東京永久観光 このページをアンテナに追加 RSSフィード

2005-08-30

(小泉∧¬堀江)⇒ {(宗男∧辻元)∨ ¬(岡田∈小沢)}


総選挙。

ところで以下は人民日報かというと、そうではなく、アサヒコムの記事から平仮名を抜いてみた。


総選挙 公示 問 政権選択

郵政民営化関連法案 参院 否決 小泉首相 衆院 解散 第44回総選挙 30日 公示 9月11日 投開票日 向 12日間 選挙戦 スタート 総選挙 前回03年11月以来1年10カ月 小泉政権下 2度目 自民 民主 2大政党 軸 政権選択 最大 焦点

郵政民営化 最大 争点 自民党執行部 同法案 反対 前職 公認 対立候補 擁立 進 一方 一部 反対派前職 国民新党 新党日本 結成 事実上 分裂選挙 様相 呈 小泉首相 自民党 公明党 与党 過半数 獲得 退陣 表明

年金問題 前面 出 民主党 岡田代表 政権 獲得 場合 辞任 述 自公 民主 過半数 達 場合 自民党 公認 受 無所属前職 2 新党 共産党 社民党 獲得議席 政権 枠組 影響 及 予想


これでも分かるじゃないか、時間の節約・言葉の節約だ。…と思いきや、「同法案に反対した前職を公認せず」→「同法案 反対 前職 公認」、「政権を獲得できない場合は辞任する」→「政権 獲得 場合 辞任」という変換だけは、うっかりすると誤解する。

要するに「否定」というのはやはり根源的な何かなのではないか。そんなことを朝から思った。「〜ない」という言葉は、名詞や動詞と働きが異なるのはもちろん、助詞などとももう一つ身分が違う、ということ。

「無所属前職と2つの新党、さらに共産党、社民党の獲得議席が」から「と」「さらに」を抜いて「無所属前職 2 新党 共産党 社民党 獲得議席」とするのも、やや難がある。こちらは、「かつ」「または」という接続詞が、「〜ない」ほどではないにしろ、かなり特殊な位置にあることが関係するのではないか。

およそ思考と言語のあるかぎり、たとえば主語や動詞は必ず存在するのだ、…と言いそうになるが、我々以外の生物や地球外の誰かさんも絶対そうなのかというと、自信が揺らぐ。しかしながら、「〜ない」「かつ」「または」が通じないような思考を理解したり想像したりすることだけは、我々にはどうしても無理なのだと、改めて思う。

コンピュータの演算とか、『論理哲学論考』とか、ベン図とか。いずれも同一の不思議さがいつも頭に引っかかる。


http://www.asahi.com/politics/update/0830/003.html(¬許可複製)

ちなみに、新聞の見出しは漢字に集約されがちだが、「平仮名ゼロはダメ」もルール(のはず)。


*


郵政∧¬年金 ⇒ 人生色々

日本∨国民 ⇒ 長谷川憲正

郵便∧¬郵貯∧¬簡保

トラックバック - http://d.hatena.ne.jp/tokyocat/20050830

2005-08-27

などと言ってる暇はあるのか


やらなくてはいけないことがあると1週間なんてあっという間なのだが、さすがにぼちぼちとはやっているぶん、あれまだ1週間かと案外長い。ただ、やろうやろうと思いつつやらずに過ごす、楽なようで辛い時間もけっこう積み重なっていき、それによって1週間はまた非常に長いものになっていく。

トラックバック - http://d.hatena.ne.jp/tokyocat/20050827

2005-08-24

宿題やったか?


今日あたりはエアコンをやめて窓を開けてみる。すると蝉の声がステレオの音楽よりも大きなボリュームだ。そんな季節。台風も近づく。CDは実は高中正義の「伊豆甘夏納豆売り」。穏やかで寂しげなこのギター、いかにも夏の終りを思わせる。ヒグラシの声も録音されている。カナカナカナ…。これがどこか物悲しく聞こえるのは、この時季の心理にひきずられるせいだろうか。ところが意外、ヒグラシは夏の始めからいち早く出てくるらしい。じゃあ夕方に鳴くからかというと、夜明けにも鳴くらしい。う〜む。やはりカナカナカナの響き自体に秘密があるのか。まあそうだろう。ともあれ、ヒグラシは秋の季語。なお、そもそも「伊豆甘夏納豆売り」が晩夏の曲なのかどうかは定かではない。

tatartatar 2005/08/25 14:11 はじめまして、ヒグラシっていいですよね。でも、グラムシが出した宿題には誰か答えを出したんでしょうかね?関係ないですね。すみません。カナカナカナ…

tokyocattokyocat 2005/08/26 23:46 資本主義が出した宿題に真面目に取り組んでいたら、夏休みが終わった。どうにか資本主義に答えを返したら「え? 宿題なんか出したっけ?」 蔵虫 獄虫?

