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2004-09-10

世界を正しくやりくりするために


岩井克人がグローバル経済について面白い視点を示している。『インターコミュニケーション』50号、島田雅彦との対談。先日まとめた柄谷行人の視点(新潮8月号 福田和也との対談)も面白かったが、さらに3倍は面白い。

グローバル資本主義というものを、多くの人はアメリカと他国の「支配/被支配」の関係であると理解しているが、それは世界認識の誤りであり、本当は「基軸/非基軸」の関係なのだと岩井は言う。《アメリカの通貨が世界の基軸通貨として流通しており、アメリカの言語が世界の基軸言語として流通しており、アメリカの軍事や外交が世界の基軸軍事力として、世界の基軸政治力として流通しているから、アメリカは圧倒的な存在感を示しているということなのです。》《アメリカという国は、常にアメリカ以外の国と国とのあいだのインターコミュニケーションの媒介となるものを押さえていることによって、覇権を握っているように見えるのです。》

これをブッシュもアルカイダも「支配/被支配」と誤解するからこうなったんだという。《アメリカの王位に正統性がない以上、それに反発する勢力にも正統性はない。》

アメリカが強いからドルや英語が強いのではなく、ドルや英語はアメリカの経済力や文化力をはるかに超えて流通している、という言い方もする。

さらには、「貨幣という物=王様、商品という物=臣下」としたときに、《本来は、臣下が王様に対して臣下として振る舞っているにすぎないのに、まさしく王様は強いから王様だとみんな思ってしまう》、というマルクスの分析をそのままグローバル経済のからくりに当てはめる。

いずれも鮮やかな図式と表現だと感じた。そしてやはり『貨幣論』(岩井著)を思い出させた。貨幣をまるで循環論法の体現であるかのように華麗に奇妙に解いたあの本を。


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この前段として、資本主義の市場原理に対する姿勢も明らかにしている。

《市場経済とは、自分が作ったモノは他人に買ってもらえなければ価値がないという仕組みなんですね。》《つまり市場経済とは、一種の「批評」の実践場なのですね。資本主義のもつこの「批評性」に社会主義は負けたのです。》さばさばしたもの。

しかしこれは市場の「論理」にすぎず、市場の「倫理」のほうが見いだせなくて右往左往しているのが現状だとする。近代の産業資本主義と、それに対する自己疎外論という近代批判がともに崩壊し、ポスト近代のグローバル資本主義によって市場の「論理」が徹底されてきた今こそ、その市場の「倫理」が真に求められるというのだ。岩井はその解答は持っていないが、《売れたからといって価値があるとは限らない》が出発点にはなるだろうとだけ述べる。


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まったく別個にもうひとつ、刺激的で独創的な見解が飛びだす。

《人間において遺伝によっては決定できないものは何か…》《その答えは、まさに言語、法、貨幣なんです。》《…個々の人間にとっては外部の存在である言語、法、貨幣――それらを媒介として、初めて人間は人間となるという認識。これは私は根源的だと思っています。》

これは、遺伝子という根拠を持たないから普遍的ではないという意味ではない。それが生物的な基盤でないにもかかわらず、言語と貨幣という外部の媒介なしには人間社会の基盤が成立してこなかったところに、むしろ根源的な神秘を感じるということだろう。


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いろいろ考えさせられたが、なにより、市場という見方はさまざまな問題に適用可能だということに思いが向く。

市場の論理とは、他者による批評が入るという意味で《近代的自我の自己中心性に対する最も根源的な批判という側面》を持つとまで岩井は言う。

世界の困難について堂々と悩むにも、日常の困難についてチマチマ悩むにも、たとえば「流通」「媒介」「交易」といった視点でその困難を分析してみるなら、人間のどのような活動でも「市場」というものが根源的であり積極的ですらあったことが分かってくるのかもしれない。経済や社会を憎んで対決することが正しいと信じてもいいし、そこから離れて引きこもることが楽しいと信じてもいい。しかし、それと同程度には、貨幣や言語を切り捨てたり貯め込んだりするのでなく、とにかく交換してみよう、そうすることが実はもっと正しいしもっと楽しい、と信じてもいいのだ。いずれも「支配/被支配」の図式だけで克服しようとするな、といってもいいだろう。…いやどうもあまりに原則的で観念的にすぎるか。


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いずれにしても、貨幣と言語は人間社会にとって根源的であり不可欠でもあると考えて、まあ間違いないのだろう。そして私はふと思った。それは先日「人間の心とは要するに表象という作用の集積とイコールではないか」と考えたこととも少し関係する。すなわち――。

人間にとっての表象は、絵もあれば音もあるといったぐあいに多種多様に存在する。しかし、そうしたあらゆる表象と交換可能なものが言語という表象ではないのか。言語こそが表象の王様であり貨幣である。――まあこういうことも誰かがすでに述べていそうなことだが。

さらに考えを進める。では貨幣の本質とは何か。それを岩井克人は解明しようとするし、我々も大いに興味をかきたてられる。しかし我々の大多数は「貨幣の本質を考えるのもいいけど、そんな暇があったら、まずその貨幣を稼がなくちゃ。そのほうがよほど切実」と思っていて、それは正しい。貨幣の本質が理解できたからといって、家計のやりくりが飛躍的に改善されるということはないのだ。(ただし、大きな経済圏全体の貨幣のやりくりは、貨幣の本質を理解することでいくらか改善できると思われる。それどころか、個人の財布は使えば使っただけとりあえず減るが、経済圏全体の財布は、不思議なことに使えば使うだけ逆に増えるようなところがある)

しかし、言語は明らかに違う性質をもつ。言語は常に使っても減らないのだ。いやむしろいやになるほど増えてしまう。世界全体をみても、個人をみても。さらに、実はここが肝心なのだが、もしも言語の本質が理解できたあかつきには、我々の言語のやりくりは、増えるとか減るとかの次元を超えて飛躍的に改善される気がする。言語はその本質を考えることとそれを稼いだり正しくやりくりしたりすることが、たぶん一致するのだ。貨幣ならその本質を考え抜いているだけでは貧乏になってしまう怖れが大きい。でも言語の貧乏にならないためには、言語について考え抜くのが一番いいのではないか。

(なおさらに付け加えるなら、交換に挑むことの重要な意義をおもえば、言語が使っても減らないのと同じく、貨幣も使っても減らないのだと、ときに信じることが大切ともいえる。)


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キーワード InterCommunication

『貨幣論』 asin:4480856366

以前書いた『貨幣論』の感想 http://www.mayQ.net/kaheiron.html

×被基軸 → ○非基軸


貨幣をめぐる思いつきについては:http://www.mayq.net/juu.html