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2004-12-11

青木淳悟「クレーターのほとりで」(新潮2004年10月号)

この小説、どう面白かったのか考えてみた。(少々ネタバレ)

現世人類の祖先らしき男性集団が、森を大移動した果てに、ネアンデルタール人らしき女性集団と遭遇し、交配してしまう。そんな話が長々と、しかし抑制を効かせて淀みなく語られる。生彩を伴ったホラ話。それが前半。

創世記などの神話を思わせる、人類とその習俗の起源が、「なるほど実はこんな出来事だったかも」と夢想させられる。しかも、作者は博識の押し出しが強くなく匂わせる程度なので、読者はまるで自らの想像力でそれを思いついたかのように、勝手な達成感を得るかもしれない。この小説の書かれ方として、ここはけっこうポイントではないか。

後半は、時代が一転して2015年。考古学的な発掘調査が行われている現場が舞台になる。前半で綴られた神話的な出来事を実証する痕跡が、その地層に残されているらしいのだ。

小説の前半は、視点を特定の人物にあまり担わせず、物語の外部から時も超えつつ中立的に自在に語っていた。実はその冷めた引いた視点は、現代の出来事が展開する後半でも保たれる。そのせいか、今の世の中で実際に起こっているようなその出来事が、人類始まりの神話に似てくる。発掘された複数の骨をDNA鑑定する調査団。それをとっとと終らせて現場にLNGガス基地を建てたい企業上層部。それは、前半で祖先たちが星を占ったり男を奪いあったりするのと、なんだか次元が変わらないじゃないか。愚かさとそれと裏腹の気高さとをはらんだ寓話として、冷めて引いて俯瞰している気になってくるのだ。それが微妙に心地よかったかもしれない。ここもまたポイントではないだろうか。

こういうストーリーはSFになりそうだが、一般のSFとは明らかに読んだ印象が異なる。この小説はやはりストーリーの面白さだけではないのだ。

前半、人類における歌の始まりらしきものが描かれている。後半でも現代の流行歌が題材になる。歌というのは不思議なもので、なぜか知らないが韻や節回しをつけ、一人でもわざわざ声に出す。通常の言葉とは使い方が全く違う。そういうふうに、この小説もたぶん通常のSFとはずいぶん違った言葉の使い方で成立しているのだろう(上でそれを分析したと言うのではない)。

一般に、その小説がただもうひたすら面白いときは、そうしたまるで歌というものを初めて聞いたというくらい、言葉の独特の使い方に触れているに違いない。ただ、ほとんど逆のことを言うが、小説について我々は、活字を見ただけで「みんな同じじゃないか」みたいに切り捨てるけれど、その活字をちゃんと読むと、どれも実はけっこう独特の言葉の使い方をしていることがわかる。


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『偽日記』では、前半と後半の語りの差異を詳しく分析している。(04/09/17〜18)

http://www008.upp.so-net.ne.jp/wildlife/nisenikki.html


こちらも参考に

http://home.att.ne.jp/surf/anzai/sincho/04010/aoki-hotori.html