トラックバック - http://d.hatena.ne.jp/tokyocat/20050824

2005-08-23

太平の眠りをさます


自民党の分裂のマジさをみるに、これはもう現代日本の内戦かなと思う。江戸の末期、開国か攘夷かはたまた倒幕かという激しい動きというのは、ちょっとこんなふうだったのかも。さらにその後、朝鮮半島や中国大陸さらには太平洋へと進撃していった勇ましさにも、このムードはいささか近いように思われる。「今の時代、もう日本だけのやり方では世界には通用しない、国が滅んでしまう」と。しかしまあこれは鉄砲の戦争ではない。この際とことん戦おう。刺客といったって新撰組ではないのだし(まあ新撰組は幕府側だけど)。○○新党「なぜ鎖国してはならないのか」

えのきえのき 2005/08/25 13:40 日本の歴史を、おおざっぱに捉えると、「開国の時代」と「鎖国の時代」をくり返しているような気がします。盛んに大陸に学んだ隋・唐の時代と、その廃止後の時代。鉄砲が伝来し南蛮貿易が栄えた時代から突然の鎖国時代。開国の時代には政治思想、工業技術が貪欲に取り込まれ、鎖国の時代には、独自の文化・芸術が成熟しています。つまるところ日本は、「取り込み」と「咀嚼(反芻)」を繰り返しながら独自の発展を遂げてきた、ということでしょうか。
問題は、昭和から平成にかけての現代は、いったい「開国の時代」だったのか「鎖国の時代」だったのか…、(日本のアニメは、飛鳥文化なのか国風文化の所産なのか)なんてことを、考えたりしてます。

tokyocattokyocat 2005/08/27 00:04 江戸期の日本は鎖国なんて名ばかりだった。交易交流ちゃっかりやっていたという説もあるようです。私は、そういうちゃっかり取り込み・咀嚼にはげみつつ、身体は開いても、心はきっぱり「鎖国」。あやしうこそ、ものぐるおしけれ。岸田秀は「黒船強姦」説を唱えていましたね。ちなみに、アニメはやっぱり浮世絵ですかねえ。

トラックバック - http://d.hatena.ne.jp/tokyocat/20050823

2005-08-20

じゃ、そろそろ、まとめに入ろう(5)


東北沖で地震があった日、私の郷里福井では別の大変なことが起こっていた。墓地が陥没したのだ。それは旧盆の早朝。小山の斜面に作られた有名な墓地の出来事だ。幅と深さはなんと30m! たしかにぽっかり巨大な穴があいている。

参照:http://osaka.yomiuri.co.jp/news/20050816p202.htm


さて、話はすっかりずれていくが――。

穴とは何か。「ない」という状態をあらわす言葉だ。しかし「ない」という状態は「ある」という状態のネガとしてしか成立しない。ドーナツが存在してこそドーナツの穴は存在できる。我々は「ない」という状態をそのようにしか把握できない。言葉のアヤではない。人間以外の生物にとっても、「ない」に当たる感覚というのは、「ある」に当たる感覚がなければ生じてこないにちがいない。

我々は目がみえるからこそ、目がみえないことを想像できる。生まれつき目がみえなかったら、目がみえることはもちろん目がみえないことも想像できないだろう。

先祖の死や自分の死は、この世から先祖や自分だけが消えてしまった状態として想像できる。では、この世のすべてが消えてしまった状態というのは、果して想像できるだろうか。できそうにない。この宇宙が「ない」ことを想像するには、そのベースに「ある」なにかを想像しなければならない。この宇宙が「ない」状態をネガとして穴として成立させる、もうひとつ背後の宇宙を。

我々はつい「宇宙の外」「天地創造の前」などという空想をしてしまうが、それなりに健全なことなのかもしれない。少なくとも、そうしなければ気は収まらないときがある。

ニュートンは、はてしなく一様な時間の流れと空間の広がりのなかを、地球やリンゴといったあらゆる物体が運動していく、と捉えた。いわば、この宇宙のベースに永久不変の時間と空間が「ある」と考えたのだろう。この考えは、今の我々がふだん感じている時間や空間の枠組みとじつは同じだ。ただその枠組みは絶対ではなかった。アインシュタインによって、時間と空間は絡みあうし伸び縮みすらするということになった。また、宇宙はビッグバンで誕生したとされるが、その理論でいくと、ビッグバンより前(?)には時間や空間そのものが存在しない。この宇宙自体がすっかり存在しない。…というふうによく言われる。おまけに、現在の物理学は、時間や空間はこれ以上分割できない最小単位をもつ、とまで言う。ちなみに、物体のほうも、その素になる粒子というのは「ある」とも「ない」ともつかない状態であってふいに出現したり消滅したりするとされる。

というわけで、我々がこの宇宙を捉えるベースにしている時間や空間(さらには物質)という感覚は、方便や錯覚みたいなものなのだろう。しかし、それを理解するためには、この時間の流れやこの空間の広がりが「ない」状態を想定しなければならない。ビッグバンを想像するには、この宇宙そのものがすっかり「ない」状態を想像しなければならない。

理屈としてはうなずける。しかしそんな想像は実をいうと誰もできないのではないか(みんな黙っているけれど)。この宇宙すべてがないことを想像するなんて、その「すべてがない」状態をネガとして穴として浮かび上がらせるベースとして、さらに大枠の何かが「ある」ことを想像しなければ無理だ。

ニュートンからアインシュタインへ、宇宙の見方が変更されたとき、新しい実体的な変動量としての時空というものが浮上したのだろう。しかし、だからといって、ニュートンから現在の我々までが直感的に踏まえてきた「時間と空間」という形式原理そのものが消滅したわけではないのではないか。かなり微妙にきこえても、そこは明瞭に区分できるし、したほうがいいと思うようになった。アインシュタイン的あるいは量子力学的な時間空間とは無縁に、もっと素朴でもっと普遍であるような「時間と空間」という把握の仕方を、我々はずっと仮想してきたし、これからも仮想せずには何ものも考えることができないと思われる。この世の事実として時空が伸び縮みする(物体も明滅する)ことを知ったうえで、そうした伸び縮みする時間と空間を理解するための基盤として、さらにベースにある「時間と空間」を我々の思考は求めずにはいられない。「なにもない」という想定は、「それでもなにかがある」という想定を抜きにしては現れようがない。繰り返すけれど、ドーナツの穴のためにはドーナツが必要なのだ。

