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2004-02-02

論争の果てに何かあるか


1月23日にも触れた『無限の果てに何があるか』(足立恒雄)を読んで、数学という思考はあまりに特異な位置にあるのだと改めて実感。その感動についてはまたいずれ。きょうはそこから派生して考えたことをひとつ。

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数学の証明とは何かという話になると「公理系」というのが必ず出てくる。「ある点からある点に線を引ける」「直角はどれも等しい」といった当たり前みたいな条件を「公理」として取り決め、それを基にして図形のさまざまな法則を厳密に証明していく、そうした枠組みのことだ。だから公理系はいくつでも想定できる。その好例として「ユークリッド幾何学」と「非ユークリッド幾何学」がしばしば紹介される。我々はふつう「三角形の内角の和=180度」と考える。このときは「ユークリッド幾何学」という公理系に立っているのだ。しかし、たとえば北極・シンガポール・ナイロビを地表で結んだ三角形ならどうだろう。内角の和は180度を超えるはずだ。つまり、三次元的に曲がった世界では公理系を「非ユークリッド幾何学」に転じる必要がある。

この異なる二つの幾何学は、ニュートン力学とアインシュタインの力学(相対性理論)それぞれの拠り所になったとされる。加えて、力学の大きな理論変更としては量子力学も出現した。ニュートン力学がたとえば野球のボールや自動車の動きをほぼ正確に計算できるのに対し、銀河や光といった巨大あるいは高速のスケールでは相対性理論を用いる必要がある。逆に、原子核や電子といったごく小さいスケールでは量子力学が成り立っている。つまり物理学では、対象となる物質や現象のスケールが変わることで、それを扱う数学に公理系の変更が要請されてきたということだ。(相対性理論と量子力学の違いが幾何学の公理系の違いに当るのかどうかは不明)

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さて、こういうことは経済学や戦争をめぐる議論においても言えそうだ。ふとそう思いついた。

経済学では、まるきり初歩的な例だが、小さい市場で売り買いする経済と、国や世界の規模で揺れ動く経済には、それぞれ別の数学・別の理論を当てはめる。これも公理系の転換みたいなものだ。それが「ミクロ」「マクロ」とスケールで区分されるのはなにか象徴的。あるいは、マルクスという人は、「資本主義が成り立つ」という絶対の公理系が支配していた経済学に、「資本主義が成り立たないとしよう」と別の公理系を対置しようしたと言ってもいいだろう。

「戦争は避けられない(平和はない)」「戦争は避けられる(平和はある)」という根深い対立も、まさに相異なる公理系であるかのように感じられる。つまり、戦争をめぐるこうした見解は、議論によって白黒つけるべき課題というより、むしろ他の具体的な命題を証明するための公理として最初から要請されているように思えるのだ。たとえば「自衛隊のイラク派遣は正しい」「北朝鮮への制裁は正しい」といった具体的な命題が、「戦争は避けられない」または「戦争は避けられる」どちらの公理系に拠るかによって、真にもなれば偽にもなる。たとえ話で言うなら、政治の幾何学として「イラク×アメリカ+日本=平和」と「イラク×アメリカ+日本=戦争」二つの公理系が共に成立している、ということになるか。

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「論争って空しいね」と言いたいのではなくて、ここからくみ取れることがある。経済や戦争について、ただ一つの原理、ただ一つの公理系で説明しつくすのが無理だと感じられたときは、べつに全部を説明しつくす必要も義理もないということだ。スケールや視点の変化に応じて、別の経済論や別の戦争論を異なる公理系として使い分ければよい。当てはまる部分だけ当てはめて、ほかの部分との整合性には少々目をつぶる。そうやって難しい現実が納得できるなら、べつに不誠実でもない(数学の証明では無理だろうが)。たとえば財政とか金融とかあるいは安全保障とかを考えるとき、家の財布と国の財布、あるいは個人の殴りあいと国家の殴りあいでは、どうしても異なる原則や理屈があるように思える。誰しも実感しているところだろう。

正しい不平等。正しい戦争。そういうものが成立するスケール(共同体)がありうることに、目をそらすのはおかしい。同時に、それがどうしたって成立しないスケール(個)がありうることに、目をそらすのもおかしい(保留)。

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さてさて、政治や経済の議論を公理系として眺め直すのであれば、数学に絡んでぜひとも踏まえておきたい事実がもう一つある。それは「数学は自然科学ではない!」ということだ。数学の証明は公理系を踏み外さないかぎり完全に永久に正しい。それは数学というものが、自然現象とはなんら関係ない、まったくの仮想世界における思考だからだ。…いや私ではなく足立恒雄氏がきっぱりそう言う。

