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2014-09-21

★道化師の蝶/円城塔

 

 道化師の蝶


たいていの小説は「人間とは何か」をめぐっているが、円城塔の小説はそうではない、たとえば「言語とは何か」「知性とは何か」「認知とはなにか」をめぐっている。円城塔を初めて読んだときから私はそう思った。

http://d.hatena.ne.jp/tokyocat/20120210/p1


とりわけ『道化師の蝶』は、まさに言語や文章というものが編み出す得も言われぬ綾を、まるで人間や人生が編み出す綾を眺めるかのように、眺める。そんな小説だ。


以下、メモに残したものに沿って振り返る(芥川賞受賞の表題作のみ通読した)


<第1章>

第1章全体がある小説の翻訳だということが後からわかる。それは友幸友幸という人物の作品だと一応されている。


<第2章>

友幸友幸の小説は様々な言語で書かれている。そして、その小説とは「その言語を作家が習得する過程を示したもの」という解釈が成立するようだ。

《一体、ある言語を習得しはじめ、習得し終えるまでを記した文章が「大量に」存在するとはどういうことなのか。一作品を書き終えるごとに、言語を一から習得し直す作業が行われているとでも言うのだろうか。

 友幸友幸の文章を、異言語習得の過程を記した資料として用いはじめていた発達言語学者たちは、彼が複数の作品を並行的に書いていったという説を持ち出すことにより、友幸友幸作品群の言語資料としての価値を守ろうとした。つまりは、複数の紙の冒頭に一行目を書き、それぞれにまた一行を加えるという形で言語の学習を進めたとする》(p.32)

ちなみに下の一節も面白い。まるでこの小説自体について言っているようで。

《あるいは、友幸友幸の文章に頻出する、川を渡るインディアンがどうこうしたというお話について記しておくべきかも知れない。これは大変記憶しにくい筋書を持つ小話として知られており、記憶についての心理実験などに利用される代物だ》(p.37)


<第3章>

《台所と辞書はどこか似ている》

この章はこう始まる。ひそみ笑いをしたくなる。


《どんな名前で呼んだとしても、その名の林檎は外国風に響きを備えたこの地の林檎だ。

 コリアンダーの細い茎だけを考えるのに、まるでたくさんのものを同時に思い浮かべるようで、実際、音の響きによってコリアンダーの緑の濃さも匂いも変わって感じる。言葉を呼び出すことにより、歯に挟んだ香りが浮かび、匂いは空気を呼び起こし、空気があれば土地があり、土地があれば人がいる。人があればざわめき騒ぐ》(p.39)

このころ私は「言葉の理解もクオリアを伴う」という事実に注目すべきだと考え始めたのだが、ここを読んだことが影響したのだろうか? それについては以下のエントリー。

http://d.hatena.ne.jp/tokyocat/20140525/p1


この章では、言語や文章を書くことを料理を作るにたとえ、さらに刺繍を刺すことにたとえているようだ。

《世界中のどこかには、その刺し方をきちんと述べる言葉が屹度あるのだろうが、わたしはあまり興味を持てない。幾何学模様を刺繍するのに、幾何学の知識は別に要らない。体が先に動くのならば、頭を動かす必要はない。会話は指先で行えば足りる》(p.41)

こう言い換えられるだろうか。「言語を話すのに、言語学の知識は別に要らない。口が先に動くのならば、頭を動かす必要はない。会話は口先で行えば足りる」

以下も同様のことを思わせる。

《言葉の綴りを習うより網目の結び方を習う方が簡単だ。実際にそこにあるものだから》(p.42)


この章の主人公は、世界各地を旅して周りながら、その時々の文章(もしくは編み物?)を、その土地の様々な住まいの中で書き散らかし、その住まいの中に書き残してきた。そして時を経て、彼は再び同じ土地を訪ねる。そのときの様子が描かれているようだ。

