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2004-12-20

〈私〉のバージョンアップ


永井均『私・今・そして神 開闢の哲学』(講談社現代新書)

おそらく大昔からある種の人々が「これはなんだろう」と首をひねりつつ、うまく言葉にできなくて放っておくしかなかったにちがいないこの謎を、永井均は〈私〉という言い方で結晶させてみせた。あのとき「世界は動いた」のだと思う。私は1997年『〈子ども〉のための哲学』だった。その思考を丁寧に読みたどった人は、哲学の専門家でなくとも、頭の中に初めての光が点灯するのを感じたはずだ。しかも周囲を見回せば、読者どうし同じ光がチカチカし始めたことを互いに知ったはずだ。「我思うゆえに我あり」という歴史も、これに似た衝撃だったのではないか。

で、今度の著書『私・今・そして神』では、その〈私〉がぐっとバージョンアップする。〈私〉が成立する奇妙で巧妙な入れ子の構図を、〈現実〉や〈今〉という構図と照合しながら、総合的に言い換え、綿密に語り直す。著者が用いるのは、まずライプニッツとカントのそれぞれに卓越して対をなす現実構成原理、くわえて時間や私的言語に関する根源的な思索。こうした哲学のベース基地とも言えそうな地点から、〈私〉の位置をいっそう明白に指し示すのだ。

それにしても身にしみて分かった。哲学とは理屈だ。日常使われる言葉とはちがい、まぎれもなく厳密な論理だけが駆使される。無用な修飾もない。だから、読みながらときどき数学の証明をたどっているような気になった。とくに論述の展開が循環性や対称性に乗っかって膠着してくるところなどは、方程式や図形の難問を同級生がすらすら解くのを側でただ眺めている気分だった。わが頭脳は酸欠、飽和、ぶくぶくぶく…。しかし、そうした軽業師レベルの理屈に支えられてこそ、〈私〉はやっと本当の骨格を現わしてくる。その図抜けて精度の高い透視図を、いくらかは共有できるのだから、この本はやっぱり凄い。

あえて疑問みたいなことも二つ述べておきたい。

(1)

永井均は、〈私〉とは何かが気になるとき、たとえば宇宙の果てがどうなっているかは気にならないのだろうか。素粒子の素がどうなっているかは気にならないのだろうか。私は同じく気になって仕方ない。〈私〉の謎が解けるとしたら、緻密な思索がどこまでも近づいていくがけっして到達できないある極限においてだ、という言い方ができるようだ。その極限とは、宇宙や素粒子の正体を考えて七転八倒するときの極限と同質だと思うのだ。もっと具体的に、人間という現象にとっての遺伝子の位置・脳の位置・言語や情報の位置、といった疑問を深く覆っている霧が、いまにも晴れそうで晴れないのも、同じことだろう。

しかし、こうも考えられる。宇宙や脳に関する科学的な知識や整理など、〈私〉の解明には何の役にも立たないのだと、永井均はなんらか整然とした根拠で判断しているのだと。そう考えなければ、デカルトやカントの時代でもないのに、現代の知識がほとんど出てこないのは、やっぱりヘンじゃないだろうか。あるいは、永井哲学の「公理系」は、そうした煩雑な部分を排することで、これだけ厳密な命題と証明を成立させたのだ、と言うべきなのか。

(2)

たとえば中島義道の本などを読むと(哲学書とは言えないが)、浮世の格闘と哲学の格闘とが一つの境地で結びついているふうだ。一方、永井本ではそうした下世話な空気はきれいに滅却されている。同書の冒頭で世間的な煩わしさにもちらっと触れているが、全体としては世過ぎ身過ぎでぐだぐだ悩む人物には見えない。

まあそれはある意味で当然だ。永井氏は大学の教員として給料を確保しつつ本質的な問いを中心に生活できる立場なのだろうから。私からみれば極楽。その点は中島氏だって極楽の住人のはず。そうでない立場にとっては、経済や生存の問題こそが否応なく切実なのだ。もちろん、この〈私〉をどうしたものかという問いは、この生活をどうしたものかという問いと、少なくとも同程度に切実であると私は確信している。しかしそうではあっても、生活の深刻さに容赦なく気づかされるほど、哲学の深淵さにだれもが気づくわけではない。生活苦(生活がうまくいかない)を実感するには、哲学苦(哲学がうまくいかない)とちがって特別な思索や読書を経由する必要はない。

