東京永久観光 このページをアンテナに追加 RSSフィード

2005-05-30

東京猫裁判


おいこら道路公団、元理事とかいうヤツ! 刑務所に行くのもいいが、長年かすめとった税金はきっちり精算しなさい。膨大であろうその額を私にも分け与えなさい。悪の表層にすぎなかろうが尻尾にすぎなかろうが、悪の象徴を憎む以外に、悪を憎むことは私にはできない。「A級戦犯は永久戦犯なり」と言う人の気持ちがきょうは少し分かる。


http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20050530-00000010-mai-soci

「<橋梁談合>公団発注の工事受注 道路公団の元理事が調整役」


警告:テロはやめよう。

えのきえのき 2005/05/30 20:20 言うなれば…
パチンコ屋の現金交換と同じだと思いますよ。
やるほうも、やられるほうも、全部わかってやってる。
「そんなことになっていたのかぁ〜」って驚くより
「なぜ今さら摘発なのか」を調査すべきだと思いますね>メディア
多少、橋梁建設にかかわった経験者なので、
そっちの政治的「意図」とか「取引」のほうが興味あります。

tokyocattokyocat 2005/06/01 19:51 談合がまるきり無益ということはないのでしょうが、限度というものがあるのではないでしょうかねえ。それと、民間が贈賄したくなる気持ちは非常によく分かるのです。だからこそ役人様は1円たりとも収賄してはいけない!

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2005-05-28

kaoru3_16kaoru3_16 2005/05/28 10:40 >ゲーデル数
もしくは言及される自己への『無限退行』

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2005-05-26

「中国」は「青春」よりもっと奇妙


ジャ・ジャンクー監督『青の稲妻』(中国映画)=DVD鑑賞=

ASIN:B0000CBC6T http://www.bitters.co.jp/inazuma/


主人公の青年2人の顔が生理的に強烈で、まずそこに引き込まれた。冒頭バイクを運転しながら正面向きで現れるビンビンのでこぼこ顔もさることながら、後から出てきたボサボサ髪のシャオジイがなにしろ圧倒的で、途轍もないダサさとぎらつきの塊に感じられた。二人そろって痩せこけた身体。終始険しく沈んだ表情。一度でも笑った場面はあっただろうか。ふと、つげ義春の漫画にあれくらいイビツな風貌に描かれた人物がいたように思い出す。だが彼らのインパクトはそれを上回った。まして今の日本にはあんな顔つきの若者はもういない。青春とはいずこも同じ冴えない暗い一時期なのだろう。それでも、近年の歴史において空前の激変が進行中とおもわれる中国であるからには、青年もまた世にも稀な類いが出現していてもおかしくない。

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まっちゃんまっちゃん 2005/05/28 07:53 この映画は本当に凄いですね。
中国が凄いということかもしれませんが。
関係がねじれているときだからこそ日本人も見たらいい。
百の議論より有益だと思います。

tokyocattokyocat 2005/05/28 17:20 ちょっと話はずれますが――。国民の生活は国の経済の総体的な安定や発展に大いに絡むのだということが、身にしみました。しかし実は、それだけでなく、個人における貧しさの実感というのは、マクロな指標など無関係に、まったく別様の実相として浮上するのだということも忘れるべきではないと思います。つまり、我々はたとえ先進国水準の所得を得ていても、すぐ近くにいる隣人との格差や嫉妬こそがきわめて重大なのであり、したがって、年収300万円と1000万円という結果不平等に対しては「やってられね〜」ともっと怒り狂っていいと思うのです。ましてや、その隣人だけがどうも構造的にヒイキされたりズルしたりしてきたようで、しかもその構造は結局どうしても覆せないらしいという絶望に陥るとき、そのむしゃくしゃした気持ちは、まさに『青の稲妻』の主人公たちに通じていくと思います。

まっちゃんまっちゃん 2005/05/28 20:48 >個人における貧しさの実感というのは、マクロな指標など無関係に、まったく別様の実相として浮上するのだということも忘れるべきではないと思います。

まったく同感です。
だとすれば日本には日本の『青の稲妻』のような作品が生まれてもいいはずですよね……

2005-05-21

旅の回想というより、回想という旅


しばらく続いた繁忙期が終わった。「さて何しよう」と考えて、積年の気がかりだった昔の旅行日記をパソコンに書き写す作業にいそしむことにした。インド・パキスタン・中国と慌ただしく移動した2カ月間。最初の勤めを辞めた1989年だから…、16年も前になる。

