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2014-08-23

ああインターテクスト、ああインターナショナル(?)


蓮實 さっき僕は、情報空間とコミュニケーション空間を区別したんだけど、その情報空間というのが共同体としての日本にあたるわけです。それはまた、文学対言語の言語にあたるものです。そして、前に挙げた区別をまた使えば、情報空間はイメージを介した物語の領域だといってもよい。その意味で、他の書物で「説話論的な磁場」とよんだものに相当しています。それに対して文学というのは、イメージを欠いた差異の世界であり、文壇といった共同体のことではなく、作品という表層だということです。だから、ここでの階級闘争は、言語対作品だというべきかもしれない。そして、批評が、その外に出ようとする力を活気づけるときに、コミュニケーションが起こる。つまり、そこではじめてインターテクストの問題を語りうるわけです。

 インターナショナルが共同体の外の問題であるように、インターテクストも言語の外の問題なんです。インターナショナルというのは、複数の国家の集合ではなく、そのいずれにとっても外にある現象でしょう。インターテクストというのも同じですよね。だから、インターテクストは作品についてしか語りえず、言語の問題ではない。批評とは、そうした意味でのコミュニケーションに加担することでしょう。》


ぼんやり読んでいた『柄谷行人蓮實重彦全対話』(講談社文芸文庫)だが、こんな発言が出てきて深く感じ入った。1987年の対談のようだ。同書でのタイトルは「情報・コミュニケーション空間の政治学」 =ASIN:4062902001

蓮實重彦が意義を見出し自らもそうあろうとしている極が、様々な用語で整理されている。その反対の極もわかる。

すなわち:

 コミュニケーション/情報空間

 文学/物語

 言語の外/言語

 差異/イメージ

 作品という表層/説話論的な磁場

 (共同体ではない社会)/共同体

 インターテクスト/言語の内部

 インターナショナル/単なる複数国家の集合

これらは、柄谷行人が「交通」という用語で示そうとしていたものにも近いだろう。


ただ懐かしくて感激したというのもあるが、ふと現在の状況に当てはまるものが思い浮かんだので、わざわざ書き留めた次第。


1つは、原発や在日をめぐる最近の議論だ。ニュースやツイッターを無限にブラウズしながら、いわゆる左翼または右翼などとして括られる主張のいずれに対しても違和感ばかり覚えるのが、すっかりありふれた日常生活になっているわけだが、そうだ、私は「左/右」の議論なんかぜんぜん面白くない、原発や在日をめぐる情報やイメージや説話論的な磁場を求めているのではない、そうではなくて、原発や在日をめぐるまさに「コミュニケーション」「言語の外にあるインターテクスト」こそを探しているだよ! そう思ったのだ。


もう1つは、こっちは理解してもらえるかどうか不安だが、近ごろの国際的なニュースや議論において、真にインターナショナルなものといったら、ひょっとして、IS=イスラム国家こそがそれなんじゃないか?

首斬りコミュニケーション! 

→ https://twitter.com/tokyocat/status/502993036381413376