2004-10-28
働けど働けど…、というか、働くほど働くほど…
リクルートが無料配布している『R25』は、
多彩な情報がみごとに濃縮してあり、
レイアウトも表紙から中身からきりっとすきっとしていて、
ウケがよいのもうなずけると思った。
先週の特集「株式入門講座」がまた実によく出来ていた。
文章がお話仕立てになっているおかげで、
株をまったく知らない人をすうっと引き込んで
「なるほどなるほど」と身近な感覚でツボを掴ませてたに違いない。
優れもの。イラストも笑う。
小説がどうのこうのと下に書いたけれど、
このお話だって小説みたいなものだ。
株の知識を得るのに役立つからといって、差別はできない。
事件が起こって犯人が見つかるからといって小説でないわけではないがごとく。
恋人が死んでオーストラリアへ出向いても小説なのだ。
負けたくなかったら、
株の知識以上にもっと本当に役立つと信じられるものを埋め込んだらいい。
さて、R25はどうでもよくて、株もどうでもよいのだが。
ただ、その株とかGDPとかが、
もう長いこと上がったり下がったりを繰り返しており、
そのせいで日本の経済といったら
「とにかく停滞、横バイなんだ」という観念が
こびりついてしまっている。
しかしその背後で、
実は一方的に下がりまくっているものがあることに、
我々はもっと気づく必要があるのではないか。
ズバリそれは貧者の労働条件。がんじがらめの生。
朝も夜も満員電車のそこの人、いかがですか。
大いに参考になった本
渋谷望『魂の労働』ASIN:4791760689
*
あともういっこ大いに参考になりそうな本があった。
カール・マルクス『資本論』 ASIN:4003412516
というか、なぜかこれは今週のR25のお勧め本でもある。
『安心のファシズム』は直接そういうテーマではないが、
人質バッシング、自動改札や携帯電話による個人の捕捉、
監視カメラ、社会ダーウィニズム、といったことに関し
調査取材し分析と論考をまとめた本であり、
それを読んでいると、
現在の労働状況に通じるところは大きいと感じられてくる。
2004-10-24
「電車男」は、ことしの流行語大賞になるかも?
小説に新しいジャンルが出来たというより、
詩でも物語でも小説でもない、まったく新しい文学の出現、
とみるほうがいいのではないか。(中身はさておき)
ただ、小説というのは、
文学のノンジャンルというかothersというか無形式というか、
残りものすべてを取り込んだチャーハンみたいな存在とも言えるわけで、
「電車男」を含めることで、小説という枠のほうが拡張するのかもしれない。
巨大掲示板という新しい「読み書き基盤」が生じたことによって、
「電車男」に代表される新しい「読み書き」が生じたのか、
逆に、
「電車男」に代表される新しい「読み書き」が生じたことによって、
巨大掲示板という新しい「読み書きの基盤」が生じたのか、
そのへん、どっちとも言えないところが面白い。
これは、明治のはじめの「言文一致」と「近代小説」の
因果関係にたぶん似ているのだろう。
当時、小説とかいうものをちょっと書いてみるか、というやんちゃ者は、
今の2ちゃんに書くくらい無軌道であり発見の連続であり、
比類なく楽しかったのではないだろうか。
『電車男』 ASIN:4104715018
2004-10-17
誰がそれを読んでいるのか
現代人は、あらゆる物をただ道具や機能として扱うのではなく、
社会的な価値や個人的な志向といった「意味をになう記号」として消費している。
ロラン・バルトはこんなふうに述べた。
《衣服、自動車、料理、身ぶり、映画、音楽、広告映像、インテリア、新聞の見出し、これらは一見とてもバラバラなものたちだ。/そこになにか共通の特徴があるだろうか? 少なくとも次の共通点がある。つまり、それらはみな記号なのである。》
そして、現代人はそれらすべてに対して、
「意味すなわち記号を読む」という行為を常にしているのだ、と。
――なんてことが言われて久しい。
私が知っているだけでも20年は経った。
だからバルトの言も「うん、そうだね、で?」としか反応されないかもしれない。
いわゆる高度消費の社会に行き着いて、我々はもうとても長いということだろう。
それでも、
食べるものから着るものから、ことごとくが
なんらかの記号であるということ(=意味があるということ)は、
やはりとても奇妙なことだ。
猫や犬あるいはもしやかつては人間ですら、
そうした意味なんて、おそらく読んだりはしていなかったのだろうから。
80年代を暮しつつ我々は、
これは産業文明の奇妙さとはわけが違う、
この種の奇妙さに人類は初めて出会っているのだ、
くらいに考えていた。
ところが、20年後の現在に起こっている変化がまた、
それに匹敵するか凌駕するほど奇妙だと言わざるをえない。
そして、またもや大きく質の異なる奇妙さだとも言わざるをえない。
この新しい奇妙さを感じさせる出来事は、あまりに多いわけだが、
たとえば今朝は、次のニュースとブログがそうだった。
三重県立図書館、全利用者13万人余の個人情報流出
http://www.asahi.com/national/update/1017/001.html
アマゾンコムに関して気になる話
http://d.hatena.ne.jp/yskszk/20041016#p2
http://d.hatena.ne.jp/yskszk/20041016#p3
しかし一方で、『ブブログ』などは、
同じ奇妙さのエッセンスを面白くツール化した創造と見ていいのだろう。
いやまったく、これは楽しそう。
ブブログ→http://booklog.jp/
その例→http://booklog.jp/tana.php?ac=fuseikai
自分が関わってきた図書が、情報としてきれいに整理・統合され、公開され、
おまけに無数の他人というか世界中の同じ図書に関わる情報と
ことごとくリンクしていく。
そのなかのどこかの次元に、いつしか新しい「意味」が生じているのだとしたら、
それはもう、上で言った「記号としての意味」ではないだろう。
いわばやっぱり「情報としての意味」だろう。
そのとき、記号の意味も情報の意味も、べつに私が取り決めたわけではないが、
記号は、少なくとも読んでいるのは私だった。
ところが、情報の意味を読むのは誰だろう。やっぱり機械(っぽい)?
