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2005-03-18

滑空する評論


仲俣暁生極西文学論』 ASIN:4794966458


《私たちは今、どこにいるのか?》――基本的な問いを携えつつも、この評論は、サイモン&ガーファンクルの「アメリカ」を飛び立ったあと、ペリー・真珠湾・ベトナムなどなど年表と地図を大胆にワープしながら、サリンと震災をくぐり抜けた現在の日本まで、独自の探査飛行を続ける。滑空するそのイメージは、面白いことに、同評論が強く支持する作家たちに見出した「視線の運動」そのもののようだった。

《…一九九〇年代以降に登場した一連の作家――保坂和志、阿部和重、吉田修一、星野智幸、舞城王太郎――は、小説のなかに「自分自身を見る眼差し」を意識的に組み込んでいるという共通点を持つ。》

《…「自分自身を見る眼差し」は、「見る/見られる」という関係が固定化した場合に必然的に生じる権力構造を解体するための対抗的な装置だとひとまずは考えられる。この装置がビルトインされた小説は、かならず作品内で視線がゆるやかな――ときには激しい――運動を起こす。作品内の視線はときには浮上し、ときには思いがけず急速に移動し、ときに乱反射を起こし、ときには暴発し、ときには反転を繰り返して止まらなくなる。しかし、そのダイナミズムは言語によって念入りに統括されており、たんなる抽象的なイメージとして提出されるものでもなく、思わせぶりな沈黙で示されるのでもない。そうした小説からは必ず、聞き間違えようのないそれぞれのオリジナルな声と息遣いが聞こえてくる。》

この前提には村上春樹への批判がある。簡単にいえば、日本の現在を捉える有効な言葉を、村上春樹はもはや生み出せず探ろうともしないが、上に挙げた作家たちは正しく紡いでいるとして共感する。それを時折いくつかの地点(作品)に降り立って確認していく。そのとき重要なキーワードの一つは「恐怖」だ。「恐怖」とは、60年代のアメリカでもなく80年代の日本でもない、現在の我々が新しく立っている、あるいは囚われている場所の性質として、見きわめるべきものということになろう。(詳しくは同書を)

《一九九〇年代以降に登場した一連の作家たち(それにしても、彼らをいったい何と読んだらいいのだろう)は、村上春樹が「恐怖」の問題を乗り越えようと幾度も試みながら、最終的にはつねに失敗してきた地点――そこが私たちにとっての「熊の場所」(舞城王太郎)である――を迂回することなく、その地点を踏み越えていくことを試み、それに成功した人たちだと私は考える。》

経済や社会の変化をめぐって我々が直面している困難を見つめるために、今どのような言葉が必要か。こうした問いかけは本当に切実だと思う。ただ我々は、小説にその役割をあまり期待しなくなって久しい気もする。その役割に応えているか否かで小説の可否を問うのが今や最適なのかどうか、また、同書が推す作家たちがその役割をそもそも自任しているのかどうか、そこは疑問が残る。それでも、そうした言葉の共有を強く求める気持ち、そしてその言葉をほかでもない同時代の小説に探りたいという気持ちには、大いに共感する。

《いま私たちが立っているところが「アメリカ」なのか「日本」なのか、それとも「J国」なのか、そんなことはどうでもいい。少なくとも、私たちは具体的なここに立っている。もし生きている人間がどこであれ足場をもっているなら、その場所がいかに弱い土壌に見えようと、そこが言葉を植えるには値しない場所であるなどと誰にも言うことはできない。

《私たちの足元には土地があるのだが、植えられる言葉だけがまだ足りない。私たちがいちばん必要としているのは、どんな土壌でも葉を伸ばしてゆけるような、強い強い言葉なのだ。》

 * 

ここから愚直な問答になっていくが――

「この小説どう?」と自問するとき、私はまず「好きか嫌いか」が先に立つ。でもそれだけでは気がすまず、どう好きなのか、なぜ好きなのか、それを明らかにして納得したいと考える。そうして、小説の主観的な好き嫌いを裏付けるために、小説の客観的な善し悪しを論じようとする。直観を理論で語る、好悪の反応を是非の判断で説明する、といってもいい。