年季の入ったノート。なぐり書きされた文字。ただ順に解きほぐしていくだけで、折り畳まれていた出来事の感触は、まったく面白いほどありありと蘇ってきた。不思議でしようがない。16年もの間、この化石のごとき記憶はいったいどのように保管されていたのだろう。しかも今いかにして再演されているのだろう。極めつけの謎といっていいが、それは言葉という媒介の魔法を思い知ることと同じだ。

昨日の旅はヒドかった。トヨタのハイエースに運転手ふくめて19人が押し込められ、20時間の苦行! まったく信じられないことには、夜中や明け方でもおかまいなしにパキスタンの音楽をガンガン流す。うるさいのなんのって。明るいうちは気も紛れたが、夜間はどうにも辛かった。うとうとすると頭や肩を車体にごつんとぶつけたり。揺れるなんてもんじゃない。僕はいちばん後ろの左端でタイヤのほぼ真上。まいった。けさは、山岳地帯の荒涼(じつにこの言葉はここのためにある)としたなかをずっと走ってきた。木々はなく人影ももちろんなく、あるのは親しみなどつゆ持ちあわせていない大小の岩ばかり。そのなかを送電線だけが走る。赤茶けたほこりまみれの道だ。途中で、崖下に車(スズキの集合自動車?)が転落しているのに出会う。いやなものを見てしまった。そういえばこのハイエース、よく止まった。食事だのトイレだの水だの。山岳地帯に入ってからは軍の検問ばかり。

「赤茶けたほこりまみれの道」にしても「トヨタのハイエース」にしても、誰もがくりかえし言う表現だ。そのような言葉しか我々は使えないのだが、そのような言葉をほんの10行並べることで、何ものにも代えがたい記憶が引き出されてくる。いや、考えてみれば、海外の強烈な体験だけが特別なのではなく、記憶とは常にことごとく固有のリアリティを持っている。

そこで気づかされるのはまず、言葉は体験そのものではないということ。1989年に起ったこの20時間は世界で起っている他のいずれとも異なる出来事なのだから、それを書き記すにも他のいずれとも異なる言葉が要るのではないかと思いたくなる。しかし我々の言葉はそういうふうにはなっていない。「赤茶けたほこりまみれの道」くらい、おおよその色あいや輪郭を書き留めておくことで、唯一無比の体験をさっと束ねてどこかに放り込んでおく。

というわけで、言葉自体は曖昧なものを担うのだが、曖昧であるがゆえに汎用性がある。そのおかげで言葉は共通の道具になる。ただそれでも不思議なのは、その汎用性のある言葉によって、この明らかに固有性のある記憶が成立してくることだ。さらには、16年経過したにも関わらず、あの出来事とこの記憶が、少なくとも私の意識のなかでは、たしかな同一性を保っていることだ。このあたりにこそ人間の脳細胞の最大の謎があるのだろうが、それはほとんど言葉の魔法ということでもあろう。

旅行を記録した言葉は曖昧で限定されているのに、それが引きだしてくる旅行の記憶は鮮明で際限がない。

いったい言葉とは何であろうか! 文法・意味・用法といった縛りは案外きつく踏み外すことは不可能に近い。それなのに、その汎用性と可塑性は万能であらゆる事象を引き受けようとする。しかも脳の働きと共同して、その再現性と同一性は完璧に感じられる。

そして私は、このノートを読みそして書き写すことで、あの懐かしい旅を今もう一度したのだと確信している。そして、あの日の出来事をこれらの言葉として書き記しておかなかったなら、また今回この言葉を媒介にしたのでなければ、回想という旅行はこれほど鮮明にはなりえなかったとも確信する。

自己から記憶を引いたら何が残るだろう、とはしばしば言及される。しかし、記憶から言葉を引いたときも、何が残るかおぼつかない。記憶の最大の鍵はこのノートの文面が握っている。16年前の旅行とは、じつに16年前に私が綴った旅行ノートと同一なのかもしれない。人生の大半はけっきょく言葉を書くことや読むことを通してしか現れようがないのだと、言い切りたくなってくる。