そうなるとこれぞまさに
「人文的な意味」ではなく「工学的な意味」と呼ぶべきなのか。
「記号」も「情報」も、陳腐な言葉だが、
テクノロジーの新しい局面として議論されている核心が、
「記号から情報へ」と括ってみることで、
私としては、ひとつ見通しがよくなった次第。
*
ところで、そもそも記号なんていう言葉をなぜ今さら持ちだしたかというと、
『記号の知/メディアの知』(石田英敬)という本を読んでいるせい。
これは、記号およびメディアとはそもそもどのような作用であるのか、
重点を過不足なく平易に解いてくれる一冊。
バルトの引用も同書から。
ソシュールと並んで記号の学問の祖とされるパースについても詳しい。
ソシュールが
記号を2項(表象するものと、表象されるもの)で捉えたのに対し、
パースは記号を3項で捉えた、という。
「対象」「記号」に加えて「解釈項」という媒介みたいな役割を考えるのだ。
この3項という視点が、
意識や生命を考える際の新しい発想をもたらしてくれてもいるようだ。
(すべて聞きかじりなので注意)
郡司ペギオ幸夫氏の超難解理論などもこれに関係ある、
かどうかは私に分かるはずがない。
2004-10-16
まだ知らないというか、もう知らないというか
南京大虐殺で何万人死んだのか、私は知らない。ペンタゴンに旅客機が本当に突っ込んだのかどうかと同じくらい知らない。イラクが大量破壊兵器を保有していたかどうかもついこの間まで分からなかった。ロンドンハーツのブラックメールがやらせかやらせでないかすら、私は教えてもらっていない。そして、少なくともそれが不明であることの責任は、少なくとも私にはない。悩んでも仕方ない。ケンカしても始まらない。日本の若い人どうしなら、天動説と地動説のどちらが正しいかと同じくらい、明るく楽しく議論してはどうだろう。いや天動説と地動説でもケンカは起こるのか。絶望!
抗議受け漫画休載 南京大虐殺めぐり集英社 (共同通信)
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20041013-00000094-kyodo-soci
南京大虐殺 Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%97%E4%BA%AC%E5%A4%A7%E8%99%90%E6%AE%BA
真っ当なコダワリ
だいぶ遅くなったけど、追加。
今回の騒動を《馬鹿げたコダワリ》と評したフレーズがあって、印象に残った。
http://d.hatena.ne.jp/kmiura/20041020#p1
このばあい、馬鹿げたコダワリをしているのは、ええっと、自虐史観の人(サヨクとも呼ばれる)じゃなくて、自溺史観の人(ウヨクとも呼ばれる)のことだね――、といちいち指さし確認しないといけないのは、国民のコダワリもいろいろだからだ(人生も)。
そして私もいろいろ考える。自溺側から自虐側への攻撃は「馬鹿げたコダワリ」だけれど「馬鹿げたマチガイ」とまでは言えないのかな。また「馬鹿げたコダワリ」だけれど「真っ当なコダワリ」とまでは言えないのかな。じゃあ逆に、自虐側から自溺側への攻撃はどれに当るのかな。この議論で、不審と不信が右に左にぐらぐら揺れてしまうのは、いつもこのあたり。
この議論、形式だけみれば対称構造だと思う。もちろん形式より中身のほうが刺激は強いし大事でもあろう。しかしそのせいで、この議論では形式のほうがいつもウヤムヤにされているようで、気持ち悪い。
すなわち――。<自溺側は「日本がアジアを侵略したという歴史は誤りだ」と主張している>と自虐側は主張する。しかし実際の議論では、自溺側の主張の焦点は、「歴史は誤りだ」よりむしろ、「自虐側の言い方は誤りだ」である場合もけっこうある。これに対して自虐側は「歴史は誤りではない」と証拠を示して反論する。しかしそれは「自虐側の言い方は誤りではない」の証拠にはなっていない。要するに自虐側は、批判されているのが歴史ではなく自分自身であることに、案外気づいていない。そこが気持ち悪い。
こういう話はしかしホントに面倒だ。でもこういう真っ当な面倒に「コダワル」人がたまにはいるから、インターネットはすごいと思う。そして、こういう面倒こそ引き受けなければ始まらないのだと直観する記事に、トラックバックは送らずとも心のエールを送っている人はもっとたくさんいるんじゃないかと思っている。
http://amrita.s14.xrea.com/d/?date=20041020#p10
http://d.hatena.ne.jp/Soreda/20041021
*
なお、「自虐史観」は「自戒史観」でありうる。「自溺史観」は「自尊史観」でありうる。
この問題の可能性の中心(かもしれない部分)
さらに追加
http://d.hatena.ne.jp/fenestrae/20041019(はてなダイアリー『fenestrae』)
ブログとしては長めだが、得るところ大きいので、少々我慢してでもぜひ。
一部を以下に引用。
