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2005-03-04

『科学哲学の冒険――サイエンスの目的と方法をさぐる』(戸田山和久著)


ASIN:4140910224

《原子って目には見えない。見えないがそれはたしかに存在している。そしてその原子の本当の姿について、われわれはどんどん知識を深めていっているのだ》。こうした考えを「科学的実在論」と呼ぶ。そこには2つ前提がある。(1)原子は実在している。(2)原子の姿は正しくつかめる。科学を仕事にする人の多くはだいたいこう信じているようだ。世間の我々もだいたい同じか、いちいち考えないかのどちらかだろう。

ところが、主に哲学を仕事にする人のなかに、これに反対の人がいる。(1)「原子が実在しているとは言えない」という立場(この世界はすべて人間がこしらえた秩序を通してしか現れてこないのだから、原子であれ何であれそれが実在しているとは言えない)=観念論や社会構成主義。(2)「原子と呼ばれる何らかの存在はあるのだろうが、目に見えないのだから本当の姿なんて分かりようがないし、場合によっちゃ分からなくてもいい」という立場=反実在論。

――同書はこうした図式を示したうえで、著者が立脚する科学的実在論を主張していく。

で、最終的に著者は、反実在論にかなり歩みよったうえで、《科学理論の意味論的捉え方》という立場を《イチオシ》として出してくる。

どういう捉え方かというと――。科学理論がこの世界の実在を直に言い当てているとは考えない。そうではなくて、<「世界の実在」に類似した「モデル」を「科学理論」が表象している>とみなす。実在と理論が直接結びつかず、間にモデルが入るところがミソ。しかも、実在とモデルの関係は「類似」なのだから、「すごく類似している」でも「すこし類似している」でも科学理論として有効。また、理論は表象であって厳密な命題ではないのだから、図や式の形の表象でもいいしモデルの部分的な表象でもいいという。

ただ、これだけだと「モデルは何でもアリ」になって反実在論と変わらなくなる。そこで著者は、現象をよりうまく操作できるモデルが徐々に見い出されてきた歴史を重視する。その事実こそ、科学理論によるモデルが実在と無関係ではなく、重要な点でより類似している証拠だと考える。たとえば電子であれば、「パチンコ玉のようだ」というかつてのモデルよりは「雲のようだ」という新しいモデルのほうが、電子の本当の姿に近いだろうと信じるわけ。こうして、「電子は実在する」し「電子の姿は正しくつかみうる」と、科学的実在論の旗を辛うじて守る。

 *

 

さらに、この科学的実在論をいっそう確実なものにすべく、「帰納」ということが問い直される。同書のもう一つのハイライトと言える。

帰納とはご存知のとおり次のような推論。「ある場所である人がある水を熱したら100度で沸騰した。別の場所で別の人が別の水を熱したら100度で沸騰した。したがって水はすべて100度で沸騰する」。我々の生活もこうした判断なしには成り立たない。「カップ麺にやかんのお湯をかけたら昨日も一昨日も3分でおいしく食べられた。だから今日も3分でおいしく食べられるだろう」。

しかし、これまで同じことが続いたからという状況だけでは、次も100パーセントそうなるとは言い切れない。そこが帰納の原理的な弱点。ところが、実際の科学理論はこうした帰納による正当化を必ず含んでいる。ということは、帰納が完全な推論であることを立証しないかぎり、科学の基盤も危ういのではないかというわけだ。

これに対して著者は次のような理屈で帰納を擁護する。これまでいろいろな科学が帰納によってうまくいったのだから、そもそも帰納の科学とは総じてうまくいくのだと。これは、「ある帰納はうまくいった」「別の帰納もうまくいった」という事実の積み重ねから「だから帰納はうまくいく」と推論している。つまり「帰納の科学」を「帰納」によって支えていることになる。循環論法すれすれだ。しかし著者は、帰納とはこのような要領でしか擁護できないし、それで十分なのだと強調する。というのも――。