 *


言葉や脳の曖昧さ・汎用性・可塑性ということについては、池谷裕二『進化しすぎた脳』から大いに示唆を得た。ASIN:4255002738


 *


ところで旅行というのは、環境や身体に新しい事態が次々に訪れて五感全体をフルに動かさざるをえないような体験だろう。だから記憶としても旅行というのはじつはかなり特殊性を帯びているとも考えられる(言語の支配はまだしも少ないのかもしれない)。そうした観点から逆に際立つのは、こうしたネット上の読み書きだ。これはやはり環境や身体の体験とは関係が薄く、いわば言語のみ情報のみの記憶として積み重なっているように思われる。このような特異な体験や記憶の仕方は、少なくとも1989年にはたぶん存在していなかった。こうした類いの記憶となれば、言語の関与はなおさら圧倒的だろう。ネットサーフィンしている私の記憶がいったいこの先どうなっていくのか、興味津々なのだが、それについてはまたいずれ。

2005-05-20

観測気球


はてなブックマーク」だが、この記事ならこの界隈ではこれくらい注目を集めるというデータ(ユーザー数・日記数)が得られるのかもしれない。

というわけで。http://b.hatena.ne.jp/tokyocat/

x79xxxx79xxx 2005/05/20 11:16 んー、行けないですね。はてなブックマークは注目を集める記事に乗っかるより被ブックマーク数2-3ぐらいが美味しいです。いまのところ、そうやって楽しんでます。

tokyocattokyocat 2005/05/20 12:56 それもいいですね。それと、まだ真っ白な図書カードに自分の名が最初に記入されるのを喜びとするというのもあります。そういう同級生が昔いました。

tokyocattokyocat 2005/05/20 13:05 失礼、非公開→公開に変更。

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2005-05-14

オレのDNAにも著作権を認めろ!


このあいだ衝動買い(衝動クリック)したのが細野晴臣HOSONO HOUSE』(ASIN:B0007N35IY)。73年ソロ第1作のリマスター盤ということらしい。1曲目『ろっかばいまいべいびい』の冒頭、ベースがズシンと心地よく響いてくる。そのコード進行がmixiで話題になっていた。たとえば「DM7 Am7(onD) C#m7-5 C#m7(onG#) F#7 F#7(onBフラ) Bm7 E7」じゃないかとおもうんですが、といったぐあい。さらに目にとまったのは、「コード進行によって、特定の楽曲を再現できる場合には、コード進行を楽譜と同等のものとみなす。つまり、著作物であり許諾が必要」などとジャスラック(銭ゲバ)が言っているらしいこと。まあそれはいいとして、和音というのは、構成音の一つでも半音違えば響きは一変する。コードのつながりの変化によってもムードは多様に変わる。ふと連想したのは、DNAあるいはタンパク質の分子構造。ほぼパターン化されたコード進行が、戯れに弾いてみた変則コードによって、思いがけずがらりと変わってしまう。突然変異というべきかもしれない。

それにしても、73年はやはり邦楽洋楽ともにますます黄金の1年だったように思えてきた。

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2005-05-08

俺のドラマを見ろ!


TBSのドラマ『タイガー&ドラゴン』、評判を聞いておととい初めて見た。

http://www.tbs.co.jp/TandD/

ひとつの単純なストーリーを語る・伝える、ただそれだけのために、まるで遊園地のからくり屋敷かコースターのごとく、転換や起伏をよくぞここまで富ませたものだ、という感じ。そうか、これがまさに「俺の話を聞け」魂だ。

本筋の話と、回想の話と、落語の話と、いろいろ絡み合ってくるところが、なんといっても絶妙だろう。わざとらしくも目立ったのは、同一人物(役者)が、似ているけど別のしかし関連する他のシチュエーションを演じる、しかもそれが再帰的にもなるといった手法。こういうものに私は小劇場系の演劇を通して馴染んでいった部分が大きいと思うが、考えてみれば、芝居においては役者の体も衣装も舞台もリニアに連続しているのであって、それに比べて、編集してつなげることが前提で万能でもあるテレビドラマこそ、こういうことは得意なのだろう。そういうドラマがたくさんあるかどうかは別にして。

