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2005-08-12

じゃ、そろそろ、まとめに入ろう(4)

=一応、http://d.hatena.ne.jp/tokyocat/20050728#p1からの続き=


NaokiTakahashiの日記(http://d.hatena.ne.jp/NaokiTakahashi/20050810#p1

《2個の林檎は実在する。3.3メートルの鉄棒は実在する。1.5リットルの水も海抜−5メートルの土地も実在する。しかし、2や3.3や1.5や−5は実在するのか?》

これを受けて――

一本足の蛸(http://d.hatena.ne.jp/trivial/20050810/1123679054

《…数は物理的実体から派生したものなのか? 人間の思考から生み出されたものなのか? それとも物とも心とも異なる別の世界に所在するのか?》


数学は宇宙を超えて普遍的か、などと書いてきたが、実際これらと同様の問いだと思っている。「数は実在するのか」「数はどこにあるのか」すなわち「数とは何か」。以下、反復ばかりで恐縮だが、改めてつらつらと。

「数とは何か」に、《人間の思考から生み出されたもの》と答えるのは、よくある納得の仕方だろう。たしかに「数は人間が作った」と言える。では、人間が作る前に数は存在しなかったのか? さらには、人間が生まれる前や消えた後の宇宙には数は存在しないのか? そう問われるとどうか。

私は「数はずっと存在している」と言ったほうがすっきりする。上記にならえば、《物とも心とも異なる別の世界に所在する》と捉えたいのだろう。じゃあその別の世界って何? それをずっと探しているかんじ(trivial氏もそうなのだろう)。

それとも、数とは(つまり「2」とか「3.3」とか)我々の生態や生活の特性に応じて形成された概念である、と言うべきなのだろうか? そうかもしれない。でも、そうでないかもしれない。「なんだどっちつかず」と言うなかれ。他のあらゆる概念(「恋愛」でもいい「根性」でもいい「著作権」でもいい)は明らかに我々の生態や生活の特性に応じてしか形成されない、と考えられそうだが、ただひとつ数だけは「そうでもないかも(概念ではないのかも)」と思うのだ。あと、論理というのもこの意味で数と同じ位置にあると思っている(これもすでに述べたし、詳しくはまたもや先送り)。

ともあれ、「数とは何か」は、「言葉の意味とは何か」と同じくらい完璧な難問だろう。難しさの様相はともかく程度が似ている。だからどちらも「そんなことを問うのは無意味」とするのも実用的な答かもしれない。ただし「言葉の意味とは何か」は分析哲学という分野で問いの入口だけはけっこう整理されてきた。それにひきかえ「数とは何か」は、出口はもとより入口自体がまったく見えないと思われる。

《ここで立ち止まってしまい、先に進めなくなってかれこれ10年》。これは洒落でも誇張でもないのだろう。

 *

ところで、「宇宙は数学で記述できるのか」「だとしたら、それはなぜか」といった問いもある。非常な深遠さをたたえている。しかしこれらは、やはりここでいう「数とは何か」とは別個の問いだ。そのことも改めて強調したい。

ただそうはいうものの、宇宙を数学で記述してきた歴史を知りその意義を思うこと自体には、少なくとも、「数とは何か」を考えるときの土台、あるいは、そこに登るための(登ったあと捨て去る?)ハシゴとして、とても重要なのだろうと思わせるオーラがある。

…といった思いから、『宇宙に法則はあるのか』(ジョン・D・バロウ著、松浦俊輔訳)という、これまた大上段に振りかぶった本を読み出した。物理学などの自然科学が何を解明してきたのかの総まとめに加えて、そのような解明とはいってみればどういうことなのか、という詳細な考察。そもそも「じゃ、そろそろ、まとめに入ろう」というタイトルで考えたい(というか、知りたい)のが、まさにこういう内容かも。でも分厚く先はまだ長い。またいずれ。asin:4791761243

ちなみに、同書の本筋とはいえないが、思いがけず示唆的な一節があった。せっかくなので記しておく。

《ダーウィン以前のカント派は、人類がみな同じ思考のカテゴリーを有しており、これまでも有してきたというめぐりあわせがあることを支持しなければならなかった。ダーウィン派は、人間の心にあるカテゴリーを、自然淘汰の結果であり、したがって物理的な世界――物自体――によって作られると見る。この見方は実在論に新たな基盤を与える。われわれが適応への圧力に応じて生理的にも心理的にも今あるようなものになるとすれば、多くの点でわれわれは実際に存在しているフィジカルな世界の正確な鏡になっていなければならない。人間の耳は音が実際に存在することに応じて進化し、目は光が存在することに応じて進化したというように。この見方に従えば、われわれの生得的な思考のカテゴリーが普遍的であることは、自然法則が普遍的であることと関連づけられる。》(p119)

まあ、いきなり読んでも「なんのこと?」か…。これに何を付け加えて書けばいいか、ちょっと分からなくなってきた。ただ、いずれにしても、生物の進化という原則を踏まえることは、「数とは何か」を考えるのに、あるいは何について考えるにも(同じくハシゴとしては)不可欠なのだろうと思いはじめている。そういうこともあって最近一冊読んだのが、『生物はなぜ進化するのか』(ジョージ・C・ウィリアムズ)。これも相当勉強になった。またいずれ。

