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2005-03-15

小説の滋養強壮ドーピング


ジョン・アーヴィングガープの世界』(新潮文庫)ASIN:4102273018

この小説の愛すべきところは数えきれないが、私にとって最大のものというなら、読む者をふと次のごとく感化せしめる力だ。「小説というやつを、いつかは私もぜひ書いてみたい。いや、書かずに死ねるかっ!」

人生は捨てたもんじゃない。…と思いたい。しかし実のところ、希望どおりにはいかないものだし目標に達しそうにもない。それどころか、自他ともに大抵激しくつまらない、くだらないのが人生だ。だったら本当にポイっと捨ててしまえ。…とまあそうもいかなくてグズグズやっている。生きるに値するか否かは、どれほど期待薄であっても、とりあえずまだ保留にしておくしかない。では小説はどうだろう。たかが数百ページ、たかが数百円。つまらない、くだらないと感じたら迷わず捨ててしまってOKだ。場合によっては、この世の小説すべてに絶望して完全に縁を切ったって別にいい。ところが、誰かの人生と違って誰かの小説には、こりゃ捨てたもんじゃないぞと掛け値なしに思わせる例に、時々出くわしてしまう。

繰り返す。人生はさして素晴しくない。しかし小説はときに素晴しい。十分に良い人生を体験しつくすことは難しいが、十分に良い小説を体験しつくすことはできる。今すぐできる。たとえば『ガープの世界』。

陳腐な感想かもしれないが、「棍棒で頭をガンガン殴られる」ような読書だった。しかも、棍棒を力まかせに振り回すその語り口が基調でありながら、同じ棍棒で、細かな心情や情景もキリキリ神経質に刻んでいくし、辛辣と冗談を漂わせることも怠らない。そして気がつけば、驚くほど息の長い、奥の深い展開が生み出されている。つまり、力技を無理やり器用さや慎重さにも転用して何もかも描ききったという感じがする。こうした強烈さの魅力は、主人公ガープの性格ともオーバーラップし、読むのに精力や根気も必要だったこの長い小説を、最後までどうしても捨てがたくさせた。

 

 *

 

この小説は、登場人物ガープが体験するハードでタフな人生物語のなかに、作家ガープがその体験を踏まえながらも独自に創作したという設定の、同じくハードでタフな人生物語がそのまま挿入される。そもそもガープの苦闘とは、人生を送ることと小説を書くことが混じり合ったものだ。ガープはそれを克服し人生と小説の両方を見事にやり遂げる。そして面白いのは、ガープの書く小説の一つが、今読んでいる最中の『ガープの世界』に似ていることだ。さらにいえば、別の一つは、アーヴィングがのちに書くことになる『ホテル・ニューハンプシャー』に似ている。ちなみに、この小説は《アーヴィングの自伝的長編》(新潮文庫のカバーより)とも言われる。

その一方、人生と小説の関わりについて、作中で次のように釘を刺しているのが強く印象に残る。

《「小説は人生よりもよく造られたものでなくてはならない」とガープは書いている。》

《あることが小説に描かれる最悪の理由は、それが実際にあったことだから、というものであると彼は書いている。「すべてのことが、ある時、実際に起こったことがあるのだ!」と彼は激していう。「あるものが小説のなかで起こる唯一の理由は、それがその時に起こる最も完全なものであるということでしかない」》(筒井正明訳、「最悪」には傍点あり)

ここに挙げたことは、「小説を書きたい!」「人生と違って小説は素晴しい」と直観したことにおそらく繋がる。でもどう繋がるのだろう。いろいろ考えたが、うまくまとまらなかった。以下に断片だけを羅列。

(1)ガープもおそらくアーヴィングも、小説というものが人生に匹敵するほどの迫真性を持つと信じていることは間違いない。

(2)『ガープの世界』を読むのは、ガープの小説のメイキングを辿るようであり、アーヴィングのこの小説自体のメイキングを辿るようでもあった。それは同時に、ガープもしくはアーヴィングの人生のメイキングを辿っていたのかもしれない。

(3)『ガープの世界』には、<「―――」とガープは書いている>という言い回しがやけに多い。語られた内容とともに、それが語られたものであること、および、語るという行為や構図の不可欠性を常に自覚させる。そんな作用がこの言い回しにはある。

