東京永久観光 このページをアンテナに追加 RSSフィード

2005-03-26

酔狂としての感動


北田暁大嗤う日本の「ナショナリズム」』(NHKブックス) ASIN:4140910240

同名の論文を『世界』で読んだ一人として、こうした著書を楽しみに待っていた。実際あの分析が詳しく積み上げられる。2ちゃんねるの本性として抽出された「ロマン主義的シニシズム」は、今後 日本社会やインターネットを論じる際に、かの「動物化」と並んで、最強のタームとなるにちがいない。…なんちゃって!

話が連合赤軍事件から始まって、意表を突かれた。しかしこれは、2ちゃんねるに至るまで通底する時代の流れを一望する必要からなのだと徐々に分かってくる。また、途中でナンシー関への思い入れが激しいのも意外だったが、じつは、ロマン主義的シニシズムへの抵抗をナンシーの立ち位置にこそ見いだすような結論になっていく。こうした狙いすました構成と展開は読みごたえがあった。さらに、論じる対象をそのつど幾重にも限定する慎重さと、異論にはたっぷり共感を示しつつ回避しておく穏健さが、説得力を醸してくる。大胆にして精緻。「嗤うナショナリズム(もどき)」という現象の鮮明さと、「ロマン主義的シニシズム」という理論の妥当性に、改めて頷かされた。…なんちゃって!

同書は、「反省という系のなかではシニシズムの運動が高まるとロマン主義が発生する」という法則を打ち立て、それによって「ネタを嗤い続けていたらナショナリズムが出てきたよ」という2ちゃんねる現象をうまく説明する。そのとき決定的に重要なのは、「アイロニー」と「シニシズム」というなんとなく似ている二つの概念の区分けだ。それは『世界』の論文でも示唆されていたが、同書によって明瞭になった。読めばよく分かる。だからここでは私なりのイメージを膨らませてみよう。社会や文化という生命体のなかで、アイロニーは構造と位置が定まった器官として有効に働く。ところが、その役割から外れて自らの連鎖反応だけを増殖させていくと、アイロニーはなんとシニシズムという癌に変わってしまうのだ。したがって、そんなものから発生したにすぎない2ちゃんねる的な「ナショナリズム」や「ロマン主義」は、歴史や思想を欠いているし、そもそも近代的な人間の所作ではない、といったところまで同書が断じるのも、大それたことではない。…なんちゃって!

こんなふうになんでもかんでも「…なんちゃって!」とスカしてみせるのは、『嗤う日本の「ナショナリズム」』をロマン主義的な感動の対象に帰着させないための努力のようで、ほんとうは、「ネタか」と問われても「マジか」と問われてもいずれにも「違うよ」と応じられる余地を残さないと不安でいられないという癌の証しなのかもしれない。まあしかし、それが「嗤うナショナリズム」であるかぎり、私たちは今夜も平和ボケのまま枕を高くして眠れるとも言える。これがもしたとえば「怒りのテロリズム」とかになってしまったら、さすがに「…なんちゃって!」ではすまない。というか、じつは「嗤うナショナリズム」にはもういいかげん飽きている。そろそろこの国にも「怒りのテロリズム」が出てもいい頃じゃないかと、内心待望。…なんちゃって!

ところで、同書の冒頭、著者は《私はパソコンに齧りつき二時間ほどでネット版『電車男』を読み終え、泣き…》と述べているのを、メタではなくベタと受けとめた私は、なかなかのロマンチスト?


 *


『世界』の論文を読んだときの感想 → http://d.hatena.ne.jp/tokyocat/20031016

もうひとつ関連 → http://d.hatena.ne.jp/tokyocat/20040126


 *

 

 

なお、東浩紀氏は同書に対して次のように反応している。きわめて興味深い。

http://www.hirokiazuma.com/archives/000127.html

《笠井氏と北田氏は(さらに付け加えると――詳しい説明は省略するが――僕の「動物化」の時代を「不可能性の時代」と言い換えようと提案している大澤真幸氏も)、全共闘から新人類(とオタク第一世代)へと受け継がれたメタゲームの果てに、いまの「動物化」現象があると考える。僕は、『動物化するポストモダン』でも、またそれ以降も繰り返し主張しているように、そうは考えない。僕の主張は単純に、メタゲームはもう必要とされていないのだ、なぜならば現在のネットワーク環境は(それがいいか悪いかはともかくとして)みんながまったり動物的に生きる文化的世界を用意したから、というものである。》

《それはおそらくは、「第三者の審級がない」ということの「ない」の意味をどう捉えるか、という世界観の違いによるものである。1995年以降の日本において、その直前まで優勢だったメタゲーム(アイロニー)が急に失効してしまった、という点では、おそらく、笠井氏も大澤氏も北田氏も僕も意見が一致している。しかし、彼ら3人はすべて、メタゲームのその端的な欠如状態に、メタゲームを存在させない、という高度なメタゲームを読み込んでしまう。その所作は、僕にはとても否定神学的なものに見える。》

これについて、《外部=第三者の審級(厳密にイコールであるかどうかは別として)を巡る、事実命題と当為命題の相違と言っていいのかもしれない》という寸評があった。(http://d.hatena.ne.jp/pavlusha/20050320電網山賊』)

これまた、なるほど!