼女たちに向けて「彼氏はいるの?」「好きな男性のタイプは?」「ネイルアートをちょっとカメラに見せてください」などといった発言が繰り返されるのをながめていて、いい加減うんざりさせられたことも事実です。ワイドショーのみならず、報道系の番組でもこの手の質問は定番でした。ある番組で「サッカーとぜんぜん関係ないじゃん」という選手のぼやきをマイクが偶然拾いました。そうです。たしかにサッカーとはぜんぜん関係ないのです。関係がないどころか、世界一の偉業をなしとげたアスリートに対してのリスペクトすら感じなかった。しかし、うんざりはしたけれど、僕はメディアを批判する気にはなれなかった。
理由は三つあります。ひとつは、競技者の目線です。サッカーを競技者として経験したか否か。この違いによって知識はもちろんのこと、興味の対象はおのずと変わってきます。つまり、わからないことは聞きようがない、ということです。わからなければ、わからないなりに事前に下調べをするべきだという意見もあるでしょう。では、なぜ、彼らはするべきことをしなかったのか。僕は、ここにリスペクトの欠如を感じたのです。彼女たちに敬意を顕さなかったことは、批判されてしかるべきでしょう。なぜなら、「なでしこ」は「世界一のナショナルチーム」でもあるのですから。しかし、僕は、これも非難するつもりはありません。その理由は後述します。
ふたつめです。これは以前にも書いたことなのですが、メディアと受け手は、構造的に「あわせ鏡」の関係にあります。つまり、視聴者が聞きたいから、知りたいと思っているから、彼らは「好きな男性のタイプ」を聞いたのです。要するに視聴率です。専門的な知識を振りかざしたところで、チャンネルをかえられてしまうのが「オチ」だ。知りたいことを聞くのだから、当然、視聴率を稼げるだろう、という目論見です。その意味で、私たちとテレビは共犯関係にあります。したがって、テレビを批判することは(それがすべてではないけれど)、天に唾を吐く行為ともいえます。
三つ目。実は、これが一番のやっかいな問題だと思っているのですが、女性のスポーツは、男性のそれにくらべると軽んじられているからです。同一競技であれば、女性のスポーツは男性の傍流で格下とみなされている。たしかに身体能力で劣る女性のスポーツは、記録の上では男性にかないません。これは女性に対する差別でも偏見でもなく、ひとつのファクト(事象)です。このことが先に述べた、リスペクトの欠如とまったく無関係だとは思えないのです。その証拠に、岡田ジャパンがW杯で決勝リーグ進出を果たした際の会見で、「好きなタイプの女性は?」というたぐいの質問は出なかった。また、男顔負けのプレーという常套句があります。この言葉は、スポーツにおける男性の優位性を示唆してもいます。
さらに見逃せないのがスポーツのもつ「純粋性」、つまり「強いものが勝つ(べき)」という因果律至上主義です。スポーツがこの純粋性に立脚している以上、女性が傍流とみなされても批判のもって行き場がないのです。スポーツの「純粋性」を尊重するならば、競技のミックス化とオープン化を推し進め、最終的に「男女別」を撤廃させることが、理にかなっているように思えます。しかし、そうなるとスポーツそのものが、高い障壁に守られた男の世界になり、その結果として差別を生んでしまう。
アメリカとの決勝戦で印象的なプレーがありました。延長後半、試合の残り時間は三分。一瞬、日本のディフェンダーのマークが「ずれ」ました。その隙を突いて飛び出したのが、アメリカのモーガン選手です。勝負ごとに「たられば」は禁物ですが、もしあの場面で彼女がそのまま抜け出していたなら、キーパーと一対一で対峙していたはずです。失点を覚悟しました。残り時間を考えるとここでの失点は致命的です。それを救ったのが、センターバック岩清水選手の「プロフェッショナル・ファウル」です。彼女は、まるで獲物を狙う猛禽類のように体を投げ出し、モーガンを仕留めた。スローで確認すると岩清水は、モーガンの足ではなくボールに対してスパイクを伸ばしている。これ自体は正当なチェックです。けれども「決定機会の阻止」と判定され、彼女はレッドカードをもらいピッチをあとにします。10人になった日本チームは、アメリカのフリーキックをしのぎ、PK戦に持ち込んだことは皆さんもご存知の通りです。
彼女のプレーは、「咄嗟の判断」こそがファインプレーであり、そこに「性差」は介在しません。つまり、女性のスポーツは見劣りすることがあったとしても、すべてがそうではないということを証明しました。澤選手の同点に追いついたボレーシュート。ゴールキーパー海堀選手の神がかり的なセーブなど、この試合には、目を見張るようなプレーが随所にありました。しかし、アメリカの決定的なチャンスを阻止し、日本に試合の流れを呼び寄せたという意味で、僕はこの試合のもっとも重要なプレーだったと思っています。ところが、メディアはあまりこの場面に触れようとしない。あいかわらず男性の目線でゲームを解釈している。メディア(もちろん受け手も含めて)が、男女の性差に振り回されることなく、相対的に競技を見る目を養わなければ、いつまでも女性のスポーツは栄養失調のままなのです。
