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2005-04-15

この世は小説と小説以外で出来ている(のかも)


保坂和志書きあぐねている人のための小説入門』  ASIN:4794212542


べつに書きあぐねているわけではないが、読んだ。保坂はいつも、だらだら思いつくまま書いているようで、しかも単純なことの果てしない繰り返しのようでもあるのだが、それでも、こうした考察のなかで、なるほどと引き込まれるのは、この人のもの以外にはなかなかない。やっぱりそれだけ小説にまつわる切実な意見がここには詰まっているのだと思う。

我々は読んだ小説について何か語ろうとする。しかしそれは小説を読むのを中断してしかできない。だから、小説を語る・論じるという行為は、小説を読んでいる感触そのものからは、どうしても少し遠ざかってしまう。だから小説を語るのは難しい。でも保坂の考察に触れているときだけは、小説を語るときの私の気持ちではなく、小説を読んでいるときの私の気持ちが、そのまま立ち上がってくる気がする。そうだ、小説の不思議さ面白さとはこういうかんじなんだよと。

というわけで、小説を書きあぐねているかどうかはさておき、読みあぐねてしまうことや語りあぐねてしまうことが誰にももっと頻繁にあるわけで、そのときもきっと役に立つ。

ただ実は、小説とは何かということになると、当然かもしれないが、それを実際に書くことで分かることは多いのだろう。小説を書かなくても小説のことが(保坂なみに)分かるという鋭い人もいる。しかしそうでない人は、ひとつ小説を書いてみるというのが、小説の不思議に近づく王道にちがいない。私も小説を書いたことがないわけではないが、もうすっかり忘れている。ひとつ書いてみなくてはいけない(そしてまったく書けないことに気づかなくてはいけない)のかもしれない。


*ひとこと追加。

小説を語ることは、なにかを言うという点では小説を書くことに似ているようにみえるが、でもやっぱり小説を書くというのはもっと完全に独特の作業なのだろうと感じる。この世が小説と小説以外で出来ているかもというのはそういうことだ。しかし一方で、保坂はよく、作家は小説を書きながら誰よりもその小説を読んでいるのです、といったことを強調する。そうすると、読者は、小説を読むということを通じてであれば、小説を書くということに、実は少し近づけるのではないかと思う。

ゆんたちゅらゆんたちゅら 2005/04/16 14:54 僕なんかがこんなこと言うのはオコガマシイのですが、小説の現場はやっぱり「読む」ところ以外にはないと思います。「書く」こともまた「読む」ことに含まれていると、つくづく実感しています。ということは、書き手というのは書くことを人前にさらすことで、当人の「読み」を問われ続けているといえます。ただしもちろん、読み手もまた読むことで「読み」を問われているわけです。
書くことと読むことの違いは、じゃあどこにあるかというと、書き手の場合は「書く一方」ではありえない、という一点につきましょう。書き手はその書くものを、「書く⇔読む」の往復運動の外側から引っ張ってくるよりほかありません。
だけどそれもまた純粋に原理的な、机上の空論に近い差異でしかありません。読み手だってその人の人生や今置かれている状況を背負って読んでいるわけですから。したがって「読む」と「書く」との間には、実質的にはまったくといっていいくらい差異がない、というのが、僕の現在の仮説です。

tokyocattokyocat 2005/04/17 12:32 現場から貴重な証言をありがとうございます。読み手の「読み」が問われるのは、書き手自らの「読み」が問われることと同次元でありうる、という指摘は深いものがありますね。小説の「読み」とは、実はそれほどに意義が大きく難度も高くありうるのということでしょう。さてさて、新聞記事や研究論文なども含めた「書く」「読む」全般の中で、小説を読む書くというのは社会的な行為としても言語的な行為としてもかなり離れて特殊な位置にあると感じます。また実際の生活で、記事や論文(またはそれに似たもの)を書く機会はあっても、小説(またはそれに似たもの)を書く機会はあまりありません。だから、小説というのは、記事や論文とはまったく違った意味で、予測や期待を大きく外れて生成してしまう、あるいはまったく生成してくれないものなんじゃないでしょうか。それを痛いほど実感するために、まずはとにかく書いてみないと始まらないと思うのも私の本心です。小説に似たものを書けばそれはすべて小説だろうとタカを括っている一方で、小説に似ているけれど小説ではないものがたくさん出来てしまうのではありませんか。そういう難しさや苦しさはやっぱり書く人にしかほとんど分からないだろうとも思っています。…ということを机上の空論にしないためにも、書いてみたいものです。

ゆんたちゅらゆんたちゅら 2005/04/18 13:41 ご指摘のとおりだと思います。あんまりこのコメント欄を長っぽそくしてもナンですので、ちゃちゃっと申しますと、記事や論文を読むのに比べて、小説を読むことが社会的にも言語的にも特殊であるのは、小説が結局のところ「情報」ではない、ということにつきると思います。ここが大きなパラドックス、面白さですが、たとえありとあらゆる言語が「情報」であるとしても、そして小説が100%言語だけで出来ているものであっても、小説は「情報」ではないのです。もしくは「情報」でないところを小説と呼ぶのではないでしょうか。
じゃ、言語における「情報でないところ」とは何のことなのか、それをどう「読む」というのか、という問題は当然提起されるわけですが、これについてちょっとでも説得力のある回答を、僕はまるで思いつきません。説得力のない回答ならありますが、それはオカルトに近いものです。つまりどこかで僕は、小説をオカルト的な要素を持った言語と考えているようです。

tokyocattokyocat 2005/04/28 15:16 遅ればせながら。「情報」という用語を、こういう意味合いに位置づけるところ、非常に示唆的だと受けとめています。「言葉とは不思議だ」とか「小説は不思議だ」とか、私はそんなことばかり呟いているのですが、両者は似てはいますが同じことではないとも思っており、そのへんを整理しつつ、それぞれの核心をもっと知りたいと思っています。またいずれ。