ということは…。そう、他のあらゆる科学は完全でも永久でもない。地球のことも生物のことも、空間のことも時間のことも、我々は数学をそこに当てはめることで現象を解釈し納得している。しかし宇宙が本当にそうなっているのかというと、その保証はない。少なくとも隅々まで実際に確かめてみるまでは。ミクロやマクロの経済学も、戦争や平和の思想もそうだし、相対性理論や量子力学もそうだ。これらの理論は、物質や社会のふるまいを計量し予測する道具として磨き抜かれ、かなり実用的でもあるけれど、これらの対象が本当に数学的に生成され構成されているということを意味しない。いやそれどころか、このリンゴやあの火星、あるいは現実の不景気や現実の戦争が、そもそもどのような数学にも法則にも従っていないという可能性すらある。そうでないとは誰も言えない。

だから何だ、ということにもなるが、それもまた改めて。

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正月、古い知りあいに「東京で毎日どんなふうに暮らしているのか」と聞かれた。どうにも答えがたく「ああ、だったらウェブの日記読んでもらえれば…」と言いそうになるが、でも「こんな暮らしです」というわけにもいくまい。いや案外これで生活の要約だったり…。何だろうか、これは。生活の果て?

finalventfinalvent 2004/02/02 21:46 からんでいるようで、また、批判めいた話に聞こえてはと懸念するのですが、各概念の基礎がかなりあやういように思います。「三次元的に曲がった世界では公理系を「非ユークリッド幾何学」に転じる必要がある」は、逆で、ある公理系からそれぞれの空間概念が出てくると考えるべきでしょう。それと、古典力学、相対性倫、量子力学は、対象世界におる棲み分けというのは違うと思われます。相対性理論は別として、古典力学と量子力学はそれ自体はそれぞれの体系であるにすぎません。変更乃至どちらが真理、ではありません。ちょっといい例ではありませんが、ベル不等式などからわかるゆに量子力学はミクロではなく世界の果てまで覆っています。/ それと、この手の問題と社会科学や経済学の比喩とするのは基本的な間違いです、というか、危険です。諸学にはそれぞれの基礎論があり、それを一義的に尊重すべきだす(ヴェーバーの科学論など)。/ ウェーバーには神々の闘争の概念があるのですが、「どちらの公理系に拠るかによって、真にもなれば偽にもなる」ではなく、それを我々は決する(闘争する)のです。つまり、リアルワールドは、いまここにひとつしかない、だから、議論から、このリアルワールドに一つの真理を選び取るのです。/ 「数学の証明は公理系を踏み外さないかぎり完全に永久に正しい。」は変です。また、数学が仮想だとするのも変です。「足立恒雄氏がきっぱりそう言う」というのであれば、足立恒雄は変です。普通、数学者は自然数を実在と考えている、と思われます。/ 現実の現象が数学に従うかではなく、現象はモデルによって説明されるのであり、モデルは元来そのような性格を持つものです。

