東京永久観光 このページをアンテナに追加 RSSフィード

2005-03-31

島国ブログ


北田暁大東浩紀のトークショーを見に行った(参照)。『ユリイカ』もぱらぱら目を通した。インターネットやブログは広範な現象だが、やはり「はてな」は話題の中心にくる。インターネットは広がりも繋がりもリゾーム化してまったりして動物化してロマン主義的シニシズム化しているはずなのに、この偏りはいかに? 『嗤う日本の「ナショナリズム」』や『ユリイカ』をつい手にするような人が、たまたま「はてな」に集うようになっただけで、他のいろいろなものをつい手にするような人はまたそれぞれ別のところに集っているのだろう。それでも「はてな」は、なにかこうハブやメタの位置にあるようにみえる。私の生まれ育った日本という国がたまたまいくらか世界の中心にあるのと同じ程度であれば、「はてな」もまたブログ世界の中心にあるのだと思って、これからも叫ぼう。

それにしても、北田氏と東氏の会話は、コンビニ前にたむろしてジュース飲んでただダベっている最近の若者のようでもあった。コンビニ前でみんながみんなあんなテーマを語っているわけもないのだが、口調やたたずまいが似ていた。だから「なんだ北田くんじゃないか」と近所の知りあいのごとく声をかけたくなっても不思議ではない。それは、街中でタモリにあって「ようタモリ」と肩をたたいてしまうのとまったく同じ、かというとそうでもない。「はてな」は、テレビのように眺めたり論じたりする対象でもあるが、我々がそのなかを動く場であり、互いの動きそのものでもあるのだから。じゃあ「はてな」は会社や学校や地域のようなものかというと、ほとんど現実の関わりはないから、やはり違う。たしかに共同体に似た性質はある。だからこれを通常の世間のつきあいに還元してもいいし、これにコミュニティの可能性を探ってもいい。だがそれより、言語の意味の現れ方にしても、人間の関係の現れ方にしても、人類史上ちょっとないような新しい状態なのだと捉えたほうが、どうしたって面白い。では、同時に、言語や人間の長年なじんできた状態はいよいよ諦めるべきなのか。いやそんな大それた苦労はいらない。大人から子どもまでいつのまにかもうそうなっている。

 *

『嗤う日本の「ナショナリズム」』についてはこちら

http://d.hatena.ne.jp/tokyocat/20050326

x79xxxx79xxx 2005/03/31 09:02 はてなを特別視するつもりもないのですが、ここと比べるとmixiの動物化って凄いと思いませんか?(確かmixiの事を何処かで言ってたのできっとあの中の何処かにいるのだろうなって憶測で言ってます)

tokyocattokyocat 2005/04/01 04:49 mixiはたまに覗いていますが、上で言った「通常の世間のつきあいに還元する」ような利用が、mixiには目立つように思います。動物化(まったり傾向)が凄いとしたら、直接の相手だけを意識する度合いが大きいからかもしれませんね。はてなに何か書くときは、こういうコメントであっても、どこか不特定の人を意識しがちですよねえ。

x79xxxx79xxx 2005/04/01 09:30 ネットワークコミュニティに於ける動物化は2chに於いて顕著に顕れてると思いますが、無記名が基本の2chと自己同一性を重んじたコミュニティのmixiが似た傾向を生みだしてるのは面白いなあ、とか思ってそれがなんでだろうって考えてます。勿論、mixiが2chを通過した後に出来ているというのはあると思うんですけど。
東浩紀氏の動物化という概念はweb上でちらほら見ているのでだいたいの概念は捉えているつもりですが、ちょっと真面目に読んでみるかって事でご本尊の「動物化するポストモダン」をamazonに注文しました。昨日、届いたようなのでボチボチと読んでみます。

tokyocattokyocat 2005/04/01 19:40 『動物化するポストモダン』は明快でいいですね。『嗤う日本の…』とは、双子の書といっていいかもしれません。でも著二人はそれぞれ、いわばかつてのオタクと新人類それぞれの若者(実際は若者ではまったくありませんが)の典型みたいに好対照にみえて、非常におもしろかったです。

2005-03-29

How terribly strange to be forty. 


《…大半は40歳、50歳というところで人生は失敗するのだろう。なにも悲観的なことが言いたいわけでもない。》


いろいろなことを思う。


「いつまで生きられるのか」にくわえて、立ちはだかるのは、「いつまで生きねばならぬのか」。

とはいえ、たいして長くはない。だが、どうやら、そう短くもない。――《適当に暮す》としたばあいですら。fifty-fifty ?

もしまだはっきり成功を求めるなら、先はもっと短く感じるだろう。希有にもはっきり成功しつつあるのなら、なおさら短く感じるのだろう。


 *


ともあれ、私は生きるのがいやだと思うことはあまりない。どちらかといえば、ずっとこのままでいたい、死ぬのはいやだなと、つきつめればそればかりだ。それが救いなのか救いがたいのか、本当によくわからないのだけれど。

ただ、「死にたくない」というのは、贅沢な鈍感な悩みなのかもしれない。「生きたくない」に比べたらという意味でもあるが、それよりなにより、そもそも「ちゃんと生きられない」「まともに生きられない」に比べたらという意味だ。この「ちゃんとまともに生きられるのか」という不安を見なくていい人だけが、あるいは見ないようにしている人だけが、「死にたくない」などと言える。


 *


悟りとかいう。悟った人というのが、たとえばさっき見たテレビのキャスターみたい人を指すのなら、あまりにも興味がない。あるいは、悟る人はこの世に滅多にいませんとか細木先生のお叱りを受けなければ悟れませんとかいう場合も、それまたどうでもいい。大人の70%ではなく、30%でもなく、0.03%でもなく、たとえばどうだろう、5%くらい(消費税と同じ!)の人が40代、50代あたりでなにかを悟るべくして悟るのだとしたら…! それは非常に興味深い。可能性も低くない。サトエリ。


 * 


それにしても、10年、20年という年月は、あっという間であるのと同時に永遠のように長い。だから20代と40代ではきっとアンダマン海とオホーツク海ほど違う。20歳には40歳を想像できない。それを考えると、70歳や80歳には、はるかにもっと想像を絶することが起こるのだろう。楽しみ半分。死ぬより先に地獄や天国が本気で平気で姿を現わすかもしれないのだ。ほんの数十年、永遠をあと数回。

上記引用は、『極東ブログ』2005.03.29より(http://finalvent.cocolog-nifty.com/

okayamacatokayamacat 2005/03/30 17:29 何年何月の何時何分何秒に死にたいですかと聞かれたらやっぱり答えたくないです*

tokyocattokyocat 2005/04/01 04:42 okayamacatさんは、死んだらどうなると思います?(ごく素朴な質問ですよ)

トラックバック - http://d.hatena.ne.jp/tokyocat/20050329

2005-03-27

青木淳悟『四十日と四十夜のメルヘン』(新潮社)


新潮新人賞を受けた表題作「四十日と四十夜のメルヘン」を読んだ。青木淳悟は79年生の新人作家。受賞時は大学生だったという。それに続く「クレーターのほとりで」も収録されているが、こちらは雑誌ですでに読んだ。ASIN:4104741019

2作品とも不思議と形容するのがもっともふさわしいような面白い小説だった。どちらも、読み終えた瞬間、まったく同じ楽しみをそっくり反復するためだけに(なにかを確かめるためなどではけっしてなく)すぐにでも冒頭から読み返したい気にさせる小説だった。ふつう小説を読んだあとは疲労感と達成感にまどろむだけで、なかなかそこまでは思わない。希有なことだ。前評判の高さに乗せられた影響がまったくないとは言わないが。

それにしても小説というのは本当に正体の分からない営為だとつくづく思わされる。ひとこと感想というなら、そうなる。そう思わせるときがあるからこそ小説というのを捨てられないのだし、それを強く思わせる小説にこそ強く惹かれるということも改めて確信する。小説の不思議さというのは、やっぱり他のどんな営為のどんな価値によっても替えがきかない。同様に、他の営為にとっては、小説などというものは、少なくとも同次元のままで役に立つものではないのだろう。――こういうことをいつも書いている気がするけれど。

というわけで、2つの小説をどう読んだのか、ましてや、どう読むべきなのか、どう読みたいのか、うまく言い表せない。まあこれまでもずっと、小説という営為の核心なんて分からないまま勝手にあれこれ書いてきたのだけれど…。


 *


私の感想は先送りし、ネットで読めるレビューを紹介。


まず「四十日と四十夜のメルヘン」について。

http://d.hatena.ne.jp/yaginov/20050304胎児のみる夢

http://d.hatena.ne.jp/ishmael/20050316モウビィ・ディック日和

追加:http://blog.goo.ne.jp/urat2004/e/9daf1d73142c128d06c1e0d72971541a考えるための道具箱

これらの界隈に有益なレビューがまだいろいろあるようだ。


さらに追加:http://www008.upp.so-net.ne.jp/wildlife/nisenikki.html偽日記 05/03/03)

これまた唸りたくなるほどの分析


「クレーターのほとりで」については、新潮新人賞の選者でもある保坂和志氏の長い評がある。

http://www.k-hosaka.com/nonbook/megutte11-2.html

このなかで、むむ!と目を見張った箇所――。

《この『クレーター』では、「全体としてこういうことが起こった」ということが書かれていないだけなのだ。――ではその「全体」を作者はよく知っているのか?先取りになってしまうけれど、作者はたぶんあまりよく知っていない。/

「あの人はどうなったのか」「この人はそのあいだ何をしていたのか」という具体的なことは、作者に直接問い合わせればきっとすべて明快に答えてくれるだろう。しかし、ここで起こったことの全体がどうなっていて、それを「全体として何と呼べばいいのか」という質問にはきっと答えられないだろう。つまり、この小説にはメタレベルがないのだ。》

