2013-06-20
「人間の病5」
近頃よく友人や知人から「肩が痛いんだけど何が原因なの?」と聞かれる。
こういった類いの質問は今に始まったことではないのだが、正直いつも返答に困る。大抵は曖昧にしてその場をしのいでいる。なぜならこういった事を聞く人ほど本気で健康になりたいと思っていないからだ。もし本当に自分のカラダと向き合い健康を望んでいるのならば私と「臨床」という場で向き合ってくるはずだが、ほとんどの人達は交遊の場で聞いてくる。そして結果に対しての本当の原因を知りたがっているのに手っ取り早く治したいという気持ちでいる。こういった人のほとんどが共通しているのが自分のカラダに無関心すぎるということである。
人間は痛かったり病んだりすると他力的に治してもらおうという意識が働く。もちろん治し方を知っていれば自力で治すだろうが、現代人はあまりにも医者頼みになりすぎていて治し方を自分で学ぼうとしない。自分のカラダの事なのにどこか他人事のように捉えているように思えてならない。使わせて頂いているカラダなのにあまりにも無知すぎはしないだろうか?その代償の一つが原始感覚の鈍りだと思う。
本来、私達臨床家よりも患者のカラダの事は患者自身が分かっていなければならないのだが、分かっていない人が多い。それは自分にもカラダにも無関心過ぎるからだ。命ある者全てにおいて命を傷つける一番の行為は無関心な事だと思う。特にカラダというのは本人から意識が向けられなくなると様々な箇所からサイレンを出すようになっている。そのサイレンは時として昨日に書いたような原因不明の病となってカラダに表れる。
こういった事を未然に防ぐ為にも常にカラダの声に耳を傾け、その声に適うケアを自力で行っていく必要があるのだ。このケアも何も治療ではなく自分のカラダに聞き分けた命の営み(息・食・動・想)を行っていけば良いのである。こういった事はカラダを使わせて頂いている以上の最低限の責任であり、自分の健康は自分で勝ち取っていかなければならないのだ。
2013-06-19
「人間の病4」
昨日までは「人間の生活の過ち=病気」という事を書いてきたが、今日は突然原因不明の病気になった人のことについて書いていこうと思う。
「私って生きている意味あるのですかね?」
これは報道特集の「光と音を失って ある女子大生の葛藤と挑戦」で取り上げられた女子大生が言っていたコトバである。
彼女は普通の日常生活を送っていたのだが、急に視覚•聴覚を失った。
彼女のように人間は突然、身に覚えのない病気に襲われることがある。例え命の営みが100点満点だったとして回避出来ない病気が存在する。私も小学四年生の時に原因不明の眼球が動かなくなる眼の病気になったことがあるので彼女達の気持ちが少しだけでも理解出来るのだ。やはり治る確証がない病との戦いは自分の存在の意味さえ問いたくなるのも無理はない。私が病気になった時も「もしかしたらこのままいくと眼が見えなくなるのではないか」とよく考えたりした。
そんな経験があったからこそ現在は五体満足で生活を送れる健康の有難さを持つ事が出来たのかもしれない。
だが私のように完治した人間はこういった事が言えるかもしれないが、彼女のように完治せずに一生その病気と共に生きなければならない人には軽々しくこういった発言は出来ない。しかし以前にも述べたように全てを受け入れなければならない。「なぜ私が‥‥」等と葛藤しても病気は喜ぶだけでなのだ。
私が彼女の本当に凄いと思ったのが病気を素直に受け入れた事である。人間誰もが病に冒されると心に様々な葛藤が生じる。その病の原因、自らの行い、未来、様々な葛藤がある。その葛藤を打ち消し、現実を受け入れるのは誰にでも出来る事ではない。大抵の人は病を否定し、自分を否定し、自分と向かい合えずに生きていく。しかし彼女は生涯付き合わなければならない病気と正面から向かいあい前を向いて生きようとしている。
