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2014-04-16

美は犠牲的?・・・2


おはようございます

「美」を漢字の成り立ちから考えると、羊を神様への生贄として献上した古事から始まるようです。昨日紹介したwikipediaの説明では、「美」とは大いなる犠牲であり、「自己犠牲」であるといったことが書かれていました。
 昨日は戦争の話となってしまいましたが、この「生贄」の文化というのも恐ろしいと感じます。

 そもそも、神様は生贄を求めるのだろうか。これは、当時の人達の恐怖心から起こった妄想だと思う。羊だけでなく、水害の多いところでは、人柱というものもあったと聞く。同情する。しかし、神様は生贄など求めないと思う。これは「報い」の価値観だけからなる妄想だ。
「報い」つまり相対的価値観から、人間がこれだけの犠牲を強いているのだから、それだけの見返りをしてほしいと相手(神様)に要求しても、相手がそれを求めていなければ不成立となってしまう。
 当然、生贄の効果はない。その効果のなさを犠牲が足りないからと考え、犠牲をもっと増やす。羊の大きさ、数、果ては人間まで。妄想はどんどんエスカレートする。恐ろしいことだと思う。
 

 一方、同じように神様になにか献上するのでも、「祭り」はどうだろうか。「生贄」も「祭り」も宗教的儀式に変わりはないが、随分と印象が変わる。
 祭りの種類にも色々あるだろうが、こちらは総じて、誰かが犠牲になったり、その分だけ見返りを求める、というような発想は感じられない。
 神様に感謝して祝う。収穫が少なくとも感謝して祝う、多ければ悦ばしい気持ちが上乗せされて感謝して祝う、また少なくなってもそれはそれで感謝して祝う。良いからはじまり、良い、良い、良い。比較のない絶対的価値観。
 神様が全愛であり、公平であると本当に信じられるならば、自分達の都合によって、その敬う気持ちが良くなったり、悪くなったりするものではない、もちろん恐怖の対象でもない。自分達の状況が今、悪くても、良くなっているところもある。良くなったところが、自分達にもまた返ってくる。みんなつながっているのだから。更に良くなる。
 また、比較がなければ僻みや妬みもなくなってくる。良いものは良いと素直に認め、尊ぶ心。
 絶対的価値観、それこそが「救い」であり、潜在的には誰にでも宿っている普遍の価値観であり、良心であると思う。

 「救い」と「報い」どちらの方が良いのか自分自身に問いかけてみる。考えるのではなく、からだにききわける、自身に宿る御魂にききわける。「救い」の方が良いに決まっている。
 しかし「報い」が悪いということではない。「報い」というのは現世における歩み方の努力に対する評価でもある。その歩み方の努力の源をどこにとるか、ということが重要になってくる。心の持ちようによって、万象が発展変化するという事なのだから。
 心の持ち方に「救い」という絶対的価値観がなく、相対的価値観しかなければ、比較対象による限りない欲望や、そこから生じる劣等感、不安感から逃れようがなくなってしまう。 そして、これは個人だけではなく、まわりも巻き込む。生贄文化のような事も起こってしまうだろう。
 また、心的ストレスを吟味していけば、これが係わっていないものなどない。だから努力の源には「救い」という絶対的価値観が求められる。

 「自己犠牲」ということに関してもそうだ。自己犠牲には自分さえ我慢すれば良い」という側面もある。そして、これが過ぎると自己を潰してしまうと考えられている。そのようなものに美しさはないと思う。
 また、自己犠牲はニヒリズムにもつうじるが、ニヒリズムは虚無にもつうじる。虚無に「救い」はないのだ。

 三浦寛先生は、「快からのメッセージ」の著書のなかでこのようなことを書いている。
「自己犠牲をよしとしてはならない。相手につくす場合に、自己犠牲をよしとして甘んじるのではなく、自分もそうすることが喜びであり、生きがいで、うれしいことでなければならない。この逆の場合は、相手に尽くしているうちに自分自身が苦しく耐えがたくなってきます。」