《前作もそうだったが、青木淳悟の小説は、暗示や象徴がいっぱいにちりばめられているが、それを統括するメタレベルは書かれていない。それはいわゆる「読者の解釈に委ねられる」のではなくて、もっとずっと非−人間的で、カフカと同じように、書かれたすべてを記憶するしかないものなのではないか。聖書もそうだし、本当のところすべての小説がそういうもので、私たちは、現実によって小説を解釈するのではなくて、現実に出会ったとき小説が思い出される。つまり小説によって現実が解釈される。》

「四十日と四十夜のメルヘン」にも触れている。↓

《野口悠紀雄の引用をエピグラフにして、人を食ったように始まるこの小説はしばらくは作者の意図がどこにあるのかわからないまま、細部ばかりが明快で、全体がいっこうに見えてこない(という、それ自体すでにじゅうぶんに戦略的な)状態で進んでいく。その明快さは言葉づかいによるもので、小説らしい隠喩的な言葉の使用法によって書かれていないために、書かれていることの奥で醸し出されるはずの意味がない。つまり情緒がない! 》


 *


「クレーターのほとりで」を読んだときの感想は一応こちら。

http://d.hatena.ne.jp/tokyocat/20041211

yaginovyaginov 2005/03/27 18:10 ご紹介ありがとうございました。しかし、ここまで言わせしむる青木淳悟は幸せ者だよなあとつくづく感じてしまいます。この強度で書き続けてくれることを祈ってしまいます。ところで、実は昨日、Tokyocatさんの『嗤う日本の「ナショナリズム」』に関するブログを読ませて頂いていて、「…なんちゃって!」というのが気に入ってしまい、内言において口癖になってしまいました。これからも寄らせていただきます!
追伸:以前(迷宮旅行社のほうの)『九十九十九』に関するページを読ませて頂いていました。なんだか嬉しいです。

tokyocattokyocat 2005/03/27 21:54 初めまして。「ぶっちゃけ(マジ)」も「なんちゃって(ネタ)」も、あまり頻発してはいけないという自戒を込めて頻発しました。『九十九十九』、そちらの論を読ませていただき、完璧さ明晰さにたまげたしだいです(とても私の出る幕ではありません)。さらなる文学論(等)、期待しています。これからもどうかよろしく。

ishmaelishmael 2005/03/28 01:44 TBありがとうございます。僕のブログはここ最近、青木淳悟のグーグル検索からというのが多くて、いかにも来そうな阿部和重や村上春樹なんかよりも多いのが、この作家の吸引力の強さなのかなあ思いました。そして今まさにこの過程の中で、青木淳悟という一人の書き手は、カッコつきの作家「青木淳悟」へと生成されていくのでしょうね。なんだかとても面白いです。
 要の得ない話ですみません。これからも覗かせていただきますね。

yaginovyaginov 2005/03/29 00:13 たびたびすみません。『九十九十九』について考えていたとき、tokyocatさんのものに出会ってすごく良かったと思いました。私がブログを書き出したそもそもの始まりは、あれをネットに流してみようというということだったのですが、それは、自分がtokyocatさんのページを見て「良かった」と思ったように、誰かが私のものを見て参考にしてくれたらいいなあなんて思ったからなんです。上に書いた「なんだか嬉しい」というのはそういう含みがありました。本来なら、URLを紹介させていただくべきだったのですが、もともとは身近な人たちへ発表するために書いたものだったので、「迷宮旅行社」のURLをメールでその人たちに伝えてしまったんです。「未読の方はここを参照」って感じで。ああ、なんだかすみません、思い出してモノログってしまいました。私は(勝手に)感謝しています。では!

tokyocattokyocat 2005/03/29 05:16 ishmaelさん、初めまして。もはや我々は、読んだ小説についてグーグル検索せずにはいられないカラダになってしまったのか…。実際、文芸誌などより明らかに早く、多く感想に触れられますしね。いや、そうではない、ishmaelさんたちの評を読ませてもらって、けっして「早い・多い」だけではないと確信したのです。なにか決定的なことが始まっているぞと。そういう決定的なことは、もちろん文芸誌で起こってもいいし、実際ときどき起こってもいると思うんですが、でも我々は、もう文芸誌の決定的な言葉には、どこか感受性を失ってしまっている気がするのです(文芸誌は悪くない、私が悪いのです)。というわけで、もうそのまま続けて書いていってください、決定的ななにかを。yaginovの舞城論もまったく同様です。私はせいぜい問いかけるだけですが、今後の展開に本当に期待しています

urat2004urat2004 2005/03/31 17:54 「考えるための道具箱」のurat2004です。はじめまして。

ご紹介をいただいていることに気づくのがおそくてすみません。
ありがとうございました。

青木淳悟については、ほんとうは精読して、意見に結論を出さねばならないのでしょうが、横槍、寄り道が多くてなかなかまとまった時間がとれません。ゴールデンウィークまでにはなんとかしたいところなのですが。まあ、書く書くといっておいて、書いたようなフリをして書かないのも青木淳悟的ではありますが。

これからもよろしくお願いします。

tokyocattokyocat 2005/04/01 04:40 urat2004さん。とんでもないです。こちらこそどうぞよろしくお願いします。小説を機械にたとえるなら、青木淳悟のばあい、それを分解して機能を調べるより、なにか自分も勝手にべつの部品や装置を付け加えてみる(そういうものとして何か書いてみる)ほうが、楽しいようなところがありますね。青木の小説自体が、どこかそういう装置の際限なき追加というイメージもあります。

2005-03-26

酔狂としての感動


北田暁大嗤う日本の「ナショナリズム」』(NHKブックス) ASIN:4140910240

同名の論文を『世界』で読んだ一人として、こうした著書を楽しみに待っていた。実際あの分析が詳しく積み上げられる。2ちゃんねるの本性として抽出された「ロマン主義的シニシズム」は、今後 日本社会やインターネットを論じる際に、かの「動物化」と並んで、最強のタームとなるにちがいない。…なんちゃって!

話が連合赤軍事件から始まって、意表を突かれた。しかしこれは、2ちゃんねるに至るまで通底する時代の流れを一望する必要からなのだと徐々に分かってくる。また、途中でナンシー関への思い入れが激しいのも意外だったが、じつは、ロマン主義的シニシズムへの抵抗をナンシーの立ち位置にこそ見いだすような結論になっていく。こうした狙いすました構成と展開は読みごたえがあった。さらに、論じる対象をそのつど幾重にも限定する慎重さと、異論にはたっぷり共感を示しつつ回避しておく穏健さが、説得力を醸してくる。大胆にして精緻。「嗤うナショナリズム(もどき)」という現象の鮮明さと、「ロマン主義的シニシズム」という理論の妥当性に、改めて頷かされた。…なんちゃって!

同書は、「反省という系のなかではシニシズムの運動が高まるとロマン主義が発生する」という法則を打ち立て、それによって「ネタを嗤い続けていたらナショナリズムが出てきたよ」という2ちゃんねる現象をうまく説明する。そのとき決定的に重要なのは、「アイロニー」と「シニシズム」というなんとなく似ている二つの概念の区分けだ。それは『世界』の論文でも示唆されていたが、同書によって明瞭になった。読めばよく分かる。だからここでは私なりのイメージを膨らませてみよう。社会や文化という生命体のなかで、アイロニーは構造と位置が定まった器官として有効に働く。ところが、その役割から外れて自らの連鎖反応だけを増殖させていくと、アイロニーはなんとシニシズムという癌に変わってしまうのだ。したがって、そんなものから発生したにすぎない2ちゃんねる的な「ナショナリズム」や「ロマン主義」は、歴史や思想を欠いているし、そもそも近代的な人間の所作ではない、といったところまで同書が断じるのも、大それたことではない。…なんちゃって!

こんなふうになんでもかんでも「…なんちゃって!」とスカしてみせるのは、『嗤う日本の「ナショナリズム」』をロマン主義的な感動の対象に帰着させないための努力のようで、ほんとうは、「ネタか」と問われても「マジか」と問われてもいずれにも「違うよ」と応じられる余地を残さないと不安でいられないという癌の証しなのかもしれない。まあしかし、それが「嗤うナショナリズム」であるかぎり、私たちは今夜も平和ボケのまま枕を高くして眠れるとも言える。これがもしたとえば「怒りのテロリズム」とかになってしまったら、さすがに「…なんちゃって!」ではすまない。というか、じつは「嗤うナショナリズム」にはもういいかげん飽きている。そろそろこの国にも「怒りのテロリズム」が出てもいい頃じゃないかと、内心待望。…なんちゃって!

ところで、同書の冒頭、著者は《私はパソコンに齧りつき二時間ほどでネット版『電車男』を読み終え、泣き…》と述べているのを、メタではなくベタと受けとめた私は、なかなかのロマンチスト?


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『世界』の論文を読んだときの感想 → http://d.hatena.ne.jp/tokyocat/20031016

もうひとつ関連 → http://d.hatena.ne.jp/tokyocat/20040126


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なお、東浩紀氏は同書に対して次のように反応している。きわめて興味深い。

http://www.hirokiazuma.com/archives/000127.html

《笠井氏と北田氏は(さらに付け加えると――詳しい説明は省略するが――僕の「動物化」の時代を「不可能性の時代」と言い換えようと提案している大澤真幸氏も)、全共闘から新人類(とオタク第一世代)へと受け継がれたメタゲームの果てに、いまの「動物化」現象があると考える。僕は、『動物化するポストモダン』でも、またそれ以降も繰り返し主張しているように、そうは考えない。僕の主張は単純に、メタゲームはもう必要とされていないのだ、なぜならば現在のネットワーク環境は(それがいいか悪いかはともかくとして)みんながまったり動物的に生きる文化的世界を用意したから、というものである。》

《それはおそらくは、「第三者の審級がない」ということの「ない」の意味をどう捉えるか、という世界観の違いによるものである。1995年以降の日本において、その直前まで優勢だったメタゲーム(アイロニー)が急に失効してしまった、という点では、おそらく、笠井氏も大澤氏も北田氏も僕も意見が一致している。しかし、彼ら3人はすべて、メタゲームのその端的な欠如状態に、メタゲームを存在させない、という高度なメタゲームを読み込んでしまう。その所作は、僕にはとても否定神学的なものに見える。》

これについて、《外部=第三者の審級(厳密にイコールであるかどうかは別として)を巡る、事実命題と当為命題の相違と言っていいのかもしれない》という寸評があった。(http://d.hatena.ne.jp/pavlusha/20050320電網山賊』)

これまた、なるほど!