《…帰納が信頼のおけるプロセスかどうかは、われわれという認知システムと、世界のありさまについて、すでに分かっていることをフルに使って探究すべき、事実についての問いなんだよね。このとき、われわれが、これまで使ってきた探究の方法、つまり科学を用いる以上に自然な方法があるだろうか。そして、その方法が帰納を含んでいただけの話だと思うんだ。》

ここに浮かび上がるのは、同書が科学的実在論と並んで標榜する「自然主義」という立場だ。言うなれば、「科学は(事実として)どうあるのか」を離れて「科学はどうあるべきか」を論じてもしょうがない、ということだろう。

さらに踏み込んで面白いことがちらっと述べられる。《われわれはどういうわけだか帰納をするようにできている》《帰納を使って科学をやってよさそうな究極の理由は、宇宙のわれわれがいる場所が、帰納が役に立つような場所だからだ。》

 *

 

ところで、この本、「科学哲学の冒険」というより「科学哲学の穏健」のほうが当っているのでは? なんてふと思った。というのは、この世界や科学の見方としては、実在論ではなく観念論や反実在論を貫いてこそ冒険であり無謀であると言えそうだからだ。でもこれは皮肉で言っているのではない。

電子や電磁波はいったい実在なのかという疑問に行き当たる人は少なくないだろう。そしてそれはただの理論にすぎず実在ではないのだと思いたくなることもあるだろう。しかし実のところ、だからといって電子の探究や解明が電子という実在と完全に無縁なまま行われているとも考えにくい。そういう微妙なところを、著者は次のように述べている。

(なぜ科学的実在論をとるのか)《まず第一は、自分の直観にすごくしっくりくるからというのがあるね。科学が、われわれの目に見えないところまで、この世界はどうなっているのかを教えてくれるんじゃないか、というのは、ボクの場合どうしても放棄できない直観なんだよね。だから、この直観を説明したり正当化したりできないのなら、そりゃ科学哲学のほうが間違っているでしょ、ってどうしても思っちゃうの。》(でもそれは)《科学的実在論をとる動機だけど、根拠じゃないよね。だから苦労してるんじゃない。》

こういう穏健ながら純真な直観に、大きく共感してしまうのだ。

その上で言うが――。この本が示す科学の実在をめぐる議論を踏まえたうえで、今度は電子やクォークや電磁波や重力といったものが本当に本当の実在なのか、つまり実在にどれくらい近いのか、あるいは実在からどれほど遠いのか、そうした可能なかぎり厳密な実感を私はどうしても知りたい気がする。これはもはや科学哲学でなく科学そのものの領域になるのかもしれないが。

科学哲学というものの位置づけも、この本で初めて明確になった気がする。以前、ジョナサン・カラーの『文学理論』という本を読んだとき(http://d.hatena.ne.jp/tokyocat/20040920)、「文学には何が書いてあるのか」ではなく「文学は何をしているのか」という見方がありうるのだと気づき、妙に納得した。それと同じく、「科学が何を解明しているのか」とは別個に「科学という営みはいったい何をすることなのか」という問いがありうる。それが科学哲学の領分と思われる。

というわけで、さっきの話と絡むが、この本が穏健に感じられるとしたら、科学を挑発する意図ではなく、科学が実際に何をしているのかを示す意図で書かれたからかもしれない。要するに、科学と実のところなかなか穏健な営みなのだろう。

ともあれ、非常に読みやすい一冊だった。実在論をめぐる現代のホットな論争も盛り込まれているようで興味が増した。また、センセイ、リカ、テツオの3人の会話形式で語られるところは、野矢茂樹『無限論の教室』みたいで楽しかった。といっても、この本は会話形式が決定打というより、センセイの偉ぶらない態度や揺れる心情に著者自身の気質が反映されているがゆえの好ましさではなかろうか。著作とは著者という実在に類似したモデルの表象なのである(?)。

