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東京操体フォーラム実行委員ブログ RSSフィード Twitter

2014-07-28

おなかのきもち。・・・2


おはようございます

 昨日は、おなかの中、おなかの環境にも想いを馳せ、おなかの快もききわけるということを書きました。
 

 私たちは、目に見えるものから目に見えないものまで、様々なものによって生かされている。その中の一つに細菌がある。細菌というと、あまり良い印象は受けないと思うが、自分たちが生きていけるのも細菌が居るお陰だし、また死、つまり肉体を脱ぎ去り帰一できるのも細菌が居てくれるお陰である。

 人間のからだには、常在細菌と呼ばれる細菌が大量に棲息している。勿論、外部環境には人間の存在を脅かすものも居る為、皮膚、鼻腔、口腔、消化管などで、存在を保てるよう働いてくれている。なかでも腸内細菌は、免疫力の70パーセントを担っているという.

 考えてみれば、私たちは雑食性であり、色々なものを食べている。よく食事会の時に、珍しいものが出てくると「コレを最初に食べた人って凄いな〜」という話になるが、それも腸内細菌が居てくれるお陰でもある。普段、おいしいと言って口にしている食べ物の中にも、直接血液に混入したりすると、ショック症状を起こして死に至るものもあるという。

入れ場所を間違えば危険なものも、膨大な数の腸内細菌が居てくれるから、受け入れることができる。腸内細菌が居てくれるお陰で、消化器官は食物を栄養素までしてしまえる。そして消化管は、それと共に食物中の抗原や常在細菌の産物と接触し続けて、免疫系を巧妙に調節する役割を果たすことが出来ているのだと思う。


 目に見えるものは、目に見えないものに接触している。そして、目に見えないものに生かされている。食物など外のものを取り入れる消化器官と腸内細菌、皮膚、鼻腔、口腔など外部との接点と常在細菌。そこには常に自分の存在を存在たらしめているものが居る。

 なぜそういうものが自分のからだのまわりに居てくれるのか。これも目には見えないが、太極意志である愛と調和が、どんなものにも貫通し自在して、イノチとしてのバランス感覚を有しているからだと思う。

 その調和のかたちは様々だと思う。腸内細菌だけでも百種類以上、百兆個以上もの細菌が居るというのだから。
人間の思考からみて、善玉も居れば悪玉も居る。しかし、悪玉も居なければ、免疫機能はより良く向上していかない。バランスが大切。

 そのバランスの道しるべをどこに求めるか。よくよく吟味していけば、自然法則ということになる。自然法則も目には見えないが、確かに自在する。自然法則に合わせるようにする。その中で快がききわけられる。すべてのイノチは快を求め、それに従おうとするのだから。そういうイノチの快。

 消化器官というのは最も原始的でもある。脳がない生物は居ても、消化器官がない生物はいないはずだ。原始的であるが故に、その調和の仕方は頭であれこれ考えるより、イノチの快に委ねる方が効率的なのだと思う。おなかの快をとおしてのイノチの快。それが免疫系もより活性化して、環境に適応してより良く生かされて生きる、ということにつながるのではないだろうか。

2014-07-27

おなかのきもち。


おはようございます

今週は友松が担当させていただきます。
どうぞ、よろしくお願い致します。

梅雨も空け、夏真っ盛り、暑くなってきましたね。
ついつい、冷たいものを飲んだり食べたりしたくなります。
夏ですものね。スイカ、かき氷、冷たいビール。美味いですよね。
一時の清涼感、爽快感は格別ですよね。
しかし、飲みすぎ食べすぎをしてしまうと、気持ちが悪くなる。

 内臓をつうじてのからだの感覚をききわけ、日常生活の指針としていく。誰でもやっている当たり前の事だが、その当たり前の事こそ重要。そうでなければ生命の存在は保てないと思う。
しかし、その感覚のききわけは不快が主となっていることが多い。