2005-03-24

実は当て馬?(またもや)


突然変異で現れたライブドアは、みごと自然淘汰によって他を圧倒したものの、あわれ性淘汰によって敗れつつある――という俗な見方はどうだろう。

つまり、いっそう低級な比喩になるが、ホリエモンがいかに優秀な種馬であっても、交尾してもらえないかぎり子孫は残せないのである。

これじゃ適者生存ならぬ、敵社(ソフトバンク)生存?

iqo-190iqo-190 2005/03/25 01:47 みたいですねえ。当て馬。
なんだか少しかわいそうにさえ思えてきました。
と、久しぶりです。迷宮旅行社以来かしら?

えのきえのき 2005/03/25 21:51 去年、ホリエ氏に会おうともしない近鉄の社長を、「頭が古い」だの
「時代の流れをわかっていない」だのさんざん批判していたフジテレビ
の、あまりにも近鉄っぽい対応ぶりは、笑えたのに、もう収拾しちゃう
のですかね、残念!

iqo-190iqo-190 2005/03/25 22:22 いやいや、まだヒトマクあるでしょう。
もうしわけないけれど、万博よりもずっと面白い。

tokyocattokyocat 2005/03/26 21:09 >190さん。久しぶりです。私の掲示板に書いていただいたのでしたね。こちらへも気軽にどうぞ。 >えのきさん。フジテレビも必死ですね。まあみんな必死ですけど。う〜ん。

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2005-03-21

失われた10年よりもっと失われた何か


小谷野敦氏の「辞職顛末」という文書を知る。驚愕。

http://d.hatena.ne.jp/sunchan2004/20050301


阪神淡路大地震や地下鉄サリン事件から10年、「あれが日本の曲がり角だった」というのが合言葉のようになっているが、たとえば小谷野氏にしてみれば、どうしたってこの94年そして98年が曲がり角だったはず。不謹慎だが、地震やサリン(のニュース)どころの騒ぎじゃなかっただろう。

地震やサリンの教訓(というのが何なのか今ひとつ不明なところもあるが、それはそれとして)を、たしかに風化させてはいけないと思う。しかし我々個人は、もっと忘れてはならないこと、じつは白黒つけるべきだったことを、それぞれ黙って抱えている。日本の経済や社会を格調高く論じるのもいいが、こうした些細ながら重大な恨み辛みをおろそかにすべきではない(しかし明らかにおろそかにしている)。自分しか見つめ直すことができない自分の事件を、今からでもいいからきっちり検証してみる意義はきっと大きい。他人が読んでも間違いなく退屈しない。

《そのまま、もう一軒行こうということになった。私は帰りたかったが、それが許される雰囲気ではなかった。KSは私を哀れむような目で見て、まあ運命だと思って、と言った。次の寿司屋へ移ったとき、Wは私を見て、なに怯えてんだよ、と言い、HNが、誰かて怯えるわ、と言った。私には事情がよく分からなかった。なぜこのような男が学者をやっているのか、そしてなぜみんながそれを承認しているのか。それはほとんど強姦に等しい行為だった。》

《『恩讐の彼方に』という菊池寛の小説がある。しかしあれは、親の仇が、改心しているから許すのである。Wは改心などしていない。だから私は許さない。》

ちょっと、筒井康隆『文学部唯野教授』を思い出した(講義以外のドタバタ部分)。あんなのが本当にあるんだ! というかんじ。

ついでにこれも思い出した。

絶望書店日記』2003/4/17「小谷野敦氏からの電話」

http://home.interlink.or.jp/~5c33q4rw/nikki/2003_4.htm

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2005-03-19

病気はお前だ


本橋哲也ポストコロニアリズム』(岩波新書) ASIN:400430928X


サイードの『オリエンタリズム』と、スピヴァクの『サバルタンは語ることができるか』、それぞれのエッセンスが一応明瞭に理解できた気がする。やはりこんな簡単なからくりの分析だったのだと。

サバルタンは語ることができるか』(訳本)は以前かなり苦労して読んだ。私が理解したことを一言でいうなら、「もの言えぬ人々のことを、もの言える人が代弁しても、それはもの言えぬ人の弁ではないように、もの言えぬ人々の中からたまたまもの言えるようになった人が、未だにもの言えぬ人々を代弁しても、やはりそれはもの言えぬ人の弁ではない」といったようなこと。

でもこれくらいのことなら、こちらの新書を読むだけでズバッと分かるのだ。原論文を読むともっと詳しく分かるのかというと、まあそうかもしれないが、読むこと自体が大変でそっちに精力を取られるし、それに、こんなに読んだうえでこんなに単純な結論でいいのかと妙な迷いが生じてしまって、むしろよく分からなかったとさえ言える。難しい論文というのは、無駄なだけでなく、罪作りなのかもしれない。

オリエンタリズムという概念はもう一般的だと思うが、これもこの新書で改めて鮮明になった気がする。『オリエンタリズム』は序文しか読んでいないのだが、こちらも私ががんばって全部読んでも、「要するに…」とまとめてみれば結局この新書で分かった程度を超えることはできないかも、と思ったり…。


ASIN:4582760112 オリエンタリズム

ASIN:4622050315 サバルタンは語ることができるか


 *


なお、この新書は Sound and Fury で紹介されていて読もうと思った。

http://d.hatena.ne.jp/merubook/20050218

メルさんは、ポストコロニアリズムやカルチュラルスタディーズに対しては、日ごろから微妙ながら率直な距離を保っていて、その刺激が心地よい。この新書についても、大いに評価しつつ一点だけしかし致命的ともいうべき問題を指摘している。ちょっと引用させていただく。

問題は次の箇所である。

「アイヌにとって歴史とは、文字で書かれた歴史と口伝えに伝承された歴史との二項対立を越えたところに存在する、いわば自然との対話と言ってもよいものではないだろうか。一木一草に歴史が存在し、熊や鮭や花や星が歴史を語り、海川や岩石が歴史を保持するような世界がそこに広がる。植民地主義が排除してきたそのような歴史のとらえ方を、いま私たちはポストコロニアルな自己と他者との出会いを探究するなかで迫られているのではないだろうか?」(本橋『ポストコロニアリズム』p.195)

スピヴァクの読解をした後で、どうしてこうしたユートピアを植民地主義に代置しようとするのだろうか。本当にスピヴァクの文章を読んだのかと疑いたくなる。こうした単純な図式を示すことがポストコロニアリズムの思想や実践ではないと思う。少なくともスピヴァクの思想からは、こうした考えは出てきそうもないのだが…。知識人には、なぜかマイノリティに過剰な幻想を抱く傾向があるように私には思えて、それゆえにカルチュラル・スタディーズやポストコロニアリズムを全面的に認めることができない。しかし、スピヴァクだけは単純な幻想を持っていない。他の知識人たちよりも一歩先の認識を持っていると思う。この点において、私はスピヴァクを信用することができるのだ。

スピヴァクのエッセンスを紹介する本のなかで、なんでスピヴァクがやるなと言っていることをやってしまうのか、と飽きれているわけだ。この批判がどれくらい当っているかは、読んでのお楽しみである。


 *


ところで、「ポストコロニアリズム」に訳語はあるのだろうか。「植民地後遺症候群」といった感じだろうか。

かつて植民地支配を強引に進めたり正当化したりしたのは、まあ単純に「コロニアリズム=植民地病」で、そうした歴史からくる長い後遺症がポストコロニアリズムなのかな、と。ただ、その後遺症を発見して治療するための調査や研究もまた、同じくポストコロニアリズムと呼ばれているようだ。しかも重要なのは、ポストコロニアリズムとは主に知識や言説に取りつく病気だということ。

そうした事情から、とても奇妙なことだが、スピヴァクも含めてポストコロニアリズムの医者こそがポストコロニアリズムの患者に見えてしまうことは、十分ありうるのだ。そこまで言わないにしても、ポストコロニアリズムとは院内感染する病気なのではないだろうか。

そうすると、むしろこういうことでぐだぐだ考えたり悩んだりするのを止めれば、すっかり健康になるのだろうか。あるいは、こういうことには最初から接触しないのが一番なのだろうか。そして次のような注射(下)でも一本打っておくと。

…私は今回のNHK問題の原因となった「女性国際戦犯法廷」を擁護する気はまったくない。というよりも、これは滅びゆく左翼イデオロギーを「ポストコロニアリズム」と衣替えして延命するイベントにすぎないと思っている。/本橋哲也『ポストコロニアリズム』(岩波新書)は、その見本だ。内容のほとんどが他人の本の引き写しで、最後に「日本にとってのポスコロ」として、問題の「戦犯法廷」が登場する。女性で韓国人で人身売買となれば、法廷に参加した日本人はみんな「加害者」として懺悔しなければならないわけだ。

池田信夫blog http://blog.goo.ne.jp/ikedanobuo/e/4ddd445b868f20fb9816b9e0b7717ec7

しかしこの医者はこの医者で、なにか別の病気でないとも言い切れない。アレルギー系? 長く患っているのは本当にどっち側なんだろうと、改めて悩んで寝込んでしまって、病膏肓に入る…。


