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2004-10-06

ぼんやり、どんより

アメリカ軍はイラク人が憎くて殺すのだろうか? 武装勢力はアメリカ人や外国人やある種のイラク人が憎くて殺すのだろうか? アメリカ軍が人を殺すのは、仕方なくである部分が大きいように思う。一方、武装勢力が人を殺すのは、憎いからである部分が大きいように思う。毎日毎日ぼこぼこぼこぼこ人が殺されるニュースを見ながら、ただそんなことを考える。憎いから殺すことに比べて、仕方なく殺すことのほうは、まだしも回避できそうだから、よけい許せない気もする。しかしそんな理屈を言えるのは、私がアメリカ軍に殺された人の身内でないのと同じく、武装勢力に殺された人の身内でもないからにすぎない。それに、アメリカ軍も武装勢力も実はもっと直接的あるいは逆にもっと複雑な反応として殺し合っていないともかぎらない——私はただ想像で言っているだけだ。いずれにしても、殺される身になってみれば、憎まれてであろうが仕方なくであろうが、許せるはずはないのだ。その一点だけは、私の正常な神経からみて絶対に揺るがない。

でもこんな結論では当たり前すぎて、何も言っていないに等しい。なにか微妙に違ったことが言いたかった。もう少し考えを進めてみる。

人間は、誰かを憎むことを完全に避けるのは難しいし、誰かを殺すのを完全に避けるのすら難しいようだ。イラクのニュースを見ても日本のニュースを見てもそう思う。「本当は殺さなくてすんだ」などと考えても虚しい。いずれももう本当に殺してしまっているのだから。

私も誰かを憎むのを完全には避けられないだろう。だったら、せめて、より誤りの少ない憎みかたをしたい。たとえば私は今アメリカが憎いだろうか。ブッシュが憎いだろうか。イラクの殺し合いは「悪い」とは思うが、「憎い」という感情からは遠い。私が本当に憎い相手というなら、もっと他にもっと近くにいるのだ、たぶん。本当に憎い相手をなぜか憎めず、代わりにアメリカを真っ先に憎んでしまうようなことは、したくない。ブッシュを非難したくないのではない。それによって私が本当に非難すべき相手を非難しないですんでしまうのが嫌なのだ。

イラクで拉致され救出されたイタリア人女性もまた、誰かを憎んでいるだろうか。彼女たちが一番憎いのがアメリカやイタリアであるのなら、それを憎むべきだ。でも本当にそうなのだろうか? 

憎むことは避けられない、殺すことも避けられない、と上に書いた。しかし、せめて殺すことだけは避けられる余地があるとしたら(ないかもしれないが、あるとしたら)、それはむしろ、本当に憎むべき相手を正しく憎むことの中にだけあるのではないか。宅間守は誤りなく憎んだのだろうか? 武装勢力は誤りなく憎んでいるのだろうか?

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