《私が「事実」としてショックを受けるのは、2人の兵士が100人の中国人を競争で日本刀で斬ったかどうかよりも、それが読者の興味をひく記事として当時の新聞に堂々と大きく掲載され、戦意高揚とまで考えられていたまぎれもない事実、そうした事実が報道されながら軍もなんら問題にすることもなかった事実であり、そうしたことがまかり通っていた、当時の日本の文明としてのありかたである。私はこの事件が新聞記者の創作であればなおのこといっそう、それをよかれと思ってやった新聞記者の世論に対する感覚を思い慄然とする。(中略)もし2人の行為が汚名であれば遺族には最後まで闘い真実を求める権利がある。しかしこの問題を政治的に解釈し、これが新聞の創作であることが証明されれば、日本人の汚名が返上できるといわんばかりの論をはるものは、この点に関する日本人全体の名誉についてどう考えるのだろうか。》
《…過去を時代の文脈におき、人々の行動を相対主義の相のもとで理解することは確かに必要かも知れない。しかしまたわれわれには、現代につながる近過去を、新しく獲得した現代の価値基準で見、そこからショックを受け、受け入れられないものとしてはねつける権利も義務もあると私は信じる。もし理解という行為があるとすればそれはその権利を行使してからのことだ。》
《相手の議論の1%の隙をつきながら行われる「なかった主義」の議論、それは、どこまでも枝わかれする細部に次々と入り込んだり論点をずらしながら、それぞれの場所でいくばくかのポイントを稼ぎ、それによって中心部分までも否定したかのような印象を与えるテクニックの駆使によって展開していく。知的ゲームとしてのそれを読むはめになるとき、無念を背負った死んでいった人々の残したまぎれもない物理的な跡を見たり、いろいろな思いを背負った残された人間との具体的なこれまでの出会いなしには、自分もその「なかったゲーム」の担い手になっていたかもしれないとふと思うことがある。》
*
この記事をうけ、
相対主義つまり昔のことを今の感覚で断じていいかどうか、をめぐる意見。
http://d.hatena.ne.jp/flapjack/20041026
歴史に対しては「理解」だけでなく「是認」という応じ方が
別個にあるのでは、といった逡巡。
相当飛躍するが、私の言い方に無理やり結びつけてしまうなら、
「南京大虐殺を、私たちは楽しく議論できるのか、楽しくは議論できないのか」
といった問いに通じるのではないか。
claw
あなたに知らされていない事実がある。
▼「たかじんのそこまで言って委員会」が、視聴者に隠した真実
「実は、あの出演者とパネリストは」↓ 以下はここに
http://d.hatena.ne.jp/claw/20041018
▼本宮ひろ志『国が燃える』連載中断の背景にひそむ宗教団体
まとめページ http://d.hatena.ne.jp/claw/00010110
▼復刊ドットコムでの投票で『国が燃える』を救え
http://www.fukkan.com/vote.php3?no=26359
topページの http://www.fukkan.com/ 左下から、まずユーザー登録を。
▼南京大虐殺と「百人斬り」の基礎資料。「なかった」と叫ぶ前に読むべし。
http://d.hatena.ne.jp/claw/20041002
なぜ虐殺は発生したか。軍事的・政治的・社会的背景を知ろう。
■集英社を脅した、宗教団体配下の議員集団
http://d.hatena.ne.jp/claw/00010111
▼『国が燃える』が参考にしたあの写真は捏造ではない、という説
http://bbs2.otd.co.jp/mondou/bbs_plain?base=30102&range=1
http://pic4.ten.thebbs.jp/1089644978/x1341 いずれも写真つき
2004-10-14
ジルベルト、『模倣犯』
先の3連休(…というか、まあ)、友人から電話。「ジルベルトのチケットが1枚余っている。急に行けなくなった人がいて。代金はもういらないそうだ」。ななななんだってえ! とうとう運が向いてきた。わが人生の時の時、というか時刻は開演30分前。とるものもとりあえず駆けつける。
東京国際フォーラムの広いホールにそっと入ると、73歳のジルベルトが、ギターだけを抱えてぽつねんと、しかし実に軽やかに歌い続けていた。まさに至福のひととき。日ごろ疲れぎみの観客はもう夢心地(人によって比喩ではない)。ところでリサイタルの途中、ある曲が終ったあと、ジルベルトはなぜか次の曲を始めようとしない。我々はただ拍手を送り続ける。するとますます黙って動かないジルベルト(彼もまた眠り込んでしまったか、というほど)。こちらも拍手をやめる気にならず、ただジルベルトを見つめ続けている。何もしないことで喜びや感謝を互いに通い合わせているような、そんな不思議な数分間だった。
ところで、年をとっても若いときと変わらず麗しく歌い続けるにはボサノバだなと思った。ロックでは難しい。フレディー・マーキュリー(クイーン)なども早死にして正解だったか。