 *


さて。

語らぬはずの者があえて語ってしまうとき、彼はなお「語らぬ者」でありうるのか、それとも、それは単に「語る者」でしかないのか>という問いの構造自体が興味深いと思う。

言語によらない思考について言語が語るとき、それは本当に言語によらない思考なのか、それともやっぱり言語による思考なのか>という問いと同型だろう。

ずっと前、保坂和志明け方の猫』を読んでそんなことを思った。それもあって『サバルタンは語ることができるか』を読んでみたのだ。

参考:http://www.mayq.net/junky0104.html#010420

ASIN:4122044855 明け方の猫

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2005-03-18

滑空する評論


仲俣暁生極西文学論』 ASIN:4794966458


《私たちは今、どこにいるのか?》――基本的な問いを携えつつも、この評論は、サイモン&ガーファンクルの「アメリカ」を飛び立ったあと、ペリー・真珠湾・ベトナムなどなど年表と地図を大胆にワープしながら、サリンと震災をくぐり抜けた現在の日本まで、独自の探査飛行を続ける。滑空するそのイメージは、面白いことに、同評論が強く支持する作家たちに見出した「視線の運動」そのもののようだった。

《…一九九〇年代以降に登場した一連の作家――保坂和志、阿部和重、吉田修一、星野智幸、舞城王太郎――は、小説のなかに「自分自身を見る眼差し」を意識的に組み込んでいるという共通点を持つ。》

《…「自分自身を見る眼差し」は、「見る/見られる」という関係が固定化した場合に必然的に生じる権力構造を解体するための対抗的な装置だとひとまずは考えられる。この装置がビルトインされた小説は、かならず作品内で視線がゆるやかな――ときには激しい――運動を起こす。作品内の視線はときには浮上し、ときには思いがけず急速に移動し、ときに乱反射を起こし、ときには暴発し、ときには反転を繰り返して止まらなくなる。しかし、そのダイナミズムは言語によって念入りに統括されており、たんなる抽象的なイメージとして提出されるものでもなく、思わせぶりな沈黙で示されるのでもない。そうした小説からは必ず、聞き間違えようのないそれぞれのオリジナルな声と息遣いが聞こえてくる。》

この前提には村上春樹への批判がある。簡単にいえば、日本の現在を捉える有効な言葉を、村上春樹はもはや生み出せず探ろうともしないが、上に挙げた作家たちは正しく紡いでいるとして共感する。それを時折いくつかの地点(作品)に降り立って確認していく。そのとき重要なキーワードの一つは「恐怖」だ。「恐怖」とは、60年代のアメリカでもなく80年代の日本でもない、現在の我々が新しく立っている、あるいは囚われている場所の性質として、見きわめるべきものということになろう。(詳しくは同書を)

《一九九〇年代以降に登場した一連の作家たち(それにしても、彼らをいったい何と読んだらいいのだろう)は、村上春樹が「恐怖」の問題を乗り越えようと幾度も試みながら、最終的にはつねに失敗してきた地点――そこが私たちにとっての「熊の場所」(舞城王太郎)である――を迂回することなく、その地点を踏み越えていくことを試み、それに成功した人たちだと私は考える。》

経済や社会の変化をめぐって我々が直面している困難を見つめるために、今どのような言葉が必要か。こうした問いかけは本当に切実だと思う。ただ我々は、小説にその役割をあまり期待しなくなって久しい気もする。その役割に応えているか否かで小説の可否を問うのが今や最適なのかどうか、また、同書が推す作家たちがその役割をそもそも自任しているのかどうか、そこは疑問が残る。それでも、そうした言葉の共有を強く求める気持ち、そしてその言葉をほかでもない同時代の小説に探りたいという気持ちには、大いに共感する。

《いま私たちが立っているところが「アメリカ」なのか「日本」なのか、それとも「J国」なのか、そんなことはどうでもいい。少なくとも、私たちは具体的なここに立っている。もし生きている人間がどこであれ足場をもっているなら、その場所がいかに弱い土壌に見えようと、そこが言葉を植えるには値しない場所であるなどと誰にも言うことはできない。

《私たちの足元には土地があるのだが、植えられる言葉だけがまだ足りない。私たちがいちばん必要としているのは、どんな土壌でも葉を伸ばしてゆけるような、強い強い言葉なのだ。》

 * 

ここから愚直な問答になっていくが――

「この小説どう?」と自問するとき、私はまず「好きか嫌いか」が先に立つ。でもそれだけでは気がすまず、どう好きなのか、なぜ好きなのか、それを明らかにして納得したいと考える。そうして、小説の主観的な好き嫌いを裏付けるために、小説の客観的な善し悪しを論じようとする。直観を理論で語る、好悪の反応を是非の判断で説明する、といってもいい。

しかし、善し悪しを論じているうちに、好きだったのか嫌いだったのか、分からなくなってしまうことがある。また、そもそも直観は、理論とは違う成り立ちをしているのであって、言葉で説明すればそれはもう直観ではなく理論だろう、といった奇妙だが原理的な疑いもある。

もちろん、好き嫌いはすべて言葉で説明できると考えてそうする人もいるだろう。また、好き嫌いとは別に善し悪しだけを論じられると考えてそうする人もいるだろう。その小説が好きでも嫌いでもないのに善し悪しだけを長々と論じられると考えてそうする人もいるのだろう。

『極西文学論』は上に挙げた作家の小説をつまるところ「善い」と判断している。しかしそれはそれとして、そう判断する根底に、これらの作家に対する非常に深い「好き」がある。私にはそのように伝わってきた。そこが、滑空する快感とならんでこの評論を「好き」と言いたいポイントだ。

それにしても、問題は村上春樹だ。日本の読者はみな…、いやそれはどうでもよい、私は村上春樹が異様に「好き」なのである。ただ最近は「好き」と言えないこともあり、その理由を考えるとどうも「悪い」と判断ぜざるをえないのだが、でもそうやって読み返しているうちに実はやっぱり「好き」なのかもと思い直し、だんだん分からなくなる。しかしそれはまだいい。最も問題なのは、初期から中期にかけての村上春樹の小説がなぜあれほど「好き」だったのかということ。「好き」と反応するだけの評論でなく、私のこの「好き」という直観を強く裏付けてくれる評論をずっと探しているのだが、なかなか出会わない。村上春樹が「嫌い」という直観を執拗に裏付けてくれる評論には何度も出会った気がするのに。『極西文学論』は上述のとおり現在の村上春樹を「悪い」と判断する。しかし著者は昔から村上春樹が「嫌い」だったのではないと思われる。そこのところはもっと詳しく聞きたい。…などと書きながら、内心では、私の「好き」は私自身の言葉で語るしか本当にしっくりはこないのだ、と割り切っているフシもある。というか、村上さん本人に聞いたってそんなこと分からないのだ、きっと。

 *

ところで、サイモン&ガーファンクルの「アメリカ」も私は非常に好きだ。

そのアメリカ人はきっと、アメリカの中にもう「西」はないと感じ、外に「西」を探すときも、やはり「アメリカを探そう」と歌うのだろう。

では、もし「日本」というタイトルの歌があったら…。「アメリカ」を歌うような気分で「さあ日本を探しに歩き出そう」などとさらりと口ずさむことができるかというと、なかなか想像できない。どうしても不格好で憚られる。

日本人は、「西」を内に探すこともあれば外に探すこともあるようだが、内外どちらであっても「日本を探しにいこう」とはあまり言わない気がする。「日本を取り戻そう」とは言いそうだ。「日本のどこかに 私を待ってる人がいる」(「いい日旅立ち」谷村新司作詞)というのも、帰っていく歌に聞こえる。

「アメリカ」は彼らが探しにいくところ、「日本」は我々が帰ってくるところ、常にそうでしかないのか? ずっと変わらず懐かしくも鬱陶しいものが「日本」なのか? 「日本」は「西」ではありえないのか? そうではないとこの本は主張している。そう受け取った。

「西」とは厳密に定義されないが、同書の最後にはこうある。

《…私たちは地球上でいま自分たちが立っている場所が、「極東」というよりはむしろ「極西」であるということを、いちどはっきり言葉に出して認識する必要があるのではないか。西という言葉が意味するのはたんなる地理的な配置ではない。西とは、私たちの想像力が生み出す何かだ。想像力とは恐怖という感情を生む源泉であると同時に、どこかへ向かう運動を生み出す契機でもある。(中略)私たちは自前の想像力とそれに拮抗しうる言葉の力だけで、いまよりさらに、本当の「西」へ向かうことができるはずだ。》

いつまでも無邪気に「アメリカ」を歌ってはいられないのと同じ意味では、「日本」を歌ってもいられないのだが、今そこにある「アメリカ」、今そこにある「西」、今そこにある「日本」を歌うことを、憚るには及ばない。そんな「日本」を歌えるものなら格好よく歌ってみたい。

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2005-03-17

公然の内気


http://homepage3.nifty.com/wtbw/(d/d/05-2.html#anchor03162005)

それとなく人を褒めておいたら7年も後になって伝わったというヒューマンドラマ。瓶に詰めて海に流した手紙もグーグルはきっちり回収するということだが、一方、現在のブログにおいては、リファーやトラックバックが完備しているため、こうした独り言や片思いはもはや許されない。


 *


これを難しく長く言うと以下のようになる。


…ブログのツールは、読み手や他のサイトとの「関係」も強化させている。

特定の記事に直接アクセスできることはすでに述べたが、それに加え、ブログでは記事一件ごとに読み手がコメントを書き込める。従来、読み手がコメントを伝えるには、別に設けられた掲示板に移動して書き込むのが一般的だった。ブログでは、その掲示板のスペースが記事ごとに付属していると思えばいい。