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僕は、かつて実業団で二年間ラグビーをしてきました。もっとも実業団といっても、当時の関東社会人リーグの三部と四部を行ったりきたりしていたようなチームで、その実体は、草ラグビーに毛の生えたようなものです。監督は、犬の散歩のついでにふらっとグラウンドにやってくるそんな有様でした。けれども、競技者のはしくれとしてスポーツを経験できたこともまた事実です。その乏しい経験でも(乏しい経験だからこそ)ひとつだけ言えることがあります。それは、なでしこジャパンは、東日本大震災があったから勝てたのではなく、勝つべくして勝ったのだ、ということです。
日本チームは、このワールドカップでグループリーグを含めると、二十日間で計七試合を消化しました。見知らぬ土地を移動しながら、中二〜三日の間隔で、世界の強豪とわたり合う。楽なゲームなどひとつもなかったはずです。しかも、決勝は延長にもつれ込み、気力体力ともに限界を超えていた。それでも彼女たちは120分間、野うさぎのようにピッチを走り回りました。被災地復興のために、ではありません。それは考えられない。すでに彼女たちは空っぽだったのです。ただただ、勝ちたい。それだけが彼女たちを支えていた。そう僕は思っています。かつて、ソウルオリンピックで背泳の鈴木大地選手は、やるべきことをすべてやりつくし、最後は指の爪を伸ばすことにした。彼は、たった数ミリでもいいからタッチ板に近づきたかった。世界一を賭けて戦うとは、命以外のすべてを差し出すことなのです。と、同時にそれが戦う相手への敬意なのだと思います。
もちろん、彼女たちも、私たちと同じようにこの震災に胸を痛めたことでしょう。なでしこには、東京電力のクラブチームに所属していた選手が二名います。試合の直前には、被災地の様子を収めたビデオを全員で観てもいます。しかし、この勝利と東日本大震災を関連づけて語ることは、違う。はっきり言うならば、それは似非ヒューマニズムです。もちろん、彼女たちのひたむきなプレーを観て、勇気づけられた被災者は大勢いたことでしょう。なにがあってもあきらめない強い心を、心に刻んだ人々もいるはずです。それを否定はしません。しかし、それは「結果として」そう思った、ということであり、「さあ、私たちのプレーを見て勇気を奮い立たせてください」という魂胆で試合に臨んだ選手はひとりもいないということです。それはあってはならないことなのです。
この震災の被害の甚大さはあらためて述べる必要はないでしょう。直接被災された方だけではなく、被災地から遠く離れていてもいまだ心の傷から立ち直れずに、抜け殻のような感覚にさいなまれている人も大勢います。それが(あえて書きますが)、たかだかサッカーごときで癒されるはずがない。癒せるのだ、と思うのは不遜なのです。それほどまでにこの震災は惨く苛烈だった。つまり、震災とサッカーは、はっきりとそれぞれを屹立させ峻別して語らなければいけないことです。厳しい言い方をするならば、この両者を関連づけて語ることは、死者への冒涜であり、スポーツへの冒涜でもある。つまり「感動の上げ底」にすぎません。
スポーツを伝えるメディアがことさら「秘話」を取り上げ、感動を煽る。たとえば、今回の例でいうならば、なでしこたちはアルバイトをしながら、遠征費を稼いだ云々という苦労話です。僕は、かねてからこうした話を耳にするたびに苦々しく思っていました。映画を観ずに、映画のパンフレットを読んで感動する感覚です。小説ならば、作者の不幸な生い立ちを知って、心を打たれるということです。音楽も。写真も。絵画も。感動の対象は、あくまで表現そのものであり、表現者ではありません。しかし、その一方で、たとえそれが上げ底であったとしても、それによって感動に奥行きがもたらされるのなら、しょうがないのかな、とも思っていた。しかし、東日本大震災は違います。現実に何万人という方が津波に流され、その数倍の肉親の方が今も心を痛めている。ここは、はっきりと峻別してほしかった。リアルとフィクションは違います。そこに演出が入り込む余地はありません。『金八先生』ではないのです。
試合前に被災地のビデオを観せたのは、コーチングの一環でしょう。試合後、なでしこジャパンが発表したステイトメントには、被災地の復興に触れた箇所がありましたが、それは世界中から寄せられた支援に対するお礼であり、ナシュナルチームとしてのマナーです。
最後に、今回のワールドカップで、僕がもっとも感動したシーンご紹介します。ここには、試合終了直後、アメリカの選手に駆け寄るある日本人選手が映っています。背番号8、宮間選手です。肩を抱く宮間選手にアメリカの選手はこう答えたそうです。 「あなたたちには、喜ぶ権利がある。さあ、チームにもどって」。
2011-07-28
スポーツ!! (その3)
「リレハンメルの悲劇」から四年。冬のオリンピックが長野で開催された。
「エムウェープ」。女子スピードスケート500メートルの会場だ。競技場を側面から眺めると屋根がたおやかなMのラインを描いている。男女とも500メートルは、二日間にわけて実施され、初日と二日目の合計タイムで順位を決する。公式記録によると一本目を滑り終えた段階で、岡崎朋美選手が日本新をマークし暫定の三位。島崎京子選手が暫定四位の位置につけている。ちなみに両選手のタイム差は、0.20秒。島崎選手が、逆転するのは容易ではないが、けっしてひっくり返せない数字ではない。スプリント種目で舞台はオリンピック。靴紐の締め具合ひとつで順位が入れ替わる。