 自分の現世における努力の歩みの中に、心の本源の泉から「救い」の価値観を、少しでも湧き出させていく様に意識する。大切な事だと思います。


2014年4月27(日)
東京操体フォーラムが開催されます!
会場は東京千駄ヶ谷津田ホールです。
テーマは「入眠儀式 快眠・快醒のコツのコツ」
是非お越し下さい。

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2014-04-15

美は犠牲的?・・・1


おはようございます

 昨日、桜の美しさについて考えていて、美しさの「美」という文字は、なぜ羊という字と大という字が合わさっているのだろうかと思いました。

 Wikipediaで調べてみると、
『「羊」と「大」の合成が「美」であり、「羊」と「我」の合成が「義」である。孔子の『論語』の中にも記されているが、「羊」は宗教的祭式において献物として利用された動物で、「犠牲の動物」の意味があり、そこから「羊」を要素とする合成漢字には、「犠牲」の意味が含まれている。あるいは「犠牲」の意味を持つ概念を表現するために、これらの漢字は合成され造られたとも言える。
「義」とは「我の責任の限りの犠牲」という意味があり、「善」は、「儀式の祭具に盛る限りの犠牲」という意味があるが、「美」とは「大いなる犠牲」である。この場合の犠牲とは、「自己犠牲」であり、共同体の命運などに対し、人間として行える最大限の犠牲、つまり己の命を献げて対象を高めるという含意があり、言い換えれば、人の倫理の道において、最も崇高な行いが「美」であったのである。』
と書かれている。

 なんだか納得がいくような、いかないような。立派なことも書いてあると思えるが、なんだか危なっかしさや不安を感じ、心がザワザワしてくる。
 漢字の成り立ちを歴史的に紐解き、客観的に簡潔にまとめれば、こう説明するしかないのかもしれない。しかし、本来の「美」とは、しっかり識別する必要があると思う。
「美」とは本来、感覚が伴うものだ。美しいと感じるから美しい。美学にしても、感覚を伴う経験をとおして、確立していくものだと思う。頭だけでつくりあげた「美」とか「美学」、他から強要された「美」とか「美学」には危うさを感じずにはいられない。感覚をききわけるという事の大切さは、こういう場面でも生きてくる。

 ふと、「同期の桜」という軍歌の歌詞が思い浮かんだ。「咲いた花なら散るのは覚悟 見事散りましょ国の為」
 先の戦争では、大勢の人達の尊い生命が犠牲となってしまった。その中には、この軍歌を口ずさみながら死んでいった人も沢山いただろう。神風特攻隊のように、行きだけの燃料しか入れず、「お国の為」と自己犠牲を美徳として、死んでいった若い人も沢山いたと聞く。
 昭和天皇のような偉人がいなかったら、泥沼化して犠牲者はもっと多かったかもしれない。さぞ御心を痛めていらしていた事と思う。死んでいく本人も不幸だが、まわりも悲しくていたたまれないと思う。
 このようなことを繰り返さないためにも、安易に自己犠牲を美学とするような風潮は、慎むべきだと思う。

つづく。

2014年4月27(日)
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2014-04-14

美は、儚いもの?


おはようございます

桜の花は美しい。
ぱっと散るから美しい。

 儚いから美しいという人もいるだろう。しかし、ぱっと散っても次の年の時節が来れば、また咲いている。それも、より美しくなって。桜の花の美しさとは、内面の横溢するエネルギーが最良の時季に、外へ向かって表現されたものではないのだろうか。

 以前のブログ大岡信氏の「言葉の力」というエッセイを紹介したことがあったが、その中で人間国宝である染織家の志村ふくみさんとのエピソードが書かれている。
 志村さんは桜の美しさをそのまま染物に表現できる染と織の第一人者だ。志村さんによれば、染物の美しい桜色は、花からではなく、あの黒っぽくてごつごつした桜の皮から取れるのだという。それも一年中とれるのではなく、桜の花の咲く直前の皮からしか取れないのだという。まさに桜の花の美しさは内面の美しさでもあると思う。