リンクの要領にも変化が見られる。ブログのサイトにリンクする場合は、特定の記事をリンク先に指定し、画面のトップにすぐ表示させることができるのだ。この設定は従来のサイトでもできるが、ブログではそれが簡単であり標準でもある。リンク先としてサイトやページの全体を漠然と示す従来のやり方が、改められつつある。

まとめていえば、読み手や他のサイトとの交信が、より正確に柔軟に行えるようになったということだ。ブログをブラウズするときは、サイトという「内面」全般に向き合うよりも、整理された「内面」の各要素にそのつど触れていると言っていい。

こうしたブログ特有の設計によって、ウェブサイトに思考や言葉の花が開くような光景を、随所で観察できるようになった。もともと個人サイトは、持ち主が一人記事を書きあげ、後はそれをただ読むという静的なイメージだった。しかしブログの記事はコメントやリンクという代謝を伴っている。同じ記事を次にブラウズすると、コメントが書き足されている。それを受けてまたコメントが、さらには新たな記事が、と細胞分裂をするかのように繁殖する。そうした成長のなかでサイトも読み書きも初めて命を保つ。サイトの全体像がそのように推移してきた。

注目すべき機能がまだある。ブログのサイトはアクセス記録を自らチェックし、そのまま表示する。一般に、あるウェブサイトに初めてアクセスするには、たいてい他のサイトからのリンクを伝っていくわけだが、ブログのサイトがアクセスされると、リンク元になったサイトのアドレスが自動的に検出され、すぐに表示されるということだ。これは、自分のサイトにリンクしている他のサイトを逆探知することでもある。アクセスの回数もリンク元のサイトごとにカウントされる。しかも日付単位や記事単位でもアクセス記録はチェックできる。これまでもアクセス状況を調べる手段はあったが、ブログのツールはそれを自らルーチン化したと言える。しかも、その記録は迷わず公開される仕様になっている。アクセスという「関係」は、当人の沈黙や自覚を超え、確実に刻み込まれていくのだ。

コメントやアクセス記録と似ているが、微妙に違う特殊な機能がもう一つある。ブログのサイト同士では、自分のサイトが相手のサイトになにか言及してリンクした場合に、相手のサイト上に、自分のサイトへの逆リンクと言及内容の一部を表示することができるのだ。ポイントは、リンクした側の存在を、リンクした側の操作で、リンクされた側のサイトに反映できるという点だ。これもブラウザ上の操作で実行できる。この機能は「トラック・バック」と呼ばれている。

リンクとは一方向の矢印だったはずだ。ところが、アクセス公開やトラック・バックの機能を実装するやいやな、リンクは双方向に転じる。それがありありと実感できる。

これまで「リンクしました」「サイトを見ました」という通知をメールや掲示板で知らせ合うことがあった。それは、後から選択して追加する行為だった。しかし、ブログのサイト同士であれば、通知するという行為は、「リンクする」「サイトを見る」という最初の行為に事実上含まれてしまう。いささか無遠慮なような、あるいは逆に奥ゆかしいような、奇妙な感じがする。リンク「関係」の明らかな公然化だ。喩え話をするなら、「片想いはもはや胸に秘めておけなくなった」あるいは「告白さえすれば相思相愛になれる」といったところだろうか。コミュニケーションとしては決定的な変質に思える。

従来の掲示板やリンクを介してすでに顕在化していた「関係」。ブログはそれをいっそう微細にスキャンし、確実にトレースし、動かしがたい事実に変えていく。他のサイトから自分のサイトへの「関係」も、その逆も同様だ。…

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2005-03-15

小説の滋養強壮ドーピング


ジョン・アーヴィングガープの世界』(新潮文庫)ASIN:4102273018

この小説の愛すべきところは数えきれないが、私にとって最大のものというなら、読む者をふと次のごとく感化せしめる力だ。「小説というやつを、いつかは私もぜひ書いてみたい。いや、書かずに死ねるかっ!」

人生は捨てたもんじゃない。…と思いたい。しかし実のところ、希望どおりにはいかないものだし目標に達しそうにもない。それどころか、自他ともに大抵激しくつまらない、くだらないのが人生だ。だったら本当にポイっと捨ててしまえ。…とまあそうもいかなくてグズグズやっている。生きるに値するか否かは、どれほど期待薄であっても、とりあえずまだ保留にしておくしかない。では小説はどうだろう。たかが数百ページ、たかが数百円。つまらない、くだらないと感じたら迷わず捨ててしまってOKだ。場合によっては、この世の小説すべてに絶望して完全に縁を切ったって別にいい。ところが、誰かの人生と違って誰かの小説には、こりゃ捨てたもんじゃないぞと掛け値なしに思わせる例に、時々出くわしてしまう。

繰り返す。人生はさして素晴しくない。しかし小説はときに素晴しい。十分に良い人生を体験しつくすことは難しいが、十分に良い小説を体験しつくすことはできる。今すぐできる。たとえば『ガープの世界』。

陳腐な感想かもしれないが、「棍棒で頭をガンガン殴られる」ような読書だった。しかも、棍棒を力まかせに振り回すその語り口が基調でありながら、同じ棍棒で、細かな心情や情景もキリキリ神経質に刻んでいくし、辛辣と冗談を漂わせることも怠らない。そして気がつけば、驚くほど息の長い、奥の深い展開が生み出されている。つまり、力技を無理やり器用さや慎重さにも転用して何もかも描ききったという感じがする。こうした強烈さの魅力は、主人公ガープの性格ともオーバーラップし、読むのに精力や根気も必要だったこの長い小説を、最後までどうしても捨てがたくさせた。

 

 *

 

この小説は、登場人物ガープが体験するハードでタフな人生物語のなかに、作家ガープがその体験を踏まえながらも独自に創作したという設定の、同じくハードでタフな人生物語がそのまま挿入される。そもそもガープの苦闘とは、人生を送ることと小説を書くことが混じり合ったものだ。ガープはそれを克服し人生と小説の両方を見事にやり遂げる。そして面白いのは、ガープの書く小説の一つが、今読んでいる最中の『ガープの世界』に似ていることだ。さらにいえば、別の一つは、アーヴィングがのちに書くことになる『ホテル・ニューハンプシャー』に似ている。ちなみに、この小説は《アーヴィングの自伝的長編》(新潮文庫のカバーより)とも言われる。

その一方、人生と小説の関わりについて、作中で次のように釘を刺しているのが強く印象に残る。

《「小説は人生よりもよく造られたものでなくてはならない」とガープは書いている。》

《あることが小説に描かれる最悪の理由は、それが実際にあったことだから、というものであると彼は書いている。「すべてのことが、ある時、実際に起こったことがあるのだ!」と彼は激していう。「あるものが小説のなかで起こる唯一の理由は、それがその時に起こる最も完全なものであるということでしかない」》(筒井正明訳、「最悪」には傍点あり)

ここに挙げたことは、「小説を書きたい!」「人生と違って小説は素晴しい」と直観したことにおそらく繋がる。でもどう繋がるのだろう。いろいろ考えたが、うまくまとまらなかった。以下に断片だけを羅列。

(1)ガープもおそらくアーヴィングも、小説というものが人生に匹敵するほどの迫真性を持つと信じていることは間違いない。

(2)『ガープの世界』を読むのは、ガープの小説のメイキングを辿るようであり、アーヴィングのこの小説自体のメイキングを辿るようでもあった。それは同時に、ガープもしくはアーヴィングの人生のメイキングを辿っていたのかもしれない。

(3)『ガープの世界』には、<「―――」とガープは書いている>という言い回しがやけに多い。語られた内容とともに、それが語られたものであること、および、語るという行為や構図の不可欠性を常に自覚させる。そんな作用がこの言い回しにはある。

(4)実をいうと、人生と呼ばれるものの正体は、自分にであれ他人にであれ、それを「語る」ことのなかにだけ生じるのではないか。そして小説とはもちろん「語る」ことのなかに生じる。どちらも、「語られたもの」だけでなく「語ること」そのものを注意深く見つめるべきなのだ。

(5)小説は書かれないかぎり存在しないように、人生も語られないかぎり存在しない、とみてもいい。そのことを、ある作家はきっと小説を書くことによって実感するのだ。そして読者はその作家の小説を読むことによって、小説がそのような存在であること、しかも人生がまたそのような存在であったことを、同時に初めて実感する。

(6)人生というのは終っていないものが多いし範囲もはっきりしないので、白黒つけるのは難しい。というかそう簡単に白黒つけたくもない。しかし小説というのは完結している。文章以外の要素は存在しない。それゆえ、ある人生が素晴しいかどうかの判断はできなくても、ある小説が素晴しいかどうかの判断はできるし、しなければならない。また、同じ理由から、「完全な人生」を作り上げることは絶望的でも、完全な小説を作り上げることには希望がもてる。……それとも、人生もまた語られたかぎりで白黒つけようと挑むべきだろうか。あるいはやはり、人生は語りえないのだから白黒つけられないと逃げるべきだろうか。……そこは分からないのだが、『ガープの世界』から、なんとなくそういう問いを投げかけられた気がしている。


 *


ところで、同書の「解説」は、次のことを真っ先に指摘している。

《一九五〇年代のおわりから六〇年代のはじめにかけて輩出した、いわゆる「新しい作家たち」、ニュー・フィクションの旗手たちは、小説が死んだと言われることもある時代において、きわめて自己意識的に小説の可能性を模索した。(中略)そういう時代風潮のなか、小説の模索の時代的な必然性を理解しながらも、ジョン・アーヴィングはあえて小説本来のプロットの復権を目指そうとした。》

《そして、一九七八年に出版された『ガープの世界』(The World According to Garp)は、そういう現代小説の実験性に飽きていた大勢の読者に懐かしい小説の醍醐味を取り戻してやったかのごとく大成功を収めたのだった。》(筒井正明)