ドラマというのは、語っている者や場面と、語られている者や場面とが、ともに同じ生身の人間(役者)が同じ要領で演じ、それを同じような映像で見ることが多い。したがって、語っていることと語られていることの主客や主従が分からなくなる、あるいは図と地が逆転する、そのような揺れを本当は必然的にはらんでいるはずなのだ。そんなことを大いに自覚するひとときでもあった。

これが映画ということになると、リアルな演技とリアルな演出によってリアルな現実をかもしだすべきだ、といった信仰のようなものが、作る側にも見る側にもなぜか強いようで、このドラマのような目茶目茶はフィルムやスクリーンにはとなんとなく合わないように思ってしまう。不思議ではあるが。

ところでじゃあ小説はどうなのか。文芸の書籍や雑誌のページに並ぶ黒インクを眺めたところでは、ひたすらリニアな文章の流れだが、実はその外観からはまったく想像もつかない変転と遊戯が、上へ下へ・外へ中へ・表へ裏へと繰り返されている、そのような小説もあると思われる。…と考えて、急に高橋源一郎の昔の小説が読みたくなって引っ張り出してみた。『優雅で感傷的な日本野球』の1「偽ルナールの野球博物誌」。ああ面白い!

ちなみに我々のふだんの会話というものであれば、「きょうこんなことがあってね」とか「aさんとbさんがこんなことをしてさあ」という話を、ただ思いだすままにだーっと語るばかりで、まさか場面や人物を演じて再構成するようなおしゃべりは普通しないよなあと考えて、ふと、そうか落語というのは何の道具立てもなしに、それを一人の語りのなかで成立させているのかと気づき、感慨深くおもった。

もう少し。役者が人物や場面を演じるのは、本来はストーリーを忠実に伝えることに奉仕するためかもしれない。しかし、たとえば小説において語りの内容より語りの形式や文章のほうが妙に浮き立ってしまうことがあるように、役者という生身の身体やキャラクターがぐっと前にせり出してくることは、必ず起こりうる。さらには、ストーリーの迫真性よりもストーリーの内部外部の関係性、伝える内容ではなく伝える方法といったものが、少なくとも作り手にはいやでも自覚されてくるだろう。こうしたことを強く意識して作っているドラマかどうか、しかもむしろそれは慎もうと思いつつもそれでもやっぱりそのことが面白いからと踏み込んでいくようなドラマかどうか。この点が、大きくいえば、現代的な表現かどうかの分かれ目になるとは言えないだろうか。いわゆるトレンディドラマ系などがつまらないとしたら、そういうことと関係があるのだろう。かつてのTBS『時間ですよ』とか『ムー一族』なんかは、ほとんど見ていないのだけれど、この系譜の先駆けだったような気もしてきた。

2005-05-07 I know time flies so quickly.

『複雑な世界、単純な法則 ネットワーク科学の最前線』(マーク・ブキャナン著)


私たちが、自分の知りあい、知りあいの知りあい、そのまた知りあい、というぐあいにどんどん辿っていくと、世界中すべての人と6人目くらいで繋がってしまう(らしいよ)。そんな風説がだいぶ昔からあったとおもう。この謎、じつは数学者がまじめにこつこつ解析していた。その鮮やかな成果をまとめたのがこの本だ。

これまでの実験やシミュレーションがはじき出すのは、なぜか本当に6前後の数値。世間は広いようで、あまりにもあまりにも狭いのだ。これを指して「スモールワールド」と呼ぶ。それにしても、60億あまりの人々がたった6の隔たりで結びついてしまうとしたら、いったい地球社会のネットワークはどんな構造をしているのか。

まず、全員の知りあい関係がもしまったくランダムであれば、隔たりは思いがけず小さくなるという。つまり、東京の私が南米のAさんであれアフリカのBさんであれ世界中に散らばった不特定の人とまんべんなく知りあいである場合だ。しかし実際の人間関係はランダムではない。大半の知りあいは地域や仕事や学校などの中にまとまっていて、しかも知りあいどうしも互いに知りあいという、クラスター(かたまり)を形成している。このクラスターの度合いが大きければ、つまり誰もが近場ばかりに知りあいが多い場合は、隔たりは手に負えないほど大きくなってしまうという。