 桜の花が散るのも、その美しさの内面に横溢するエネルギーが最高潮に達した証として捉えてみたい。花が散るのはエネルギーがなくなったからではなく、その質が変化したということ。桜の木全体からしてみれば、せっせと根を張ることもしなければならないし、葉っぱもつけていかなければならない。寒い冬場には休眠期間をとってバランス調整しなければならない。
 そうやって次の時節がきたら、また花を咲かせることができる。だから、消えてなくなりやすいとか、もろくて長続きしないといった儚いイメージではなく、その内面にはむしろ逞しささえ感じる。
その内面の逞しさとは、日差しをはじめ、そこから生じる温度変化など、諸々の自然環境の変化に、全体で適応していこうとする逞しさであり、潔く花が散るのも、その生命力の表れだと感じる。

 厳しい自然環境の中でも、健気でひたむきな逞しさがあって咲き、そして散る花だからこそ、人の心根になにか訴えかけてくるものがあるのではないだろうか。それは儚さではないと思う。

「儚いから美しい」という言葉を聞くと、なにか危なっかしさを感じ、心配な気持ちになってしまうのです。


2014年4月27(日)
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2014-04-13

サクラ、サク。


おはようございます
今週のブログは友松が担当させていただきます。
どうぞよろしくお願いいたします。

 前回、ブログを担当した時は、ちょうど年末年始の時期でしたが、今年も4分の1の日数が過ぎ、新年度のはじまりの時季となりました。
 私の住む地域では、ちょうど桜の花の見ごろを迎えています。新年度のはじまりには、やはり桜ですね。まだまだ冷えることがありますが、春の陽ざしを受けた空気というのは、この時季独特のものを感じます。秋の空気のクリアさとは違った、なにか色々な精気が入り混じったワクワクするような、それでいてボンヤリとした長閑な感じ。何か幻想的でもあります。その空間に薄いピンクの花びらが咲き誇り、微笑むように揺れている。麗らかであり、可愛らしくもあり、その可愛らしさに包み込まれていくようでもある。なんとも気持ち良く、ここちが良い。
 サクラの語源については、古事記に出てくるコノハナサクヤヒメのサクヤが転化したという説がありますが、桜の木、一本一本には時節の到来と同時に、コノハナサクヤヒメは宿るのかもしれませんね。
 

 先週、NHKスペシャル・人体ミクロの大冒険を観ていて、山中伸弥教授が「細胞には意識がある」と何回も言われていたのが印象的だった。
 以前は、細胞のことを体を構成する部品として捉えることが多かったが、近年はそうではないという。一つの自律した生命体のように、自ら周りを探り、状況を判断し、自らを変化させているダイナミックな存在なのだという捉え方になってきているという。今後のさらなる発展が愉しみになってくる。
 私見となるが、その、細胞の元となる原子原子核にも意識や意志はあるのではないかと思う。そこから、それぞれが快を求め、愛と調和によって結びつき、秩序が生じる。そして、一つの自律した生命体としての細胞生まれる。細胞一つ一つもまた、快を求め・・・・・。そうやって、それぞれが結びつき、統合された個性真理体になっているのだと思う。
 山中教授はこのようなことも仰っていた。「人間は細胞をつくれません。創造っているのは神様ですよ」また、真摯な眼差しで「ips細胞細胞自身の力を借りたもの」と謙虚に語っておられたのも印象的だった。

 目には見えないが、人知を超えた結びつきの力というものは確かに自在していると思う。そして、快を共有し渦を巻くように更に快を求め、より大きなエネルギーとなっていくのではないだろうか。
 時節の到来とともにコノハナサクヤヒメが桜の木に宿るという考え方もあって良い。桜の細胞一つ一つに宿る、生と性のエネルギーを賞賛し、見事な結びの現れとして、祝福すべきだと思う。