こうした我々の生活がベースとして踏まえざるをえない時間や空間というものと、ちょっと似た位置にあるのが、数学と論理だ。なにかを考えるとき、どうしてもそれに従わざるをえない。リンゴ2個とみかん3個をカゴにいれたら全部で5個になった。数えるということは、この世界を支えるかなり普遍的ななにかなのではないか。

…とまあ、ここまで何もかもごちゃまぜにしてしまっても仕方ない。しかも、何度も言うけれど、本当はもっと物質や宇宙の実際について、数学の実際について知りたいのだ。ここに述べたごとき哲学っぽい思案は、その実際の面白さを詳しく理解してからでいいと思っている。それなのに、どうも順序が逆になる。

といいつつ、がらっと違った角度で、もうちょっとだけ付け加えるが――。

我々のこの宇宙はローカルな存在かもしれないらしい。この宇宙とは関わらないようなあり方だけれど、他にも宇宙があるかもしれないのだ。しかも無数の宇宙があるかもしれないという。奇妙だろうか。でも我々はそのことは想像できる。いや、そう考えないと我々はむしろ落ち着かない。逆にこの宇宙しか存在していないと考えることのほうが、ずっと気持ちが悪い。この宇宙が無限ではないかもしれないにも関わらず、この宇宙の外(?)やこの宇宙の前(?)には「まったくなにも存在していない」と考えることのほうが、我々には難しい。

さて、では、そもそも<「すべてがない」のではない>のは、いったい何故なんだろう。なんでこの世が「ある」のだろう。

=続く=

okinomahitookinomahito 2005/08/20 21:43 この宇宙が生まれる前の、「量子的な無」と哲学的な「無」は違うと思うんですよね。量子的無は素粒子、そして次元そのものがないのではあるけど、ポテンシャルはあるわけです。でもニヒリズム的な、または禅的な無はそれさえもない。思考空間の制約がかかってるのかもしれません。

tokyocattokyocat 2005/08/21 00:28 ふたたびありがとうございます。ポテンシャルという用語は詳しくは分からないのですが、量子的な振動が最低の状態であっても、その状態をいわばおさめている場だけはあると言うべきであり、しかも、この宇宙が生まれていないときでも、そのポテンシャルだけはあってそれはずっと継続している、ということかなと理解しました。ビッグバンが起こっていないときにも「ポテンシャルだけは絶対にある」とまで言いきれるかどうか、腑に落ちないところもあるのですが、物理理論としてはそうなってしまうということでしょうかね。言い換えれば、この宇宙と、どこかほかにあると想定できる(仮想ではない)べつの宇宙とでは、共通していないベース(物理定数などはそうなのでしょう)もあれば、共通しているベースもあって、ポテンシャルというベースは共通していると捉えるのがナチュラル、というわけでしょうか。だから、<それらすべてがない状態>は、私が想像できない以前に、宇宙理論としても想定しようがない、と。それも超えた、つまりポテンシャル自体がない状態(真空な空間自体がないというのと同じか?)というのは、今のところ言葉だけ仮想だけの話になってしまう、と。…もうちょっと勉強します。

okinomahitookinomahito 2005/08/21 02:09 量子的な無はビッグバン以前ですから、今の大統一理論では扱えませんが超統一理論が完成すれば(することがあれば)量子的な無までは到達でき、科学的な説明が付けられるわけです。しかしその無がない状態ってのは東京猫さんがおっしゃるように宇宙論を超えてしまっているでしょうね。それさえも対象にすることは、個人的には、もうゲーデル的問題に関わっていると感じます。

2005-08-19

佐藤さんスイッチ

佐藤雅彦研究室展というのを見てきた。

http://www.dnp.co.jp/gallery/ggg/

実はこの人、かなり長いあいだ、狙いをぴたっと定めて探ってきていたのだ。ひとつの徹底してエレガントでロジカルな独自世界を。その面白さは比較するものが思い当たらない。赤瀬川原平と柄谷行人と安部公房を足して3で割る、かわりに串団子にしたほどではなかろうか。少し前の『広告批評』特集号(2003年)が参考書。『毎月新聞』『プチ哲学』なども、この独自世界が根っ子にあって、そうして先っぽに咲いた花だったのかもしれない。

ピタゴラスイッチというかピタゴラス一致というか…。

たとえば、x^2 + y^2 = 1 は グラフにすると円になる、ということが、とにかく面白くてしかたなくて、しかも、そんなことが面白いなんて、そもそもいったいどういうことなんだ、とそれがまた不思議でしかたない、といったことなのだ、これは、まさに、きっと。