たしかに、この小説は写実的で長いドラマであり、小難しいことを言わずどっぷり浸かって読み進むだけの面白さに満ちている。しかし一方で、先ほど挙げたとおり、小説のなかに小説が挿入されるといったメタフィクションの構図と自覚が明らかに目立つとも言える。結局こういうことだろう。――『ガープの世界』はもちろん「ただ面白いだけの小説」ではない。しかしそれよりなにより「ただ面白くないだけの小説」を渾身で避けた。

ポストモダンと呼ばれる小説には「小説を理論的に抽象的に分析して痩せ細らせた」とでも言いたくなる作品がある。それに対して『ガープの世界』では、アーヴィングもガープも、小説をむしろ実践的に具体的に記述してひたすら肉付きをよくしている。ポストモダン小説がしばしば「小説についての小説」と評されるのに抗して、『ガープの世界』を「小説を書く小説」とでも呼んで賞賛したい。

finalventfinalvent 2005/03/15 08:09 聖書(福音書)の洒落というのは知ってますか。

tokyocattokyocat 2005/03/15 13:29 「イエスはこうおっしゃった」…ですね。それと、ガープの誕生が「処女懐胎」を思わせる点もよく言及されます。アマゾンのカスタマーレビューには、イエスの生涯に摸して、とあります。ガープくらい破天荒なイエス像というのは魅力的かもしれません。本当はきわめて強引な布教をしたんだ、という話をだれかに聞いたこともあります。ですが、キリスト教の知識に乏しく、そうした味わいはなかなか…。

finalventfinalvent 2005/03/16 14:58 広義にはそうとも言えないことはないのでしょうが、もっと単純に”The World According to Garp”です。だから、イエスに模されているのだ、と。批判とかちゃちゃの意図はないですので。

tokyocattokyocat 2005/03/16 19:39 ああなるほど! Gospel according to … 恥ずかしながら気づきませんでした。

okayamacat okayamacat 2005/03/26 18:00 人それぞれに歩む人生が違うようにどんな人生が素晴らしいかも人それぞれに感じ方が違うのですよね*でも*自分の一番得意な方法で人の役に立つことをすることだよ真に人を喜ばせるものだけが本当の幸せを手に入れることができる*と言う人生は素晴らしいと思います*dictionary*no.0090.p45*

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2005-03-10

悲惨

花粉の飛散を、ネタの飛散によって実感

http://d.hatena.ne.jp/keywordstats/%b2%d6%ca%b4%be%c9

えのきえのき 2005/03/10 15:06
花粉症にかかって十数年、いつの間にか治ってしまいました。
いや、治ったのかどうかは、わかりませんが、ここ数年全く症状が出ません。薬ものまず、医者にもかからず、ひたすら、くしゃみ、鼻水、かゆみ、に耐え、開き直って、思い切り、外で深呼吸したりも、してましたが、限度(峠?)を超えたのか、ピッタリ収まってしまいました。
まあ、荒療治ですが…

tokyocattokyocat 2005/03/11 00:41 それは奇跡的ですね。花粉症って、これほど見事に一様に一斉に症状が出るところをみても、アレルギーとして単純な部類なのだろうと思うんですよ。単純だけに、スギと抗体が存在するかぎり、いやでも出てしまうのかなと。薬でけっこう予防可能というのも、そういうことでしょう。でも、体質改善で治ったという人もたまにいますね。ということはそう単純でもない?(どっちなんだ!)

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2005-03-09

How terribly strange …

考えてみれば、20代のころ親はうっとうしかった。でも本当は腹を割って話がしたかったし、まあいつかできるだろうと思っていた。ところが予想もしていなかったことに、なんと父母ともあっけなく死んでしまった。それはもう取り返しがつかない。ただその反面、親はついに年老いることはなく、心の底から憎むような関係になることもなくてすんだ。それと、親には十分よくしてもらったと思っている。こちらもそれなりによい子だった。だからまあ全体として幸せな家族、幸せな親子だったと言えるんじゃないだろうか。でもまあこういうことを考えるのは、結局、親と子だからだ。どんなにつまらない人間でも、…実際に僕も僕の親もとるにたらない人間なのだろうが、それでも親が誰よりも大事なのは、親子だからだ。というか、親子だから大事なんだという思いは錯覚だとしても捨てようがない、からだ。

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2005-03-08

死に組、生き組


イタリアの民間人が米軍に撃たれて死ぬなんて「あってはならぬ」(少なくとも建前としては)。しかし、イラクの民間人が米軍に撃たれて死ぬこともまた「あってはならぬ」(少なくとも建前としては)。でも今回のニュースを見ていると、同じ「あってはならぬ」の希望にもあまりの格差が感じられる。「同盟先進国の高官や記者をイラクの一般人と同じく無造作に撃ち殺す(撃ち殺そうとする)とは何ごとだ!」といった、おかしな憤りが混じっているように思えてならないのだ。また誤射か故意かという話もあって、ぜひとも白黒はっきりさせてほしいが、これだって、じゃあイラク人への爆撃や乱射はどうかといえば、同様に疑わしい場合があるのだろう。だったら同じく《誰かが責任を取らなくてはいけない》。ところが我々は、米軍に撃たれたイラク人となると名前も職業も顔も分からないし数も多すぎるしいちいち検証していられません、とでもいうような、すこしも理由にならない理由をこしらえて関心を捨ててはいないだろうか。「あってはならない」というより「あってもしかたない」の気分。そんなのが世界や私の常識なら、もう少し憂鬱になってしかるべきだ。戦争を私の努力で減らすことは難しいかもしれないが、こうした報道の格差からくる憤慨の格差を減らすことくらいは、自らの努力でできる。


*参考:アサヒコムの記事(http://www.asahi.com/international/update/0305/003.html

《イラクのバグダッドで武装勢力に拉致されていたイタリアの左派系新聞マニフェスト紙の女性記者、ジュリアーナ・スグレナさん(56)が4日、1カ月ぶりに解放された。しかし、解放後にバグダッドで米軍検問所を車で通過しようとした際、米兵から銃撃され、同行の伊情報機関員(50)が死亡。スグレナさんら3人も負傷した。誤射とみられるが、イタリアでは解放を喜ぶ間もなく、米軍への怒りの声が高まっている。 (中略)

 ロイター通信によると、ブッシュ米大統領は4日、ベルルスコーニ伊首相に電話して遺憾の意を伝えた。マクレラン米大統領報道官は同日、「ブッシュ大統領は伊政府と連携し、事件の徹底解明にあたることを首相に確約した」と述べた。

 同首相は同日、会見で「電話で知らせを聞いて凍りついた。米軍の行動について説明を聞くため、米国大使を呼んだ。誰かが責任を取らなくてはいけない」と述べた。(3/5)》


*こちらも参考:共同通信「イラク人死者、10万人超 科学的調査で推計」(04年10/29)

http://university.main.jp/blog/archives/002178.html

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2005-03-07

軽挙妄動(お買いもの)


きのうはドン・キホーテでちょいと買い物。ふだんコンビニばかりなので、あの品目・品数の猛烈な勢いには相変わらず圧倒される。ただ生鮮食品だけは扱わないようだ。野菜とか肉とか魚とか(卵はあったけど)。つまり、箱であれ瓶であれ袋であれ工場経由で規格どおり詰めてそのまま大量に運搬できてそのままストックできることが、安い価格に欠かせないのだろう(まあドンキに限ったことでもないのか…)。

それにしてもドンキに来るたびつくづく思う。生活の何から何までこんなところで買い物カゴに入れてレジに並んでいる皆さん、貧乏くさいですよと。そうして一緒になって商品の山をまさぐり、空いたレジを競って探している私。すべて不況が悪いのか。いや、たとえバブルの頃だって、金額が馬鹿デカかっただけでガツガツ、ケチケチしていたのは同じだったな。血眼になって物を買うというのはなんだか一貫して「さもしい」。なんだろうか、これは。パッケージ化された生産・流通・消費に対する抵抗感、というのもたしかにあるだろう。そのようなさもしく安っぽいパッケージによって部屋や人生がどんどん埋もれていくようで気が滅入る、と。かといって、じゃあ理想は何かと考えるに、大自然とともに自給自足のスローライフ、といった「健全さ(!)」を私が持ちあわせているわけもない。どちらかといえば、都市の片隅で地味なホテルにでも住みついて何でもかんでもルームサービスにお任せ、といった日常に憧れる。ある意味、清貧? いや、要するにただ買い物がひたすら面倒で鬱陶しいというだけの話。 

音楽のネット販売は、ヤフーが参入して日本でもいよいよ普及するのだろうか(マックユーザーはまたもや無視されたけど)。これはいわば産地直送かつデータの計り売りであって、CDというパッケージの要らないところが、今や潔くて煩わしくなくていい感じ。考えてみれば、ネットや通信販売の買い物というのはみな、店舗という無闇にかさばったパッケージをうまく回避したとも言える。ただその代わり、パソコンやインターネットにまつわる規格や手順のかさばりこそがむしろ気になって嫌だ、という感覚のほうが、今はまだ多数派かもしれないが。でも、生活感覚なんてものはあっさり変わるから、ネット販売も、コンビニやドンキと同じくまるきり「暮らしに根ざした」習慣になるにちがいない。

しかし、そもそもこの世の物品のことごとくは(会社すら)、価格や市場というパッケージによって完全にくるまれているとも言える。こちらのパッケージばかりは剥がせないだけでなく、剥がそうと思いたつ人すらいない。それでいいのか! …という妄想にくるまれて、思わず火をつける。

x79xxxx79xxx 2005/03/07 14:13 コンビニで生活必需品(スーパーで買うようなモノ)を大量に買い込む主婦らしき人にも私はなにやら貧しさを感じます。むしろコンビニで買った方が高いから金銭的に貧しいっていうより...(上手く説明出来ません)

tokyocattokyocat 2005/03/08 03:05 いや〜、私の話もちゃんとした理屈になっていないんですけどね。ドンキもコンビニも便利で健気でいいじゃないかと思う一方で、どこか自虐や諦めの気分なしに浸りきることはできない、そんなもやもやした感じです。

x79xxxx79xxx 2005/03/09 09:38 少し続きを自分の処に書いてトラックバックしてみました。(トラックバックはなれてないので少しドキドキ(笑))