2014年4月27(日)
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2014-04-12

「山崎晴美のこむらがえる夜 初夜」

昨日は「ご褒美」の夜を味わった。
新宿歌舞伎町の地下2階。
ロフトプラスワンというイベント空間にて、山崎晴美氏のトークイベント「山崎晴美のこむらがえる夜、初夜」が開催された。
幸運にもそのイベントを知る機会を得て、チケットを手にすることができた。

これも先述のシマジ先生メルマガと同様、当フォーラム常任理事の畠山先生からご紹介いただいたもの。
それには理由があり、記念すべき「初夜」の特別ゲストはあの松岡正剛氏であったのだ。

松丸本舗主義 奇蹟の本屋、3年間の挑戦。

松丸本舗主義 奇蹟の本屋、3年間の挑戦。



「これは行かねば」

アンテナが働いた。
昨日の夜はその畠山先生と、実行委員先輩であり、一緒にいると「純粋センス」のようなものを補給していただけるT氏と、3人での参加となった。

私は18時半の「開場」を少しすぎたあたりから「異空間」に突入した。
すると最前列が一列、丸ごとキレイに空いていたので、思いきってカブリつきで堪能させていただくことにして、陣取った。
開演19時半からの3時間あまり、特別な時間は余韻を残して、いつの間にかの終演となった。

この日は面子がとにかく豪華だったと思う。
司会は工作舎編集の石原剛一郎氏。

オデッセイ1971‐2001―工作舎アンソロジー

オデッセイ1971‐2001―工作舎アンソロジー

そして、後半の2部からは、80年代初頭に結成されたファンクバンド「EP-4」の佐藤薫氏と、1974年から活動を続けている岡山のライブハウス「PEPPERLAND」の主宰、能勢伊勢雄氏の2名も加わり総勢5名でのトークとなった。

昭和大赦-リンガ・フランカ1

昭和大赦-リンガ・フランカ1

正直に言うと、恐縮ながら私は松岡さん以外のこの4名の方を、この日になるまで、深く知ることは無かった。
しかし、トークの最中に「今日は本当に来て良かった」と何度も感じた。
「今日知ること」ができて本当に良かった、と思えた。
昨年末のヒカシューライブでも同じような感覚を味わったことを思い出した。

万感

万感

「こむらがえる夜」も第4夜まで企画されているらしい。「要チェック」である。

操体の「臨生家」を目指して未だ修行中の私であるが、今自分が学んでいることと、昨日の夜語られていたことばの間に、私なりに繋がりを見出すことができたように思う。

その一つは、「蓋」をされてしまっている「可能性」のようなものに、眼差しを持つことだと感じる。
その対象は「人間」、「生命」、「宇宙」、「音」、「言葉」、、、
解像度を変えて、好きなように。「概念」もその「線」をズラしたり、消してみたり。行ったり来たりしてもいいよ、と。

そしてその「可能性」の存在を信じること。
信じたことを「自らのからだ(自身)」をもって探求していく中で、この「現象」の世界に生かしていくこと。

橋本敬三先生の語られた「自然法則の応用貢献」という文脈。
自然法則の存在を信じ、探求し「やってみて」掴んだ者は、それを「応用」し
さらに「貢献」に繋げていく義務がある。

分野は違えども、「自然法則の応用貢献」という使命から、たくさんの人と語り合える気がする。
操体の魅力には「ジャンル」という固定概念を越えていける、学びの寛容さもあり
カテゴリーに関係なく、学び合える悦びがあると思う。

日本に、こういう人たちが存在しているということが、本当に嬉しい。
4月27日の当フォーラムも、分野に関係なく
「アンテナ」の働いた方に、是非来ていただきたいと思っています。

2014年4月27(日)
東京操体フォーラムが開催されます!