tokyocattokyocat 2004/02/03 03:41 毎度お世話になります。基礎があやうい所と、説明の便宜上ちょっと曲げてしまった所があると思うのですが…。ともあれ返答することで私の動機も伝えられそうなので、細かく書いてみます。《「三次元的に曲がった世界では公理系を「非ユークリッド幾何学」に転じる必要がある」は、逆で、ある公理系からそれぞれの空間概念が出てくると考えるべきでしょう。》ここはその通りと思い直しました(分っていなかったわけでもないのですが)。公理系は変わりうるし、変わることで新しい空間概念が出てくるというところに、公理系という見方の核心がありますね。《古典力学、相対性倫、量子力学は、対象世界におる棲み分けというのは違うと思われます。》ドライブのスケジュールでは古典力学を使って時間や距離を割りだす一方、電子機器の制御等には研究であれ製品であれ量子力学で計算すると、そういう意味では対象に応じて理論を使い分けているのではないでしょうか。《相対性理論は別として、古典力学と量子力学はそれ自体はそれぞれの体系であるにすぎません。変更乃至どちらが真理、ではありません。ちょっといい例ではありませんが、ベル不等式などからわかるゆに量子力学はミクロではなく世界の果てまで覆っています。》物理理論はどれも現象を説明する理論であって真理そのものではなく、その点で優劣はないということですね。そこは私も踏まえていると思います。また、変更というのは「相対性理論の発想のもとにはユークリッド幾何学から非ユークリッド幾何学への変更があった」ということです。ベル不等式とは、量子的な不確定性がいくら離れても保存されているといった話だったでしょうか(?)。でもまあ対象自体は粒子だと思います。《それと、この手の問題と社会科学や経済学の比喩とするのは基本的な間違いです、というか、危険です。諸学にはそれぞれの基礎論があり、それを一義的に尊重すべきだす(ヴェーバーの科学論など)。》さていちばんの問題はここです。富の不平等や戦争について、「それらはなくならない」という人と「なくなると考えてみよう」という人の意見が、それぞれ証明すべき命題であるよりも、ほかのなにかを証明する公理みたいに思えること、それを伝えようとこの文章を書きました。公理と公理みたいなもの一緒にするのは間違いのもとかもしれませんが、あえて比喩にすること自体が趣旨なので、どうしてもこうなりました。《ウェーバーには神々の闘争の概念があるのですが、「どちらの公理系に拠るかによって、真にもなれば偽にもなる」ではなく、それを我々は決する(闘争する)のです。つまり、リアルワールドは、いまここにひとつしかない、だから、議論から、このリアルワールドに一つの真理を選び取るのです。》ここは不勉強できちんと答えられませんが、議論することは実行することとは別なので、真理が決しないことはよくありますね。かといって議論では真偽を決しなくていいと言いたいわけでもありません。《「数学の証明は公理系を踏み外さないかぎり完全に永久に正しい。」は変です。》公理から導きだされる数学の証明は完全に正しいと言えるのではないでしょうか(証明できない命題があるということは別にしてですが)。《また、数学が仮想だとするのも変です。「足立恒雄氏がきっぱりそう言う」というのであれば、足立恒雄は変です。普通、数学者は自然数を実在と考えている、と思われます。》足立氏は同書で、数を実在と考える数学者もいることを述べてそのことの意味にも思いをはせていましたが、自身は数学は完全に思惟の世界と捉えています。自然数もまさに人間が創造したものと捉えます。私もここは同感なのです。《現実の現象が数学に従うかではなく、現象はモデルによって説明されるのであり、モデルは元来そのような性格を持つものです。》「現実の現象が数学に従っている」という見方を疑えという趣旨なので、ここは意見の違いはないと思います。ただし、その見方に立つ人は多いと思いますし、宇宙はエレガントであると信じる科学者もいるようですから、「そうではないのでは?」という問いの形にして疑問を示したつもりでした。――とりあえずこんなところです。叱咤激励と解釈し精進いたします。

tokyocattokyocat 2004/02/03 03:49 全体的な傾向として基礎のいいかげんさは自覚しており、少し態度を改めたほうが自分のためかなとも思い初めています。

finalventfinalvent 2004/02/03 08:50 返信ありがとうございます。非難に取られるのではと心配でした。返信内容については了解です。意見が違ってもそれはそれでよいという部分は当然あります。例えば、自然数の実在についての議論です(ゲーデルの哲学など参照されてはとも思いますが)。また、モデルについての話は、うまく伝わってないかとも思うのですが、これはヴェーバーのいうイディアル・ティプス(アイディアル・タイプ)という議論にも関連して説明はやや難です。ただ、総じてという点で問題点に思えたのは、tokyocatさんの議論は、昔よくあった文化相対論の、ある罠にはまっているように見える点、そして、それを自然科学から修辞してしまう危険性でした。私はそれらは別に議論するカテゴリーだと思います。後者についてはファイアーベントなど一昔前の科学哲学議論で話題になりますが、それですら、社会科学など諸科学に延長される議論ではありません。前者の文化相対論はまさに、現在世界がその状況にないという認識が重要でs。これは、ちょうど湾岸戦争のときのフランス思想界で課題になったことでもあります。最近の事例ではライシテ(フランスの非宗教政策)について、クリスティヴァなどが強烈に反対を表明しているといった例があります。文化相対論的にはライシテは無意味です。日本人もそう考えるのですが、それは日本という国家が実質的に多民族を閉ざしているという現状のあぐらの上なりたつに空論にすぎません。これは例題に過ぎませんが、文化相対論は現実を隠蔽し、そのしわ寄せはかならず背後の権力に回る、これはこの10年の経験則のように思われます。

tokyocattokyocat 2004/02/03 10:12 自然科学を使った修辞をめぐる錯誤という点では、たとえば先の『経済学という教養』もその最悪例といえるソーカル事件から話を始めており、注意しないと恥ずかしいとは思っているのです。しかしそれとは別に、「理解の手だて、あるいはもしかしたら理解そのものとしての比喩」という見方を、比喩を実際に使いつつ、あえて過剰にも使いつつ探究したいという、へんな思いがちょっとあります。/文化相対論については、一般的・全般的なレベルから把握せねばと思います。今後の課題です。「現在の世界はその状況にない」という批判は、なるほどそこがポイントかと感じました。フランスの非宗教化政策については、たしかに日本人の私には判断の拠り所がないように思います。そのとき思考が何に嵌まっているのか。良い具体例かもしれませんね。このニュースはもっとフォローします。/教わるばかりでなく、いつかは本格的な議論もしたいのですが、なかなか。どうぞまたよろしく。