命の「生きようとする意思」と共に生を全うしようとしている姿勢がある。それだけでも彼女が生きている理由はあるのではないだろうか。この彼女の生きる姿勢こそが五体満足で生活する事が出来ている私達が学ぶべきことだと思う。
私は彼女が病気になる前にどのような生き方をしてきたかは分からないが決して彼女が命の営みの法則が赤点だったとは思えない。この世の中には彼女のように自分以外の第三の要因で病気になった人達が沢山いる。それは私達人類がどこかで自然の法則から外れた歩みを進めてきた以上、もしかすると避けては通れない宿命になっているのかもしれない。
2013-06-18
「人間の病3」
昨日まで述べたように人間のもたらす病のほとんどの原因は命の営み(息・食・動・想)の過ちが原因となっている。
腰痛にしても、風邪を引くにしても人間が本来行うべき責任を果たさないからカラダが病む。当たり前の事を当たり前に出来ないから心とカラダが悲鳴をあげるのである。子供の頃に私が腰痛で苦しんでいた時に母からこんな言葉をかけられた。
「ムカつくとか、こういった心を持つ事が腰を痛くしたりするの。だから何にでも感謝しなさい。そうすればあなたが痛いと言っている所も治るわよ。」
昔は軽く受け流していたコトバであったが臨床に携わっている現在では母から頂いたこのコトバを有難く受け止めている。
このコトバから分かってきたことである。それは健康と不健康との境目は「感謝出来るか否か」ということである。
それは当たり前にあるものにどれだけ感謝出来るかが健康でいられる秘訣とも言える。
ここで道元の言葉を一つ紹介したい。
「眼横鼻直」(禅のことば 禅のこころ 武田鏡村)
この意味とは眼は横にあり、鼻は縦にある。つまり「当たり前のことを当たり前こととして捉えなさい」という意味で真理は当たり前の所にあるのだと説いている。この原理を命の営みに当てはめると、呼吸をすること、食事をすること、五体満足で動けること、能を使い考えられること、そして眠ること、こういった当たり前に行っている事こそが人生における最高の幸せであり、有難いことなのである。
そしてこの真理とは「生命活動における愛と調和」であり、それを「快」というベクトルに向かわせていくことが命が要求していることなのだ。これらを成す為にも私達は自分自身、カラダの声と向き合いと自然法則に乗っ取った生命活動を行っていく必要がある。
こういった事に感謝しながら、法則に乗っ取って生命活動を行っていく事が私達の責任であり、病を遠ざける最良の方法なのである。
2013-06-17
「人間の病2」
昨日の続きになるが「心理的ストレス」が腰痛を引き起こす原因の一つなのは間違いないと思う。人間の心が及ぼす身体への影響、それは「腰痛」だけに限らず様々な病気と相関性がある。
番組内でも例に挙げられていたが自分が無意識の内に感じているストレスというのは誰もが持っているものであり、本人の意識が行き届かない所でカラダに何かしらの影響を及ぼす。そのストレスと上手く付き合っていければ良いが、消化しきれないと番組で言っていたように「原因不明」という診断がされてしまうのである。
私が最近強く感じているのが操体で説いている命の営み(息・食・動・想)の中で想念のバランスが取れていないため、体調を崩している人があまりにも多い気がしてならない。心の不調和が己の呼吸、食事、動きのバランスを崩壊させているのである。
このような心とカラダの相関性は橋本先生の言葉にある「妄想苦」が深く関係している。
これを身近なことに例えれば「自分は友人に嫌われているのではないだろうか?」または「もっとお金があれば」等、ありもしないことを勝手に想像し苦しむことを言うのだが、こういったことは人間誰しもが経験したことがあるだろう。
特に病人はこういった心の葛藤を常に持ち合わせていて、それが病の根底にある原因となっている可能性も大いにある。このストレスは現代で解明出来ていないほとんどの病と相関していると言っても過言ではない。
私の知人にもいるのだが医者が原因不明だという病気に苦しめられている人は多い。