*
連休中、それ以外は、宮部みゆきの『模倣犯』を読んでいた。上下巻それぞれ約700ページあってしかも2段組。長い。週刊ポストで3年余りの連載だったという。しかし、ネット中毒の私がしばしパソコンを閉じてしまうほど、のめり込まずにいられない小説だった。
事件とその展開は派手なのだが、登場人物の多くは地味で健気に生きている者ばかり。そのぱっとしない境遇が詳細に描かれる。それが愛おしくて読みふけってしまう。宮部みゆきは常にそうだ。皆それぞれ、いかにもありそうな欠如や後悔を抱えて日々を送り、年を重ねてきている。いくつもの人物や家庭のそうした暮らしぶりとその変遷を丹念にたどっていくことが、なにより面白かったかもしれない。
よく指摘されるように、それは時として冗長といえば冗長だ。たとえば、警察の容疑者リストに上がってすぐに嫌疑が張れるような人物も、いちいち生活のなかまで覗き込んでみる。殺害された一人がたまたま上司と不倫していたなど、事件を解くカギでは全然なかったような事実にも一応触れておく。そこまで詳しくなくても、と感じるわけだ。しかし、これらはやはり、ストーリー全体の背景に少しずつ陰翳を足していく役割を果たしていると言ってもいい。主役級であろうとエキストラであろうと、みな等しく生活はあるのだし。そもそも推理小説なんて、骨子だけを簡潔にレポートされても何の楽しみにもならない(これは以前も書いた)。
それにしても、近ごろのニュースは、『模倣犯』ほどではないにせよ、あまりにひどい事件やおかしな犯人の実在を伝えてきている。でも私は意外にすぐに忘れてしまう。テレビも新聞も騒がしく深刻そうだが、どうせ一過性で不確実なのだろうという気がするせいか、犯人や被害者の性格や環境だとするレポートにも、さして興味を向けることができない。
しかし、『模倣犯』のような小説であれば、作家の宮部みゆきは、警察やマスコミと違って事件のすべてを知っている。犯人とも違って何ひとつ隠さない。読むほうも、架空の話であると知っているが、むしろそうであるがゆえに、材料をすべて与えられた思考実験として、とことん考える。事件の意味、被害者の苦しみ、加害者の動機などなど。結果的に『模倣犯』の事件は、現実の事件以上に精細な記憶になるかもしれない。少なくとも私は、『模倣犯』の被害者や犯人には、ニュースの事件以上に詳しいし、感情移入もできる。まあヘンな話だ。
ヘンな話といえばさらに――。上で言ったとおり、『模倣犯』に出てくるのは、たいてい何の変哲もない人物だ。しかも赤の他人であり架空ですらある。それなのに、たとえば、ただ事故で膝を怪我して病院の大部屋にいる印刷屋のおばさんの身の上話にまで、読者は全身で耳を傾けてしまう。それなら、遠くの親戚、いや近くの隣人についても、我々は詳細なストーリーをどれだけ知っていたっけ、などと考えてしまう。
身近な人の身の上話や打ち明け話を聞く機会というのは、案外少ないものだ。たまさかそうした場面に遭遇すれば、実はあっと驚く話も多いにちがいない。人はみな、殺人事件に巻き込まれなくても、同じくぱっとしない境遇のなかで、けっこう内緒のことも抱えつつつつ、大抵つまらないが時にはすさまじい、そんな人生をじっと長く送っている。そうした人や出来事どうしが、『模倣犯』のようには見事に出くわすチャンスがない、というだけなのだ。
宮部みゆき『模倣犯』 ASIN:409379264X
週刊ポスト嫌い
また、でたらめな記事を、この雑誌が明日流そうとしてます。
中日のある選手のトラブル記事。たしか、巨人のある選手もこういうことありましたよね・・・たしか誤報だったような。
もし、誤報だったら、どうするのかね・・・。
小学1年生だとか、小学生の雑誌を出すような出版社の週刊誌が、こんな低レベルな記事をながすとは。選手をやくざが脅してるそうじゃないか、事実は。この雑誌は、野球選手よりやくざの手先の女を信じるのか。頭おかしい。
tokyocat
う〜む、そうですか…。
しかしきょうは最新の日記を読んでいただきたい
→「誰がそれを読んでいるのか」
tokyocat
あ、そうか、週刊ポストつながりだったわけですね。気づかないでいました(すいません)。
2004-10-12
宗教をぬげ、国家をかぶれ
いつか日本が君主国から共和国に転じたあかつきには、
学校の先生や総理大臣やテレビのアナウンサーは、
一般の子供を「ちゃん」づけで呼ぶのと同じように、
皇室の子供も「ちゃん」づけで呼ぶようになるのだろうか。
もちろん、個人や共同体においては、
従来どおり「さま」と呼ぶ人がいるだろうし、
「さま」と呼ばない人もいるだろうが、
個人どうしの多くは、
お互いにそれを認め合ってトラブルにもならないだろう。
私も、このことで他人からとやかく言われたくないし、
他人にとやかく言いたくもない。
細木数子も信じようが信じまいがとやかく言わない。
しかし、国としては、つまり新しい日本共和国としては、
公の場で皇室に特別な敬称や敬語を使用することを