私たちの社会はランダムではなくクラスター化したネットワークだと思われる。それなのに隔たりは思いのほか小さいようでもある。ここに謎がある。

無数の点を線で結んだ単純なモデルを使って、ワッツとストロガッツという学者がつきとめた答は、いたって単純だった。クラスター化したネットワークでも、わずかにランダムさを加えれば、隔たりは一気に小さくなる。知りあいの大半が近場でかたまっていても、近場を離れた遠くの知りあいが全体のなかにほんの少しいるだけで、世間はたちどころに狭くなるというわけ。「そりゃ当たり前だろう」と言うかもしれない。しかしポイントは、その隔たりが想像をはるかに超えて急激に小さくなるところにある。

60億人が50人ずつ知りあいをもつとして、完全に隣人どうしだけで結ばれていれば、隔たりは6000万にもなる(追記:これは単純計算で最も遠い人までの隔たりということだろう)。ところが、近場の隣人10000人に対して遠くの知人がたった2人だけ増えれば、隔たりはなんと8に減るというのだ(信じがたい数値だけれど)。10000分の3なら、隔たりは5。まぎれもなくスモールワールドが成立する。しかも、10000分の2〜3程度のランダムさであれば、クラスターの特質つまり近場の隣人どうしの強いまとまりは保たれる。

このモデルは私たちの社会の実感に合致していると思われる。そのほか、ある種のホタルが群れ全体で一斉に発光できる理由も、同じモデルで説明できる。すなわち、遠くまで届く強い光を出すホタルがほんの数匹いればよい、と。さらに、人間の知覚や運動において脳の無数のニューロンが同期して発火できるのも、ニューロンのネットワークがこうした構造であるからだろうとの推測もされている。

続いて同書は、インターネットを例に、もうひとつ別のスモールワールドを解説していく。そこで出てくるのは「べき乗則」という重要キーワードだ。WWWにおいては、リンクされる数がとても少ないサイトは数がとても多く、リンクが増えるにしたがってそのようなサイトの数はしだいに減っていき、ごく少数のサイトが膨大なリンク数を独占する。この分布パターンがべき乗則で、グラフを描けば傾いた直線になる。アルバート=ラズロ・バラバシという物理学者らが、実際に32万ほどのサイトをサンプルにリンク数とサイト数を調べたところ、みごとにこのべき乗則になっていたという。これに加えて、ウェブサイトどうしの隔たりを計算したところ、約19と出た。何十億とも言われる世界中の全サイトが、リンクを19回クリックすれば隈なくブラウズできることになる。つまり、べき乗則のネットワークもまたスモールワールドなのだ。ちなみにインターネットは、ウェブのリンクだけでなく、サーバとなるコンピュータの物理的つながりも、同様にべき乗則になっているという。

ところで、先に示されたスモールワールドでは各点がほぼ同数のリンクをもっていた。しかし、こちらのスモールワールドは、べき乗則だから、各点がもつリンクの数に大きな差があるのがミソ。すなわち2つのスモールワールドは構造がかなり違っている。

べき乗則に従ったスモールワールドの例としては、細胞の生化学反応、生態系の食物連鎖、企業の取締役の人脈、学術論文の引用文献、言語使用での単語のつながり、などが次々にあげられる。べき乗則は不可解なことに自然と人為の区分を超えて現れる構造ということになる。いずれも、多数のリンクを少数のメンバーが独占するネットワークになっている。その独占者は「コネクター」「ハブ」などと呼ばれ、ネットワークをスモールワールドにする立役者であると同時に、彼らがもつ無数の薄いリンクはネットワークを崩壊しにくくもしているという。

このべき乗則は、先にあげたスモールワールドと違って、ネットワークが成長していくプロセスについても大いに示唆を与える。リンクの多いサイトはますますリンクが多くなる、金持ちはますます金持ちになるといった事実は、ごく単純な変化が繰り返された結果いやおうなく現れてくる一様のパターンであると予測されるのだ。

追記:さらに、伝染病の蔓延・商品の流行・暴動の拡大といった現象が、核分裂の臨界のごとく、ある一線を超えれば必ず拡大し超えなければ必ず収束するといった趣旨の「ティッピングポイント」と呼ばれる数理モデルが紹介され、スモールワールドとの関係も指摘される。また、ここまでの理論を使ってエイズの予防や生態系の安定といった具体的なテーマも考察される。

