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2004-12-17

『電車男』に注目するのは…

『電車男』についてコメント(16日)をもらいました。返答をここに書きます。

2ちゃんねるというのが言論の場として史上空前の特異さをもっていて、『電車男』という奇妙な秩序もそれなしには生成しなかっただろうという点が、やっぱり見逃せないと思うのです。

それと、小説は常に書き手が一人ですが、その前提をあらゆる小説がなぜか守り抜いていることに、『電車男』がふと気付かせ、なかなか不思議に感じたということもあります。とはいえ、「小説は一人の作業だからいいのだ」とは思っています。となると、『電車男』は小説の仲間ではなく、したがって小説との比較もできない、というのが結論かもしれません。しかしこれを言い換えれば、「物語」や「小説」の範疇に入らない新種の言語表現が出現した、ということにはなりませんか? 2ちゃんねるは「連句」みたいだといった指摘もありましたが(鈴木淳史『美しい日本の掲示板』)

言語表現というのは、古代から現代までずっと、時に大きく時に小さく揺れながら、たえず新しい形式を生成してきたと思うんですが、2ちゃんねるは、そうした変動が極めて速いスピードで日夜起こっているというふうにも見えます。そこは特別に注目していいと思うのです。「アパム」のくだりなど、日本文学がじわじわ培ってきた綾を一瞬にして体験してしまったかのような気がしました(オーバー?)。

あと、『電車男』がすべて事実ではないにしても、小説がときに事実を踏まえるというのとは明らかに違った意味で、この話が事実らしいという点は、ちょっと大変な事態なのではないでしょうか。「これホントにホントかもしれないぞ」というワクワク感は、意外に小説にはないのでは? ということです。それと、私はスレッドのまとめを読んだだけですが、リアルタイムで読んだ人は、この文章表現の生成とともに読み進み、ときには生成に直に関与すらしたわけで、それもまた大変な事態だと思います。

なお、『電車男』の中身が古典的な骨格を持った恋愛物語だという点ですが。仮にそうだとしても、それは長所ではないにしても、短所というほどでもないと思うんですよねえ…。ともあれ、私がこの表現物の中身より成り立ちそのものに注目してしまっているのは、間違いなく事実のようです。

ちょっと参考:

http://yukihiro.z1.bbzone.net/diary/index.php?cfg=cfg.php&dpone=200412171215


参考追加:

http://ishbash.blogtribe.org/entry-71ba8717b69581140e0b1d22657ed60a.html


これまで『電車男』について触れた私の日記も:

http://d.hatena.ne.jp/tokyocat/20040529

http://d.hatena.ne.jp/tokyocat/20040622

http://d.hatena.ne.jp/tokyocat/20041024

http://d.hatena.ne.jp/tokyocat/20041216

x79xxxx79xxx 2004/12/18 09:32 ご紹介どうもです。大変お手数ですがリンクをこちらに書き換えて頂くと助かります。
http://yukihiro.z1.bbzone.net/diary/index.php?cfg=cfg.php&dpone=200412171215
私は電車男よりyukimasaの方が面白いと思います。これも見るの大変だけど。
http://offtopic.name/yukimasa/

tokyocattokyocat 2004/12/18 10:18 yukimasa、知らなかったです。いろいろあるんですね。ちょっと読んでみます。

synonymoussynonymous 2004/12/18 11:07 恋愛物語の古典的な骨格がなければ、みんな踊れなかったかも。

ゆんたちゅらゆんたちゅら 2004/12/18 14:16 「「物語」や「小説」の範疇に入らない新種の言語表現が出現した」というところが、ミソだと思います。それは「いかにして」出現したかを考える必要があるのではないでしょうか。
「新種の言語表現」が、本になったり「まとめスレ」になったりして出現した、ということを見過ごすことはできないのでは。つまりそれは「読み物」になっちゃってから出現したわけで、それなら既存の物語や小説を変わりないわけです。
テクストの生成過程が複数の書き手によるということ、生成過程自体が目撃可能であったこと、内容が事実であったこと。これらもまたすべて、既存の物語や小説と、基本的に変わりはないと思います。小説を一人で書いている人はいません。か・な・ら・ず、編集者のアカが入るのです。でもそれは表には出てきませんよね。「電車男」の表紙に「著者」の名前があるのと同じです。
内容が事実であることにワクワクするのが「大変な事態」というのは解せません。日記や書簡集とどう違うのですか。書き手が複数というのなら、往復書簡があります。
生成過程の目撃が可能であった、というのも、実は判りません。ひとつのスレッドが生成されるのを目撃するというだけなら、まったく「大変な事態」ではありませんし、あるスレッドが「良スレ」になるのを目撃することだって、ない話ではありません。『電車男』という固有のスレッドを目撃することが可能であった、というのは、ある時期、あるネット上の場所にいた、というだけの話で、「大化の改新を目撃することもできた」といっているのに等しいのではないですか。
テクストの生成過程を目撃したければ、今度僕のお店にいらしてください。裏でパソコン打ってますので。

tokyocattokyocat 2004/12/18 19:00 新しい言語表現が成立したのは、まとめや雑誌になった時点ではなく、スレッドがライブで進行していた時点だと、私は捉えています。その時点における表現物としてみて、雑誌や書籍で小説を読むのとはかなり異質な興奮がありました。私はまとめを読んだだけですが、2ちゃんねるはある程度知っていますから、そこは想像できる範囲だと思います。

本であれ新聞であれテレビであれ、あるストーリーを読んだり聞いたり見たりするとき、事実に近いから面白いということもあれば、事実と違うから面白いということもあると思います。事実の記録のほうが面白い場合もあれば、虚構の小説のほうが面白い場合もあるでしょう。先に述べたことと違っているかもしれませんが、私は『電車男』が単に事実だから面白かったというのではないようです。いってみれば「ホントとウソの綾が面白い」ということかもしれません。そこは小説の面白さと同じ基準ですね。で、面白さの法則は誰にもわからないし、そこを探し当てるのが作家の本領なんだろうと想像します。しかし、そうした面白さが、作家の力とは別に、言語や媒体が置かれている状況の移り変わりの力で生じてしまうところも大きいと思うのです。小説というものが初めて世に現れた時代なら、極端にいえばどんなものでも面白く書けてしまう面白く読めてしまう、といった状況もあったのではないでしょうか。インターネットの文章表現は、今そういう時期にあるように感じるのです。

表現の生成に無名の複数の人が進行形で関わり、読み手と書き手の区別も難しく、しかもそれが本質的という点。これはやはり小説ではなかなかありえない構図かと思います。表現形式に優劣があると言いたいのではありません。小説なら小説でしかありえない魅力的な形式があるのは、私が言うまでもないでしょう。そのうえで、インターネットの掲示板やブログは、どうみても史上空前の形式であり、そのことは表現の内容自体を左右するし、言語全体の価値にすら影響するでしょう。そんな事態がここ数年でまさに進行しているのだと、私は思っています。

そういうことを含めて『電車男』は読み甲斐がありました。

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