しかし、善し悪しを論じているうちに、好きだったのか嫌いだったのか、分からなくなってしまうことがある。また、そもそも直観は、理論とは違う成り立ちをしているのであって、言葉で説明すればそれはもう直観ではなく理論だろう、といった奇妙だが原理的な疑いもある。

もちろん、好き嫌いはすべて言葉で説明できると考えてそうする人もいるだろう。また、好き嫌いとは別に善し悪しだけを論じられると考えてそうする人もいるだろう。その小説が好きでも嫌いでもないのに善し悪しだけを長々と論じられると考えてそうする人もいるのだろう。

『極西文学論』は上に挙げた作家の小説をつまるところ「善い」と判断している。しかしそれはそれとして、そう判断する根底に、これらの作家に対する非常に深い「好き」がある。私にはそのように伝わってきた。そこが、滑空する快感とならんでこの評論を「好き」と言いたいポイントだ。

それにしても、問題は村上春樹だ。日本の読者はみな…、いやそれはどうでもよい、私は村上春樹が異様に「好き」なのである。ただ最近は「好き」と言えないこともあり、その理由を考えるとどうも「悪い」と判断ぜざるをえないのだが、でもそうやって読み返しているうちに実はやっぱり「好き」なのかもと思い直し、だんだん分からなくなる。しかしそれはまだいい。最も問題なのは、初期から中期にかけての村上春樹の小説がなぜあれほど「好き」だったのかということ。「好き」と反応するだけの評論でなく、私のこの「好き」という直観を強く裏付けてくれる評論をずっと探しているのだが、なかなか出会わない。村上春樹が「嫌い」という直観を執拗に裏付けてくれる評論には何度も出会った気がするのに。『極西文学論』は上述のとおり現在の村上春樹を「悪い」と判断する。しかし著者は昔から村上春樹が「嫌い」だったのではないと思われる。そこのところはもっと詳しく聞きたい。…などと書きながら、内心では、私の「好き」は私自身の言葉で語るしか本当にしっくりはこないのだ、と割り切っているフシもある。というか、村上さん本人に聞いたってそんなこと分からないのだ、きっと。

 *

ところで、サイモン&ガーファンクルの「アメリカ」も私は非常に好きだ。

そのアメリカ人はきっと、アメリカの中にもう「西」はないと感じ、外に「西」を探すときも、やはり「アメリカを探そう」と歌うのだろう。

では、もし「日本」というタイトルの歌があったら…。「アメリカ」を歌うような気分で「さあ日本を探しに歩き出そう」などとさらりと口ずさむことができるかというと、なかなか想像できない。どうしても不格好で憚られる。

日本人は、「西」を内に探すこともあれば外に探すこともあるようだが、内外どちらであっても「日本を探しにいこう」とはあまり言わない気がする。「日本を取り戻そう」とは言いそうだ。「日本のどこかに 私を待ってる人がいる」(「いい日旅立ち」谷村新司作詞)というのも、帰っていく歌に聞こえる。

「アメリカ」は彼らが探しにいくところ、「日本」は我々が帰ってくるところ、常にそうでしかないのか? ずっと変わらず懐かしくも鬱陶しいものが「日本」なのか? 「日本」は「西」ではありえないのか? そうではないとこの本は主張している。そう受け取った。

「西」とは厳密に定義されないが、同書の最後にはこうある。

《…私たちは地球上でいま自分たちが立っている場所が、「極東」というよりはむしろ「極西」であるということを、いちどはっきり言葉に出して認識する必要があるのではないか。西という言葉が意味するのはたんなる地理的な配置ではない。西とは、私たちの想像力が生み出す何かだ。想像力とは恐怖という感情を生む源泉であると同時に、どこかへ向かう運動を生み出す契機でもある。(中略)私たちは自前の想像力とそれに拮抗しうる言葉の力だけで、いまよりさらに、本当の「西」へ向かうことができるはずだ。》

いつまでも無邪気に「アメリカ」を歌ってはいられないのと同じ意味では、「日本」を歌ってもいられないのだが、今そこにある「アメリカ」、今そこにある「西」、今そこにある「日本」を歌うことを、憚るには及ばない。そんな「日本」を歌えるものなら格好よく歌ってみたい。

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