 例えば「これ以上かき氷を食べたら、おなかをこわしそうだ」「これ以上ビールを飲んだら、二日酔いで気持ち悪くなりそうだ」など、ちょっとしたことだが、不快なサインを感じることから予防につなげている。
 もちろん、これらは大切なことである。おなかの気持ち悪さは、からだの気持ち悪さであり、もちろん感情に作用し、まわりの環境にも影響を与える。まわりに迷惑をかけない為にも感情を押し殺し、無理して頑張る。これは、ボディの歪みにもつうじ、心とからだのアンバランスにもつうじる。だから、不快感をつうじての予防は大切だ。


 しかし、不快から学ぶだけでは、予防の枠の中に留まってしまう。予防の枠を超え、より良く健康増進につなげるには、積極的な快のききわけということが求められる。ボディの快のききわけだけでなく、おなかの快のききわけも積極的に行うという事。

 そのやり方は、臨床の場でおなかの快もききわけてもらうことは勿論、自分自身で行える事を含めれば、無数にあると思う。大切なのは、「息」「食」「動」「想」の自然法則に自分の生き方を合わせていくことと、「おなか」へのいたわり。


 おなかの中というのは、外部との接触の場でもある。食物は外部から取り入れるのだから、そのおなかの中の環境に配慮し、ストレスをなるべく与えないように心がける。
 例えば、食べる時には良く噛んで唾液と混ぜ合わせながら食べるのが良い。そうすれば、からだに良いものかどうかの選別や量の調節が出来る。しかし、良く噛むという事だけを意識していても、長続きしないし、からだに良いのかどうかの選別や量の調節にはつながらない。

 自然法則に合わせた作法が大切。その作法には「息」「食」「動」「想」すべての自然法則が絡む。姿勢を正すにしても、内蔵を定位に安んじるように正しく姿勢を正すには、普段から「動」や「息」の法則を意識して行動することが大切だし、その為には「想」も重要。

そうした普段の積み重ねが、よく噛んで食べるということにも反映され、おなかが悦ぶ、おなかの快のききわけにつうじると思う。快をききわけるまでのプロセスが大事という事でもある。また、食欲を満たした時の頭の満足感と、おなかが悦ぶ、おなかの快のききわけとその識別。これも重要なことだ。


 ここまで、食べる時のことに関しての、おなかの快について書いてきたが、おなかの快というのは、食べる時だけにききわけられるのではない。空腹を感じた時にもききわけられるし、排便時にききわけられる快もある。
  先に挙げた臨床の場での快もあれば、ゆったりとした深い呼吸の中でききわけられる、おなかの快もある。また、人としての正しい想念の中でききわけられる時もある。自分の生き方を「息」「食」「動」「想」の自然法則に合わせていく中で、積極的にききわけるべきだと思う。

 その快こそが、からだのバランス制御に働くのは勿論、より良く生かされて生きる、ということにつながるのだから。

2014-07-26

イノチ×操体×半歩

イノチ。
そのことに意識を向けると、モヤモヤしていたものがスッとする。
「迷い」も、「躊躇」も
それを握りしめていた手も、自然と緩んでしまう
フシギなスイッチ。

イノチの本質はどこにあるのかな
「途方もないことだよ」と思っていたことは
「とても身近なことなんだ」と感じられるようになる。

その「身近で大切なこと」をこそ、学ぶことって、愉しい。
操体はからだを通して、魅せてくれる。

「身近なこと」
そのことの裏側には、「本質」が潜んでいる。
「本当に触れたかったモノ」に触れるような学びは
時間を越えた「彼方」からの追い風を受けて
イマまさに「加速」してきています。
「人類」みんなで学んでいます。

ふと、「半歩」という言葉が降ってきました。
師匠がいつも言う
「一歩でも半歩でも前に出ること」
「一歩」はね、躊躇してしまうこともあるかもしれない。

でも「半歩」なら

「半歩」は周りから見れば、「気付かない」くらいの
ほのかな動き
でも、それで十分。
自分自身の「意識感覚」は、半歩でも大きな変化を味わっているから。

「ア、イマ、内動シテイル、、、」

この感覚はドコからやってくるのカナ

その「半歩」の
「内動」の「源流」をたどる旅
なんにももたずに
ほのかで、かすかな
イノチの声をききにいこう
イマ、自分自身の感覚で。

最近大切に感じている「イノチ」というヒビキをテーマにブログを担当させていただきました。
一週間のお付き合い、ありがとうございました。
明日からは友松実行委員のヒビキが始まります。
よろしくお願いします。

