東京永久観光 このページをアンテナに追加 RSSフィード

2005-03-19

病気はお前だ


本橋哲也ポストコロニアリズム』(岩波新書) ASIN:400430928X


サイードの『オリエンタリズム』と、スピヴァクの『サバルタンは語ることができるか』、それぞれのエッセンスが一応明瞭に理解できた気がする。やはりこんな簡単なからくりの分析だったのだと。

サバルタンは語ることができるか』(訳本)は以前かなり苦労して読んだ。私が理解したことを一言でいうなら、「もの言えぬ人々のことを、もの言える人が代弁しても、それはもの言えぬ人の弁ではないように、もの言えぬ人々の中からたまたまもの言えるようになった人が、未だにもの言えぬ人々を代弁しても、やはりそれはもの言えぬ人の弁ではない」といったようなこと。

でもこれくらいのことなら、こちらの新書を読むだけでズバッと分かるのだ。原論文を読むともっと詳しく分かるのかというと、まあそうかもしれないが、読むこと自体が大変でそっちに精力を取られるし、それに、こんなに読んだうえでこんなに単純な結論でいいのかと妙な迷いが生じてしまって、むしろよく分からなかったとさえ言える。難しい論文というのは、無駄なだけでなく、罪作りなのかもしれない。

オリエンタリズムという概念はもう一般的だと思うが、これもこの新書で改めて鮮明になった気がする。『オリエンタリズム』は序文しか読んでいないのだが、こちらも私ががんばって全部読んでも、「要するに…」とまとめてみれば結局この新書で分かった程度を超えることはできないかも、と思ったり…。


ASIN:4582760112 オリエンタリズム

ASIN:4622050315 サバルタンは語ることができるか


 *


なお、この新書は Sound and Fury で紹介されていて読もうと思った。

http://d.hatena.ne.jp/merubook/20050218

メルさんは、ポストコロニアリズムやカルチュラルスタディーズに対しては、日ごろから微妙ながら率直な距離を保っていて、その刺激が心地よい。この新書についても、大いに評価しつつ一点だけしかし致命的ともいうべき問題を指摘している。ちょっと引用させていただく。

問題は次の箇所である。

「アイヌにとって歴史とは、文字で書かれた歴史と口伝えに伝承された歴史との二項対立を越えたところに存在する、いわば自然との対話と言ってもよいものではないだろうか。一木一草に歴史が存在し、熊や鮭や花や星が歴史を語り、海川や岩石が歴史を保持するような世界がそこに広がる。植民地主義が排除してきたそのような歴史のとらえ方を、いま私たちはポストコロニアルな自己と他者との出会いを探究するなかで迫られているのではないだろうか?」(本橋『ポストコロニアリズム』p.195)

スピヴァクの読解をした後で、どうしてこうしたユートピアを植民地主義に代置しようとするのだろうか。本当にスピヴァクの文章を読んだのかと疑いたくなる。こうした単純な図式を示すことがポストコロニアリズムの思想や実践ではないと思う。少なくともスピヴァクの思想からは、こうした考えは出てきそうもないのだが…。知識人には、なぜかマイノリティに過剰な幻想を抱く傾向があるように私には思えて、それゆえにカルチュラル・スタディーズやポストコロニアリズムを全面的に認めることができない。しかし、スピヴァクだけは単純な幻想を持っていない。他の知識人たちよりも一歩先の認識を持っていると思う。この点において、私はスピヴァクを信用することができるのだ。

スピヴァクのエッセンスを紹介する本のなかで、なんでスピヴァクがやるなと言っていることをやってしまうのか、と飽きれているわけだ。この批判がどれくらい当っているかは、読んでのお楽しみである。


 *


ところで、「ポストコロニアリズム」に訳語はあるのだろうか。「植民地後遺症候群」といった感じだろうか。

かつて植民地支配を強引に進めたり正当化したりしたのは、まあ単純に「コロニアリズム=植民地病」で、そうした歴史からくる長い後遺症がポストコロニアリズムなのかな、と。ただ、その後遺症を発見して治療するための調査や研究もまた、同じくポストコロニアリズムと呼ばれているようだ。しかも重要なのは、ポストコロニアリズムとは主に知識や言説に取りつく病気だということ。

そうした事情から、とても奇妙なことだが、スピヴァクも含めてポストコロニアリズムの医者こそがポストコロニアリズムの患者に見えてしまうことは、十分ありうるのだ。そこまで言わないにしても、ポストコロニアリズムとは院内感染する病気なのではないだろうか。

そうすると、むしろこういうことでぐだぐだ考えたり悩んだりするのを止めれば、すっかり健康になるのだろうか。あるいは、こういうことには最初から接触しないのが一番なのだろうか。そして次のような注射(下)でも一本打っておくと。

…私は今回のNHK問題の原因となった「女性国際戦犯法廷」を擁護する気はまったくない。というよりも、これは滅びゆく左翼イデオロギーを「ポストコロニアリズム」と衣替えして延命するイベントにすぎないと思っている。/本橋哲也『ポストコロニアリズム』(岩波新書)は、その見本だ。内容のほとんどが他人の本の引き写しで、最後に「日本にとってのポスコロ」として、問題の「戦犯法廷」が登場する。女性で韓国人で人身売買となれば、法廷に参加した日本人はみんな「加害者」として懺悔しなければならないわけだ。

池田信夫blog http://blog.goo.ne.jp/ikedanobuo/e/4ddd445b868f20fb9816b9e0b7717ec7

しかしこの医者はこの医者で、なにか別の病気でないとも言い切れない。アレルギー系? 長く患っているのは本当にどっち側なんだろうと、改めて悩んで寝込んでしまって、病膏肓に入る…。


 *


さて。

語らぬはずの者があえて語ってしまうとき、彼はなお「語らぬ者」でありうるのか、それとも、それは単に「語る者」でしかないのか>という問いの構造自体が興味深いと思う。

言語によらない思考について言語が語るとき、それは本当に言語によらない思考なのか、それともやっぱり言語による思考なのか>という問いと同型だろう。

ずっと前、保坂和志明け方の猫』を読んでそんなことを思った。それもあって『サバルタンは語ることができるか』を読んでみたのだ。

参考:http://www.mayq.net/junky0104.html#010420

ASIN:4122044855 明け方の猫

トラックバック - http://d.hatena.ne.jp/tokyocat/20050319