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2005-03-05

『点と線』松本清張


このあいだ、ブルートレイン「あさかぜ」がなくなるというニュースで、この列車は松本清張の『点と線』にも登場し…と言っていたので、そうだったかと思い、実に久しぶりにこの名作を読みなおした。雑誌『旅』で「点と線」の連載がスタートしたのは昭和32年(1957年)という。これが社会派推理の先がけになったとよく言われる。清張ミステリーも長編はこれが第一作らしい。

―以下ネタバレっぽいので注意―

『点と線』に書き込まれたダイヤによれば、当時「あさかぜ」は夕方6時半に東京を出発し、翌日朝11時55分に博多に到着した。便利な特急だったというが、実に17時間25分もかかったのだ。さらに東京から北海道への移動も捜査の焦点になり、こちらは夜7時15分に上野を発って札幌には翌日の夜8時34分にやっと着く。というのも、北海道には連絡船で渡らねばならなかった。青函トンネルはまだ着工すらしていない。上野発の夜行列車おりた時から、青森駅は雪のなか(石川さゆり「津軽海峡・冬景色」)というわけ。現在ならもちろん博多へは新幹線、札幌へは飛行機だろう。いや実は当時も…というところがアリバイ崩しにつながっていく。

ミステリーも宮部みゆきなど読んでいると、しばしば同時代性を感じる。じゃあ「点と線」ならその昭和30年代が探せるかも、という期待もあった。しかし、たしかに携帯やメールは出てこないものの、社会派推理の基本形を読んでいるなあという安心気分に包まれて、それが古くさいという印象にはならない。というわけで、列島移動の時間変化こそ、やはり最も際立つのだった。都心から荻窪あたりまで都電が走っていたのも新鮮だったけど。

さて小説では、その「あさかぜ」で博多まで行って心中したとみられる男女が発見される。男のポケットからは食堂車のレシートも出てくる。これが事件解明のカギになるのだが、値段というのは時代解明のカギでもある。いくらかというと合計340円。微妙。今からみれば安いが、当時にすればものすごく高いんじゃないだろうか。いったい何を食べたのだ。だがそこは事件に関係なく、レシートに1名と記されていたことが重要なのだった。それにしても、今じゃ新幹線でも夜行でも食堂車はほとんど消えた。ここにも時代が刻まれていると言えるのか。

昭和は遠くなりにけり。もちろん我々が懐かしめるのは過去だけなのであって、未来はまだ無いので振り返ることができない。「昔はよかった」と必ず非対称に思いがちなのは、なにより過去と未来がそのように非対称だからだ。それに、年を取るということがだいたいあまりにも不可逆だ。どうしたって時代を相対的になど眺められるわけがない。過去が確実であるのとまったく反対に、未来には不安がつのるばかり。でも本当にそのせいだけだろうか、日本の将来というものが、これほどまで懐かしさを積んでいきそうに思えないのは。

…まあそんなことはいいとして、ミステリーとしての発見も最後に一つ。――ここネタバレ!―― 死んだ女と犯人が愛人関係にあったことは最後に明かされるが、作者は冒頭も冒頭でそのことを匂わせていたもよう。ちょっとした叙述トリックか。これは解説でも言及されていないので、もしや私の新発見?(そんなわけはないか)。新潮文庫でいうと8ページ。《「やあい、あんなことを言ってる。あたし、ちゃんと知ってるわ」とかね子がはなした。「おいおい、変なことを言うなよ」「だめよ、かねちゃん」と、お時さんが言った。「ここの女中は、みんなヤーさんに惚れてるんだけど、ちっとも振りむいてもらえないのよ。かねちゃん、早いところあきらめなさいな」「へーんだ」かね子は、歯を出して笑った。》これは「そんなこと言ってるあなたが、やーさんと関係しているのを、あたしは知ってるのよ」という意味だろう。ああ、刑事はなぜ、かね子に事情を聞かないのだ!

それと、ニュースで触れるほど「あさかぜ」車中の描写があるのかというと、これがまったくない。乗った人物の視点で旅情を語るわけにはいかないのだ! 推理小説としての事情がそこにある。

ASIN:4101109184

まっちゃんまっちゃん 2005/03/06 11:33 先年、福岡にいったとき、香椎を訪れました。
本当に「いまの日本の郊外」という感じのところになっていて、唖然とした覚えがあります。
まあ勝手な感想なのですが。

tokyocattokyocat 2005/03/06 14:01 そうですか〜。点と線では、香椎(死体発見現場)は寂しそうな土地として描かれていますね。松本清張は、この海岸が万葉集にも歌われたことをあげたうえで、朝工場に通勤する労働者が死体を発見する場面を「現代の乾いた現実」などと断りつつ語っていくのですが、「郊外化」というさらにまったく新しい現実やそうした感覚が、のちのち日本中を覆っていくなんてことは、まだ理解も予測もできなかったでしょうね。

2005-03-04

『科学哲学の冒険――サイエンスの目的と方法をさぐる』(戸田山和久著)


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《原子って目には見えない。見えないがそれはたしかに存在している。そしてその原子の本当の姿について、われわれはどんどん知識を深めていっているのだ》。こうした考えを「科学的実在論」と呼ぶ。そこには2つ前提がある。(1)原子は実在している。(2)原子の姿は正しくつかめる。科学を仕事にする人の多くはだいたいこう信じているようだ。世間の我々もだいたい同じか、いちいち考えないかのどちらかだろう。

ところが、主に哲学を仕事にする人のなかに、これに反対の人がいる。(1)「原子が実在しているとは言えない」という立場(この世界はすべて人間がこしらえた秩序を通してしか現れてこないのだから、原子であれ何であれそれが実在しているとは言えない)=観念論や社会構成主義。(2)「原子と呼ばれる何らかの存在はあるのだろうが、目に見えないのだから本当の姿なんて分かりようがないし、場合によっちゃ分からなくてもいい」という立場=反実在論。

――同書はこうした図式を示したうえで、著者が立脚する科学的実在論を主張していく。

で、最終的に著者は、反実在論にかなり歩みよったうえで、《科学理論の意味論的捉え方》という立場を《イチオシ》として出してくる。

どういう捉え方かというと――。科学理論がこの世界の実在を直に言い当てているとは考えない。そうではなくて、<「世界の実在」に類似した「モデル」を「科学理論」が表象している>とみなす。実在と理論が直接結びつかず、間にモデルが入るところがミソ。しかも、実在とモデルの関係は「類似」なのだから、「すごく類似している」でも「すこし類似している」でも科学理論として有効。また、理論は表象であって厳密な命題ではないのだから、図や式の形の表象でもいいしモデルの部分的な表象でもいいという。

ただ、これだけだと「モデルは何でもアリ」になって反実在論と変わらなくなる。そこで著者は、現象をよりうまく操作できるモデルが徐々に見い出されてきた歴史を重視する。その事実こそ、科学理論によるモデルが実在と無関係ではなく、重要な点でより類似している証拠だと考える。たとえば電子であれば、「パチンコ玉のようだ」というかつてのモデルよりは「雲のようだ」という新しいモデルのほうが、電子の本当の姿に近いだろうと信じるわけ。こうして、「電子は実在する」し「電子の姿は正しくつかみうる」と、科学的実在論の旗を辛うじて守る。

 *

 

さらに、この科学的実在論をいっそう確実なものにすべく、「帰納」ということが問い直される。同書のもう一つのハイライトと言える。

帰納とはご存知のとおり次のような推論。「ある場所である人がある水を熱したら100度で沸騰した。別の場所で別の人が別の水を熱したら100度で沸騰した。したがって水はすべて100度で沸騰する」。我々の生活もこうした判断なしには成り立たない。「カップ麺にやかんのお湯をかけたら昨日も一昨日も3分でおいしく食べられた。だから今日も3分でおいしく食べられるだろう」。

しかし、これまで同じことが続いたからという状況だけでは、次も100パーセントそうなるとは言い切れない。そこが帰納の原理的な弱点。ところが、実際の科学理論はこうした帰納による正当化を必ず含んでいる。ということは、帰納が完全な推論であることを立証しないかぎり、科学の基盤も危ういのではないかというわけだ。

これに対して著者は次のような理屈で帰納を擁護する。これまでいろいろな科学が帰納によってうまくいったのだから、そもそも帰納の科学とは総じてうまくいくのだと。これは、「ある帰納はうまくいった」「別の帰納もうまくいった」という事実の積み重ねから「だから帰納はうまくいく」と推論している。つまり「帰納の科学」を「帰納」によって支えていることになる。循環論法すれすれだ。しかし著者は、帰納とはこのような要領でしか擁護できないし、それで十分なのだと強調する。というのも――。

《…帰納が信頼のおけるプロセスかどうかは、われわれという認知システムと、世界のありさまについて、すでに分かっていることをフルに使って探究すべき、事実についての問いなんだよね。このとき、われわれが、これまで使ってきた探究の方法、つまり科学を用いる以上に自然な方法があるだろうか。そして、その方法が帰納を含んでいただけの話だと思うんだ。》

ここに浮かび上がるのは、同書が科学的実在論と並んで標榜する「自然主義」という立場だ。言うなれば、「科学は(事実として)どうあるのか」を離れて「科学はどうあるべきか」を論じてもしょうがない、ということだろう。

さらに踏み込んで面白いことがちらっと述べられる。《われわれはどういうわけだか帰納をするようにできている》《帰納を使って科学をやってよさそうな究極の理由は、宇宙のわれわれがいる場所が、帰納が役に立つような場所だからだ。》