会場は東京千駄ヶ谷津田ホールです。



テーマは「入眠儀式 快眠・快醒のコツのコツ」

是非お越し下さい。

一週間のお付き合い、ありがとうございました。
明日からは友松さんが担当されます。どうぞ、お愉しみに。

2014-04-11

本人にしか、受け取れないものが在る

日常の中の一コマから。

誰かと話をしている時。
特に、少し「悩み」を抱えているような人と話している時。
気付くと、その人に対して、「良かれ」と思って
何か助言的なことを、「言葉」で伝えていることがある。

決して大きく「的外れ」なことを伝えているわけではないようにも思える。
寧ろ「核心」に響くような言葉を感じ、伝えようと心がけた結果の「言葉」を
どうにかこうにか、紡ごうとしている。

相手も、その話を「うんうん」と聞いている。
「たしかにそうだ」という納得感が伝わってくることもある。
時には「助言」のようなものを、積極的に聞いてくる人もいる。

「少しは役にたったのだろうか」

一部始終を終えたあと、そんなことを考えながらも
ぼんやりと「モヤモヤした感じ」を抱えている自分自身に気付くことがある。
「少しは役にたったのだろうか…」

あることを境にして、自分自身の中で
「本人にしか、受け取れないものが在る」
ということを痛感した。
そのことがいかに「尊い」ことであるか。

どんなに、「もっとも」なことであっても
他人の口から語られたことと
自分で「そうだ!」と感じたことの間には
大きな差がある。

その人自身が受け取り
その結果として、本人の口から「言葉」が生まれ
また、本人のからだから「表現」されてくるものには
他力的な向き合い方では決して届かない、領域が広がっている。

その「領域」を味わう時間と空間を実現していくこと
「芽」を摘み取るのではなく、「芽」が育つこと。
操体の最前線の歩みの、その先の先にも
豊かな学びの領域が広がっているのが見えてくる。

↓まさに操体の最前線を体感できる機会となるでしょう!
2014年4月27(日)
東京操体フォーラムが開催されます!

会場は東京千駄ヶ谷津田ホールです。


テーマは「入眠儀式 快眠・快醒のコツのコツ」

是非お越し下さい。

2014-04-10

眠りの旅、意識の旅

4月27日(日)に千駄ヶ谷津田ホールで開催される2104年春季操体フォーラム。
今回のテーマは「入眠儀式 快眠・快醒のコツのコツ」です。

操体の眼差しが、ついに「眠り」の世界にも及び始めている。
これは、大きな一歩に繋がるのではないかと、何か予感するものがある。

「快適感覚」のスペシャリスト達が提唱する「快眠」、そして「快醒」。
どんな時間と空間になるか、愉しみは広がりゆく。

27日の日を、味わう為の「プロセス」として、自分自身もここ数週間、「眠り」について意識を持ち、色々と実践している。
その中で、「眠りに意識を向けること」は、それだけでもとても面白い!
ということが段々わかってきた。

そして、今まで「睡眠」を、単なる「休息」としか捉えていなかったことを実感し、反省した。
私、個人の感覚であるが、「眠り」を単なる「休息」だけにしておけないような気がしている。

私の中で「旅」というイメージが、そこに当てはまる。
「眠り」は「旅」でもあるのではないか、という実感が芽生えてきている。
それは言葉を変えれば「意識」の旅。
明らかに覚醒時と眠っている時とで、働いている「意識」が変化しているように感じることがあるからだ。

「旅」に出ると、大抵の人はそこでの「思い出」や「経験」、「民芸品」、「郷土のお菓子」など
旅先から「お土産」を手にして帰ってくる。
そしてちょっと、意識の次元をかえてみる。
「眠り」の旅にも、「お土産」があることをご存知だろうか。
私は師匠から、そのことを教えていただいたことがある。

「快眠・快醒」、そして「入眠儀式」。
「眠りの旅支度」をしっかり整えておくことは、旅先での「経験」や「お土産」の豊かさに、きっと繋がっているはず。
と、そのように意識を向けてみると、「眠りの世界」がまた一段と愛おしい営みに感じられてくる。

↓日々の「眠り」を通して、「お土産」を受けとるヒントも感じられるかも!
2014年4月27(日)
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