ふと気になって岡崎と島崎、二人の選手の経歴を見比べてみる。いくつのか興味深い記述が目にとまった。ともに北海道出身で、生まれ年は違うものの同学年であること。島崎は、18歳でワールドカップ500メートルの総合優勝を果たしていること。オリンピック初出場は、1992年のアルベールビルで、この時は7位に入賞している。そして長野は三度目のオリンピック。一方の岡崎選手は、高校卒業後、名門の富士急に入社してはいるが、それまでは無名選手。先輩の橋本聖子と練習を重ね才能を開花させた、とある。オリンピック初出場は、1994年のリレハンメル。長野は二度目のオリンピック。
ふたつのプロフィールから読みとれるのは、早熟の島崎、晩成の岡崎ということだろうか。二人は、国内外の大会で顔を合わせ、ともに500を得意種目としているから、顔見知りであるのと同時にライバルでもある。しかし、それ以上、つまり二人の個人的な関係についてまではわからなかったし、もっともそこに関心はなかった。
二日目。第2ラウンンドは、記録の悪い順に二人が一組になり滑走する。前日、三位と四位につけた岡崎と島崎は同走だ。二人が滑り終わると残りは二選手。したがってこのレースを制した者は、自動的に銅メダル以上が確定する。さらに記録次第では、日本人選手によるワンツーフィニッシュも夢ではなかった。
スタートは、一発で決まった。抜群の反応で飛び出したのはアウトレーンの岡崎。島崎の反応も悪くはなかったが、いかんせん岡崎がよすぎた。観客席からは、島崎が一瞬出遅れたように見えたのではないか。それほどまでに岡崎の第一歩は、完璧だった。必死で追走する島崎。しかし、スタートの差はなかなか縮まらない。むしろ、わずかずつではあるがリードが広がっているようにも見えた。二人は、ほぼ同時に最終コーナーに突っ込んでくる。スピードスケートは、交錯を防ぐためにセパレートコースを滑る。したがって、同時に最終コーナーに入ったならば、インレーンの選手、つまりこの場合は岡崎が実質的にはリードしていることになる。案の定、最終コーナーを立ち上がると、岡崎は2メートル以上島崎を引き離していた。雌雄は決した。
島崎は、このレースでタイムを0.18落とす。一方の岡崎選手は、前日とまったく同じタイム。つまり二度目の日本新を叩きだし三位を死守した。これが岡崎にとっても、日本女子の短距離にとっても、初のメダル獲得である。最終的に島崎は、前日より順位をひとつ下げ五位に沈んだ。この大会で、岡崎は国民的なアイドルになり、島崎は続く1000メートルを最後に引退した。岡崎と島崎、ふたりはスケーターは、目には見えないクロッシングゾーンのどこかで交差した。岡崎は光り輝くレーンへ。そして島崎には、追いすがる体力も気力も残されていなかった。
レース終了から数分が経過した。僕は、思いがけない場面で、長野オリンピックで最も印象的なシーンを目撃することになる。
競技場には、リンクから選手が引き上げ控え室に戻るその途中に「ミックスゾーン」と呼ばれるスペースが設けられる。そこには、インタビュアーとカメラクルーが待ち構え、選手は代表質問に短く受け答えする。オリンピックに限らず大きな大会では、必ずと言っていいほど見られるお馴染みのシーンだ。島崎がリンクから引き上げてきた。NHKのアナウンサーがマイクを向ける。両者の距離は、1メートル足らず。当然、アナウナサーの呼びかける声は、彼女の耳に届いている。ところが、彼女はアナウンサーを一瞥することなく、一点を見据えたまま憮然とした表情で通り過ぎた。「ガン無視」である。あたりに鉛のような気まずい空気が漂った。カメラは、遠ざかる島崎選手の後姿を追っている。その背中にはJPNの文字。
原則論を引き合いに出すならば、島崎選手にはインタビューに答える義務があった。個人種目ではあっても、彼女は「ナショナルチーム」の一員である。“国家事業”として、彼女のトレーニングや遠征には少なくはない額の国費が使われている。成績がどうであれ、国民には彼女の心境を聞く権利があるし、島崎には説明責任がある。おそらく日本スケート連盟からも、「取材に際して」という通達が出されていたことだろう。それを彼女は「シカト」したのだ。その意味において、非難されても当然だし、実際に一部のメディアは彼女を叩いた。
なぜ、彼女は取材を無視したのか。その真意はわからない。コンディションかもしれないし、コーチングかもしれない、レースになんらかの不利な判定があったのかもしれない。真相はわからないけれど、事実として彼女はインタビューアーの前を素通りした。島崎は、“ぽっとで”の選手とは違う。18歳の頃から日の丸を胸につけ、世界のトップスケーターとして各国を転戦してきた。国家という看板を背負うことの意味とその重さについて、誰よりもよく知っていたはずだ。にもかかわらず、まるで子供のように拗ねてみせた。いうまでもなく、スケートは彼女の意思で選んだ“仕事”である。誰から強要されたわけでもない。そして彼女には、彼女を支え続けてきた多くの人々がいる。そうした背景を思うと、彼女の行動は不可解というよりも異常ですらある。