法律で禁じる可能性はあるのではないか。
もしかしたら日の丸や君が代も禁じるかもしれない。
そのとき、皇室に依然として特別な敬意を抱いている人々は、
その禁止法に対してどういう反応をするのだろう。
#ちなみに、新日本共和国は、日の丸と君が代は廃止しても、
新しい国旗や国歌への侮辱は許容しないのだろう。
#ついでながら、マクドナルドの場におけるお子様に対する敬語を
禁じる法律はいつ出来るのやら。
*
フランスのいわゆる「スカーフ禁止法」をめぐって、勝手に連想してみた。
この法律をめぐって拉致事件が起こったことはすでに報じられた。
加えて今度は、
スカーフをぬがされても髪は見せられないと、
頭をまるめてしまった女生徒がいるというニュース。
http://news.bbc.co.uk/1/hi/world/europe/3708444.stm
こちらも参考→http://d.hatena.ne.jp/Soreda/20041011
この法律の狙いを、私はよく知らない。
しかし踏まえておくべき点はいろいろあるようだ。
●フランスには「非宗教性」という建国以来の理念と議論があるらしいこと。
●ムスリムのスカーフだけを禁じているわけではないらしいこと。
●しかし、イスラム教ではスカーフ着用こそが「法」であるらしいこと。
以下参考
《フランスでは日本同様信教は自由であるが、同時に憲法で「非宗教性」が明記されている。端的に言えば、フランス国家はまったく諸宗教から独立していなくてはならない、ということであり、そのことから公共病院や公教育において、宗教性が厳格に排除される。》(極東ブログ)
http://finalvent.cocolog-nifty.com/fareastblog/2004/01/post_6.html
《同法は「顕著な宗教的標章の公教育の場での着用禁止法」と呼ばれ、フィヨン教育相も一日、適用対象は「公教育の場」に限定され、家庭など学校以外では着用は自由だと強調。公立校では大型十字架やキパ(ユダヤ教の男子の帽子)も禁止対象となることや、スカーフ着用の女子生徒が登校しても入り口で排除せずに対話する−など詳細な実施要領も通達した。》(産経新聞)
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20040903-00000013-san-int
《…ヘッドスカーフ着用はイスラムの法なのである。日本やキリスト教圏では、信仰とは個人の内面の問題に還元されているが、イスラムにおいて信仰とは法の遵守であり、スカーフの着用は法で決められているのだ。そしてこの法は、本質的に国家を凌駕する。イスラム教であるということは、イスラムの法が国家を支配することになる。これはフランスと限らず、近代国家には許し難いことになる。だから、スカーフが問題なのだ。》(極東ブログ)
http://finalvent.cocolog-nifty.com/fareastblog/2004/01/post_6.html
フランス大使館のサイトから
http://www.ambafrance-jp.org/japanese/info_generales_j/imagefrance_j/societe/
→「非宗教性」
*
ところで、フランスの公立学校で、仏教徒の子供が昼飯を食べる前に合掌して「いただきます」と言うのは、OKなのだろうか?
dstr
僕は、家で食事のとき、ふざけて「いただきます」と言いながら合掌したら、怒られました。
tokyocat
子供のころ、家では「いただきます」をいう習慣はなかったですね。家族内では、父や祖父は「おはよう」も言わなかった気がする。昔の田舎の日本じゃ、あんがいそんなものだったのではないでしょうか。現代の都市の核家族ではどうなのでしょうね。
dstr
うちは祖父母と同居でしたから、そのころは言っていたと記憶しています。いなくなってからは、父母と兄はだんだん言わなくなりました。僕は「た〜きま…」ぐらいの感じでラフに言っています。なんか言わないと気持ち悪い。
Soreda
リンクを辿って迷い込みました。そしたら自分のページがあってびっくり! Soredaです。「宗教をぬげ、国家をかぶれ」ってカッコいいタイトルですね。実際国民国家ってこういうことなんでしょうね。ところで、私は自分が「いただきます」を発語していることさえ気づかないほどに「いただきます」がくいこんでいる人だったみたいです。家族も。今日本に住んでないんですがそれでも多分時々言ってると思います。だからこれは私にとっての規範、法ですね。
tokyocat
Soredaさん。初めまして。いつも注目しています。毎日リンクしたいほどです。このことを語りだしたらどんどん長くなって面倒くさくなるに決まってるから黙っていよう、と思うようなことを、やっぱり黙っていられなくて書く、といった姿勢を感じ、いつもうたれます。どうぞこれからもよろしく。
2004-10-09
宇宙はモノではなくコトである