 

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以下関連

http://d.hatena.ne.jp/tokyocat/20041009(宇宙はモノではなくコトである)

http://www.mayQ.net/jitsuzai.html(実在とは何か)

http://www.mayQ.net/elegant.html(『エレガントな宇宙』)


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最後に、同書とは完全に離れてしまうが――。科学理論とは、実在に類似したモデルに対する意味論的な表象である、という捉え方は、なかなか優れ物だ。これは、我々がなべて言葉で何かを表わそうとする構図として、いけるんじゃなかろうか。すなわち、<言葉→(表象)→何かを抽象化・理想化したモデル→(類似)→何かそのもの(物自体? 現実界?)


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(追記3.6)

たそがれSpringPoint』よりコメントをいただいた。

http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/qed/p0503a.html#p050304a

科学的実在論を貫くほうが哲学においてはむしろ冒険なのだとの趣旨。《哲学の常識は世間の非常識》という著者の実感も引いてある。「なるほど、そうですか〜、そうだったな〜」と思い直す。

ところで同テキストに「心の眼鏡」とあって、ふと思った。

実在論と観念論の論争というのは、互いに「相手こそが眼鏡をかけて世界を見ている」という主張なのだろうが、それが「心の眼鏡」であるところが厄介なのだろう。「心の眼鏡」はそもそも見えないのだから、もしかしたら、相手がかけてもいない眼鏡をかけているように見える自分のほうこそが「心の眼鏡」をかけているのかもしれないからだ。…いや私自身は、「実在論」に傾くときも「観念論」に傾くときも、相手はともかく自分こそが「心の眼鏡」をかけてはいないかという疑いばかりが気になるという、大変謙虚な人物なのだが、こっちのほうがいっそう厄介とも言える。(ややこしい)

えのきえのき 2005/03/04 16:26
われわれがこの世に生を受けて今日にいたるまで、すべての認識が「帰納」であって、真の「演繹」などありえないのだから、科学そのものがどこまで行っても実在に触れることはないのでしょう。「帰納」が「言葉の使用」そのものである以上、このルーチンワークから逃れるためには言葉以前に戻るほかないのではないでしょうか。あるいは言葉を破壊される寸前の実体験を味あうか…
人間の自己破滅への欲求って、そんなところからもくるのかなって…
それにしてもこんなテーマを3分ほどで読んで、3分ほどでコメントするのは、いささか無理があります、仕事に戻らねば…

tokyocattokyocat 2005/03/04 22:30 我々はどんな物事に対しても特に根拠がないまま「同じようにくりかえす」ことを無意識に予想しているところがあると思います。それを自覚するとなんだか不思議なのですが、結局それはそういう宇宙に住んでいるからということになるのでしょう。そういう繰り返しがまったくない世界だったら、これまでを踏まえてこれからを考えるとか、人の言うことを参考にするとか、そういうことが全て無意味なので、かえって面白いかもしれませんが…。抽象化や法則化というクセも、そういうところから出てくるんでしょう。ただまあ、きのうときょう雪だったから、あしたも雪、というふうには考えないわけで、そこは帰納をうまく使い分けているわけですね。

tokyocattokyocat 2005/03/23 20:18 演繹と帰納について補足: 帰納が事実として成立するというのと対照的に、演繹というのは厳密には事実としてではなく理念としてだけあるのかも、とふと思いました。「哺乳類は胎生だ 人間は哺乳類だ だから人間は胎生だ」とこういうのを絶対正しい推論とみなすわけですが、それは実は理念として絶対なのであって、事実として未来永劫あらゆる人間がそうだとも言えないんじゃないか、などと思うわけです(とはいえ、胎生でない人間が出現した場合は、推論が間違っていたのではなく、「哺乳類は胎生だ」という前提が間違っていたことになるのでしょう。しかしそれもまた理念のうえの言い訳にすぎないのではないか…)。