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東京操体フォーラム実行委員ブログ RSSフィード Twitter

2014-12-21

感動

久しぶりに、「あいだみつお美術館」を訪ねた。

「感動とは、感じて動く、と書くんだなあ」

感じてから動くまでに、”考える”が入らない。

ストレートである。

ウソが無い。

原始感覚そのものである。

しかし、

感動ばかりしていたら疲れるだろうな。
時々感動するから、有難いんだな。

人間だもの。

2014-12-20

「正しい姿勢とは」

人間の本当に正しい姿勢とは何なのだろうか。

様々な分野で姿勢が原究されているが、未だ完成されたものは出てきていないように思える。

私達も操体を学んでいる中でこのテーマの核心に迫ってきているように思うのだが、まだまだ完成形のものだとは思えない。

私自身も先に行われたフォーラムで発表した「自然体立位」の中で、この正しい姿勢について原究し、それを成すための重要なポイントを示したのだが、これもポイントの一つにすぎない。

このテーマに対し少しずつ見えてきたのが、正しい姿勢とはカラダの器だけを正しても正しい姿勢にはならないということであった。それに順ずる心、また生き方も正していかなければ正しい姿勢にはならないのである。

橋本先生の著書を読んでいると自然体についてこのようなことが記されている。

「人が正しければ、容姿はおのずと正端となり、骨格は整い、筋肉は拘筋することなく、
 内臓はその地位に安じ、その機能も互いに相、調和し、身心ともに健康である」

人が正しいければと記されているが、これは生き方を指しているのだと思う。

橋本先生がここで伝えたかったこととは、本当の正しい姿勢とは生き方が正しければ、カラダだけでなく身心が自ずと調和が計れて正しい姿勢、自然体となると説かれているのだと思える。

ここでいう生き方とは先日まで書いた「息・食・動・想」であり、これらをイノチが悦ぶ法則に乗っ取り実践していくことが正しい姿勢に繋がってくるのではないだろうか。

来年はこの正しい姿勢について原究していき、フォーラム等で発表していきたいと思う。

今年も一年ありがとうございました。明日からは半蔵さんです。

2014-12-19

「息について」


先日まで「食」「動」「想」について書いてきたが、これらの捉え方が変われば当然「息」に対しての捉え方も大きく変化してくる。

私自身この変化を大きく実感しているのが、呼吸を上手くコントロールすることで他のイノチの営みをより活かせるということである。

操体を勉強している方なら存じていると思うが、操体では「息・食・動・想」これらの命の営みが同時相関相補しているとされている。

これら4つのバランスが取れてこそ自分のイノチの調和が計れ、健康という一つの目的が達成される。その中でも「息」は最重要項目でこの呼吸ひとつで人間の食事にしても、動きにしても、想念にしても全てがイノチ、体が悦ぶベクトルにコントロールすることが出来るのである。

例えば先日書いた「食」にしても「食する」ということは今までインプットとして捉えられてきたのだが、それがアウトプットに変化してきている。

何故かというと食することでカラダに負担が掛かることと、それに伴い呼吸で「食」をコントロールすることが出来るからである。

それだけ現在の操体における「呼吸法」が変化してきているのである。

その変化の一つのポイントが呼気と吸気の「マ」になる。

一般的な呼吸法は様々な呼気のやり方は説いているが、その「マ」の重要性は説かれていない。しかしその「マ」の使い方にこそ呼吸が「イキ」ではなく、「ソク」となり、カラダとイノチが悦ぶ呼吸法になる。

また、その呼吸法を体感し、身に付けていくとカラダの動きや自分の意識は呼吸だけでコントール出来るようになる。

こういったことを体感すると人間の生命活動は「息」のコントールによって成されるのだと理解出来る。
これからもっと「息」について深めていこうと思っている。

「息について」


先日まで「食」「動」「想」について書いてきたが、これらの捉え方が変われば当然「息」に対しての捉え方も大きく変化してくる。

私自身この変化を大きく実感しているのが、呼吸を上手くコントロールすることで他のイノチの営みをより活かせるということである。

操体を勉強している方なら存じていると思うが、操体では「息・食・動・想」これらの命の営みが同時相関相補しているとされている。

これら4つのバランスが取れてこそ自分のイノチの調和が計れ、健康という一つの目的が達成される。その中でも「息」は最重要項目でこの呼吸ひとつで人間の食事にしても、動きにしても、想念にしても全てがイノチ、体が悦ぶベクトルにコントロールすることが出来るのである。