けれども僕は、このシーンを見てある種の爽快感すら感じていた。と、同時に、スポーツもつ凄みに触れあらためて鳥肌が立った。彼女がこの試合にかけてきた思い。岡崎とのライバル対決。メダルへの執念。それがどれほど大きく重いものだったのか。いや、ライバル対決や執念という言葉すら生ぬるい。彼女は、むきだしの戦うひとつの魂だった。そして敗れた。社会性をもとっくに超越した世界の住人だった。抜け殻にいまさらなにを語れというのだろうか。無言という雄弁さ、それで十分ではないか。 (つづく)
2011-07-23
スポーツ!! (その2)
「ミスターハラダ、コングラチュレーションズ!」。 ヴァイスフロフ選手は、そう言うと満面の微笑を浮かべ右手を差し出した。
1994年2月22日、ノルウェイのリレハンメル。第17回冬季オリンピック、ジャンプ団体戦の会場。公式スタッツによると、当日の天候は快晴、気温は摂氏-6.4度、雪温-13.9度。ジャンプ台に向って、南東からのゆるやかな風、とある。冷え込みは厳しいが、絶好のジャンプ日和といっても差しつかえない。ジャンプの団体戦は4人が1チームになり、各選手が二本ずつを飛び、その合計ポイントで争われる。1チームの試技は計8本。僕は、終盤まで各チームが接戦を繰り広げ、首位がめまぐるしく入れ替わる、そんな試合だったと思い込んでいた。ところが、あらためて資料をながめてみると、日本は序盤から圧倒的な強さで他のチームをねじ伏せ、首位を独走していた。少し意外だった。
その日本を追いかけていたのが、ドイツとオーストリアだ。最初にオーストリアが脱落する。第2ラウンドの二番手の選手、チーム全体で6本目のジャンプ。ここでミスが出た。飛距離は105メートル。この失敗で金メダルの行方は、日本とドイツに絞り込まれる。
ジャンプの団体戦は、全員がビッグジャンプを狙うのではなく、いかにミスを減らし8本のジャンプを「揃えるか」、が勝利の鍵となる。一本の失敗ジャンプは、計算上は八分の一の重さでしかないが、あとに飛ぶ選手はなんとかミスをカバーしようと躍起になり、その結果、失敗が連鎖して総崩れとなることが珍しくない。ジャンプ競技は、一定以上の実力の選手が競ったなら、その雌雄決するのは「心理戦」にあるといわれる所以だ。技術や身体能力だけではなく、精神的にもタフな選手のみ勝利の女神は微笑む。
試合は終盤さしかかっていた。ほとんどの出場国がすべての試技を終え、残るのは日本とドイツのジャンプのみ。この時点で、日本チームは883.9ポイント。それをドイツが828.7ポイントで追っていた。その差は、55.2。圧倒的なリード、といっていい。日本チームは、ほぼ金メダルを手中にしていた。ここからドイツが日本を逆転するには、奇跡を待つしかない。当時のテレビ中継の解説者は、105メートル飛んだなら日本の優勝と断言している。105メートル。オーストリアの失敗ジャンプと同じ飛距離。それを裏返すなら日本は失敗しても勝つ、ということになる。ちなみにそれまでのチーム平均飛距離は、126メートル。そして最後に飛ぶのはエース、原田雅彦選手だ。
原田がスタート台に向おうとしたその直前、ドイツのエース、ヴァイスフロフ選手が声をかけた。「ミスターハラダ、コングラチュレーションズ!」。 このシーンはテレビカメラには収められていないけれど、人あたりのよい原田は差し出された手を握りかえしたに違いない。と、その瞬間、原田はそれまでの原田ではなくなっていた。明らかに動揺したと、後日、彼自身が雑誌のインタビューで述懐している。原田は世界のトップジャンパーのひとりだ。ワールドカップを転戦していたから、ヴァイスフロフとも顔なじみである。おそらくこれまでも、こうした「駆け引き」はあったはずだ。にもかかわらず、彼は我を失った。やはりオリンピックは特別な舞台だ。そこには、魔物がいる。
原田のジャンプは特徴的だ。もうひとりの日本のエース船木は、助走のスピード活かし、低く飛び出すと空気を切り裂くようにして距離を伸ばす。この「カミカゼジャンプ」とは対照的に、原田のそれは、高く高く飛び出し全身で空気を孕むように宙を舞う。もっともその高低差は数メートル以内だろうけれど、彼の描く飛行曲線はやわらかく優雅ですらある。
原田はスターティングバーに腰掛け、じっと一点を見つめている。その視線の先には、小さな日の丸を持ったコーチがいた。旗が振り下ろされる。それがスタートの合図だ。前方からの微風。風は申し分ない。風を包み込むようにして飛ぶ原田にとって、願ってもないコンディションである。
日の丸が小さく揺れた。栄光への滑走が始まった。滲んだ水彩画のように背景が流れる。アプローチとスキー板が擦れ合うシュルシュルという音をマイクが拾う。原田のスキーが踏み切りを叩いた。解説者の「よしっ」という小さな声。いつもの踏み切り、いつもの角度、そしていつものように原田は風を抱擁する。アナウナサーが思わず「高い」と叫んだ。解説者が「いった」と呼応する。1972年の札幌大会以来、22年ぶりのジャンプ金メダルが確定した。誰もがそう思った。