物質をどんどん細かくしていくと一体どうなるんだろう。重力とか電磁波とかいうけど、けっきょく何がどうやって伝わっているんだろう。大げさでなく「宇宙の究極の姿」だ。それを物理学はあれこれ考えているらしい。ところが、そこで示される「電子がある」や「クォークがある」は、たとえば「机がある」「カップがある」「スープがある」とはどうもカンカクが違っているようで、ずっとモヤモヤしてきた。
竹内薫『世界が変わる現代物理学』(asin:4480061932)は、そこをもうズバリ言い切ってしまう。すなわち「モノからコトへ」。物理学では《データの「背後」に何らかの実在があるかどうかを問うのは無意味…》との立場が今や濃厚なのだというのだ。《科学データのほかには数学と論理しかいらない…》と。だからホーキングが「宇宙は始まりは虚数だった」と述べても、それが実在するとかいう話ではないのだと。…なんだそうか、だったらもっと早く言ってくれよ。まあ薄々気づいていたけど。ともあれ、電子もクオークも重力も電磁波も「モノじゃなくてコト」。呪文みたいだが、それでも、頭がパンクしそうになる現代物理のレクチャーで、ただでさえ足りない頭を余計に悩ませることはなくなるかもしれない。新書で簡単な解説ながら、この種の疑問に焦点を当てた本は、他にあまりなかったように思う。
2004-10-08
人格テスト
リリカさんの日記が消えて、思い出したのは、やはりチューリングテストだ。
(参考 http://www.ai-gakkai.or.jp/jsai/whatsai/AItopics3.html)
もちろん「彼女は人工知能だったのか?」などと思うわけはない。
それでも、「高校生で女性で単一の人物」として実在するのかという点は、
疑いだせばキリがなくて、読んでいるだけでは判らないということ。
ポイントは、「実在しないことの証明は難しい」という点なのだろう。
逆に、実在することの証明なら、会うとか電話するとかでほぼ100%可能だ。
いや本当は、チューリングテストが示唆する極北というのは、
「直接会っている人間すら、
一個の人格としてみることが疑わしくなってしまう」、
そんな境地にあるのだと思う。
とはいえ、それはかなり飛躍した遊戯(あるいは苦悩)であって、
通常そこまでは疑わない。
だから我々の実社会は「まあ順調」と言っていい。
でも再び逆に、ブログや掲示板やメールという、
実社会とは異なった読み書きやつきあいに慣れていくなかで、
そうしたSF的に変容した意識が、
けっこうしっかり備わってしまっていることも事実だと思う。
それは厄介といえば厄介だし、面白いといえば面白い。
こうして目の前のマシンでメッセージを打ち、
インターネットという中央制御機構に送り込むと、
やがてどこからか、メッセージが返って来たり来なかったりする。
こういうコミュニケーションをしながら、私はずっと、
チューリングテストを受けている最中のような気持ちにもなっている。
ブログの交信においては、
そうした「人工知能との接続気分」を完全には排除できないのではないか。
2ちゃんねるなど匿名性が高いところでは、ますますそうなるのだろう。
リリカさんに関する噂も、おそらく、
実際に会っては言わないことも、まるでテストのつもりで、
つい口にしてしまう(…ことは原理的に出来ないので、文字にしてしまう)。
なんというか、
人工知能と遊んでいる、いじめてみる、ようなところもあったのではないか。
そういうときは、信じるより疑ってみるほうがよほど面白いのだ。
とはいえ、
モニターに映じさせた匿名の文字列にすぎないもの(ブログ)であっても、
それがおとしめられると、なぜか自分の身体のように「痛い」。
それが錯覚とも言い切れないことも、我々はもうよく知っている。
私は『リリカの仮綴じ〆』を恐るべき関心を持って読んでいたし、
ここでもたまに紹介した。(ちょっと皮肉交じりだったこともあって心苦しい)
また元気に出現してください!
(…とこういうことを書くと、実社会の誰かに送信しているのか、
コンピュータに送信しているのか、もうわからなくなるのだが、
仮に人工知能的なセンチメンタルだからといって、
それが実在の思いでないということにはならないだろう)
ともあれこの一件は、私としてはインターネットの歴史に残る出来事だった。
はてなでの言及リストもある。→ http://d.hatena.ne.jp/hotsuma/20040921#p2
このほか、イラク人質事件の自作自演説とつなげた考察も興味深い。
→ http://d.hatena.ne.jp/kmiura/20041007#p1
*
チューリングの論文そのものについては、こちらが詳しいと思われる。
→ http://mtlab.ecn.fpu.ac.jp/myNote/reconsidering_turing_test2.html
ちなみに、論文では、
人間が性別の違うふりをする、その人間のふりを機械はできるのか、
という思考実験だったらしい。
2004-10-07
PKを外してしまったような人生?