詳しくはまた。

トラックバック - http://d.hatena.ne.jp/tokyocat/20050819

2005-08-15

世論調査

質問(1) あなたはどちらがいいですか

 ・戦って生きる

 ・戦わず生きる


質問(2) あなたはどちらがいいですか

 ・戦って死ぬ

 ・戦わず死ぬ


質問(3) あなたはどちらがいいですか

 ・戦って生きる

 ・戦わず死ぬ


質問(4) あなたはどちらがいいですか

 ・戦わず生きる

 ・戦って死ぬ


質問(5) あなたはどちらがいいですか

 ・昭和20年8月15日

 ・昭和80年8月15日


質問(6) あなたはどちらがいいですか

 ・昭和20年8月15日

 ・1945年8月15日


質問(7) あなたはどちらがいいですか

 ・昭和80年8月15日

 ・2005年8月15日


質問(8) あなたはどちらがいいですか

 ・すいか

 ・プール


質問(9) あなたはどちらがいいですか

 ・選択肢は他にある

 ・選択肢は他にない

tokyocattokyocat 2005/08/19 02:58 トラックバックありがとうございました。回答がもらえるとは思っていなかったので、ちょっと驚きでした。どうしても言いたいことがあるのに、でもどうしてもいつもうまく文章にできず(単に面倒くさいというのもありますが)、しかも、あえて頑張って長い文章にすると、よけい読んでもらいないかもという気もして、それで、ぱっと思いついたこういう書き方をしてしまいました。

untitleduntitled 2005/08/29 14:33 質問(3) あなたはどちらがいいですか
 ・戦って生きる
 ・戦わず死ぬ
って
 ・人を殺して自分は生きる
 ・人を殺さず自分は死ぬ
という表記に変えると、よりナマナマしいですね。

2005-08-13

Movie Baton

campanulaさんより

http://ameblo.jp/campanula/entry-10003413542.html


●質問1:所有している映画の本数

●質問2:最後に買ったDVD

 どちらもなし。


●質問3:最後に観た映画

 テオ・アンゲロプロスエレニの旅

  (公式サイト http://bowjapan.com/eleni/

封切りを見たのに少々眠ったため、先日じつは別の館で見直した。もしまだアンゲロプロス映画を見たことのない人がいたら、冒頭カットでいきなり腰を抜かし次のカットでもう目は釘づけ、それくらい未体験の驚愕が走るだろう。それは疑いえない(ぜひ次の機会に映画館で)。集落が洪水に沈むという天変地異すら起こる。大昔、アフリカを旅行したある人がある局面で「地球が回るのを感じた」などと話すのを聞き、内心「いくらなんでも大げさ」と思ったが、アンゲロプロスの映画ならまさにそんな形容がふさわしい。そして旅行も、アンゲロプロス映画の比喩としてならそういうことがある気もしてくる。…しかしながら、個人的には『エレニの旅』がこれまで見たアンゲロプロスのベストとはならない。微妙に飽きてきたというところも正直あるのかも。アンゲロゲロゲロ…?


ついでながら、最近レンタルでみたDVD。

 『ワンダフルライフ』 http://d.hatena.ne.jp/tokyocat/20050612

 『下妻物語』 

 『犬猫』 http://d.hatena.ne.jp/tokyocat/20050807

 『子猫をお願い』 

 『ユリイカ』 http://d.hatena.ne.jp/tokyocat/20050601

 『青の稲妻』 http://d.hatena.ne.jp/tokyocat/20050526

けっこうまめに感想を書いた。まだ触れていない2作品。『子猫をお願い』は映画館で見て、また見たくなってDVDを借りた(asin:B0006OFLKY)。いずれ改めて紹介したい。たとえばこの『子猫をお願い』が、無意識のうちに長く受け継がれてきたらしい、映画としてしか起こらないような、映画そのものですらあるような不思議な魅力に溢れているのだとしたら、『下妻物語』は、そういうものと明らかに一線をかくしていると感じたが、そこはむしろ新鮮でしかもそれは別にして非常に堪能した。


そういえば「最後に見た映画」というと、ホントは昨晩NHK-BSで途中からみた『男はつらいよ 望郷篇』だ。この夏、寅さん全48本を上映するという。今週実は『続・男はつらいよ』『男はつらいよ フーテンの寅』『新・男はつらいよ』と見てしまった。癖になる。


●質問4:よく観る。または特別な思い入れのある5本

 侯孝賢恋恋風塵』 ASIN:B0007LXPJ0

  http://d.hatena.ne.jp/tokyocat/20040122

 テオ・アンゲロプロス霧の中の風景ASIN:B0002HNQAC

  http://www.mayQ.net/kirinonakano.html

 ビクトル・エリセエル・スールASIN:B00005HARO

  http://www.mayQ.net/elsur.html

 ヴィム・ヴェンダースアメリカの友人』 ASIN:B00005G0MA

  http://www.mayQ.net/junky5.html#971122

  http://www.mayQ.net/tabinatu3.html#3

 ジム・ジャームッシュストレンジャー・ザン・パラダイスASIN:B00005GRHY

  http://www.mayQ.net/mujinjim.html

やはり私にはこの監督たちがなぜかいつまでたっても別格だ。いずれも80年代あたりに出会った。圧倒的な何かがこれらの映画にはあったとしか言いようがない。一時的な思い込みがあるとしても、その頃の私にそれが起ったのだから、どうしようもない。蓮實重彦の影響があからさまともみえるが、当時はたいして意識していなかった。なお、同じ監督で『悲情城市』『旅芸人の記録』『みつばちのささやき』『パリ、テキサス』『ダウン・バイ・ロー』等もあるが、あえて上記を選ぶ。感想は過去に書いたものでとりえあず。

日本映画をあえて外したわけではない。好きな映画はいろいろある。『ユリイカ』などは上の5作に並ぶかとも思う。でもマイファイバリットが一群としてはなかなか定まらないのだ。ただ、同じく80年代の作品はやはりなぜか忘れ難い。だからためしに80年代で5作選んでみた。小栗康平『泥の河』、森田芳光『家族ゲーム』、崔洋一『十階のモスキート』、相米慎二『台風クラブ』、原一男『ゆきゆきて、神軍』。