例えば先日書いた「食」にしても「食する」ということは今までインプットとして捉えられてきたのだが、それがアウトプットに変化してきている。

何故かというと食することでカラダに負担が掛かることと、それに伴い呼吸で「食」をコントロールすることが出来るからである。

それだけ現在の操体における「呼吸法」が変化してきているのである。

その変化の一つのポイントが呼気と吸気の「マ」になる。

一般的な呼吸法は様々な呼気のやり方は説いているが、その「マ」の重要性は説かれていない。しかしその「マ」の使い方にこそ呼吸が「イキ」ではなく、「ソク」となり、カラダとイノチが悦ぶ呼吸法になる。

また、その呼吸法を体感し、身に付けていくとカラダの動きや自分の意識は呼吸だけでコントール出来るようになる。

こういったことを体感すると人間の生命活動は「息」のコントールによって成されるのだと理解出来る。
これからもっと「息」について深めていこうと思っている。

2014-12-18

「救いと報い」について

現在の操体のカラダを動かす・使うこと、また命に対しての捉え方は「報い」から「救い」に変化してきているように感じる。

例えば身体運動の法則における作法にしても利き手に応じた作法であるのだが、この利き手というのは天性のものではない。

物心を付いた時に「使い易かった」というだけであって産まれもっての利き手は存在せず、それはこのシャバに産まれてからの「癖」であり、現象であり、「報い」というように捉えることが出来る。

このように「報い」からの捉え方では同じ人間なのに個体差や感覚差というのが生じてしまう。

では「救い」の観点で利き手を見ていくとどうなるかというと、同じ事を万人がやっても皆が同じ体感が出来る「絶対性」がそこには在る。
つまり右利きも左利きも存在ないのだと言える。

私達が今まで学んできたことは呼吸にしても、カラダを動かすことにおいても、食事にしてもカラダに聞きわけることで「快」という一つの大きなベクトル(目的)にその指標向けてきたのだが、そこには右利き、左利きという優位性があり、相対性が生じる。

それはこの世に生を授かってから現在に至るまで己が育んできたカラダ、意識が大きく関与している。


しかしこれを「救い」という観点から見ると利き手というのは無く、皆が同じカラダの使い方・動かし方をすることが本来の人間本来の「ありのまま」になる。

この人間の「ありのまま」の要求を満たしていくことこそがイノチが悦ぶことであり、私達臨床家だけでなく生ある者全員がカラダを使わせて頂いていることへの責任なのだと思う。

2014-12-17

「動」について

臨床を行っているとこちらの指示する通りに動ける人と動けない人がいる。

これは私が操体の臨床を行う上で、ずっと頭を抱えていた問題で操体の臨床家にとって一度はぶつかる壁だと思う。

果たして動ける人と動けない人の違いは何なのだろうか。体の動きを知らないからだけでは済まされない何かがあるのではないだろうか。

この問題の要因は被験者の「意識」が大きく関与しているのだと思う。

それは自己責任を全うするという意識とも言えるが、己が使わせて頂いているカラダなのに使い方が分からない、手入れの仕方が分からない、壊れたらお医者さんに治してもらえば良い、こういった意識にカラダが反抗し、動けなくさせているように思う。

こういった意識で生活している患者は、カラダを治してもまた病を作り、治しにくるという繰り返しになる。

それを繰り返さない為にも患者自身の思考や意識を変え、自分のカラダやイノチと素直に向き合えるような臨床と哲学操体にはある。それを成す一つの栄養となるのが「快」なのである。

快を味わい、自分の心と意識の中にそれを受け入れることで己の生き方が変化し、カラダもその意識の変化に素直に反応するのである。

こういったことを理解してきたので私自身、自分の臨床のテーマに「患者の生き方を変える」という目的を持つようになった。

とても壮大なテーマかもしれないが、ただカラダを治すだけの臨床家にはなりたくない。

患者の心とカラダ、そして意識が快のベクトルに向かい、その先に自分の生き方に責任を持つようになる、そんな臨床が出来る臨床家を目指している。

2014-12-16 「食」について

皆さんは一日何回食事をとるだろうか?