しかし、ここで信じられないようなことが起こる。優雅とも形容される飛行曲線、その最高点に達すると、原田は一瞬空中に静止した。いや、静止するはずなどない。そう錯覚するくらいの急激な失速だった。あとはなすべもなく、重力の法則に身をゆだねるしかない。まるで棚からジャムの瓶が転げ落ちるように。アナウンサーは、「あっ」と言ったきり次に紡ぐべき言葉を失っていた。ブレイキングゾーンで、茫然と立ちすくむ原田。背中が小さく見えた。飛距離が場内にコールされる。97.5メートル。会場にどよめきとも歓声とも悲鳴ともつかない声が充満した。奇跡の真逆が起きた。ドイツからみると、奇跡が向うから勝手に転がり込んできた。
最後のジャンパーのヴァイスロフが飛ぶ。135.5メートル。出場国すべての試技を合計すると96本になる。彼はその最長不倒距離を最後の最後であっさりと更新した。この瞬間、日本チームのオリンピックは終わった。原田のもとに日本の三選手が駆け寄る。負傷兵をいたわるように肩を抱き、二言三言なにか話しかけている。しかし、その言葉は原田には届いていたのだろうか。
スタート直前、ヴァイスフロフが原田に声をかけ握手を求めたこと。フェア、アンフェアでいうなら、アンフェアである。けれども、僕は、ヴァイスフロフ選手を非難する気持ちにはどうしてもなれない。たとえ0.1パーセントでも勝つチャンスが残されているのならば、すべての可能性をかき集める。競技規則に反してさえいなければ、トッププレイヤーのプライドさえかなぐり捨てる。僕はヴァイスフロフ選手のこの振る舞いに、彼が死に物狂いで、ありとあらゆるものを犠牲にしてきたであろう四年間に思いを馳せる。たった一度のジャンプに賭けた彼の“凄み”に打たれる。そこには、国家の威信すらなかったのではないか。もし、「あの時」彼が国家を背負っていたなら、原田に声をかけることをためらっただろう。
そこは、お遊技場ではない。世界中から一流選手が集い、四年に一度、雌雄を決する現代のコロセアムだ。ヴァイスロフも原田も、たった一人の闘士だったのだ。ピアノ線をぎりぎりまで張り詰めたような緊張感と勝利へのあくなき挑戦。それがあるからこそ、スポーツは感動を生む。僕はそう信じている。これは想像なのだけれども、原田とヴァイスフロフが逆の立場だったら、原田はおそらく握手を求めなかった。原田はきっとそういう闘士だ。それが原田という人間なのだ。つまり「どちらに転んでも」それは“物語”となる。“純粋スポーツ”は、時としてナショナリズムや民族をも凌駕する。そこには、ありとあらゆる贅肉をそぎ落とした人間の魂があるだけだ。私たちはその魂に酔う。形容詞のない物語。そこにスポーツの本質があるような気がしてならない。 (つづく)
2011-07-21
スポーツ!! (その1)
中学一年の春。放課後の誰もいない教室で、僕はKに訊いた。 「どうしてそんなにサッカーが上手なの?」
僕が生まれ育った室蘭は、サッカーの町だ。中学に進むと男子生徒の約三分の一が、サッカー部に入る。残りの三分の二は、野球やバスケット、さもなければ文化部を選んだ。
僕も“三分の一”だった。練習は厳しい、というよりもひたすら退屈だった。新入生はスパイクを履くことはおろか、ボールにすら触れさせてもらえなかった。ボールを蹴ることが許されるのは、全体練習が終了する最後の十分間だけだ。その間“一年坊主”は、犬橇のようにグラウンドを黙々と走り続ける。練習終了は日没と決められていたから、「犬ども」は、太陽が沈む直前まで走り続けた。日が長くなる夏場は、必然的に走る距離が増えた。さらに、少しでも手を抜こうものなら、監督のホイッスルが鞭のように飛んでくる。冬が待ち遠しかった。時折、グラウンドからパス練習やミニゲームで蹴りそこなったボールが、目の前に転がってきた。僕らは先を争うようにしてボールに駆け寄り、グラウンドの中に蹴り返す。それが監督への数少ないアピールチャンスだった。校内のマラソン大会では、サッカー部が陸上部を抑え上位を独占した。そんな新入生の中で、たった一人だけ、スパイクを履き全体練習に参加することを許された生徒がいた。それがKである。
実際に彼の技術はずば抜けていた。入学直後の練習試合からフォワードとして先発出場し、切符を買うように点を取った。チームメイトは、Kがこのまま高校生になってもいけるんじゃないかと噂しあった。二年生になるとKの名前は、他校にも知れわたっていた。その証拠に対戦チームは、彼を三人がかりでマークするようになった。チームは戦術をかえた。Kを囮にする。相手チームのディフェンダー三人をKが引きつけ、ボールをキープ。すると他の選手へのマークが甘くなり、前線にスペースが生まれる。そこにKがセンタリングをいれる。あるいはスルーパス。ゴールに詰めていた選手は、ほぼフリーの状態でシュートが打てた。面白いように点が入った。いつのまにかチームは、市内でもトップレベルの強豪になっていた。
Kは北海道を代表するサッカーの名門校、室蘭大谷に進学する。僕は、中学二年の終わりに東京の中学へ転校した。しかし、高校に進んでもサッカーを続けようとは思わなかった。チームメイトのひとりとして、僕はKのサッカーを間近で見てきた。そして悟った。自分は並以下の選手であること。どんなに努力してもKには追いつけないこと。気がつくとあれほど好きだったサッカーへの情熱が、嘘のように消えていた。それほどまでにKは、偉大だった。