しかしいろいろ考えた結論——。それでもけっきょく、哲学の重大さと生活の重大さとは同じ次元でありうるし、同じ次元であるべきではないか。哲学にときとして私がのめり込んでしまうのは、生存や経済の問題をも、だいぶ遠いけれども実は直接に照らしているからなのではないか。そうでなければ、このような本を手にする動機や意義はない。そうすると、中島氏のように世間的そして哲学的な懊悩(どちらも相当贅沢な懊悩だが)が同居しているような姿勢のほうが、やはり必然なのではなかろうか。

さて、少し引用もしておこう。以下は同書の入口だと思われるが、エッセンスが詰まっているようでもあり、入口にしては狭い。でも中へ進むともっと狭くなるのだ。出口はなおさら狭いし、困ってしまうほど遠い。いやそもそも出口が分からないのは私だ。だからまだ外へ出ていないと思われる。しかしまずこれくらいは通り抜けないと、きっとお話にならない。

《気分を率直に語るなら、「私」と「今」とは同じものの別の名前なのではないかとさえ感じている。そもそもの初めから存在する(=それがそもそもの初めである)ある名づけえぬものに、あとから他のものとの対比が持ち込まれて、〈私〉とか〈今〉とか、いろいろな名づけがなされていく、といった感じである。

 他人との対比が持ち込まれれば〈私〉ということになり、過去や未来との対比が持ち込まれれば〈今〉ということになる。身体との対比が持ち込まれれば〈心〉ということになり、外界との対比が持ち込まれれば〈内界〉ということになり、死との対比が持ち込まれれば〈生〉ということになり、さらに非現実との対比が持ち込まれれば〈現実〉ということになり、もっとさらに決定論のようなものとの対比が持ち込まれれば〈自由意志〉ということにもなる……といったぐあいである。

 対比が持ち込まれた後では、あたかも対比が成り立つための共通項がもともとあったかのような錯覚が生まれる。そして、この錯覚こそが現実になるわけだ。〈私〉と他人との対比が持ち込まれると、あたかもそれらに共通の「人間」というものが存在するかのように考えられることになり、〈今〉が過去や未来と対比されると、あたかもそれらに共通の客観的な「時間」というものが存在するかのように考えられるようになる。

 もともと存在しているのは〈 〉で囲んだほうだけなので、それがそれ以外のものと一緒にその内部に位置づけられるような共通項は、じつは存在しない。人間たちの中には私はおらず、時間の中に今はない。むしろ〈私〉の中に人間たちが、〈今〉の中に時間がある。〈 〉で囲んだほうが存在することこそが、世界の開闢そのものなのである。これを「開闢の奇跡」と呼んでおこう。

 ところが、対比が持ち込まれた後では、話が逆になって、もともと存在していた〈 〉で囲んだほうが共通項の中の一つとされるので、その例外的なありかたを何とかうまく共通項の中に埋め込んで消去しようとする、倒錯的な努力が開始されるのである。

 開闢それ自体が、それによって初めて成立したはずのものの内部に位置づけられることになるわけである。》

 

《開闢それ自体が、その内部で後から生じた存在と持続の基準に取り込まれる。そのことによって、われわれの現実が誕生する。だから、現実は最初から作り物であって、まあ最初から嘘みたいなものだが、しかし、それこそがわれわれの唯一の現実なのだから、それを認めてやっていかなければならない。この構造こが、本書全体を通じて私が問題にしたいことの根源である。》

(以上、p40~43)


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 私・今・そして神——開闢の哲学 ASIN:4061497456

〈子ども〉のための哲学 ASIN:4061493019


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先日、永井均関連のサイトから、リンクの連絡をもらった。

http://ugpc.hp.infoseek.co.jp/nagai/index-nagai.html

でも何か書いたっけ? と思いきや、永井均の訳したネーゲル『コウモリであるとはどのようなことか』について述べたページがあったのだった。

この連絡をもらったとき、ちょうどこの『私・今・そして神』を読んでいたので、この際、考えあぐねつつも少しまとめてみた次第。


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追加で参照

http://www.h5.dion.ne.jp/~terun/doc/sikou2.html

これがたぶん、〈私〉に気づくための、わかりやすい話。

↓こちらは、舌足らずだが、同じことだと思う。

http://www.mayq.net/copy.html

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