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2005-05-08

俺のドラマを見ろ!


TBSのドラマ『タイガー&ドラゴン』、評判を聞いておととい初めて見た。

http://www.tbs.co.jp/TandD/

ひとつの単純なストーリーを語る・伝える、ただそれだけのために、まるで遊園地のからくり屋敷かコースターのごとく、転換や起伏をよくぞここまで富ませたものだ、という感じ。そうか、これがまさに「俺の話を聞け」魂だ。

本筋の話と、回想の話と、落語の話と、いろいろ絡み合ってくるところが、なんといっても絶妙だろう。わざとらしくも目立ったのは、同一人物(役者)が、似ているけど別のしかし関連する他のシチュエーションを演じる、しかもそれが再帰的にもなるといった手法。こういうものに私は小劇場系の演劇を通して馴染んでいった部分が大きいと思うが、考えてみれば、芝居においては役者の体も衣装も舞台もリニアに連続しているのであって、それに比べて、編集してつなげることが前提で万能でもあるテレビドラマこそ、こういうことは得意なのだろう。そういうドラマがたくさんあるかどうかは別にして。

ドラマというのは、語っている者や場面と、語られている者や場面とが、ともに同じ生身の人間(役者)が同じ要領で演じ、それを同じような映像で見ることが多い。したがって、語っていることと語られていることの主客や主従が分からなくなる、あるいは図と地が逆転する、そのような揺れを本当は必然的にはらんでいるはずなのだ。そんなことを大いに自覚するひとときでもあった。

これが映画ということになると、リアルな演技とリアルな演出によってリアルな現実をかもしだすべきだ、といった信仰のようなものが、作る側にも見る側にもなぜか強いようで、このドラマのような目茶目茶はフィルムやスクリーンにはとなんとなく合わないように思ってしまう。不思議ではあるが。

ところでじゃあ小説はどうなのか。文芸の書籍や雑誌のページに並ぶ黒インクを眺めたところでは、ひたすらリニアな文章の流れだが、実はその外観からはまったく想像もつかない変転と遊戯が、上へ下へ・外へ中へ・表へ裏へと繰り返されている、そのような小説もあると思われる。…と考えて、急に高橋源一郎の昔の小説が読みたくなって引っ張り出してみた。『優雅で感傷的な日本野球』の1「偽ルナールの野球博物誌」。ああ面白い!

ちなみに我々のふだんの会話というものであれば、「きょうこんなことがあってね」とか「aさんとbさんがこんなことをしてさあ」という話を、ただ思いだすままにだーっと語るばかりで、まさか場面や人物を演じて再構成するようなおしゃべりは普通しないよなあと考えて、ふと、そうか落語というのは何の道具立てもなしに、それを一人の語りのなかで成立させているのかと気づき、感慨深くおもった。

もう少し。役者が人物や場面を演じるのは、本来はストーリーを忠実に伝えることに奉仕するためかもしれない。しかし、たとえば小説において語りの内容より語りの形式や文章のほうが妙に浮き立ってしまうことがあるように、役者という生身の身体やキャラクターがぐっと前にせり出してくることは、必ず起こりうる。さらには、ストーリーの迫真性よりもストーリーの内部外部の関係性、伝える内容ではなく伝える方法といったものが、少なくとも作り手にはいやでも自覚されてくるだろう。こうしたことを強く意識して作っているドラマかどうか、しかもむしろそれは慎もうと思いつつもそれでもやっぱりそのことが面白いからと踏み込んでいくようなドラマかどうか。この点が、大きくいえば、現代的な表現かどうかの分かれ目になるとは言えないだろうか。いわゆるトレンディドラマ系などがつまらないとしたら、そういうことと関係があるのだろう。かつてのTBS『時間ですよ』とか『ムー一族』なんかは、ほとんど見ていないのだけれど、この系譜の先駆けだったような気もしてきた。