●質問5:バトンを渡す方々

 未定。


このあいだ映画館の椅子にすわって『エレニの旅』が始まったとき、ああ自分の視覚聴覚のすべては、いや全身まるごとが、今この映画だけに包まれていくのだなあと、感慨深かった。テレビみてパソコンでネットしてという毎日は、あふれかえる情報がやかましくててどうしようもないのだとも言える。何か一つのことをじっくり眺める考えるというチャンスを与えてくれる場なんて、我々は映画鑑賞をのぞくと滅多に持てないのかもしれない。アンゲロプロス作品は特にそのような度合いが濃い。とはいうものの。それと裏腹なのだが、『エレニの旅』という映画は、なんというか、長い年月をかけて緩やかにただ死んでいくことの魅惑を味わっているのではないか、とそんなことも感じられる。ここに描かれたあるギリシャの人々の宿命的な苦難は、考えてみればすべてすっかり終わってしまっており、監督はそれをどこまでも優しく眺めて反芻しているようなところがないだろうか。それはやっぱり、生きるという間抜けな素振りとは少し縁遠いのではないか。もちろん、ひたすら昔を振り返って穏やかにたとえば30年くらいかけて化石になっていくような人生、つまり浮世とはできれば縁を切って自閉し退去していく方向だけの人生も、十分アリだと私は思うのだが、現代日本の我々に実際「生きる」ということがあるなら、それはたとえば、小泉のこと選挙のことにいちいち巻き込まれ、この政局を面倒くさがったり面白がったり、それでも結局あれこれ考えたり書いてしまったりして騒々しく日々を送ることにしかないのだとも思われる。美しく死んでいく映画体験もいいが、そういうまるで小泉政変のごとくごちゃごちゃ間抜けに生きのびようとする映画体験があってもいい。

campanulacampanula 2005/08/16 02:01 突然のお願いにも関わらず、バトンを受け取ってくださって、どうもありがとうございました。
同じ映画を観ても、何歳の時にどこで観るか、またその人がどんな生活環境で育っているかによって、受け取り方や影響度が違うんだなと改めて思いました。
「エル・スール」、蓮實重彦かぶれの友人に影響されて、公開時に映画館で観ましたが、今回tokyocatさんの感想を読んで、「こんな映画だったっけ?」と思うほど、内容を覚えていませんでした。もしかしたら、半分くらい寝ていたのかも(?)。光と陰のコントラストが強い映像は印象的でしたが。
今後とも、よろしくお願いします。

2005-08-12

じゃ、そろそろ、まとめに入ろう(4)

=一応、http://d.hatena.ne.jp/tokyocat/20050728#p1からの続き=


NaokiTakahashiの日記(http://d.hatena.ne.jp/NaokiTakahashi/20050810#p1

《2個の林檎は実在する。3.3メートルの鉄棒は実在する。1.5リットルの水も海抜−5メートルの土地も実在する。しかし、2や3.3や1.5や−5は実在するのか?》

これを受けて――

一本足の蛸(http://d.hatena.ne.jp/trivial/20050810/1123679054

《…数は物理的実体から派生したものなのか? 人間の思考から生み出されたものなのか? それとも物とも心とも異なる別の世界に所在するのか?》


数学は宇宙を超えて普遍的か、などと書いてきたが、実際これらと同様の問いだと思っている。「数は実在するのか」「数はどこにあるのか」すなわち「数とは何か」。以下、反復ばかりで恐縮だが、改めてつらつらと。

「数とは何か」に、《人間の思考から生み出されたもの》と答えるのは、よくある納得の仕方だろう。たしかに「数は人間が作った」と言える。では、人間が作る前に数は存在しなかったのか? さらには、人間が生まれる前や消えた後の宇宙には数は存在しないのか? そう問われるとどうか。

私は「数はずっと存在している」と言ったほうがすっきりする。上記にならえば、《物とも心とも異なる別の世界に所在する》と捉えたいのだろう。じゃあその別の世界って何? それをずっと探しているかんじ(trivial氏もそうなのだろう)。

それとも、数とは(つまり「2」とか「3.3」とか)我々の生態や生活の特性に応じて形成された概念である、と言うべきなのだろうか? そうかもしれない。でも、そうでないかもしれない。「なんだどっちつかず」と言うなかれ。他のあらゆる概念(「恋愛」でもいい「根性」でもいい「著作権」でもいい)は明らかに我々の生態や生活の特性に応じてしか形成されない、と考えられそうだが、ただひとつ数だけは「そうでもないかも(概念ではないのかも)」と思うのだ。あと、論理というのもこの意味で数と同じ位置にあると思っている(これもすでに述べたし、詳しくはまたもや先送り)。

ともあれ、「数とは何か」は、「言葉の意味とは何か」と同じくらい完璧な難問だろう。難しさの様相はともかく程度が似ている。だからどちらも「そんなことを問うのは無意味」とするのも実用的な答かもしれない。ただし「言葉の意味とは何か」は分析哲学という分野で問いの入口だけはけっこう整理されてきた。それにひきかえ「数とは何か」は、出口はもとより入口自体がまったく見えないと思われる。

《ここで立ち止まってしまい、先に進めなくなってかれこれ10年》。これは洒落でも誇張でもないのだろう。

 *

ところで、「宇宙は数学で記述できるのか」「だとしたら、それはなぜか」といった問いもある。非常な深遠さをたたえている。しかしこれらは、やはりここでいう「数とは何か」とは別個の問いだ。そのことも改めて強調したい。