最近の私は食事をすることがカラダのちょっとしたストレスになることがある。特に食後にカラダがだるくなることが多いため、一日三食はとらず仕事がある時は朝と晩の二回、休みの日は昼食だけの生活サイクルになっている。

大抵の人は子供の頃から一日三回食事をとることが日本の規則正しい食事回数とされてきたが、この食事のとり方は本当に正しいのだろうか?

12月13日号の週刊現代に「一日1食派vs一日5食派」という記事があった。

この記事は一日1食の南雲吉則医師と一日5食の林田康隆医師による対談なのだが、ここで南雲医師は興味深いことを言っている。
「私はあらゆる若返りの医学的効果を検証してきましたが、満腹の時に活性化される因子は何一つありません。
逆にお腹をグーと鳴る時こそ、若返りホルモンである成長ホルモンが肌や消化管を若返らせるのです。また、「サーチュイン遺伝子」と呼ばれる遺伝子は、空腹によって活性化し、人間の体内に存在している傷ついた細胞を修復してくれる。
これにより、がんや脳卒中、心臓病の予防にもなります。
実際、あらゆる動物実験で食事の量を4割減らしたほうが、1.5倍長生きすると証明されました」
サーチュイン遺伝子→長寿遺伝子

この記事で南雲医師は「極度な満腹」状態を作らず、常に適度な空腹感にすることでカラダは覚醒状態になると言っている。
つまり自分の私利私欲で食さず、「間にあっている」範囲内で食事をとることがカラダが悦ぶ食事のとりかたなのだと言っているのではないだろうか。

実際、南雲医師の食事のとりかたは一日一食以外にもちょっとしたものをつまむことで「極度な空腹状態」は作らないようにコントロールしているのだという。
また林田医師の「一日五食」の食事のとりかたも少しの量を五食食べる「細切れ食」なのだと言っている。

この2人の対談の読んで今まで私達が当たり前の行っていた「食」の概念を一度見直す必要があるのだと思う。
本当に一日三食食べなければならないのか?
それをカラダが要求しているのか?
自分が無意識の習慣として行ってきたことは命が悦んでいるのか?

2014-12-15

「フォーラムで学んだこと」

今回のフォーラムでは初めて人前で自分が学んできたことを発表する機会があった。

今まで人前で何かを話す機会といえば大学の論文の発表位なもので、全くこういった機会とは縁がなかったのだが、この経験でとても大きな気付きを得ることが出来た。

まず人前で自分が取り組んでいることを話すということは自分自身の「試験の場」だということ。

それは学生等の試験とは少し勝手が違い、ただ答えを覚えれば良いというものではなく、取り組んでいることの本質をどこまで理解しているのかが問われるのである。

日々自分がどれだけそれと向き合っているのか、どこまで実践し、日々の生活に生かしているのかが問われ、その空間は誤魔化しの効かない場なのだと実感したのである。

今までの自分は学校の試験にしても、資格等の試験にしても「その場しのぎ」の学びであったように思う。それは「自分」の頭で理解しても「自身」の身に付いていないということである。

特に操体においては「実践哲学」である以上、人前で話すことにおいては紙の上で答えを書くのとは違い自分が経験、体感したこと以上のことは伝えることは出来ない。つまり理論や計算では自分が相手に伝えたいことを伝えることが出来ないのである。

そのような事が解かってくると、操体に限らず学ぶということ、人に指導することにおいて「インプット」よりも「アウトプット」の方が大切だということが良く理解出来る。
食事等と一緒で入れたものを循環していかなければ新しい情報は入ってこない、身に付かないのである。以前のブログでも自分が新しく欲しいものを手に入れたいのならば、手にいれたものは潔く捨てることを書いたが、これは物だけでなく学ぶことにおいても同じことが言えて、本当に大切になってくる。

今回のフォーラムでは私自身が本当に参加者に伝えたかったことはある程度伝えることは出来たが、それは決して一人では出来なかったことだ。
黙って見守って下さった師・先生、先輩の存在、そして信頼する同志と相方の存在があってこそ出来たことで、改めて自分との向き合い方、操体との向き合い方を見つめ直さねばならないと実感した時間であった。