 *

 

ところで、この本、「科学哲学の冒険」というより「科学哲学の穏健」のほうが当っているのでは? なんてふと思った。というのは、この世界や科学の見方としては、実在論ではなく観念論や反実在論を貫いてこそ冒険であり無謀であると言えそうだからだ。でもこれは皮肉で言っているのではない。

電子や電磁波はいったい実在なのかという疑問に行き当たる人は少なくないだろう。そしてそれはただの理論にすぎず実在ではないのだと思いたくなることもあるだろう。しかし実のところ、だからといって電子の探究や解明が電子という実在と完全に無縁なまま行われているとも考えにくい。そういう微妙なところを、著者は次のように述べている。

(なぜ科学的実在論をとるのか)《まず第一は、自分の直観にすごくしっくりくるからというのがあるね。科学が、われわれの目に見えないところまで、この世界はどうなっているのかを教えてくれるんじゃないか、というのは、ボクの場合どうしても放棄できない直観なんだよね。だから、この直観を説明したり正当化したりできないのなら、そりゃ科学哲学のほうが間違っているでしょ、ってどうしても思っちゃうの。》(でもそれは)《科学的実在論をとる動機だけど、根拠じゃないよね。だから苦労してるんじゃない。》

こういう穏健ながら純真な直観に、大きく共感してしまうのだ。

その上で言うが――。この本が示す科学の実在をめぐる議論を踏まえたうえで、今度は電子やクォークや電磁波や重力といったものが本当に本当の実在なのか、つまり実在にどれくらい近いのか、あるいは実在からどれほど遠いのか、そうした可能なかぎり厳密な実感を私はどうしても知りたい気がする。これはもはや科学哲学でなく科学そのものの領域になるのかもしれないが。

科学哲学というものの位置づけも、この本で初めて明確になった気がする。以前、ジョナサン・カラーの『文学理論』という本を読んだとき(http://d.hatena.ne.jp/tokyocat/20040920)、「文学には何が書いてあるのか」ではなく「文学は何をしているのか」という見方がありうるのだと気づき、妙に納得した。それと同じく、「科学が何を解明しているのか」とは別個に「科学という営みはいったい何をすることなのか」という問いがありうる。それが科学哲学の領分と思われる。

というわけで、さっきの話と絡むが、この本が穏健に感じられるとしたら、科学を挑発する意図ではなく、科学が実際に何をしているのかを示す意図で書かれたからかもしれない。要するに、科学と実のところなかなか穏健な営みなのだろう。

ともあれ、非常に読みやすい一冊だった。実在論をめぐる現代のホットな論争も盛り込まれているようで興味が増した。また、センセイ、リカ、テツオの3人の会話形式で語られるところは、野矢茂樹『無限論の教室』みたいで楽しかった。といっても、この本は会話形式が決定打というより、センセイの偉ぶらない態度や揺れる心情に著者自身の気質が反映されているがゆえの好ましさではなかろうか。著作とは著者という実在に類似したモデルの表象なのである(?)。

 

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以下関連

http://d.hatena.ne.jp/tokyocat/20041009(宇宙はモノではなくコトである)

http://www.mayQ.net/jitsuzai.html(実在とは何か)

http://www.mayQ.net/elegant.html(『エレガントな宇宙』)


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最後に、同書とは完全に離れてしまうが――。科学理論とは、実在に類似したモデルに対する意味論的な表象である、という捉え方は、なかなか優れ物だ。これは、我々がなべて言葉で何かを表わそうとする構図として、いけるんじゃなかろうか。すなわち、<言葉→(表象)→何かを抽象化・理想化したモデル→(類似)→何かそのもの(物自体? 現実界?)


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(追記3.6)

たそがれSpringPoint』よりコメントをいただいた。

http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/qed/p0503a.html#p050304a

科学的実在論を貫くほうが哲学においてはむしろ冒険なのだとの趣旨。《哲学の常識は世間の非常識》という著者の実感も引いてある。「なるほど、そうですか〜、そうだったな〜」と思い直す。

ところで同テキストに「心の眼鏡」とあって、ふと思った。

実在論と観念論の論争というのは、互いに「相手こそが眼鏡をかけて世界を見ている」という主張なのだろうが、それが「心の眼鏡」であるところが厄介なのだろう。「心の眼鏡」はそもそも見えないのだから、もしかしたら、相手がかけてもいない眼鏡をかけているように見える自分のほうこそが「心の眼鏡」をかけているのかもしれないからだ。…いや私自身は、「実在論」に傾くときも「観念論」に傾くときも、相手はともかく自分こそが「心の眼鏡」をかけてはいないかという疑いばかりが気になるという、大変謙虚な人物なのだが、こっちのほうがいっそう厄介とも言える。(ややこしい)

えのきえのき 2005/03/04 16:26
われわれがこの世に生を受けて今日にいたるまで、すべての認識が「帰納」であって、真の「演繹」などありえないのだから、科学そのものがどこまで行っても実在に触れることはないのでしょう。「帰納」が「言葉の使用」そのものである以上、このルーチンワークから逃れるためには言葉以前に戻るほかないのではないでしょうか。あるいは言葉を破壊される寸前の実体験を味あうか…
人間の自己破滅への欲求って、そんなところからもくるのかなって…
それにしてもこんなテーマを3分ほどで読んで、3分ほどでコメントするのは、いささか無理があります、仕事に戻らねば…

tokyocattokyocat 2005/03/04 22:30 我々はどんな物事に対しても特に根拠がないまま「同じようにくりかえす」ことを無意識に予想しているところがあると思います。それを自覚するとなんだか不思議なのですが、結局それはそういう宇宙に住んでいるからということになるのでしょう。そういう繰り返しがまったくない世界だったら、これまでを踏まえてこれからを考えるとか、人の言うことを参考にするとか、そういうことが全て無意味なので、かえって面白いかもしれませんが…。抽象化や法則化というクセも、そういうところから出てくるんでしょう。ただまあ、きのうときょう雪だったから、あしたも雪、というふうには考えないわけで、そこは帰納をうまく使い分けているわけですね。

tokyocattokyocat 2005/03/23 20:18 演繹と帰納について補足: 帰納が事実として成立するというのと対照的に、演繹というのは厳密には事実としてではなく理念としてだけあるのかも、とふと思いました。「哺乳類は胎生だ 人間は哺乳類だ だから人間は胎生だ」とこういうのを絶対正しい推論とみなすわけですが、それは実は理念として絶対なのであって、事実として未来永劫あらゆる人間がそうだとも言えないんじゃないか、などと思うわけです(とはいえ、胎生でない人間が出現した場合は、推論が間違っていたのではなく、「哺乳類は胎生だ」という前提が間違っていたことになるのでしょう。しかしそれもまた理念のうえの言い訳にすぎないのではないか…)。

2005-03-01

驚愕のサイズ(iPodシャッフル)


iPodシャッフルを初めて見た。友人が首から下げていた。iPodになんかまた新しいのが出たとは聞いていたが、こうなってしまったとは! ウォークマンが初めて世に出たときの驚きを思い出す。1979年、そうたしかそんな頃だった。四半世紀か。懐かしい。どうも最近いわゆる「何を見ても何かを思い出す」…。ともあれiPodシャッフルが欲しくなって、後日ショップを回ってみたが、完全に予約待ち状態だった。同じメモリータイプの装置も他社からたくさん出ている。今はそうなのか、知らなかった。なんだろう、この変化の激しさは。

ちなみに、iPodシャッフルを首から下げていた友人というのは、復興支援の仕事で先日アフガニスタンから帰国したばかり。自分への慰労として買ったという。電力も万全でない場所にいたのに、あまりにも変わり身が早い。というか、私があまりにも世情に疎い。iPodのことだけでなくアフガニスタンについてもいろいろ聞いた。友人が地元の人からドスタム将軍に似ていると言われたといった話ばかりではなく。こちらに滞在中の写真あり → http://afgangonta.exblog.jp/ 

さて、iPodシャッフルの代わりというわけではないが、自分のパソコンでiTune(音楽再生ソフト)の全ライブラリーをためしにシャッフルモードにして聞いてみる。といっても曲数はまだ多くない。手持ちのCDはいつでもコピーできるからと、なかなかディスクに落とさないからだ。だからパソコンで聴くのは、借りたCDを録音したものなどが中心になる。でも音楽生活はもはや完全にパソコンの領分なので、CDをプレーヤーにかけるのはいよいよ面倒。その結果、とっておきの所有CDだけはアクセスしづらく、たまたまディスクに落とした曲だけをどんどん聴くという状態になる。早くCDのパソコン移植を進めねば。

しかし我々はいつでもやれることは絶対にやらない。昔の旅行の写真もスキャンしてデジタル化しようと思い立ってからどれほどの月日が流れたことか。狭い本棚はもう要らなくなった本が占領し、そのせいで大事な本や今読んでいる本は手が届きにくいところに追いやられる。これも常になんとかしようと思ってやらない。私の所有CDすべてが晴れてパソコンのディスクに収まるまでには、なんだかんだと四半世紀くらいかかってしまうのではなかろうか。いやほんと。というか四半世紀なんてあっという間なのだ。恐ろしい。

finalventfinalvent 2005/03/01 09:06 借りた…の話を書くのはあびる優っぽいのでは(と、本文修正があれば、このコメントも消してください)。

tokyocattokyocat 2005/03/01 15:21 ではこれは「ダウト」ということで…

dstrdstr 2005/03/02 15:30 実は僕も買いました。

okayamacatokayamacat 2005/03/02 15:36 なんで/借りた***のところからが知りたかったことなのです*

tokyocattokyocat 2005/03/04 01:33 okayamacatさん
ええと、借りたものは返さないといけないからディスクに落とすと、でも自分のものはずっとあるからいつまでも落とさない、と、そういうわけです。

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