私もそういった人達のカラダを診させて頂いたことがあるが健康な人と比べ皮膚、筋肉は固く常に緊張した状態にある。
そして一番厄介なのが感覚の聞き分けが正常ではないということである。どこを触診しても痛みを感じない。それは快・不快を聞き分ける原始感覚が鈍ってしまっているのである。
こういった人達の話を聞いていくと共通して心に多大なストレスを抱えている。そのストレスのほとんどが空想、つまり思い込みのものであり、橋本先生が言われている「妄想苦」なのである。
このような患者が増えてきている現状を考えると私達臨床家はカラダという器だけを診て治療する時代は終焉を迎えたように思う。これからは患者の持っている心の病も診断し、治療していかなければ間に合わない時代になってきている。
こういった心の病こそが昨日の腰痛の話であった「二足歩行の宿命」なのかもしれない。それを宿命にしないためにも自分を必要以上に干渉し、自我と戦わないことが最も良い解決策となるだろう。
2013-06-16
『人間の病1」
こんにちは。今回も一週間宜しくお願い致します。
先日の三浦先生のブログでも書かれていたが、四月に春期東京操体フォーラム、五月にはバレンシアでそれぞれ開催された。この二つのフォーラムは私にとって特別なものであった。
それは新しい実行委員の仲間が加わって初めてのフォーラムであったので、今まで以上に自分がしっかりしなければならないという責任感が芽生えたことである。
振り返ると今までのフォーラムは心のどこかで先輩方達に甘えている自分がいた気がする。だが今回のフォーラムは先輩方と新しいメンバーとで協力し合い、皆が協力し合いフォーラムを開催することが出来たと思う。
そういった経験が出来たことでこれからの東京操体フォーラムは私達若者が引っ張っていかなければならないという強い責任感が芽生えた。それを成す為にもこれからは操体の学び、自分の人生の学びを今まで以上に深めていこうと思っている。
ブログの本題に入るがNHKで「病の起源」という番組が放映されている。
この番組では現代における代表的な病気をピックアップし、その原因、解決方法を辿っていくという内容である。現在の私にとってバラエティー番組等を見るよりもとても面白い内容であったので暇を見つけては見るようにしている。その番組の中で「腰痛」の特集されていた(2008年10月5日放送)。
この番組の冒頭で腰痛に対しておもしろい表現をしていた。
「現代における腰痛とは二足歩行の宿命なのだろうか?」
私が診ているクライアントや知り合いの中にも腰痛持ちはとても多い。
この原因は八割以上が明らかにされていないのが現代医学の現状と言われている。確かに腰痛の原因というのは様々で人間のカラダの使い方の間違い、または心の在り方等があり、原因を突き止めるのは難題だと思う。
だがよく考えてみると不思議なことに猿やチンパンジー等の人間と同じ二足歩行している動物には腰痛がない。人間も産まれながらに腰痛持ちはいない。ある時から法則から外れた腰の使い方をして痛めてしまっている。
つまり腰痛の原因とは明らかに人間のカラダの使い方の過ち、そして心•意識の在り方等に問題があるのだと思う。
このように考えると腰痛は決して二足歩行の宿命などではなく、「人間の過ち」から起こる病気なのである。
そもそも現代における腰の捉え方に私は違和感がある。
番組の中で度々「腰を動かす」という表現がされていたのだが、確かに腰は動くものだが「動かす」という意識感覚に問題があるように思う。現代の操体の腰に対する捉え方に「腰から動く」ということはほとんど行われない。動きは手関節•足関節等の末端から動かし、腰はその末端からの動きを支える「軸」となるものだという捉え方をしているからだ。こういった捉え方をする事で腰に負担をかけるリスクを避ける、もしくは腰に負担をかけてはならないものだと私は認識している。
「腰を動かす」という表現•意識こそが腰に必要以上に負荷をかけ、腰痛という症状を引き起こしているのだと思う。