2014-07-25

イノチ×操体×音楽

イノチに響く音楽は、たしかに在る。
そんなことを昨日、江戸川橋のホールで身をもって経験してきた。

アーティストは南シベリアトゥバ共和国からやって来た4人組。
「Huun-Huur-Tu(フーンフールトゥ)」というグループだ。

ORPHAN'S LAMENT

ORPHAN'S LAMENT

実はこのグループは一昨年の2012年にも来日公演をしている。
「知る人ぞ、知る」世界をまたにかける「スーパーグループ」である彼らが、日本にやってくる。
その年の10数年ぶりの来日は、「奇跡の来日」とトゥバ音楽を愛する人たちに囁かれていた。

それが2年後に、再び生で見れるとは!
奇跡は2度起こった。

彼らが演奏するのは、トゥバ共和国の伝統的歌唱法「ホーメイ」と
数種の伝統楽器の織りなす極上のアンサンブルだ。
「トゥバ音楽のアンサンブルグループでは世界一」
このブログでもお馴染みであり
実は昨日の極上の公演をコーディネートしてくださった
ヒカシュー」の巻上公一氏も、そんな風に彼らを説明していた。
たしかに文句なしだ、と感じた。

ヒカシュー・スーパー2

ヒカシュー・スーパー2

トゥバの「音」の世界は、そのまま「トゥバの自然」に根付いた音の世界だと言える。
昨日に引き続き「言葉」の持つフシギな、見えないつながり
「音(ネ)」が「根(ネ)」付いているということは
こういうことを言うのか、というのをしみじみ感じてしまう。

木のぬくもり溢れる会場に響き渡る彼らの演奏。
それはスピーカーから、音の「刺激」を受け取るという感じよりも
音の世界に「包まれている」という感じに近い。

地平から吹き抜けていく風
荘厳な山の気配
そこに息づく生き物の音
遠い原始の彼方から
響き継がれてきた音

気付くと目を閉じて、その世界を味わっている自分がいる。
すると、どうであろうか
自然に根付いた音の世界は、そのまま自然に包まれているような感覚に誘ってくれる。

その時に気付いた
その包まれている中で
からだが反応していること
イノチが悦んでいるのを感じたこと
ただ聴いているのではなく
受け取っている自分自身にも「何かが起こっている」という実感であった。

これは「刺激」にばかり傾いている、ただただ一方的に受け取るだけの音楽では
なかなか味わうことのできない現象だと思う。
そしてこれは何も音楽表現のことに限らず
同じようなことは、からだを診るという臨床の世界にも重なってくるのではないだろうか。

操体の臨床に関わっている方には
是非一度この体験をからだを通して味わってみて欲しい。

つい昨日、2度目の奇跡は起こってしまったが
「2度あることは、3度ある」という言葉を信じて
彼らがまた日本に
「極上のヒビキ」を届けに訪れてくれることを、切に願う。

最新のトゥバ共和国ホーメイ」情報を知りたい方は
以下の巻上公一さんHPをオススメします。
http://www.makigami.com/

2014-07-24

イノチ×操体×言葉

マノアタリ 目の当たり
マンナカ  真ん中
マノマエ  眼の前
マニアウ  間に合う

「マ」のヒビキひとつ
ウツワに載せて味わってみても

「目」「真」「眼」そして「間」

何気なく使っている言葉の中に
「見えない」つながりが見えてくるようだ

「見えない」つながり

そういったものが、在るならば
見えるものを説明するのではなく
見えないものを表現するために
「言葉」はイノチを得てきたのではないか
と感じられてくる

ふと、思い出す。
橋本先生が「神代文字」に興味を持ち
研究されていたこと
また、橋本先生と同じく「医師」であり
経絡研究を通じて、宇宙機構の本態を原究され続けた
尊敬する藤田六朗先生が
俳句」を詠まれていたこと
このことが、なんだかとても納得できる。