青空が気持ちいい。見上げて歩いていたら道端にあった犬のあれを踏んでしまう。ギンナンの実だと思いたいが、その季節にはまだ早い。
*
『経済学思考の技術』(飯田泰之)ASIN:4478210489
ちまたに経済の話は溢れている。ド素人がそれについていくための基礎と応用とにかく一夜漬け、というかんじの、非常に重宝しそうな一冊。
基礎というのも《人はインセンティブに従って行動する》《個人がアクセスできるフリーランチはない》《市場均衡は非常によい性質を持っている》といった次元。こんなの「フライを捕球されたら打者はアウトですよ」とか「ミとファの間は半音になってます、ほら」というくらいの常識中の常識なのだろう。だがそれを10回も20回も聞きながら、今回また「いや〜そうだったんだよな〜」と妙に得心してしまい、しかもなおタダ飯への抜け道を漠然と期待して改心しきれない私のような人は、ぜひともこの本をそばに置いておくべし。
著者は、冒頭から《経済学思考10のルール》というのを口を酸っぱくして述べる。上の引用はそのルールの3〜5番目だ。ということはそのまた前提があるわけで、何かというと《論理的に語らなければならない》など。すなわち演繹と帰納、逆・裏・対偶、必要条件と十分条件といった論理学のおさらいから入る。つまり、ちまたの経済話は経済の基礎はおろか議論の基礎も押さえていないことが多すぎるよ、ということらしい。しかも《経済学はごく少ない仮定(のみ!)を論理的に組み合わせることで結論を紡ぎ出すという点で、他の社会科学とは異なる際だった特徴を持っています》とも述べ、これもけっこう「へえ」だった。
さらには、《価格の調整は緩慢にしか行われない》など、これまたこれを知らないと出汁を取り忘れた味噌汁になってしまうみたいな重点というか盲点がいくつか叩き込まれる。そうして最後、こうしたにわか仕立ての経済理論を応用し、日本経済が世にも珍しい大停滞を続けるからくりとその処方箋を論じていく。
結論としてはリフレ策の正しさが証明される形。つまり構造改革路線じゃダメで、やっぱりインフレ目標策だというわけ。この結論、いよいよ「天動説は間違い、地動説が正しい」くらいに普及してきたのかもしれない。《デフレがデフレを呼ぶ……これは一種のバブルと言ってよいでしょう。物価水準の下落=貨幣価値の上昇ですから、言わば貨幣価値のバブルです》なんていう説明は、とくに鮮やかだと感じた。
しかしまあ、私は何ごとによらず整理されたロジックの体系には惹かれてしまうところがある。もっと実践も頑張ろう。経済は特に!
2004-10-06
ぼんやり、どんより
アメリカ軍はイラク人が憎くて殺すのだろうか? 武装勢力はアメリカ人や外国人やある種のイラク人が憎くて殺すのだろうか? アメリカ軍が人を殺すのは、仕方なくである部分が大きいように思う。一方、武装勢力が人を殺すのは、憎いからである部分が大きいように思う。毎日毎日ぼこぼこぼこぼこ人が殺されるニュースを見ながら、ただそんなことを考える。憎いから殺すことに比べて、仕方なく殺すことのほうは、まだしも回避できそうだから、よけい許せない気もする。しかしそんな理屈を言えるのは、私がアメリカ軍に殺された人の身内でないのと同じく、武装勢力に殺された人の身内でもないからにすぎない。それに、アメリカ軍も武装勢力も実はもっと直接的あるいは逆にもっと複雑な反応として殺し合っていないともかぎらない——私はただ想像で言っているだけだ。いずれにしても、殺される身になってみれば、憎まれてであろうが仕方なくであろうが、許せるはずはないのだ。その一点だけは、私の正常な神経からみて絶対に揺るがない。
でもこんな結論では当たり前すぎて、何も言っていないに等しい。なにか微妙に違ったことが言いたかった。もう少し考えを進めてみる。
人間は、誰かを憎むことを完全に避けるのは難しいし、誰かを殺すのを完全に避けるのすら難しいようだ。イラクのニュースを見ても日本のニュースを見てもそう思う。「本当は殺さなくてすんだ」などと考えても虚しい。いずれももう本当に殺してしまっているのだから。
私も誰かを憎むのを完全には避けられないだろう。だったら、せめて、より誤りの少ない憎みかたをしたい。たとえば私は今アメリカが憎いだろうか。ブッシュが憎いだろうか。イラクの殺し合いは「悪い」とは思うが、「憎い」という感情からは遠い。私が本当に憎い相手というなら、もっと他にもっと近くにいるのだ、たぶん。本当に憎い相手をなぜか憎めず、代わりにアメリカを真っ先に憎んでしまうようなことは、したくない。ブッシュを非難したくないのではない。それによって私が本当に非難すべき相手を非難しないですんでしまうのが嫌なのだ。
イラクで拉致され救出されたイタリア人女性もまた、誰かを憎んでいるだろうか。彼女たちが一番憎いのがアメリカやイタリアであるのなら、それを憎むべきだ。でも本当にそうなのだろうか?
憎むことは避けられない、殺すことも避けられない、と上に書いた。しかし、せめて殺すことだけは避けられる余地があるとしたら(ないかもしれないが、あるとしたら)、それはむしろ、本当に憎むべき相手を正しく憎むことの中にだけあるのではないか。宅間守は誤りなく憎んだのだろうか? 武装勢力は誤りなく憎んでいるのだろうか?