ただそうはいうものの、宇宙を数学で記述してきた歴史を知りその意義を思うこと自体には、少なくとも、「数とは何か」を考えるときの土台、あるいは、そこに登るための(登ったあと捨て去る?)ハシゴとして、とても重要なのだろうと思わせるオーラがある。

…といった思いから、『宇宙に法則はあるのか』(ジョン・D・バロウ著、松浦俊輔訳)という、これまた大上段に振りかぶった本を読み出した。物理学などの自然科学が何を解明してきたのかの総まとめに加えて、そのような解明とはいってみればどういうことなのか、という詳細な考察。そもそも「じゃ、そろそろ、まとめに入ろう」というタイトルで考えたい(というか、知りたい)のが、まさにこういう内容かも。でも分厚く先はまだ長い。またいずれ。asin:4791761243

ちなみに、同書の本筋とはいえないが、思いがけず示唆的な一節があった。せっかくなので記しておく。

《ダーウィン以前のカント派は、人類がみな同じ思考のカテゴリーを有しており、これまでも有してきたというめぐりあわせがあることを支持しなければならなかった。ダーウィン派は、人間の心にあるカテゴリーを、自然淘汰の結果であり、したがって物理的な世界――物自体――によって作られると見る。この見方は実在論に新たな基盤を与える。われわれが適応への圧力に応じて生理的にも心理的にも今あるようなものになるとすれば、多くの点でわれわれは実際に存在しているフィジカルな世界の正確な鏡になっていなければならない。人間の耳は音が実際に存在することに応じて進化し、目は光が存在することに応じて進化したというように。この見方に従えば、われわれの生得的な思考のカテゴリーが普遍的であることは、自然法則が普遍的であることと関連づけられる。》(p119)

まあ、いきなり読んでも「なんのこと?」か…。これに何を付け加えて書けばいいか、ちょっと分からなくなってきた。ただ、いずれにしても、生物の進化という原則を踏まえることは、「数とは何か」を考えるのに、あるいは何について考えるにも(同じくハシゴとしては)不可欠なのだろうと思いはじめている。そういうこともあって最近一冊読んだのが、『生物はなぜ進化するのか』(ジョージ・C・ウィリアムズ)。これも相当勉強になった。またいずれ。

=続く=

dstrdstr 2005/08/12 16:49 数・論理は人間の内側から来る、そうでないと経験的不確実性から逃れられない。数・論理は人間の外側から来る、そうでないと経験への適応可能性が担保されない。ということで、どうも微妙な問題のようですね。

tokyocattokyocat 2005/08/12 22:37 後半の《数・論理は人間の外側から来る、そうでないと経験への適応可能性が担保されない。》というのが、よく分からないです。むしろ逆なのでは? もうちょっと解説のほど…。

okinomahitookinomahito 2005/08/13 00:39 科学的方面からの問いかけで見逃されがちなのは、「数は実在するのか」の「実在」の部分だと思います。実在の意味がわからないと何を問うているのかもわからないのではないでしょうか。
同様に「宇宙は数学で記述できるのか」も「記述」の意味が本当は何を表すのかがわかっていないことが問題を作っているとはいえないでしょうか。

dstrdstr 2005/08/13 09:41 うーん、逆ですかね。なんだかだんだんわからなくなってきました(宮沢さん)。

tokyocattokyocat 2005/08/13 14:15 ●「宇宙は数学で記述できる」というのは、自然現象の多くが数式を使った法則やモデルによって説明できる、というくらいの意味で書きました。その意味では「宇宙は数学で記述できる」はまあ妥当な主張で、表現としてもとくに違和感がないのではないでしょうか。これが「宇宙は数学に従っている」とかになると、ちょっとどうかと思います。宇宙を数学で説明するからあたかも宇宙が数学に従っているように見えるだけで、宇宙をたとえば芸術や宗教で説明すれば今度は宇宙はあたかも芸術や宗教に従っているように見えるだろう、と考えるからです。●さてさて、この「宇宙は数学で記述できる」が、どういうわけか「数は実在する」になることがあるようです。これは単純に紛らわしいと思いますね。●これとは別に――。人間が社会や文化のなかで数学を構成した、といった意味で「数学は人間が発明した」と言われるようです。その反対に、数学は人間の社会や文化を超えている、といった意味で「数学は人間が発見した」とも言われるようです。この両者の議論がまた「数学は実在しないVS数学は実在する」として受けとめられることがあるみたいです。これは、哲学的な「実在」の定義に関係するのかもしれませんが、そこをきっちり踏まえないかぎり、やはり紛らわしい表現ですね。●それと、「数は実在している」を、リンゴや空気と同じく物理的に存在しているという意味に誤解する人は、あまりいないでしょうが、一応気に留めておくべきでしょうかね。●というわけで、「実在する」という言い方は、たしかに吟味して用いたいと思います。●それから、「数学」や「数」という言い方も漠然としています。実際、私の考えていることが漠然としているせいかもしれませんが…。「数学すなわち計算や証明およびそれに使う規則や形式」くらいの意味だと思います。●と、少しばかりはっきりさせたうえで――。ここでいう「数とは何か」は、「数学は人間が発明したのかVS数学は人間が発見したのか」と一般化するのが結局いいのかもしれません。私は今のところ「発見した」という捉え方です。●とはいうものの、こうした考察が進むなかで、直ちに「数は実在するのか」という表現にはならないとしても、「数はどこにあると言うべきか」くらいの問いは不可避になってくるでしょう。数学を発見したのなら「それまで数学はどこにあったのか」と。発明したにしても「今は数学はどこにあるのか」と。そうなるとやっぱり、「在る」「実在」ということをめぐって取りざたされてきた過去の思考をしっかり知りたいところです。「数とは何か」が自明ではないということに安住し、実は少しばかりは自明になってきたところまで無駄にボンヤリさせてしまってはいけないと思うので。●まずは率直で大胆な言い方を避けないことが大事だと思うのですが、それに加えて、明瞭であることとそうでないことを区分けし明瞭な領域を広げていくという地道な考察も、当然大事なのでしょうね。●dstrさん。いや、ひとえに私がよく分かっていないのです。カントの哲学とかもっと勉強したほうがいいのです。さてさて、宮沢章夫なら《なにを言っているのだという驚き》《途方にくれることをどこまでも肯定する》というのに勇気づけられました(最近の富士日記2より)。