翌年のお正月、室蘭大谷は『全国高校サッカー選手権』に出場する。Kは、一年生としてただひとりベンチ入りし、周囲からは「スーパーサブ」と呼ばれていた。スーパーサブは、控え選手の中でも試合の流れを変える力をもつプレイヤーさす。しかし、スーパーと称していながらその実体は「控えの一番手」であり、レギュラーになれないのはどこかに難があるという認識が一般的だった。あのKですらサブなのか、と僕は落胆した。同時に、強豪校の選手層の厚さに驚いた。
その年の室蘭大谷はとりわけ強かった。有力校を次々と撃破し、準決勝に駒を進める。しかし、ここまでKの出番はゼロ。スーパーサブとはやし立てられてはいたものの、所詮は15歳の少年。経験を積ませるためにチームに帯同させたのだ。誰の目にもそう映っていたことだろう。
決勝進出をかけた大一番。0-0の場面でKは初めてピッチに立った。試合の残り時間は6分。Kは、ディフェンダーからのロングフィードを胸でトラップすると、そのままの姿勢で右足を振り抜いた。キーパーは一歩も動けなかった。ボレーが低い弾道のままネットの左隅に突き刺さった。チームはこの1点を守り切り、国立で行われる決勝のチケットを手に入れた。翌日のスポーツ紙にKの名前が踊った。そこにはスーパーサブという文字はどこにも見当たらず、かわりに「秘密兵器」という言葉が使われていた。
決勝の相手は古豪、古河一。下馬評では、室蘭大谷は圧倒的に不利だった。その予想通り試合開始早々に1点を失い、決定的なチャンスをつくれないまま、じりじりと時間だけが過ぎていく。「秘密兵器」はこの日も先発を外されベンチを温めていた。後半の開始から15分。試合が動く。Kの投入。その直後のプレーだった。センターサークル近くでワンツーをもらったKは、相手選手二人を巧みなドリブルで置き去りにし、ボールをキープしたまま体を反転させた。ゴールマウスを背にして、味方選手の“上がり”を待つ。中学時代の再現フィルムを見ているようだった。しかし、Kのラストパスを受けた選手のシュートは、キーパーにはじかれる。ボールだけが忘れ物のようにゴール前に転がっていた。そこへ走りこんだのがKだった。スパイクのインサイドから放たれたシュートは、羽毛のようにゴールラインを割った。1-1の同点。ゴール正面。距離にして7〜8メートル。いわゆる「サンキューゴール」である。しかし、経験豊富なフォワードでも、至近距離のシュートを外すことは決して珍しくはない。その原因の多くは力みすぎである。必要以上に力が入るから、足首の柔軟性が失われる。その結果、ボールはクロスバーのはるか上を通過する。「ふかす」という現象がこれだ。けれども、Kは寝室のドアをノックするようにボールを蹴った。いつのまにか、少年は天性の才能に加え、冷静さとしたたかさも身につけていたのだ。この大会でKは、30分間の出場で2点をもぎ取り、ベストイレブンに選出された。新聞報道は誇張ではなかった。それは、まさしく秘密兵器という名にふさわしい活躍だった。
その翌々年の選手権にも室蘭大谷は北海道代表として出場した。ピッチにはキャプテンマークをつけた背番号10のKがいた。押しも押されぬチームの大黒柱。いや、高校サッカーを代表するプレイヤーのひとりと目されていた。しかし、この大会で室蘭大谷は二回戦で姿を消す。試合後、僕は宿舎を訪ねた。大会の話はあまりしなかったと思う。その時に、Kが複数の実業団と大学から、声をかけられていることを知った。
Kは卒業すると社会人チームからの誘いを断り、国士舘大に進む。大学サッカーでは、実績のあるチームだ。大学でのレギュラーはもちろんのこと、そう遅くない時期に、Kが日本代表に呼ばれると信じていたのは僕だけではなかったはずだ。かりに在学中の代表入りは無理だとしても、オリンピックの強化選手なら選ばれて当然だと思っていた。事実、一年秋のリーグ戦ではレギュラーに定着し、順調に得点とアシストを積み重ねていた。ところが、二年になるとKは突然、点を取れなくなった。得点だけではない。プレー全体にどこか生彩を欠いていた。次第に控えに回るゲームが増え、秋のリーグ戦ではベンチが定位置になっていた。
二年目のシーズン。春の公式戦で信じられないシーンを見た。Kが1対1の競り合いの中で、相手選手にボールを奪われたのだ。もちろん、ボールを取られる場面はこれまでもあるにはあった。しかし、それはトラップのミスであったり、ファウルすれすれの相手のタックルであったり、どれも「原因」がはっきりしていた。1対1、しかも大事な局面でフェイントを読まれ、「力負け」してボールを取られたKを見たのは初めてだった。グラウンドで肩を落とす姿も。そしてなによりも、彼からボールを奪う選手のいることが信じられなかった。
なにがあったのかはわからない。故障かもしれないし、長期のスランプだったのかも知れない。Kはとてつもなくいい奴だったから、教室でもグラウンドでも、彼のまわりにはいつも自然に輪ができた。だから、チームの中で浮くことは考えられない。僕は、Kが故障したのだ、と思い込むことにした。あのまばゆいほどの才能が、たかだが大学レベルで通用しなくなるとは思いたくなかった。もし、実力で彼が通用しなくなったのなら、「犬橇」は立つ瀬がない。