(4)実をいうと、人生と呼ばれるものの正体は、自分にであれ他人にであれ、それを「語る」ことのなかにだけ生じるのではないか。そして小説とはもちろん「語る」ことのなかに生じる。どちらも、「語られたもの」だけでなく「語ること」そのものを注意深く見つめるべきなのだ。

(5)小説は書かれないかぎり存在しないように、人生も語られないかぎり存在しない、とみてもいい。そのことを、ある作家はきっと小説を書くことによって実感するのだ。そして読者はその作家の小説を読むことによって、小説がそのような存在であること、しかも人生がまたそのような存在であったことを、同時に初めて実感する。

(6)人生というのは終っていないものが多いし範囲もはっきりしないので、白黒つけるのは難しい。というかそう簡単に白黒つけたくもない。しかし小説というのは完結している。文章以外の要素は存在しない。それゆえ、ある人生が素晴しいかどうかの判断はできなくても、ある小説が素晴しいかどうかの判断はできるし、しなければならない。また、同じ理由から、「完全な人生」を作り上げることは絶望的でも、完全な小説を作り上げることには希望がもてる。……それとも、人生もまた語られたかぎりで白黒つけようと挑むべきだろうか。あるいはやはり、人生は語りえないのだから白黒つけられないと逃げるべきだろうか。……そこは分からないのだが、『ガープの世界』から、なんとなくそういう問いを投げかけられた気がしている。


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ところで、同書の「解説」は、次のことを真っ先に指摘している。

《一九五〇年代のおわりから六〇年代のはじめにかけて輩出した、いわゆる「新しい作家たち」、ニュー・フィクションの旗手たちは、小説が死んだと言われることもある時代において、きわめて自己意識的に小説の可能性を模索した。(中略)そういう時代風潮のなか、小説の模索の時代的な必然性を理解しながらも、ジョン・アーヴィングはあえて小説本来のプロットの復権を目指そうとした。》

《そして、一九七八年に出版された『ガープの世界』(The World According to Garp)は、そういう現代小説の実験性に飽きていた大勢の読者に懐かしい小説の醍醐味を取り戻してやったかのごとく大成功を収めたのだった。》(筒井正明)

たしかに、この小説は写実的で長いドラマであり、小難しいことを言わずどっぷり浸かって読み進むだけの面白さに満ちている。しかし一方で、先ほど挙げたとおり、小説のなかに小説が挿入されるといったメタフィクションの構図と自覚が明らかに目立つとも言える。結局こういうことだろう。――『ガープの世界』はもちろん「ただ面白いだけの小説」ではない。しかしそれよりなにより「ただ面白くないだけの小説」を渾身で避けた。

ポストモダンと呼ばれる小説には「小説を理論的に抽象的に分析して痩せ細らせた」とでも言いたくなる作品がある。それに対して『ガープの世界』では、アーヴィングもガープも、小説をむしろ実践的に具体的に記述してひたすら肉付きをよくしている。ポストモダン小説がしばしば「小説についての小説」と評されるのに抗して、『ガープの世界』を「小説を書く小説」とでも呼んで賞賛したい。

finalventfinalvent 2005/03/15 08:09 聖書(福音書)の洒落というのは知ってますか。

tokyocattokyocat 2005/03/15 13:29 「イエスはこうおっしゃった」…ですね。それと、ガープの誕生が「処女懐胎」を思わせる点もよく言及されます。アマゾンのカスタマーレビューには、イエスの生涯に摸して、とあります。ガープくらい破天荒なイエス像というのは魅力的かもしれません。本当はきわめて強引な布教をしたんだ、という話をだれかに聞いたこともあります。ですが、キリスト教の知識に乏しく、そうした味わいはなかなか…。

finalventfinalvent 2005/03/16 14:58 広義にはそうとも言えないことはないのでしょうが、もっと単純に”The World According to Garp”です。だから、イエスに模されているのだ、と。批判とかちゃちゃの意図はないですので。

tokyocattokyocat 2005/03/16 19:39 ああなるほど! Gospel according to … 恥ずかしながら気づきませんでした。

okayamacat okayamacat 2005/03/26 18:00 人それぞれに歩む人生が違うようにどんな人生が素晴らしいかも人それぞれに感じ方が違うのですよね*でも*自分の一番得意な方法で人の役に立つことをすることだよ真に人を喜ばせるものだけが本当の幸せを手に入れることができる*と言う人生は素晴らしいと思います*dictionary*no.0090.p45*

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