《思い出しつつまた同じことを繰り返す。繰り返している記憶はないが、実際に存在している紙の山は圧倒的な現実だ。過去が未来か知らないが、とにかくいつかに書かれたものだ。言葉をまた、最初から各。その音から。字を覚え、数字を覚え、単語が別れまとまりとなり、小麦粉が小さなだまとなり、レモン汁が牛乳をほろほろと固め、ひき肉がねばあり、タマネギがフライパンの上で溶けていく》

ここを読んで、自分もブログにけっこうな文章の山を書き残したが、いつしか中身をすっかり忘れていることを思った。


《布の目を数え、毛糸の目を数え、レース系の目を数え、頭のなかの編み図を、縫い図を、刺し図を布の上に書いていく。

 幾何学模様を位相幾何学模様を代数幾何学模様を書いていく。それが何かはわからないまま。模様自体に意味はなく、模様から意味が紡がれていく。糸で、針金で、鉛筆で、ボールペンで、万年筆で、銀筆で、アルファベットを縫い取っていく。裏と表で、同じアルファベットが並ぶように。裏と表で、鏡文字とはならないように。

 そうしてそれを文字へと移す。つくりかけの状態を手芸本用に写真へ移す。自分がこうして何をしているのだか、だんだんよくわからなくなる》

たしかに、文章を書いているときは、いったい何をしているのか、だんだんよくわからなくなるものだ。


そして文章を書くイメージは、編み物のイメージから、ついには蝶のイメージへと変容していく。

《形を絶えず変え続け、幼虫と蛹と成虫とつがいと卵が一連に繋がった生き物のような形態をとり、自分の体へ卵を産んで育み育てる》

自分の体に卵を産み、育てる。言語の働きとはまさにそうしたイメージではないか!

《模様自体に意味はなく、模様から意味が紡がれていく》

これもまさに「文字自体に意味はなく、文字の連なりが意味をなす」こととイコールだ。


<第4章>

友幸友幸の所在および友幸友幸が書いた文章を、ともに探したり解釈したりするエージェントの一人が語っているようだ。第2章の語り手と同じか。

この章でも文章を読み書きすることに宿命的に伴う幻惑が述べられているように思われる。

《読み返すだけでこの様だから、手を入れるともなれば目のあてようもありはしない。全ての文がどんどんばらばらに見えはじめ、ほんの一行前の文章が思い出せない。今目の前の綻びを直すことは確かにできるが、その修正の影響がどう全体に広がるのだか予想がつかない。あらゆる箇所が綻ぶのが見え、綻びが綻びを呼ぶのが見える。しかしそれは移動の前には気がつかなかった綻びであり、現在進行中の運動であり、今こうしてほころびるのはかつて書かれた文章なのか、今のわたしの頭なのかが判定できず気持ちが怯える》

これもまた、たとえばブログで文章を書くことにも当てはまるし、仕事で文章を書くことにも当てはまる。


また、ここでも言語や文章が他のものにたとえられる。ただし、その差異の撹乱がまたじつによい。

《わたしにとっては、宝石も、編み物も、刺繍も、言葉も、数式も根は同じものと映っていた。こうしていると、それは何かが違うと感じる。根が同じだとは感じるが、同じのあり方が異なっている。同じさ加減は、固さの程度なのだと考えていた。柔らかさの程度なのではと今は感じる。固さという性質は存在していないのではと何故だか思う。本来はただ動きだけがそこにあり、たまたま同期している現象を固さと見なすだけなのではと。自転車のスポークを眺めるうちに、ふと車輪が停止して見えたりするように》


<第5章>

第4章の主人公が友幸友幸に関するレポートを届け、それをある女性が受け取る。その女性こそが友幸友幸と呼ばれる創作者その人であるようだ。

受け取ったレポートを女性が読む、その様子。

《刷毛を用いて恐竜の骨を掘り出すように、慎重にレポートの輪郭をなぞっていく。宝石、硝子、方程式。次々と候補が舞い上がり、一刷毛ごとに確信は揺らぐ。新たに浮かぶ特徴が以前の推理を打ち砕く。人工物のようにも思え、鉱物が自然につくり出す、人工物を偽装するかのような秩序のようにも見えてくる》

