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2004-04-07

宇宙も思考も晴れ上がりそうで、なかなか


池田清彦に言わせれば、ビッグバンなどという超自然の神秘現象を信じるのだってまあオカルトみたいなもんだ、ということになるらしい。「言えてるかも」と思いつつ、佐藤勝彦宇宙96%の謎――最新宇宙学が描く宇宙の真の姿』(asin:4408322032)という本をぱらぱら読んでみる。「インフレーション宇宙」というのを唱えた一人がこの人で、ホーキングの著書なども訳している。96%とあるのは、この宇宙が「暗黒物質」など全く正体不明のものに満たされていて、我々が知っている通常物質はたった4%に過ぎないという話からきている。そうした新しい研究が絡んで、ビッグバン理論も今や思いのほか複雑で難解になっているようだ(そのもっともらしさがよけい怪しい?)。

それにしても、宇宙が風船のように膨張していると聞けば、「じゃあその外ってのはどうなってるわけ?」という疑問は誰しも一度は浮かぶだろう。また、宇宙がまったく何も無いところから生まれたと言われれば、「でもそのとき、何も無いということ自体は有ったのでは?」と首をひねり、「いやいや、無いというのは、有るとか無いとかいうことそのものが無いんだよ」と一人問答が終わらない。かたや、真空というのは無ではなくエネルギーに満ちているんですよと言われたりして、ますます混乱する。

とはいえ、私も結局ごく平凡にオカルトはまったく性に合わず、はっきり「科学」を信仰しているのだけど、その一方で、たとえば宇宙の「外」とか「前」といった問いを発してしまうことを通じて、言い換えれば「宇宙にしろ物質にしろ、有るとか無いとかすらはっきりしない不思議な現象のようだけど、そうした現象自体は、どうしたって生じているわけで、だから、少なくとも今ここに、なにかは有るのであって、まったく何も無いのではないだろうという、そのことそのものが本当に不思議」ということを通じて、私はやっぱりどこか「*」を信じているように思う。

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デカルトさん。「あれこれ思っている私っていうのが、なんでか知らないけど、そもそもあるんだよねえ」という不思議から始まって、その不思議をずっと大切に考え続けていったところ、なんと「あっそうか、だからほら、どうしても神があるってことになるじゃないか!」というところに至った人。先日そのルートをさして期待もせずたどり直してみたところ、意外にも切実な思考手順だったので驚いている。

それが『デカルト――「われ思う」のは誰か』(斎藤慶典・NHK出版)。ASIN:4140093072 薄っぺらな入門書だが、考え悩んでいる神経の一本をすっと引き出してくれるような語りだ。「我思う」の「我」を、「なにかを感じたり思ったりするもの」ではなく「なにかを感じたり思ったりすること」と捉えたところがミソと思われる。

それで最後にどうなるかというと――。《かくして、「われ思う」に外部は……。「われ思う」には他者は……。「私」はここに続けうる有意味な言葉を持たないのだ。これが唯一可能な「他者(すなわち外部、すなわち神)の存在照明」であることを示したのである。どういうことか》。どういうことでしょう? それは同書をぜひ。べつに秘術ではなく出版物なのだから、言語として再現可能かつ客観的。「死んだものとの対話」として始まる「哲学とは何か」という序章がまた異様だった。ひとりきり細道を行くという迷いのなさが、永井均風。

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そんなわけで、デカルトは考えを詰めに詰めていってふっと思考不可能な壁に行き当たってしまい、しかしそれを通じてこそ触れられる不可能な何かに思い至った、という構図だろう。これはやはり、ビッグバンのことを考えていて「宇宙の外部」とか「無いものが有る?」などという屁理屈のなかからふっと深遠な世界が覗けたような気がすることと、まあ重なってくる。そこに感動もする。ところがしかし、これがまさにあの「否定神学」という落とし穴なんだなと、そんなふうなこともまた強く思うのであった。