操体では
「間」は大切な意識のオキドコロ
その「間」に、『目線』という「マ」も触れている
「間」と「目」
同じヒビキをもつもの同士、決して無関係ではない、ようだ。

無意識に、何気なく使っている言葉、その中に
古代から紡がれてきたヒビキの「痕跡」がある。
橋本先生が残してくださった「同時相関相補連動性」という道しるべ
そのことを研究し、「見えないつながり」に触れる手がかりは
身近な言葉の、ヒビキの中にもコロがっている。

ヒビキを通して、「痕跡」にイノチを吹き込む

2014-07-23

イノチ×操体×プロセス

先日、テレビで芸能人が数日間の「サバイバル生活」を体験する番組を見た。
砂漠、極寒、無人島ジャングル
各々がそれぞれ全くことなる環境で、使用を許可された道具を用いて、工夫をこらして生活をする。
数時間に及ぶ内容だったが、その様子をついつい最後の方まで見てしまった。

中でも、おかれた環境の中で、「食糧」を自分自身調達し、口にする。
その様子は興味深かった。
なんだか、とっても「美味しそう」に見える。改めて、「なぜなのか」と感じた。

口の中に入ったものが、味覚として、栄養として
からだの中に染み渡っていく。
不思議なもので、その味わっている「感覚」を
画面を通して、ともに味わっているような感じさえした。

しかし、その時、口にしていたものは
「日常生活」であれば、決して口にしない類いのもの。
捨ててしまうようなもの。
ジャングルの川で、罠をしかけて捕まえた「小さな小さな魚」や
灼熱の砂漠の中で、植物の蒸散から採取した「濁った水」

それは物理的な量としては
腹の足しになるはずのない、ほんのちっぽけなもの。

しかし、そこから受け取っているモノは
目に見えているその「量的」な印象を越えて
「ウンメェ〜!!!」
という悦びに現れていた。

まったくもって「当たり前」なことだけれども
そこにはやはり「プロセス」ということが
密接に関わっているのだと感じる。

プロセス

同じように日常生活の「食」に視点をおいてみれば
このプロセスの質は全く異なっていて
腹が減ったら、オカネを持っていき
食べたいものと「交換」することができる。
都心にいれば、時間に関わらず
制限なく何かを口にすることが簡単にできる。

自分自身で担っている、その自己責任の割合は
「オカネ」を手にするまでのプロセス
逆に「欲」をコントロールすることに、代替されている。
ということは、日常生活のなかで
「食」そのものに関わるプロセス
極々一部となっているのかもしれない。

サバイバル環境では
「食」のプロセス
操体で言う「息食動想・環」
その「同時相関相補連動性」のなかで
自己責任をもって、全うしていかざるを得ない。
それはかかるべき時間をかけながら生きる
「イノチのプロセス」に共振していくことなのではないかと
感じている。

操体」を通して、イノチのプロセスを学ぶ。
そこに、都会で生きる自分自身にとっても
重要なヒントが在ると感じている。

2014-07-22

イノチ×操体×可能性

そこには、未だ見たことの
触れたことのない世界への
テガカリ、アシガカリ
が溢れていた

「常識」のセンサーは負けじと反応。
「ワタシにはちょっとほど遠いカナ…」
「まだまだ先の話カナ…」
「もっと勉強してから、後で、カナ…」
「誰かが代わりにやってくれるヨナ…」

でもね

そんなこと
そんなことはないはずだよ、と

だってワタシの
82兆の細胞にきいてみなヨ

知ってしまった
見てしまった
震えてしまった
「いいな」、と感じてしまったんデショ

なら、やってみればいい
学んで、確認していけばいい
遠慮しなくていい

ハイ!

イノチにききわけて
原究していきます

2014操体マンダラご来場のみなさま
貴重な学びの空間をありがとうございます