それから十年後、郷里で中学時代のチームメイトに再会した。雪の中での練習。思い出の試合。監督の悪口。昔話に花が咲いた。けれども、誰一人として「今」サッカーと自分がどう関っているのかは、話題にしなかった。アイコンタクトのようなものだ。Kの前で、その話をしないことが暗黙の了解だった。三軒目のバーで誰かがふと漏らした。「大学でなにかあったのか?」。短い沈黙のあと、Kが穏やかな表情でこたえた。「それが、自分でもどうしてなのかわからないんだ」。そのはにかんだような笑顔がなにを意味しているのか、全員が瞬時に察した。僕らは何事もなかったかのように、再び馬鹿話に戻った。
今でも、サッカーの試合を観ているとKのことが脳裏をよぎる。そしてある「連続する不等号」に思いを馳せる。僕らのヒーローだったK。Kが挫折した大学サッカー。大学サッカーのごく一部の優秀な選手だけが召集される日本代表。その日本代表は、ワールドカップのベスト8で敗退した。そしてW杯の決勝のピッチに立てるのはたったの22人。さらにその中の一握りだけが、スターと呼ばれる。そう呼ばれることを「許される」。ペレ、マラドーナ、ロナウド……。僕には、彼らが神に思える。連続する不等号。残酷ではあるけれど、それがスポーツの本質なのだ。そこには、憐憫も情状も嫌悪も入り込む余地はない。強い者だけが、最後に残る。これは掟だ。だからこそ蹉跌した者は救われるのだ。この不等号が続く限り、スポーツはそれ自体が美しい。 (つづく)
2011-07-16
白い弔辞
ここ二週間ほど、タモリさんのことを考えています。四六時中暇さえあればということではなくて、歩道橋をわたっているとき、風呂場のタイルをこすりながら、そんなふとした瞬間にタモリさんが頭をよぎるのです。「どうしてあんなによい人なんだろう」。素朴すぎるほど素朴な疑問なのですが、なぜか頭からはなれません。よい人すぎて不思議なのです。もちろん、直接ご本人にお会いしたことはなく、テレビに出演しているのを一側的に観ているだけなので、「素顔の森田一義」を知る由もありません。根っからのファンというわけではないし、尊敬ともすこし違う。単純に、「テレビの中の」タモリさんは、なぜよい人なのかということです。
世の中にはタモリが嫌いだという人もいるだろうし、関心がないという人はさらに大勢いることでしょう。しかし、「あいつだけは許せない」「出た瞬間にチャンネルをかえる」という人はめったにいない。その意味でタモリさんは、敵を作らないタレントの典型といえそうです。ビデオリサーチ社が、年に二度発表している『テレビタレントイメージ調査』、その2011年2月度版によるとタモリさんは20位。ちなみに男性部門の1位は、明石屋さんまさん。女性部門の1位は、浅田真央さんでした。ためしに他の調査をあたってみると、そのほとんどが20〜25位前後。「意外と低い」というのが、僕の率直な感想です。
劇中劇。最初に頭に浮かんだのは、彼は劇中劇を演じているのではないか、という仮説です。自宅の玄関を一歩出た瞬間に、森田一義はタレントタモリに変わる。脚本も演出も本人。その役どころは「よい人タモリ」。けれども、この仮説には綻びがありました。代表的な出演番組『笑っていいとも!』がそうであるように、持ちネタを披露しない(デビュー当初は、芸人的なあつかいでしたが)タモリさんは、ゲストや周囲との受け答え、つまり“あしらい”がすべてです。だとするなら、「よい人」という役づくりはできたとしても、完璧な台本が存在しない以上、どこかで森田一義が顔を覗かせる。その意味でタモリさんは「素でいい人」ということになるのですが、そうなると余計に「なぜよい人なのか」という疑問が頭の中でループする。ちなみに『笑っていいとも!』のサブタイトルは「森田一義アワー」です。タモリではなく、森田一義。
そもそもテレビタレントは総じて、番組内の設定とは別に「前提としてのよい人」であることを求められます。もし嫌悪感を抱いたとしても、それはあくまで「よい人というフレーム」の中での憎まれ役、立ち位置に過ぎません。生来の悪人であっても、スタジオに入ったなら全員がよい人。このよい人を土台にして、役割が分担されていく。本物の悪人が本物の悪人のまま登場したなら、番組そのものが成立しない。その意味で、テレビというメディア全体が、劇中劇という二重構造をもっている。もちろんタモリさんもその例外ではありません。
少し前に書いたのですが、僕はなかば仕事として「ニコニコ生放送」を集中的に観ていた時期があります。その当時を思いかえしてあることに気づきました。決して少なくはない配信者(生主)が、いわゆる「イタイ人」なのです。普段、私たちが社会生活を送る中でめったに出会わないような人たちが、次から次へと登場してくる。見方によっては、異様な世界です。けれども、彼らに自己顕示欲が旺盛という共通の傾向があったとしても、自己顕示欲の強さとイタイ人は同義ではないし、「ニコ生」だけにイタイ人が集中するとは考えにくい。だとするなら、彼らはもともとイタイ人なのではなく、環境、つまり「ニコ生」という[装置]が、彼らをイタイ人に変貌させてると考えた方が合理的です。では、なにが彼らをイタイ人に変えてしまうのか。