2004-10-03
六本人 歩く
わが日記に、本はよく登場するが、人はほとんど登場しないと気づく。しかし先日は珍しく人に会うために六本木まで出た。1年ぶりに顔を合わせた2人とランチ。両者とも界隈のオフィス(一人はヒルズのタワー)で勤務中のくせに、そろって素足にビーチサンダルで、驚く。気持ち良く晴れた日。本当は私もサンダル気分だったが、六本木というハレの磁場におされてスニーカーにした。ところで1年前このメンバーで同じ店でランチした日も、このスニーカーだったと気づく。いやそれは出かける前から気づいていた。
「夫がスリランカの仏教にハマっている」という話が出た。瞑想を積極的に実践する原始仏教で、さる高名な師が日本にいて注目されているらしい。教えてもらったサイトには「ヴィパッサナー」と呼ばれる瞑想について説明があった。
参照→http://www.j-theravada.net/4-vipassa.html
で、その瞑想の3原則というのが「1スローモーション 2実況生中継 3感覚の変化を感じ取る」。《一つ目は、スローモーション。からだをふつうのスピードで動かすのではなく、できるだけゆっくりスローな動きで行うこと。》 おや、この原則1は、私はすでに日々実践に励んできていたのでは? …とこれはあながち冗談でもない。《自分を徹底的に観ることです。自分が自分自身の主宰者でいられるのは、この○○○を実践している時だけとも言えるでしょう。それ以外は、自動的な反応で行動したり、他人や外部から操られているようなものです》。○○○にはもちろん「ヴィパッサナー」が入るのだが、試しにこれを「ブログ」に置き換えてもその境地は窺える。…なんて言うと師に怒られるか。それでも「2 実況生中継」「3 感覚の変化を感じ取る」と、なおさら神妙な気分になる…。
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しかし私の師というなら、やっぱりこの人、中島義道か。『どうせ死んでしまう……』。あまりに正しいフレーズ(書名)に、溜め息しか出ない。論点のひとつは、《どうせ死んでしまうのに、なぜいま死んではならないのか》という抜き差しならない問いだ。しかしもう一つの、仕事をめぐる問いがさらにラジカルだった。
《仕事を厭々ながら続けている人は多いと思う。そういう人は一つだけ確実に真実を見ている。それは、所詮いかなる仕事も、それほど重要ではないということである。じつは、地上には命を賭けるに値するほどの仕事なんか、まったくないのである。》この先制パンチに続き――
《私の眼が腐っているのか、私はいかなる仕事を見せつけられても、虚しさがこみあげてくる。寿司屋は毎日寿司ばかり握っていて楽しいのだろうか。消防士はいつも火を消してばかりいて厭にはならないのだろうか。バスの運転手も一日中運転ばかりして、アホらしくならないのだろうか。》
《いま生きている他人のために道路を造ること、少し後の他人のために構造改革を断行すること、ずっと後の子孫のために緑の地球を残すこと……こうした仕事にあなたの時間をすべて譲り渡して、もうじきあなたは死んでしまう。それでいいのであろうか。あなたが懸命に「その人たちのために」と思って仕事に励んできたその人々も、やがて生まれて来るあなたの子孫たちも、いずれ跡かたもなく死んでしまう。》
《そのことを知って、目前の仕事に命を懸ける。はたして、ほんとうにそれでいいのだろうか。「いい」と即断する人は、この残酷さについて徹底的に考えていないからなのだ。思考を停止しているからなのだ。明日、人類も地球も宇宙も滅亡することがわかっているとき、大学改革のために会議を招集するであろうか。新車を開発するであろうか。》
いやまったく、つくづく「ほんとうにそれでいいはずがない」。そして、このような問いをほんとうに問う人が、こうしていないわけではないのだという事実に、ふと救われる。いや、こういう人はただひっそりしているだけで、世の中にそれほど少ないわけでもないのではないかとの予感もわきあがる。おかしなことに、そういうことに気づいたときほど生きていることが楽しいと思えることはない。
でもこういう話は、観念的というのか思弁的というのか、そういう印象にしかならない怖れがあり、それではまったく紹介した甲斐がないので、さらに引用しておく。世間的つきあいをことごとく断ってきた著者が、そうした「半隠遁」の意図をこう述べるのだ。
《簡単である。明日にでも死ぬかもしれないからである。いつもそのことだけを考えていたいからであり、そのことが自分にとって最大の問題であると確信しているからである。テロの撲滅より、不況の克服より、東アジアの安定より、「しばらく前に生まれてきた(勝手に生まれさせられて)、たちまち死んでいかねばならない」というこの絶対的不条理を問いつづけることが、人生においていちばん重要な課題だと確信しているからである。私は「ああ、残酷なことだなあ」と呟きながら眼を醒まし、「ああ、残酷なことだなあ」と呟きながら眠り込む。この残酷さに比べれば、いかなる人間のなす残虐非道も悪行もささいなことに思われる。》
このオジサン、マジだと思う。少なくとも私がマジである程度には、間違いなくマジだ。
『どうせ死んでしまう……』 ASIN:4048838865
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