=続く=

dstrdstr 2005/08/12 16:49 数・論理は人間の内側から来る、そうでないと経験的不確実性から逃れられない。数・論理は人間の外側から来る、そうでないと経験への適応可能性が担保されない。ということで、どうも微妙な問題のようですね。

tokyocattokyocat 2005/08/12 22:37 後半の《数・論理は人間の外側から来る、そうでないと経験への適応可能性が担保されない。》というのが、よく分からないです。むしろ逆なのでは? もうちょっと解説のほど…。

okinomahitookinomahito 2005/08/13 00:39 科学的方面からの問いかけで見逃されがちなのは、「数は実在するのか」の「実在」の部分だと思います。実在の意味がわからないと何を問うているのかもわからないのではないでしょうか。
同様に「宇宙は数学で記述できるのか」も「記述」の意味が本当は何を表すのかがわかっていないことが問題を作っているとはいえないでしょうか。

dstrdstr 2005/08/13 09:41 うーん、逆ですかね。なんだかだんだんわからなくなってきました(宮沢さん)。

tokyocattokyocat 2005/08/13 14:15 ●「宇宙は数学で記述できる」というのは、自然現象の多くが数式を使った法則やモデルによって説明できる、というくらいの意味で書きました。その意味では「宇宙は数学で記述できる」はまあ妥当な主張で、表現としてもとくに違和感がないのではないでしょうか。これが「宇宙は数学に従っている」とかになると、ちょっとどうかと思います。宇宙を数学で説明するからあたかも宇宙が数学に従っているように見えるだけで、宇宙をたとえば芸術や宗教で説明すれば今度は宇宙はあたかも芸術や宗教に従っているように見えるだろう、と考えるからです。●さてさて、この「宇宙は数学で記述できる」が、どういうわけか「数は実在する」になることがあるようです。これは単純に紛らわしいと思いますね。●これとは別に――。人間が社会や文化のなかで数学を構成した、といった意味で「数学は人間が発明した」と言われるようです。その反対に、数学は人間の社会や文化を超えている、といった意味で「数学は人間が発見した」とも言われるようです。この両者の議論がまた「数学は実在しないVS数学は実在する」として受けとめられることがあるみたいです。これは、哲学的な「実在」の定義に関係するのかもしれませんが、そこをきっちり踏まえないかぎり、やはり紛らわしい表現ですね。●それと、「数は実在している」を、リンゴや空気と同じく物理的に存在しているという意味に誤解する人は、あまりいないでしょうが、一応気に留めておくべきでしょうかね。●というわけで、「実在する」という言い方は、たしかに吟味して用いたいと思います。●それから、「数学」や「数」という言い方も漠然としています。実際、私の考えていることが漠然としているせいかもしれませんが…。「数学すなわち計算や証明およびそれに使う規則や形式」くらいの意味だと思います。●と、少しばかりはっきりさせたうえで――。ここでいう「数とは何か」は、「数学は人間が発明したのかVS数学は人間が発見したのか」と一般化するのが結局いいのかもしれません。私は今のところ「発見した」という捉え方です。●とはいうものの、こうした考察が進むなかで、直ちに「数は実在するのか」という表現にはならないとしても、「数はどこにあると言うべきか」くらいの問いは不可避になってくるでしょう。数学を発見したのなら「それまで数学はどこにあったのか」と。発明したにしても「今は数学はどこにあるのか」と。そうなるとやっぱり、「在る」「実在」ということをめぐって取りざたされてきた過去の思考をしっかり知りたいところです。「数とは何か」が自明ではないということに安住し、実は少しばかりは自明になってきたところまで無駄にボンヤリさせてしまってはいけないと思うので。●まずは率直で大胆な言い方を避けないことが大事だと思うのですが、それに加えて、明瞭であることとそうでないことを区分けし明瞭な領域を広げていくという地道な考察も、当然大事なのでしょうね。●dstrさん。いや、ひとえに私がよく分かっていないのです。カントの哲学とかもっと勉強したほうがいいのです。さてさて、宮沢章夫なら《なにを言っているのだという驚き》《途方にくれることをどこまでも肯定する》というのに勇気づけられました(最近の富士日記2より)。

えのきえのき 2005/08/13 17:41
いやはや、やはり「実在」論に帰結してしまうようですね。数学も宇宙も人間の脳の中にしかない…と思わずつぶやいてしまいそうになります。宇宙が脳の中にあるからこそ、脳の中の宇宙の中に数学を「発見した」これすなわち、脳の中で数学を「発明した」と同義になり、話はここで終わってしまう。いや、もうこれで終わらせたい。と思うのですがなぜかしっくり来ない。この日常の、あまりにも現実的な「実在」が脳の中にしかないとは、どうしても実感できないからでしょう…
やはり堂堂巡りだ…。