言語の秩序、文字の秩序、文章の秩序についてのイメージが膨らむ。


そして、レポートをみながら、その人はふと以下のことを考える。(文章の流れがとてもよい)

《何かの種類のこれは呪いだ。 

 わたしの言葉を固めようとする種類の呪いで、思考を縛り、血を凍らせて細い血管を詰まらせていく。わたしを破って一貫した偽りの人生が結晶化して、林のように突き伸びる。急激に回路のような枝を伸ばして、わたしを取り巻き立ち上がる。木々の間には枯葉のように乱舞する無数の透明な蝶。玻璃製の蝶が互いにぶつかり砕け散り、相反する要素を打ち消していく。次から次と湧いて出て、端から互いに否定を行う。

 強く風が一つ吹き寄せ、わたしの顔に硝子の粉を吹きつける。髪を振り、服を払ってあたりを見回す。無機質に広がり続ける喪われた言葉の国に、わたしは一人立っている。あらゆる比喩を抜きにして、呆れるほどそのままに》


すると、その先に扉が現れ、老人が立っている。(なんだか寺山修司の映画のようだ)


ここから蝶と網というイメージもしくはコンセプトの核心が語られる、もしくは整理される。そう思われる。

《そして、最高に素晴らしい蝶を捕まえるための虫取り網を、編み上げ》

蝶とは、つまるところ言葉や文章のイメージだろうか。あるいは、網こそが言葉や文章のイメージだろうか。その場合、網が言葉や文章なら、蝶はそれが捕らえる思考や記憶そのもの?


「わたし」が作った刺繍もしくは文章とおもわれる創作物(それはどうやら蝶にもたとえられる)について、老人は批評する。

《「君は少しやりすぎたのだ。こんな益体もないものばかりつくりくさって」》

《「机の上に置いておくには綺麗だろうがね、こうして飛ばすには荷が勝ちすぎる。いずれ全部が否定し合って、何も残らなくなってしまうぞ。それが望みなら止めはしないが」》

《「思いつきとかいうものを片っ端から捕らえる網を、君がどこかで編み上げてしまったことが、そもそものはじまりの、途中のどこかの終のはじまりの横の角を曲がったところを最初に戻って少しずれた出来事だったのだから》

ちなみにこのくだりは第1章と呼応する。。


そして――(p.88〜)

《「これも何かの御縁ですから、どちらかを進呈することとしましょう。道化師の蝶か、道化師の蝶を捕まえる網かどちらかを」》

《わたしはこうして解き放たれて、次に宿るべき人形を求める旅へと戻る。

わたし=蝶か。

《何かを思い出したり考えたりするのはわたしではない。そんな機能はこの体には備わらない。そうした機能を得ようとするなら、何かの頭を借りなければならない》

わたし=蝶=言語か?

蝶は言語であるが、言語自体が何かを思い出したり考えたりするのではない。思考や記憶はだれかの頭の中にある、ということになろうか。


《わたしは男の頭の中に、卵を一つ産みつける。

 言葉を食べて、卵から孵る彼女は育つ。

 こうしてわたしは思考を続ける》

《とにかくなんとか種を維持するほどの繁殖だけはしているのだが、繁殖の作法は固定に至らず流転し続け、いちいちが秘密に鎖されている。その度ごとに、場に機に応じた方策を、なんとか捻り出さねばならない。なにごとにも適した時と場所があるはずであり、どこでも通用するものなどは結局中途半端な紛い物であるにすぎない。

 時と場所が変化をすれば、繁殖の方法だって変化をせずにはいられない。

 旅の間にしか読めない本があるとよい。

 そんな着想が男の頭でゆっくりと形をとりはじめる。今はもう見届ける暇もないが、結果はいずれ知られるだろう。わたしたちの子供が羽ばたくことで。

 無数の蝶のどれが一体彼女なのかは、羽の模様で明瞭りとわかる》


小説はこのように終わる。


 *


『群像』での合評 → http://book-sp.kodansha.co.jp/topics/doukeshi/gappyou.html