えのきえのき 2005/08/13 17:41
いやはや、やはり「実在」論に帰結してしまうようですね。数学も宇宙も人間の脳の中にしかない…と思わずつぶやいてしまいそうになります。宇宙が脳の中にあるからこそ、脳の中の宇宙の中に数学を「発見した」これすなわち、脳の中で数学を「発明した」と同義になり、話はここで終わってしまう。いや、もうこれで終わらせたい。と思うのですがなぜかしっくり来ない。この日常の、あまりにも現実的な「実在」が脳の中にしかないとは、どうしても実感できないからでしょう…
やはり堂堂巡りだ…。

2005-08-08

NASAの決断、小泉の決断

スペースシャトル打ち上げが再決定したとき、野口聡一さんは、その心境をモノポリーの「刑務所から出る」カードに模して広く世界に伝えた。…とあるモノポリーファンから教えてもらい、なるほどね! と思った(http://news.yahoo.com/news?tmpl=story&u=/050726/ids_photos_ts/r3411996677.jpg)。そしたら今度は野口さん、シャトル内でなんと あやとりと折り鶴の妙を見せてくれた。ますます気が利いてる!(http://www.asahi.com/international/update/0808/005.html)。我らが国民食ラーメンの普及にも貢献したし。SMAP「世界に一つだけの花」で目覚めたというのだけは、あまりクールに思えないんだけども…。

地上では郵政民営化法案が参議院でいま採決中。シャトルも政局も行方は手に汗にぎる。(テレビっ子)

asobiasobi 2005/08/08 18:19 私も、初日の「さんぽ」にはいい選曲だと思ったんだけど、いきなり「世界に……」を聞いたときはちょっとショックでした

tokyocattokyocat 2005/08/12 02:13 ですよね。ディープ・パープル『紫の炎』とかで目覚めたら面白いのに(Brunでは、しゃれにならない?)

えのきえのき 2005/08/12 15:06 「世界に…」の歌は、野口さん自身あまり知らないのだと思うよ、
だって「世界平和を願う歌です」って説明してたもの。
やっとDSL復活、明日から夏休み!!

えのきえのき 2005/08/12 15:10 小泉の決断にはスカッとした。何か、苦労したジグゾーパズルの最後の
ピースがぴったり収まったときの感覚に似たものを覚えた。
もちろん、正反対の気持ちの人も多いだろうけど…

tokyocattokyocat 2005/08/12 22:08 それにしてもニュース、毎日毎日おもしろすぎですね。選挙までまだだいぶありますから、郵政民営化その他、じっくり勉強してみたいと思っております。

2005-08-07

映画という幸福

犬猫』(日本映画・DVD鑑賞) ASIN:B0008JH80I

力をぬくことの力を強く信じたくなる映画、とでも言おうか。概要はこちらでだいたい分かる。→ http://www.inuneko-movie.com/ こうした雰囲気にピンときた人、その予感はきっと当たる!

役者はみんなとてもいい。町のようす、部屋のようす、みないい。あのような町のあのような部屋で暮らしてみたい、などと思わせる。あのようなところに住んでいる知りあいをふらっと訪ねて場合によっちゃそのまま転がり込むなんてことも若いうちなら2度や3度あっていいと思わせる。いやべつに年をとってからでもいい。

とはいえ、話は実はホンワカとばかりはしていない。榎本加奈子と藤田陽子が扮する2人は、幼なじみで気が合わないという、案外ありそうだがとても困った関係。それが望まずして一緒に暮らすことになる。そこは共通の友人の住まいで、友人が海外に出かけて留守番として残された形。中途半端に間の悪い場がにわかに出来上がったしだいで、淡々としつつハラハラは潜むといった日々が重なっていき、やはりというべきか、男づきあいが絡んで、挑発から誤解へ、そしてついにクラッシュ…。

 *

DVDではメイキングがかなりしっかり紹介されている。これがますます必見。

映画とは人間が集団でこしらえるのであり、限定された日時の限定された場所にスタッフとキャストが乗り込んで必要な機材や道具もすべて持ち込んで作る。その当たり前の事実がなんとも感動に値する。メイキングが面白いというのは基本的にそういうことなのだろう。住居の縁側を撮影するためにブロック塀が壊されたり、アングルの邪魔になる樹木があると大家さんが気を回して切ってしまったり。

路地に長い階段があってその手すりに西島秀俊が腰を掛けてすーっと降りてくるシーンがある。映画ではその意表をつく動きがなんとも鮮やかで驚くのだが、メイキングで「へえあんなふうに撮ったのか」と見せられたときの驚きは、それに負けないし、おかしなことに両者の心地よさは似てもいる。