なお、これらネットワークの法則は、いずれも個々の要素には還元できず全体のレベルになって初めて出現する。そこは肝心の押さえどころ。端的なたとえとして、水は0度で凍り100度で沸騰しするが、その現象は水の分子1個をいくら分析しても分からないという話を、同書は挙げている。複雑系あるいは創発といった用語も登場してくる。

さて長くなったが、読書中に思いついたことも少し書き留めておく。

ネットワークの科学はまだ歴史が浅く、ここ10年ほどで究明された部分が大きいらしい。もしや20世紀初頭の物理学のようなエキサイティングな局面を迎えようとしているのだろうか。スモールワールド、べき乗則といった奇妙な性質の発見は、量子力学や相対性理論にも似た圧倒的な未知の世界を覗かせることになるのかもしれない。

ネットワーク理論は、経済を新しく解きあかす基本の知にもなりうるのだろう。というか、これまでの経済学が、べき乗則で成長するメカニズムやコネクターの存在といったものを、あまり考察してこなかったのだとしたら、いったい何をしていたのかという気持ちにもなる。またまた大げさだが、資本主義の本性を初めて解き明かしたとされるマルクスに匹敵するほどの、面白く不可欠な視点を与えてくれそうにもみえる。

もうひとつ「もしや」と思ったこと。最初に挙げたスモールワールドの特性は、我々の知識にも当てはまるのではないか。つまり、知識というのは通常ほとんどそれぞれの近場だけを結んでクラスター化し分断化しているように思われる。しかし、遠くの知識と遠くの知識がふとランダムに結ばれるような場合には、それまで培ってきた知性や感覚のすべてが一気に同期し、世界の全体イメージを悟りにも似たおもむきで運んでくるのではないか。ネットワーク理論が教えるところによれば、ランダムに結ばれる知識はごくわずかであっても、知識全体は劇的に様相が変わるのだ。そう、ミシンとこうもり傘が解剖台の上で出会うようなもの(?)

当然ながらインターネットにも考えは及んだ。ブックマークの規則正しい巡回やクラスター化した繋がりだけのブラウズを時には離れ、ふだん興味のなかった方面に、薄く広くでいいから、ほんの一つや二つでもいいから、ブラウズやリンクを試してみれば、そこにはネット生活の激変が待っているだろう。それはすでに誰もが十分実感しているところかもしれないが。たとえば、自分が読みそうもない本についての日記一覧などは、見知らぬユーザーや遠い世界へのジェット飛行なのである。

ASIN:4794213859 『複雑な世界、単純な法則 ネットワーク科学の最前線』

同書も紹介しているアルバート・ラズロ=バラバシの著書も、だいぶ前に読んだ。

http://www.mayQ.net/junky0304.html#30

ASIN:4140807431 『新ネットワーク思考』

dstrdstr 2005/05/07 13:21 ピュタゴラスよろしく、「6」という数字の神秘化をしたくなってしまいます。

そういえば、話がずれますけど、どんな大きな紙でも7回しか折ることが出来ないらしいですよ。僕は手元のコピー用紙で確認しましたが、やっぱりそうですね。

えのきえのき 2005/05/10 11:48 リチャード・ドーキンスの講演集で読んだことがあるのですが、
人種を問はず数百人の人を集めて、全員の遺伝子解析を行うとすると、
必ず、数代前(具体的に何代前かは失念しましたが)に一人の共通の
先祖につきあたってしまい、なぁ〜んだ、みんな、遠い親戚どうし
じゃあないか…ってなことになってしまう。という話を思い出しま
した。
それにしてもtokyocatさんの解説が、おそらく原文の内容が
複雑であろうことにもかかわらず、実に端的、明解で、もう
自分が読んだような気になってしまい、これだけわかったから
もう図書館に行かなくてもいいか、な〜んで思ってしまいます。

tokyocattokyocat 2005/05/14 12:48 田舎の集落では、そこだけにやたら多い名字がありますが、おそらくみんな遠い親戚なんでしょう。親戚なんて3代くらいたてばもうほとんど他人、ということでもありましょうが。たった一人の親というとミトコンドリア・イブ説のことですかね(数代前ということはないと思うんですが)。こういう話なら、『DNAからみた日本人』という本が面白かったですよ(ちくま新書735円。図書館なら0円)。日本列島住人のルーツ探しという、いつも興味をそそられるテーマについての学術探求が、コンパクトにまとめてあります。DNAの基礎解説あり。著者は福井県出身でその関連ネタもあり。

