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2005-01-15

奈良の女児誘拐殺人とミーガン法をめぐって

大人が子供を殺すことは、大人が大人を殺すことを超えて「許しがたい」と感じる。それには一定の正当な根拠があると思う。

では、性犯罪もまた特別に「許しがたい」のか。強姦・暴行・強盗・放火・詐欺…いろいろ事件の見出しが並んだとき、強姦だけは他と全く違って不快なのか。性器への暴力とは、手足などへの暴力と同じようには語れないのか。私はそうだと思うようだ。「みんな」もそうらしい。でもその根拠は何かというと、はっきりしない。それは根拠が薄いからではなく、根拠が複雑だからだろう。

ひとつ言えるのは。性の犯罪が異質とみなされるのは、性の売買が異質とみなされるのと同じ根拠だろう、ということ。手足を使った労働の売買は禁止されないが、性器を使った労働の売買は禁止される。お金を払って食事を提供してもらうことは堂々とできても、お金を払って性を提供してもらうことはそうもいかない。(会社の受付で笑顔を売ったり、酒場の席で接待を売ったりというのも、似たものを売っているように見えるが、性自体は売っていないということで微妙な線が引けるのだろう。)

結局「性というのは我々にとって特別なのだ」(トートロジー的で申し訳ない)。

そして、性が特別であること、つまり性の犯罪や性の商売だけが特別に抵抗や侮蔑を受けることには、本能みたいなものも絡むのだろうが、文化や社会みたいなものもどうしたって大きく絡んでいる。それもまた前提。そこに抑圧や差別があるという見方もある。では、時代や地域が変われば、性の仕事と手足の仕事が、あるいは性欲と食欲が、同じ扱いになりうるのかというと、それもなかなか想像しにくい。性は常になんらか奇異な位置を占めるものなのだと思う。しかしそれでも、性にとって今のような特別さが普遍とは限らない。もっと違ったふうに特別である可能性はある。

というわけで、性犯罪だけが特におぞましいと思うことは、性の今くらいの特別さをだいたい保守したいと思っていることなのだ、と考えられる。もちろん、現状を否定し改革することが必ず悪いわけではないように、現状を肯定し保守することもべつに必ず悪いわけではない。性の今くらいの特別さをだいたい保守することで心底困るのは、どうせ「あいつら」だけだろうし。…いや心底困るのは「あいつら」だけだろうか、本当にそうだろうか…?

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ミーガン法。日本をどう良くするのか、どう悪くするのか。じっくり考えたことがないので、焦点が結べない。ただ、北沢かえるさんのこの呟きは意表を突いた。

《犯罪防止ってより、罰としてそいつの犯した罪が消えない形になるってのが魅力》(http://d.hatena.ne.jp/kaerudayo/20050114)。

こんなことに共感するのは先進国の現代人としてどうかと思いながらも、激しく共感。ただし私にとって、今そういう超法規的な制裁を与えないと気がすまないのは、なにより社会保険庁なのである。「女児誘拐殺害のあいつが、それくらいしか憎くないのか、お前は」と言われるなら心外だ。人を騙して年金を盗み平然としているあいつらが、それくらい憎たらしいのだ、私は。「罪を憎んで人を憎まず」がウソだと思うのはこういう時だ。プライバシーが曝されても仕方ないのは社会保険庁の犯罪者だろう。その罪は一生ついてまわってほしい。放火するならドン・キホーテでなく社会保険庁だ。年金のデータなど全部燃やしてしまって、一から仕切り直したらどうだ。テロだ。腹ふりだ。冗談だ。

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