また、この映画はもともと8ミリ製作した作品を劇場用に作り直したもので、DVDにはその8ミリ映像の断片も収録されている。そのシーンがまた、今みたばかりの映画にそっくりで、それでも役者はまったく別だから、ああ映画って現実みたいだけどやっぱり確実に作り物なんだなと、しみじみ面白い。

ちなみに井口奈己監督は女性であり新人である。男性や年長者でないと映画の現場なんて仕切れない、ということもない素晴らしい証明とも言える。というわけで、みんな若いうちに友達の家に転がり込むようなつもりで映画の2本や3本作ってみるべきだ。べつに老後でもよい。

 *

メイキング中の微妙なムードに、映画のそれを上回ってぐぐっと心が揺さぶられてしまったのが――。2人が鏡の前で仲良くワンピースを身体に合わせるシーン。傷をした榎本の指に藤田が包帯を巻いてやるシーン。卓袱台に座った藤田がカップのワインを向かい合った榎本に浴びせて立ち去るシーン。なんだこの複雑な緊張感は! 撮影の苦労やカメラ位置が分かってと面白いということもあろう。しかしもっと、なにか演技ということの本質に触れたようで…。

これらの撮影において榎本と藤田は、役柄に応じて互いに力や息を加減する。つまり演技をする。それによって劇としてリアルな関係や空気が成立する。しかしその本番のカメラが回る前後には、2人には素で向き合う時間がたくさんあるわけで、それもメイキングは映画のように記録して見せてくれる。そのとき榎本と藤田の間には、ありふれた生身の人間あるいは同業者や女性同士としての関係や空気がどうしたって生じている。言い換えれば、「素という役柄」に合わせた力学や呼吸が別個に必要とされる。そしてふと気づかされるのは、「劇」の関係や空気を作る技法と、「素」の関係や空気を作る技法とは、けっこう似ていて互いに参考になるのかもということだ。そういう「劇」と「素」が相互に乗り入れるような2人のムードは、『犬猫』の上映会場で行われたイベント(これもDVDにある)における2人の位置にも不可分に繋がっているようで、いっそう不思議。

さらに。これもメイキングで知れるのだが、この監督は本番の撮影に入る前にリハーサルと称して榎本と藤田に奇妙なレッスンをさせている。それは、稽古場のようなところでボールを投げあったりトランプゲームをしたりといった、映画のシーンとはまったく関係ない動きを延々やらせながら、台詞だけをシーンどおりに演じさせるといったもの。じつに独特の方法論というかんじ。

そして本番になると監督は「力を抜いて」をしきりに強調する。過剰な演技をしないでください、もし台詞に間があいても堂々としていてくださいと。こんな演出は初めてでびっくりでしたと榎本も繰り返しコメントしている。

こうした固有の方針や努力が実ってこそ、『犬猫』という物語に固有であり榎本・藤田の2人にも固有としか言いようのないこの雰囲気が生まれた、と見ることができるのだろう。

 *

劇と素という言葉を適当に使ってみると、考えはいろいろ巡っていく。以下は意味不明瞭ながらその痕跡。

人間に「素」なんて無くてぜんぶ「劇」なんだよ、とも言える。でも今はむしろ、「劇」と言ってもけっきょく「素」なのだと言ってみたい。

「役柄の性格を演じるのでなく役者自身の性格を出せ」ということかというと、そうでもないのだ。役柄になりきる、演じてみるという作為自体のなかに、役者それぞれに固有のへんなものが出てくる。それを素と呼んでも劇と呼んでもいいということ。ある役を演じてみるということが、そもそもきわめて人間的な(つまり人間の素といっていいような)行為なのだ、ということに尽きるのだろう。

人間の素というのは何かを通じてしか出てこないし、逆に何かを通じれば出てきてしまう。そこには一定の必然性があり、その必然性に達すること自体の心地よさというものが、映画には現れるのかもしれない。そういうこと全体が写しとられ映しだされることが心地よいということかもしれない。

しかしこれらを、新しい職場で同僚と飲みにいったら気心が知れて仕事もスムーズにいくようになった、というのと同じだと捉えると、急激につまらなくなる…。

 *

この映画のよさの秘密を完璧に説明していると思ったレビューをすでに読んでいた。

『偽日記』http://www008.upp.so-net.ne.jp/wildlife/nisenikki.html(05/05/29)。

こういう場所で、こういう設定で、こういう役者で、こういう撮影をすれば、きっと何か面白いものができる、といった確信について書かれている。《つくるという過程のなかで生まれるものだけによって、映画は十分に成り立つはずだという監督の確信の強さを感じさせる》。いやまったくそうなのだ!

まっちゃんまっちゃん 2005/08/07 15:49 ああメイキング見たいです!

campanulacampanula 2005/08/10 19:37 はじめまして。映画の記事(だけではないですが)、いつも愛読しています。私が観る映画とはあまりかぶっていないので、取り上げられているラインナップが非常に興味深く、参考にさせていただいています。
そこで突然ですが、Movie Batonを受け取っていただけないでしょうか。たくさん観ていらっしゃるようなので、選ぶのも大変でしょうが、良かったらご参加ください。よろしくお願いします。

tokyocattokyocat 2005/08/12 02:16 ●メイキング、ほんとに必見ですから。●Movie Baton どうもです。あした書きます。

campanulacampanula 2005/08/12 07:06 ありがとうございます! 楽しみにしています。