2005-05-04

正しい意見を述べる


私たちは戦争という現実を我慢すべきなのか。そうだ我慢しようと決意を固める人が増えた。しかしそういう人は、戦争とは別のさまざまな現実のほうはどうあっても我慢しない人なのだ。たとえば国連でデカい顔ができない現実。たとえば石油がふんだんには回ってこなくなる現実。たとえば高水準の経済やプライドが目減りしていく現実。などなど。そのたぐいのイライラが我慢できないからといって、代わりに戦争という究極のイライラを我慢しろと迫る。阿呆だ。もし彼らが阿呆でないなら、私のほうが阿呆だ。

ちまたで殺人事件などがあると無条件で絶対的に毛嫌いする人は多い。ところが、ちまたの戦争事件はそこまで毛嫌いされない。不思議だ。殺人を躊躇しないような人を蔑んだり憐れんだりするのもいいが、それ以上に戦争を躊躇しないような人を、私たちはもっと蔑んだり憐れんだりしよう。

えのきえのき 2005/05/06 18:32 おひさしぶりです。
否(非?)の打ち所のない正論です。いや、純粋にほめてるんですよ。

tokyocattokyocat 2005/05/08 00:50 いやいや、なるべく足をすくわれぬように、尻尾を出さぬよう、用心して書いたということでしょう。

民族派同志会民族派同志会 2007/05/20 05:16 札幌で一水会会合で機關紙を貰い読んでいると女性の民族派が居たのが印象に残っています。我が会も数名居ますが全員会員でお手伝いやビラ配り程度です…活動街宣はいたしません…。女性右翼のみなさまこれからも國の憂人達を目覚めさせましょう。

民族派同志会 代表代行

渡邊和樹

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2005-05-01

『白鯨』にも出てくるケープコッドは千葉にあった


東京ディズニーシーに行ってきた。ディズニーランドも含めて死ぬまで縁はあるまいと思っていた私だが、5500円のタダ券が回ってきた。だから、あれとこれは絶対見るぞとか元は取らねばといった切迫感をまるきり欠いていた。存外に楽しかったのはそのおかげだろう。観光というのはじつに、期待や準備をまったくしないにかぎる。

それにしても、頭にずっと浮かんでいたのは「ニセ観光」というフレーズだった。なにしろ、園内に配置された都市や自然の景観は、旅先で出会えばいやでも足をとめて写真など撮りたくなるツボをことごとく突いてくる。歳月をかけてしみつくはずの歴史や物語のムードだけをみごとに抽出して陳列したと言ってもいい。加えて、観光というのは何かを見たり何かで遊んだりするわけだが、ここではどうも、ディズニーワールドを見たり遊んだりしている人や自分そのものをついつい観光してしまう。メタ観光だ、つまり。

といっても、ここでディズニーシーを貶めるつもりはない。日常の行為や風景を本物と捉えるなら、観光とは結局いずれもにわか仕立ての非日常であって最初からニセでしかありえない。また、それを重々自覚してなお観光しようとすれば、観光する自分を観光するというヒネた根性がまた必ずつきまとう。でもそんなメタ観光がなんとも楽しみなのだから、べつにいい。


 *


ニセ観光とかメタ観光といったひねくれを私が強く自覚したのは、中国の西安や敦煌を旅行しているときだった。以下はその話(↓)

http://www.mayq.net/tabi9912.html

http://www.mayq.net/tabi9916.html

(白文字で読めないことがありますが、自力でなんとかしてくださいますよう)


 *


また別の観点だが、小説と旅行の類似について適当な思いつき(↓)

http://www.mayq.net/tg1.html


 *


こうした都市や自然や歴史や物語のテーマパークを、アメリカ一辺倒のセンスではなく東洋風あるいは日本風の世界像で作りあげたら、もっと格別にわくわくするのだろうなとも考えた。『千と千尋の神隠し』、江戸川乱歩の「パノラマ島綺譚」(ほとんど話を忘れたが)といったものを思い出しつつ。

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