踊らされている。これが僕の印象です。不特定多数に観られているという非日常性ゆえの過剰反応。配信者という絶対的なイニシアチブを握っているのにもかかわらず、視聴者になにかを「供給」し続けなければやがて飽きられてしまうという焦燥。それに彼らは、無自覚なまま操られている。とくに「ニコ生」は、視聴者のリアクションがコメントとして、直接配信者に返ってくるぶん、この傾向に拍車がかかる。やがて、彼らの思惑とは裏腹に、飽きられまいとして振舞えば振舞うほど、あっというまに「賞味期限」を迎え姿を消す。事実、「ニコ生」の配信者はなかなか定着しません。僕の知る限り、一年以上にわたって定期的に配信を続けている「生主」は、数えるほどしかいなかった。テレビの地上波と「ニコ生」を単純比較するには無理があります。しかし、「過剰供給」が消費期限を早めてしまうという構造は、両者に共通しているのでしょう。ブレイクした若手タレントが、気がつくといつのまにか「あの人は今」の状況になっている。そんな例は、数え切れないほどあります。歌手や役者と違い「作品」をもたないタレントは、この力学に小舟のように翻弄され、やがて埋没してしまう。
話をタモリさんにもどします。彼は、この力学をデビュー当初から自覚していた。傍証はいくつかあります。「ハナモゲラ語」「イグアナ」「四カ国語麻雀」などの持ちネタを早々に封印し、それ以降は新しい芸を“出荷”していない(例外的に『徹子の部屋』では、新ネタを披露するそうですが)。番組の企画や演出に一切口を挟まず、すべてを制作サイドに委ねている。業界で言うところの「客いじり」をしない。政治的、宗教的な発言を控える(もっとも客いじりや政治、宗教にコミットメントすることは、芸人、タレントに共通するタブーではあります)。プライベートを披瀝することはないし、「ゲスト」として番組に出演することもほとんどない。映画や舞台など他のメディアへの進出に消極的。基本的に弟子はとらない。これらすべてに共通しているのが、「自分という在庫」に対する周到な品質管理です。
かつて『笑っていいとも!』の生本番中に、舞台の袖に身を潜めていた青年が突然乱入したことがありました。男はすぐに警備員に取り押さえられ事なきをえたのですが、その直後のタモリさんの第一声が「スタッフかと思ったよ」。この温度の低いリアクションが、彼のテレビメディアに対する冷静で第三者的なスタンスを象徴しています。しかし、こうした「営業姿勢」を打算的だとは思いません。むしろ、職業としてのタレント業を考えたなら、常識的な自衛手段です。したがって、よい人という印象も揺るがない。
ここまで書きすすめても、結局、なぜいよい人なのかはわからずじまいでした。しかし、ひとつだけ思うことがあります。それは、タモリさんは常に「遠くから見ている人」だということです。なぜ、輪の中心に入ろうとしないのか。演出を考えるなら、彼一流のアイロニーやシニカルさが、当事者になることでその強度を失うからです。しかし、理由はそれだけではないような気がしています。僕は、これまで彼が感情をあらわにしたのを一度しか見た記憶がありません。もちろん、「テレビ的」な喜怒哀楽はあります。けれども、それらはすべて約束された感情で、本心はやはり輪の中心からは外れている。ひょっとすると彼は、極度のはにかみ屋さんなのかもしれません。輪の中心にいないことすら「適当」「省エネ」という言葉ではぐらかしている。そんな彼の所作は、場面によっては醒めた印象を持たれるかもしれません。けれども、その眼ざしは、スノビッシュさとは裏腹にむしろ繊細で温かい。
彼がたった一度だけテレビカメラの前で、輪の中心へと歩み寄った日。2008年8月7日。赤塚不二夫の告別式です。赤塚不二夫さんは、タモリの才能をいちはやく見抜き、福岡から彼を呼び寄せると自宅に居候させた。毎月200万の生活費を渡し、ベンツを自由に使わせて、自分は事務所のロッカーを横倒しにしてその上で寝た。一方のタモリさんは、家庭環境に恵まれず母親の記憶すらありません。師匠であり恩人であり親友でもあった赤塚不二夫の死。それがどれほどの衝撃だったのか。
その日、マイクの前に立っていたのは、タモリではなく森田という名の小柄な男でした。彼は弔辞の中で「私もあなたの数多くの作品の一つです」と言った。「育ててくれてありがとう」という言葉のかわりに、男は「作品」という言葉をつかいました。彼の手にする弔辞には、なにも書かれてはいない。白紙の弔辞。その意味するところは、これはテレビ用ではない「僕の言葉」なのだという意思表示とも受け取れるし、悲しすぎてなにも書けなかったというメッセージとも解釈できます。あるいは、死に対する無言の抗議。いずれにせよ、スタンドプレーを嫌う彼がみせた精一杯の悼みだった。いつも「遠くから見ている男」が自らの意志で、はじめてスポットライトをあびたとき。皮肉なことにそこあったのは“家族”赤塚不二夫の棺だったのです。
最後に、ウィキペディアで見つけたタモリさんにまつわる興味深いエピソード、その一部を抜粋します。両手をくるくる回しながら“ギンギンギラギラ夕陽が沈む”とお遊戯している園児たちを見て、幼稚園の入園を拒否。座右の銘は、「やる気のある者は去れ」。