というのも、このあいだとうとう、東浩紀存在論的、郵便的』(asin:4104262013)を読破した。最後はこういう結末だったのか……。この本が出版された99年、紀伊国屋ホールでシンポジウムがあった。その席で東氏は、松浦寿輝がこの本の書評かなにかを書いたことにふれ、でも松浦さんはたぶん僕の本を最後まで読んでいないはずなんですよ、といった趣旨のことを述べたのを覚えている。その意味がやっとわかった。また、浅田彰は『構造と力』がついに過去のものになった、というもてはやし方をしたが、実際にはこれ柄谷行人を超えた本と言ったほうが正しいだろう。『構造と力』はデリダをほとんど扱っていないし、柄谷の著書や『存在論的、郵便的』のように論をつめた根をつめた魅力とは質が違う。この本については今後もずっと考えることになりそうだが、荷が重すぎるとは言える。

ちなみに、宮台真司が『存在論的、郵便的』を評した、だいぶ昔の談話がウェブ上にあった。同書のテーマはルーマンなどの社会システム論がとっくに指摘していたことで、べつにさほど新しくないよ、とか言っている。是非の判定はまったくできないが、とりあえず参考までに。

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さてさて、この日記で何が言いたいのかというと、「私は『存在論的、郵便的』も無理やり読んでしまうほど勉強熱心だ」ということです。

……すいません、ココロ社』が独自に開発した口調を無断使用しました。素晴しい発明品です。それに比べたら、青色ダイオードなんて目じゃないよ。ついでながら、有名になった「Google八部(の刑)」という造語も画期的だった(『圏外からのひとこと』)。でまた予言どおり、『悪徳商法マニアックス』がほんとに一部「Google八部」になったとかいう話も、聞き捨てならない。それこそGoogleシステムにとっての神秘なるシニフィアン?

finalventfinalvent 2004/04/07 08:38 「無理やり読んでしまう」という日本の言説コード(そのコードで語られる言説)、あるいは、言説モードのありかたが、言葉と社会の距離感をうんでいる、あるいは、言説を滅菌してるという感じはないですか。デリダの持つアクチュアリティは歴史のなかにコンテクスチュライズしているわけですが、そのコンテクストをはずすとき、アクチュアリティは消えると思うのですよ。そして、そのアクチュアリティが消えれば、それはある文明なり文化の一つの現象に還元されませんか。端的に言えば、セーヨー人って変なオブセッション、というだけの話に。

tokyocattokyocat 2004/04/07 17:40 哲学の本などを読んだり考えたりそれについて書いたりすると、私たちは言葉をどうも他所行きのものとして扱ってしまい、そのせいで、どうも腰砕けになってしまう、というようなことでしょうかねえ。西洋の言説に日本の言説で立ち向かわざるをえなかった事情から、私たちはいまだに自分の言葉を自分の身体みたいに自在には扱えずにいる、ということかもしれません。/西洋には「言葉はどうにかうまくいく」というオブセッションがあって、それに対して「いや、言葉は絶対うまくいかない」として立ち向かったのがデリダさんだ、と見ることができるかもしれません。しかし、言葉に由来するオブセッションを、同じく言葉を用いることで自省したり逃れたりすることなんて果たしてできるのか、というのが、この本の向かった先かなとも思います。で、そんなことばかり考えていたら、私自身もオブセッションに、今度は「言葉はどうにかうまくいく」と「言葉は絶対うまくいかない」の両方のオブセッションに囚われてしまうなあ、と思ったりします。そんなものを読むから西洋の文脈に感染するのだ、とも言えますが、読まないで自分一人で考えても自分にもとからある文脈には気づけない、とも言えます。というわけで、文脈というのはそもそも外せないものであるし、言葉のアクチュアリティというならそれが全部なのだ、とまでデリダは考えたのではないでしょうか。まあそれ全体が実はデリダのオブセッションなのかもしれませんが。(混乱してきたので、打ちきります)

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