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2004-10-17

誰がそれを読んでいるのか


現代人は、あらゆる物をただ道具や機能として扱うのではなく、

社会的な価値や個人的な志向といった「意味をになう記号」として消費している。


ロラン・バルトはこんなふうに述べた。

《衣服、自動車、料理、身ぶり、映画、音楽、広告映像、インテリア、新聞の見出し、これらは一見とてもバラバラなものたちだ。/そこになにか共通の特徴があるだろうか? 少なくとも次の共通点がある。つまり、それらはみな記号なのである。》

そして、現代人はそれらすべてに対して、

「意味すなわち記号を読む」という行為を常にしているのだ、と。


――なんてことが言われて久しい。


私が知っているだけでも20年は経った。

だからバルトの言も「うん、そうだね、で?」としか反応されないかもしれない。

いわゆる高度消費の社会に行き着いて、我々はもうとても長いということだろう。

それでも、

食べるものから着るものから、ことごとくが

なんらかの記号であるということ(=意味があるということ)は、

やはりとても奇妙なことだ。

猫や犬あるいはもしやかつては人間ですら、

そうした意味なんて、おそらく読んだりはしていなかったのだろうから。


80年代を暮しつつ我々は、

これは産業文明の奇妙さとはわけが違う、

この種の奇妙さに人類は初めて出会っているのだ、

くらいに考えていた。

ところが、20年後の現在に起こっている変化がまた、

それに匹敵するか凌駕するほど奇妙だと言わざるをえない。

そして、またもや大きく質の異なる奇妙さだとも言わざるをえない。


この新しい奇妙さを感じさせる出来事は、あまりに多いわけだが、

たとえば今朝は、次のニュースとブログがそうだった。


三重県立図書館、全利用者13万人余の個人情報流出

http://www.asahi.com/national/update/1017/001.html


アマゾンコムに関して気になる話

http://d.hatena.ne.jp/yskszk/20041016#p2

http://d.hatena.ne.jp/yskszk/20041016#p3


しかし一方で、『ブブログ』などは、

同じ奇妙さのエッセンスを面白くツール化した創造と見ていいのだろう。

いやまったく、これは楽しそう。

ブブログ→http://booklog.jp/

その例→http://booklog.jp/tana.php?ac=fuseikai


自分が関わってきた図書が、情報としてきれいに整理・統合され、公開され、

おまけに無数の他人というか世界中の同じ図書に関わる情報と

ことごとくリンクしていく。

そのなかのどこかの次元に、いつしか新しい「意味」が生じているのだとしたら、

それはもう、上で言った「記号としての意味」ではないだろう。

いわばやっぱり「情報としての意味」だろう。


そのとき、記号の意味も情報の意味も、べつに私が取り決めたわけではないが、

記号は、少なくとも読んでいるのは私だった。

ところが、情報の意味を読むのは誰だろう。やっぱり機械(っぽい)?

そうなるとこれぞまさに

「人文的な意味」ではなく「工学的な意味」と呼ぶべきなのか。


「記号」も「情報」も、陳腐な言葉だが、

テクノロジーの新しい局面として議論されている核心が、

「記号から情報へ」と括ってみることで、

私としては、ひとつ見通しがよくなった次第。


 *


ところで、そもそも記号なんていう言葉をなぜ今さら持ちだしたかというと、

『記号の知/メディアの知』(石田英敬)という本を読んでいるせい。

ASIN:4130100947 

これは、記号およびメディアとはそもそもどのような作用であるのか、

重点を過不足なく平易に解いてくれる一冊。

バルトの引用も同書から。


ソシュールと並んで記号の学問の祖とされるパースについても詳しい。

ソシュールが

記号を2項(表象するものと、表象されるもの)で捉えたのに対し、

パースは記号を3項で捉えた、という。

「対象」「記号」に加えて「解釈項」という媒介みたいな役割を考えるのだ。

この3項という視点が、

意識や生命を考える際の新しい発想をもたらしてくれてもいるようだ。

(すべて聞きかじりなので注意)

郡司ペギオ幸夫氏の超難解理論などもこれに関係ある、

かどうかは私に分かるはずがない。

http://www.tetsugakushobo.com/book/080.html

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